メッセージ:「信仰の退化」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

2022年3月17日

担当:若竹孝行

メッセージ:「信仰の退化」(15分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:士師記16章~18章

16章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:20

「彼女が『サムソン、ペリシテ人があなたを襲って来ます』と言ったとき、彼は眠りから覚めて、『今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう』と言った。彼は主が自分から離れたことを知らなかった。」

おはようございます。そして、お帰りなさい。

13章から始まった、サムソンの物語はこの16章で幕を閉じます。主にあっての怪力を誇るサムソンでしたが、デリラという女性に会い、彼女を愛することで、彼の人生は狂い始めます。デリラ自身は、ペリシテ人かどうかは分からないのですが、デリラはペリシテ人の領主たちに雇われ、サムソンの怪力の秘密をさぐるようになります。

彼女は、しつこくしつこくサムソンに秘密を聞き出そうとしますが、いつもはぐらかされてしまいます。しかし、ついに、サムソンは自分の心をすべて彼女に明かして言います。●「私の頭にはかみそりが当てられたことがない。私は母の胎にいるときから神に献げられたナジル人だからだ。もし私の髪の毛が剃り落とされたら、私の力は私から去り、私は弱くなって普通の人のようになるだろう。」(17節)

そして、デリラはサムソンの髪の毛7房を剃り落とさせ、サムソンの力は彼から離れました。しかし、サムソンは、自分から力が離れて行ったことを知りませんでした。そこで、今朝の中心聖句のサムソンの言葉となります。●『今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう。』 はたして、力のなくなったサムソンは、ペリシテ人に捕らえられ、両目をえぐられ、牢に入れられ辱めをうけたのであります。

時が過ぎ、サムソンの髪の毛が伸び始め、元の力を得るようになったとき、見世物にしようと連れ出されたサムソンは、神殿の柱をゆさぶり、神殿の中や屋上にいたペリシテ人要人たちを、神殿の下敷きにし、全滅させました。

このサムソンの物語から、私たちは何を学ぶべきでしょうか。

ナジル人の髪の毛そのものに神の力が宿っていたわけではなく、ナジル人と神様との間の約束、「神が共にいてくださる」ことが、髪の毛に象徴されています。サムソンの怪力は、その神様との約束の結果でありました。サムソンは、デリラという誘惑にまどわされ、神様との交わりを軽視し、ナジル人として召されていることも忘れてしまいました。サムソンの両目をえぐられ盲目の人となったということは、その結果を表しています。盲目となり、牢の中で、神様との交わりを復活させたサムソンは、徐々に、自分の使命を思い出し、かつ、神様との交わりのなかで、力を取り戻していきます。

現代の私たち、クリスチャンにも同じことが言えます。クリスチャンとして教会で奉仕にいそしみ活躍する中で、また、対外的に名を馳せることになった中で、傲慢や自己中心の心が復活します。そして、真の意味での信仰、主との交わりは退化の一途をたどります。

それは、人間の身体の衰えと同じことが言えます。いつまでも気持ちは若くても、身体の筋肉はやせほそり、スタミナもなくなっていきます。つい最近まで、階段など、さっさと2段飛ばしで駆け上がっていたはずなのに、今では息切れを感じるようになっています。また、少し前までは、黒髪の中の白髪を1本1本抜いていたこともあったのに、今では、白髪を抜いてしまえば、髪の毛がなくなってしまうぐらいにまでに、老いがすすんでしまっています。

信仰の退化、信仰の衰えも、サムソンのように、「自分は大丈夫」と思っている心の隙に入り込んで、気がついたときには、神様との交わりのない日々を過ごし、主日礼拝も教会に行ってはいますが、形ばかりのものとなり、礼拝を神様にささげるという意識は遠のいて、ただ単に、「キリスト教という宗教に属している」という感覚になってしまっている。サムソンは、大きな犠牲を払った後に、その事に気付き、悔い改め、信仰と取り戻していきます。しかし、私たちは、そのことには気がつかずにいることが多いのではないでしょうか。なぜなら、サムソンのように大きな犠牲を払ってはいないからです。もちろん、大きな犠牲を払わないと信仰を復活させていただくことはできないということではありません。しかし、気付きが遅ければ遅いほど、信仰の退化は深刻なものとなります。

信仰の退化は、誘惑から始まります。アダムとエバも悪魔の化身である蛇の誘惑によって、結果エデンの園を追われることになってしまいました。蛇は、ただ単にささやいただけでしたが、その声に耳を傾けてしまいました。そして、その善悪を知る木の実は、じつにおいしそうだと、その木の実に心をとどめてしまいました。ここに、誘惑の恐ろしさがあります。神様以外のものに、一瞬でも心を傾け、心をとどめてしまうと、信仰の退化が始まってしまいます。そして、信仰の退化の現象は、小さな嘘から始まります。サムソンにしても、アダムとエバにしても。嘘は、信仰のほころびであるとも言えるでしょう。

では、私たちはどうすれば、その誘惑に打ち勝ち、信仰の退化を防ぐ力を得るのでしょうか。

答えは、イエス様にあります。イエス様は40日40夜断食をして、わざわざ悪魔に誘惑をさせました。ルカの福音書4章にあります。イエス様はここで、悪魔の誘惑に対処するのには、「御言葉」であることを、暗に示唆しておられます。御言葉こそ、悪魔の誘惑に対抗できうる力を与えてくれるからです。その上、イエス様は、「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もある」とおっしゃいます。天に宝を積む、心を天にむける、つまり、日々新たな力をえるために、日々聖書を読み、御言葉を味わい、祈りと賛美をささげ、主といつでもどこでも会話し交わりをもつことが大切です。そして、自らが聖霊の宮であることを自覚し、誘惑や邪悪なものから遠ざかる、このことによって信仰の退化を避けることができるのです。肉体は衰えます、しかし、主による信頼、信仰は強くなることができるのです。

ある方がこのようにおっしゃっていました。「老いることは感謝だ」と。老いることで、今までできていたことができなくなる、ひとつひとつ弱さを覚える。しかし、弱い時にこそ強い、弱さゆえに、主に拠り頼むことを覚えることができ、「生きる」のではなく、「生かされている」ことが、なお一層分かり、主の憐れみを感謝することができる、というのであります。

世の中、「アンチエイジング」という言葉が流行っています。年を取ることを防ぐ、医薬品であったり、化粧品であったり。しかし、真のアンチエイジングは、「御言葉に生きる」ことであることを、私たちは常に自覚しようではありませんか。信仰の退化を防ぐには、常に主との交わりを絶えさないことにあります。

これから黙想の時間をもちます。

主の手をわが手に重ね

https://www.youtube.com/watch?v=XYj6mcSpcn4

お祈りいたします。

●主のいのり

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。