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メッセージ主題:『生きものとなった人』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2022.3.6主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、軽く愛餐の時をもちます。)

●午後5時開会:ただいまより、2022年3月6日主日礼拝式を始めます。

賛美①:主を仰ぎ見れば

https://www.youtube.com/watch?v=a7ggxL-bO6s

賛美②:野に咲く花

https://www.youtube.com/watch?v=b7_WueFte6U&list=RDGMEMhCgTQvcskbGUxqI4Sn2QYw&start_radio=1&rv=MOG5PNFaThU

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

賛美③:花も (3月の歌)

https://www.youtube.com/watch?v=nLOKGTBm3ug

賛美④:十字架の陰に

https://www.youtube.com/watch?v=8dq4uQd8CjU

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。

讃美⑤:今日まで守られ

https://www.youtube.com/watch?v=QLQ_rllmylw

【YOUTUBE配信開始】

2022年3月6日 主日礼拝メッセージ

メッセージの前に2022年の年間聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

●聖書拝読:創世記2章(新改訳聖書)

中心聖句:

「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(7)

メッセージ主題:『生きものとなった人』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

●メッセージ

神が人を造られました。それも「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。」(1章27節)とあります。現代科学的知識のある方なら、ひょっとすれば、「神さまは、ご自分のクローンを人として造られたのではないか」なんて思われる方もいらっしゃるかもしれません。まあ、クローンは大げさでも、神さまの一部を利用して、人を創造されたとも考える人があってもおかしくないでしょう。事実、現代では、ES細胞、胚性幹細胞(はいせいかんさいぼう)つまり万能細胞が、人間や動物の各組織を作っていくことが分かってきています。そのES細胞からの部位の再生の研究が盛んにおこなわれています。神さまは、そのように、神様のなんらかの一部を利用して、私たち人間をお造りになられたのでしょうか。そうなると私たちは、神さまと細胞つながりとなり、いろんな神話でも出てきますように、神さまと血縁関係にあることになります。まあ、神様は霊的存在ですから、細胞つながりであるはずはないのですが、では霊的親子?そういう言い方が正しいかどうかは別にして、霊的親子関係にあるのでしょうか。私たちは、イエス様のめぐみによって、神様のことをアバ父と親しく呼べるようになりましたから、今は、霊的親子関係とも言えなくはないですね。

しかし、聖書では、「土地のちりで人を形造」ったとあります(7節)。「ちり」です、英語では「dust」です。吹けば飛ぶようなほこりです。「ちり」は無価値なもととしてとらえられています。神さまは無価値なちりを集めて人を造られました。つまり、神さまの一部から造られたのではなく、まして、神さまのクローンでもなく、神様とは全く関係のない「ちり」から造られ、私たち自身は実に、無価値でありました。それは、あたかも土で造られた人形のようなものだったのかもしれません。ほかの動物は、「土から造られた」とあります(19節)が、人間はわざわざ「土地のちり」から造られたとあります。人間は、神様がこの世界の創造の最後の最後に造られたのかもしれないのですから、そうすると「土のちり」つまり「残っていた土」で造られたのではないでしょうか。粘土細工で、いろんな動物を造りますが、最後に人間を造ろうとして、しかし、粘土がありません。仕方なく、床や机に落ちている粘土を集めて、バラバラにならないように良く練って人の形を造った、というような感じかもしれません。または、今小学生がやっているように、消しゴムのカスを集めて、消しカス団子をつくっているような感じなのでしょうか。

いいえ!神様は、人間を最も愛して、愛を注ぎ入れてお造りになられました。事実、神様は、人に生き物に名前をつけさせました。19節●「神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名が彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名は、みな、それが、その名となった。」つまり、神様が人に生き物の名をつけさせたとは、人を生き物の監督下に置いたということです。人が生き物より偉いという訳ではありません。監督という任務に就き、「生き物を尊重し」、「生き物に愛を与える」「生き物のいのちを愛しむ」ということではないでしょうか。神様は人に特別な任務を与えられたのです。ではなぜ、神様は人を動物よりも劣る「土のちり」で造られたのでしょうか。

それは、人間に謙遜と敬虔を学ばせるためではないでしょうか。その最たる出来事が、イエス・キリストの降誕です。イエス様は神のひとり子であられたのに、この地上に降りて来られ、私たちと同じ肉体をもち、私たちに喜怒哀楽の模範を示し、喜んでもいいんだ、怒ってもいいんだ、哀しんでも、楽しんでもいいんだ、しかしそれが、神様の栄光を現すものでないといけないことを、身をもってしめされました。そして、神のひとり子でもあられたのに、罪のない方であられたのに、私たちの罪を一身に背負って、私たちの身代わりとなって、十字架にかかり、聖なるいのちをいけにえとしてささげられました。そして、三日目に死を克服して、よみがえり、私たちに永遠のいのちを得るように天の父なる神様にとりなされました。私たちは、イエス様を救い主と信じることによって、神様が喜んで私たちを、天の御国へ招き入れてくださるのです。私は、パウロの次のことばが好きです。コリント人への手紙第二8章9節●「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」イエス様の自己犠牲が表す謙遜は、神様が私たちを「土のちり」でお造りになられた、本当の意味なのであります。「謙遜であれ」と神様はわざわざ「土のちり」で私たちをお造りになられたのです。私たちは、神様によって、無価値の「土のちり」によって造られましたが、神様の目からは、「あなたたちは高価で尊い」と映り、欠けだらけの私たちではありますが、今も昔も愛してくださっておられます。「土のちり」が「高価で尊いもの」となりました。

私は、ここで、アメリカ映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」と思い出します。博士がデロリアンというめちゃくちゃ格好いい車に、プルトニウムを原動力として、タイムマシーンを造ります。しかし、未来から戻ってきた博士は、空飛ぶデロリアンにのって帰ってくるのですが、その未来のデロリアンの燃料は、プロトニウムではなく、生ごみを原動力としています。「生ゴミ」が「最も価値あるもの」とされるのです。「捨てられていたものが最も価値あるもの、とても重要なものとされるのです。」

聖書には、そのことを「礎の石」として表現されています。イエス様は、詩篇118篇を引用して、次のように説いています。マタイの福音書21章42節●「イエスは彼ら(祭司長たち)に言われた。『あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。「家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石となった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。」』」 「礎の石」とは、日本でいえば、お城の城壁を思い出してください。お城の隅、つまり角に置かれている石は、他の石と比べて大きくなっています。この隅の石が城壁を支えています。エルサレムの神殿も同じことが言えます。この譬えは、社会的に虐げられた人でも、神様を信じることによって、天の御国のお城では、「礎の石」とされることを説いています。イエス・キリストを信じる「土のちり」は「礎の石」とされるのです。

神様は、私たち人間を、謙遜を願って「土のちり」で造られましたが、神様の愛を特別に私たちに注がれました。神様は、お造りになられた土人形の鼻に「いのちの息」を吹き込まれました。「そこで、人は、生きものとなった。」とあります。他の動物たちには、そのような記述はありません。しかし、彼らも生きています。ですから、この「人は、生きものとなった」とは、「動物が生きている」という状態とは異なります。「人間としての尊厳」がこの「人は、生きものになった」に現われているのではないでしょうか。神の栄光を現す器として、「生きもの」とされたのです。ただ単に「生きている、息をしている、心臓が動いている、生活をしている」のではなく、「造り主の神を感じることができる、知ることができる、神が創造主であり、私たちは被造物であることが認知できる」、「そこで、人は、生きものとなった」のであります。そして、私たち人間を、生きものしたのが、神様の「いのちの息」であります。「いのちの息」つまり、聖霊ではないかと思われますが、その聖霊は、イエス様の御降誕の時の聖霊と同じではないでしょうか。イエス様の母マリヤの夫ヨセフに、主の御使いが夢に現われて、次のように告げます。●「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」(マタイの福音書1章20節)

この「いのちの息」が聖霊様のことだとすると、この時の「いのち」とは、私たちの生命ではなく、「神を知る力であり知恵」であるような気がします。使徒ヨハネは、福音書の冒頭に、次のように語っています。●「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。、、、この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」ことばは、神であり、いのちであり、光であります。この論法を「いのちの息」に当てはめていきますと、この場合の「いのち」は、ことばであり、神であり、光であるということになります。「いのちの息」を吹き込まれた人は、神様を知りあがめるところとなり、神様を相続させていただく資格をえたことになります。しかし、この後、悪の化身の蛇によって、だまされ、罪を犯したアダムとエバは、神様の義によって、エデンの園から追放となり、永遠のいのちを享受する資格も失ってしまうこととなります。

そこで、父なる神様は、私たち人間を愛してくださって、「いのちの息」まで授けてくださったのですが、エデンの園から追放され、さまようこととなった人間を憐れんでくださり、後に、ひとり子であられるイエス・キリストを、この世におおくりくださることになりました。ここに神様の人間に対する愛がありあります。ヨハネの福音書3章16節、●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」私たちは、主によって、主に愛され、「いのちの息」を吹き込まれることによって、この世界で、主を知り、主を恐れ、主をあがめ賛美することのできる者へと、生まれさせていただいたのです。なんとすばらしいことでしょう。

さて、今日も、天国長屋の八さん、熊さんにも登場していただきましょう。

では、八さん、熊さん、どうぞ、よろしくおねがいいたします。

――――

八: 神様がご自身の息をアダムの鼻から吹き込んで、アダムを生きものとした、っていうのは、

ただ単に、アダムにいのちを与えたちゅうのと、ちゃうんやな。

熊: せやなぁ。今日の若さんの話では、ここでの「生きもの」ちゅうのは、

「神を知るものとなった」ちゅうことなんやて、

だから、神様が直接息を吹き入れてくれはったんや。

八: 感謝やないかいな。「神様を知る者とされた」ちゅうことは、

つまりあれやろ、神様とお話しできるちゅうことでもあるやさかい。

熊: そやで、わてらの中には神様の息、つまり聖霊様がはいってるんや。

八: 聖霊様なぁ、ん? ちょってまってや。アダムはんの中に神様の息として聖霊様が入って、

神様のことを知る能力が与えられたとしたら、イエス様の平安、助け主である聖霊様が、

イエス様を信じた時点でわてらにお宿りくださる必要がないんとちゃうの。

すでにアダムはんに入っている聖霊様でじゅうぶんとちゃうの?

熊: 考えたことあれへんかったな。それもそやなぁ、、、

けんど、神様の息が入って「生きもの」とされたアダムも罪を犯した。

そんで、エデンの園から追放されたやないかいな。イエス様を信じるわてらにも、

聖霊様が宿ってくれてはるけど、わてらもしょっちゅう罪を犯す。

聖霊様によって、わてらが全く聖なる人となるわけやない。

八: つまりなにか、エデンの園には、知恵の木やいのちの木があったように、

聖霊様もいろんな働きがあるちゅうことかいな。

熊: そうかも知れへんな、しらんけど。人が生きものになって、

神様をしる能力がそなわったんは、神様の息という聖霊様かもしれへん。

イエス様が聖霊様によってお生まれになったという時の聖霊様は、

神様そのものであったはずや。

八: じゃあ、あれかいな。わてらがイエス様を信じるのが聖霊様の働きやっていうのも、

いろんな聖霊様の働きの一つなんやな。パウロはんがゆうてはるやん。

●「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。」

って。

熊: ああ、1コリントの12章の3節やな。

聖霊様は、わてらの外からも内からも働いてくれはるんや。

同じ聖霊様やけど、働きが違うんやろうな。

だから、わてらにお宿りくださっている聖霊様は、イエス様の平安やし、

イエス様のお言葉を思い出させてくださる助け主でもあるやんか。

イエス様の教えを思い出させて、わてらに罪をおかさんようにと

忍耐をもって導いてくださるんやろな。わてら頑固やし。

八: 聖霊様はいろんな違った働きをしてくださってるんやな。おいそがしいこっちゃで。

熊: 神様は霊や、聖霊様ももちろん霊や。神様は、どこにでも同時に働かれもするし、

過去・現在・未来という時間に制限されることもあれへん。

せやさかい、わてらでは分からんことがたくさんある。

八: せやな、分からんことの方が多いで、じっさい。

熊: 分からんことは、分からんでもええんとちゃうか。無理に分かったような顔せんでもええ。

必要があれば、神様が教えてくださるよって、心配することはあれへんと思うで。

なあ、若さん、そやろ?

―――――

はいな、神様もすべて明らかにはしてくださいません。私たちの理解力は限られていますから、少しずつ、分からせていただいたほうがええんですわ。でも、毎日、神様の恵みと導きを感じて、感謝することができれば、それこそが幸せですし、神様もお喜びになると思います。神様の息によって、私たちには「神さまを知る能力が与えられ」「生きもの」とされたことは、私たちの最大の恵みでありますね。残念ながら、他の動物には、その能力は授かっていません。だからこそ、私たちが、神様の意向を、神様の栄光を反映するものでなければなりませんし、他の動物の面倒もみなあきませんねんや。神さまに生きものとされたことをいつも感謝させていただきましょう。

では、黙想いたします。黙想の時にお読みするのは、詩篇81篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。ヨハネの福音書11章25-26節。

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

では、黙想いたします。詩篇81篇。

黙想時の曲

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

 

賛美⑥:キリストにはかえられません

https://www.youtube.com/watch?v=bCvaCZHnofs

讃美⑦:土の器

https://www.youtube.com/watch?v=8-cdd5jy4lc

●献金の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献金は教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の3月13日午前は岸和田福音キリスト教会で、奨励。

午後5時から小阪チャペルにて、主日礼拝。

聖書:創世記3章