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メッセージ主題:『主の御名によって祈る』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2022.3.20主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、軽く愛餐の時をもちます。)

●午後5時開会:ただいまより、2022年3月20日主日礼拝式を始めます。

賛美①:主よ、み手もて

https://www.youtube.com/watch?v=_C0TG2Yh8bc

賛美②:愛の絆

https://www.youtube.com/watch?v=5MDECId8lpI&list=RDMM&index=4

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

賛美③:花も (3月の歌)

https://www.youtube.com/watch?v=nLOKGTBm3ug

賛美④:主の約束

https://www.youtube.com/watch?v=cn23KJI73pQ&list=RDMM&index=9

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。

讃美⑤:十字架のもとぞ

https://www.youtube.com/watch?v=KHYE0f99u10

【YOUTUBE配信開始】

2022年3月20日 主日礼拝メッセージ

メッセージの前に2022年の年間聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

●聖書拝読:創世記4章(新改訳聖書)

中心聖句:

「アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。『カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。』セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」(25-26)

メッセージ主題:『主の御名によって祈る』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

●メッセージ

アダムとエバの間に、カインとその弟アベルが生まれました。しかし、神へのささげもののことで、弟アベルは祝福をうけ、カインのささげものには、神は目をとどめられませんでした。なぜなら、アベルは彼の羊の初子の中から、最良のものを、それも自分自身でもってきましたが、カインは、ただ単に農作物をもってきたとしか記述がないことから、カインは神へのささげものを軽視したのではないでしょうか。その結果、5節「カインはひどく怒り、顔を伏せた」とあります。カインが、神が不公平だと思うなら、その怒りを神に向け、抗議すべきでした。しかし、神の指摘は、図星だったのでしょう。新約ヘブル人への手紙11章では、筆者は次のように語っています。4節「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」アベルは、神への信仰心によって、ささげものをささげましたが、カインは、信仰からではなく、例えば父アダムがささげなさいと言ったからささげた、ぐらいの感じだったのかもしれません。私たちは、心が伴わないささげもの、ただ単にお金や品物だけではなく、祈りにおいても、賛美においても、奉仕においても、また自分自身をささげることにおいても、言われたからするのではなく、また他の人がしているからするのではなく、神様への信仰や信頼を伴わなければ、神は目にとどめることはしません。つまり、全く意味のないものとなってしまいます。神様に対してだけではなく、私たちの周りの方々に対する言動にしても、すべてのことに対して神様への感謝の気持ちをもってするということが大切なのだと、この4章4節●「アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。」という記述に思わされるのであります。

さて、カインは、その怒りの矛先を神ではなく、弟のアベルに向け、嫉妬と怒りのあまり彼を殺してしまいます。残念なことに、世界で初めての殺人は、嫉妬による兄弟間で起きてしまいました。カインは、本来、アダムの正当な継承者であったはずでありましたが、この事件後、カインは、エデンの東、ノデの地に住み着き、町を形成していきます。カインの代わり、いえカインの代わりというよりは、信仰心のあった殺されたアベルの代わりに世継ぎとなったのは、セツでありました。セツにも男の子が生まれ、その子をエノシュと名づけました。解説書によりますと、エノシュは「弱い」という意味だということです。「弱さ」を認めるようなセツの家系が、町を形成するような強いカインの家系よりも、神に選ばれていきます。

「弱さ」を認めるということは、人間以外の何か、力の源である何かに拠り頼むということを覚えるということではないでしょうか。それが、創造の神、実の父、もしくは祖父を造られた神に拠り頼むということでしょう。イエス様はこのことを次のようにおっしゃいました。山上の説教の開口一番のことばです。マタイの福音書5章3節●「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」「心の貧しい者」とは、貧乏や貧弱という意味ではなく、自分の弱さや足りなさを謙虚に認めることができる人のことであります。そして、先ほども申し上げましたが、その弱さを認めることは、絶対的なる力と知恵の持ち主、それを「神」という呼び名をもってして存在を認め、またそれだけではなく、その「神」に拠り頼もうとする、いわゆる「神への信仰」が生まれた瞬間であります。パウロもその「神への信仰」を次のように表しています。コリント人への手紙第二13章9節●「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに充分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」「神の力が弱さのうちに完全に現われる」とは、神に拠り頼む者は、神の力によって、その弱さを補い、かえって強くしてくださる、と言うのです。そして、パウロは10節で●「私が弱いときにこそ、私は強い」と告白するのです。

セツが跡継ぎとなる息子をエノシュ「弱さ」と名づけ、神を知り、拠り頼むことを覚え、「主の御名によって祈る」ことが始まったのです。

自分の弱さ、足りなさ、罪深さを知ることが、全知全能の神の存在を認め、神に拠り頼むことを覚え、すなわち、神を知り、神と交わることになります。逆に言えば、自分の弱さ、足りなさ、罪深さを認めることなしに、神を知ることはできないことになります。では、私たちはどうでしょうか。

私たちは、「主よ、主よ」と呼び求めますが、本当に主に拠り頼むために、主を呼び求めているのでしょうか。自分の弱さや足りなさや、罪深さを主の前に告白し、主の力を信じ、主に拠り頼みつつ、主の力や知恵を求めているのでしょうか。本当に主に心を開いて、自分の弱さを主にさらけだし、いわば全面降伏しているでしょうか。神様にちょっと「困った時の神頼み」的に、神を求めていませんでしょうか。必ずしも人前で自分の弱さをさらけ出す必要はありませんが、神様の御前で、罪深さを悔い改め、神様に「もう私の力ではどうしようもありません。どうにかしてください」と、主の絶大なる力を求めているでしょうか。やっぱり自分が中心であり、神様はその次、という風になっていませんでしょうか。少し厳しいことを申しますが、『形式的な祈り、歌うのが好きだからという賛美、義務や見栄でする奉仕、それらは、カインのささげた農作物と何ら変わりはありません。』 それらの神様への感謝や思いが二の次にされた言動は、神様の栄光を現していないからです。カインのささげた農作物自体は神様からの恵みであったはずですが、カインは神様に感謝の気持ちをそえて、ささげていなかったのです。現代の私たちのすべての言動も同じです。神様への感謝がなければ、人の目にとどまったとしても、神の目にとどまっていません。なぜなら、本当の意味で、神を畏れ、神を知り交わっていることにはならないからです。どうか、このことを自己診断してみてください。

さて、今日も天国長屋の八さん、熊さんに登場していただきましょう。どうぞよろしくお願いいたします。

―――――

八: 熊、わてな、ちょっと疑問におもてることあんねん。

熊: なんや?

八: カインはアベルを殺した後、エデンの東、ノデの地に住みついたとあるやんか。

そんで、そこで、妻を知った、って。

熊: それが、どうしたんや。

八: そのカインの妻って、どこから湧いてきたん?

熊: あほ、人をうじむしかなにかのように言うな。

そりゃ、アダムはんとエバはんの子やないか。

八: それやったら、近親相姦いうことになるなぁ。それに、エバはん、めっちゃ多産系やで。

鼠算しきに増えて行かんと、町なんてでけへんさかいな。

熊: せやな。けんど、八の目に付くのは、そこなんやなぁ。

せやけんど、アダムはん、930歳で死にはったやろ。

そう思たら、いっぱい子育てしてたいへんやったやろなぁと同情するわ。

八: 930歳か、アダムはん、よう気張りはったなぁ。

ところで、アダムさんとエバはん、神様知ってたやん、エデンの園にいるとき。

どうしてエノシュはんの時から、「主の御名によって祈る」ことが始まったんやろ。

アダムはんもちゃんと教えてたやろうに。

熊: さっき、若さんゆうてはったやろ。セツさんが、弱さを知ったんやて。

その弱さゆえに、主を知る、主に拠り頼むことへとつながったんやろなぁ。

八: けんど、アダムはんも、930歳まで生きたやろ。神様のことやエデンの園での生活のこと、

セツはんやエノシュはんにお伝えしていたはずなんや。それに、カインはんにも。

熊: そう言われてみれば、そうやな。けんど、そこに信仰の問題があるんとちゃうか。

カインはんも神様のことも知っていたはずや、つまり聞いていたはずやけど、

それを自分のものにはしていなかったんやろな。

八: そうか。イエス様のことを聞いて知っていても、イエス様を信じて、従っていなかったら、

そりゃ、信仰やない。イエス様がわてらの中で生きておられへんのと同じやろな。

そうか、エノシュはんや、その親のセツはんは、アダムはんから神様のことを

あんじょう聞き、心にとどめ、この世をお造りになった、またアダムはんを

お造りになった神様を信じて従おうとした。

だから、セツはんの民から、「主の御名によって祈る」ことが始まったんやな。

熊: そや、イエス様がおっしゃっておられたやないか。

ほら、マタイの福音書の7章13節14節。

●「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。

そして、そこからはいっていく者が多いのです。いのちに至る門は小さく、

その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」

八: せやなぁ。イエス様はこんなことも21節でおっしゃっておられたなぁ。

●「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、

天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」

イエス様は正しいことを言うだけでなく、信仰に基づいた行ないを行なう者が

天の御国にはいるんやっておっしゃっておられるんやろな。

けんど、天の父なる神様のみこころを行なうって、どういうこっちゃ。

熊: 誠心誠意、神様を愛すること、隣人を愛することなんやけど、、、、あ、あかん。

若さんのニヤッとする顔が浮かんだ。

八: きしょくわる。それ、どういうこっちゃ?

熊: ほら、若さんのいつも唱えてる大好きな御言葉、あれが、神様のみこころを行なうこと

やでぇって、言いたそうな顔が浮かんだわ。

八: あの、1テサロニケの5章16節~19節やな。●「いつも喜んでいなさい。

絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。

これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

御霊を消してはなりません。」

熊: せや。それやがな。若さんの最も大切な聖句や。

なにかあったら、いつもこの御言葉で終わりはるやろ。

八: ほんま、水戸黄門の印籠みたいに、説教の終わりごろになったら、出してきはる。

「この御言葉が耳にとどまらぬか、ひかえおろう。頭がたかい!」

熊: まあ、そこまではゆうてはれへんけんど、それに近いもんがあるなぁ。

けんど、しゃあないわな。わてらもあの御言葉、大好きやし。

あの御言葉に従ったら、ハッピーライフ・ハッピーホーム・主の家族。

八: わても、思う、あの御言葉は、ほんまに、鬼に金棒や。

熊: あほ、鬼に金棒、ゆうってどうすんねん。それゆうんやったら、虎に翼や。

そんでもって今年は、阪神優勝まちがいなしや!毎年ゆうとるけど。

八: いや、2年目の佐藤輝明、4番打者でぶっちぎりや。オープン戦もええ調子やし。

熊: あかん、あかん。礼拝中は心を神様にささげなあかんのに、野球の話したらあかんわ。

わてが、口火切ってしまったから、神様、ごめんなさい。

それに、若さん、かんにんやで。

―――――

八さん熊さん、大丈夫ですよ。ありがとうございます。プロ野球の話も神様に感謝して、神様の栄光を現わすものであったなら、神様もお赦しくださいますでしょう。まあ、それはともかくとして、最後のほうで、1テサロニケの御言葉がでてくるとは思いませんでした。わたしは、八さん熊さんの言われる「水戸黄門の印籠」を持ち出すのをがまんしていたのですが。感謝です。

旧約聖書の創世記、聖書の初めから、セツとエノシュの家系によって、「主の御名によって祈る」ことが始められました。これは、神様からの恵みであり、本当に感謝なことです。誰に私たちは拠り頼み、祈るべきなのかを教えてくださったのですから。「弱さ」を知り、認めることが、主の御名によって祈り、信仰によって、強くしてくださる、私たちはその恵みを豊かに受け継いでいます。はばかることなく、主の御前にでて、主の御名によって大いに祈らせていただきましょう。

では、黙想いたします。黙想の時にお読みするのは、詩篇4篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。マタイの福音書6章6節。

「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」

これは、文字通りの小さな部屋での祈りともとらえることができますが、静まって、自分の心の奥にある閉ざされた部屋を開け、天の父を招き入れて祈る、黙想の祈りではないかと私は思うのであります。ですから、このような祈りは、いつでもどこでも、短い時間でも祈ることができ、また主は報いてくださいます。

では、黙想いたします。詩篇4篇。

黙想時の曲

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

 

賛美⑥:主は道を造られる

https://www.youtube.com/watch?v=ZvjuibW1yuU&list=RDZWktcXSPVCY&index=11

讃美⑦:主と共に歩まん

https://www.youtube.com/watch?v=F2gUOF7oZXc

●献金の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献金は教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の3月27日 午後5時から小阪チャペルにて、主日礼拝。

聖書:創世記5章