メッセージ:「御声を聞く」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

2022年3月24日

担当:若竹孝行

メッセージ:「御声を聞く」(15分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:サムエル記第一13章~15章

15章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:22

「サムエルは言った。『主は、全焼のささげ物やいけにえを、主に御声に聞き従うことほどに、喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。』」

おはようございます。そして、お帰りなさい。

日本には、「勝って兜の緒を締めよ」ということわざがあります。勝利するときにこそ、最も危険な心の隙ができるからであります。ですから、人生順調に事が運んでいるときにこそ、注意が必要だ、思わず大きな穴が足元に開いていたりするということです。さて、今朝のサムエル記第一の15章では、サウル王は、アマレク人との戦いにおいて勝利を収めましたが、致命的なミスを犯しました。私がミスと申しましたのは、当のサウル王はそれが、罪であることに気づいてなかったからです。主は、サムエルを通して、アマレク人と彼らの家畜のすべてを聖絶するように命じられましたが、サウル王は、その命令に反し、兵たちの手前、彼らの家畜の最も良いものを惜しんで、皆殺しにはしませんでした。またアマレク人の兵士たちは殺しましたが、王アガクを生け捕りにしてしました。

この事によって、主がお怒りになり、サムエルに、王アガクを殺させました。サムエルは、サウル王に、なぜ、家畜を聖絶しなかったのかと問いただしました。サムエルはその場しのぎの嘘をつきました。同じ言い訳を2回のべています。15節と21節です。21節を引用しますと、●「兵士たちは、ギルガルであなたの神、主にいけにえを献げるために、聖絶の物の中の最上のものとして、分捕り物の中から羊と牛を取ったのです。」戦いにおいて、勝てば、相手の財産を没収し、兵士たちに分けるというのは、常のことでした。つまり戦利品を分けるということですが、今回は、主が、聖絶つまり絶滅せよとの命令でありましたから、そのように従うべきでした。しかし、彼らは目の前の最良の家畜に目がくらみ、自分たちのために取ってしまいました。

サムエルは、サウル王の言い訳に対して、今朝の中心聖句を告げています。

●「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主に御声に聞き従うことほどに、喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」

サウル王は、主こそがサウル王の軍隊を率いていることを忘れ、傲慢になっていました。それゆえに、サウル王は主を畏れ、主に従うことを軽んじてしまったのです。そして、その罪の代償は、サウル王の油注ぎがなくなり、16章でダビデが王として台頭していきます。

さて、私たちは、このところから何を学ぶべきでしょうか。それは、「主の御声に聞き従うこと、主に耳を傾けることを第一とする」ということです。サムエルは、少年の頃、エリのもとで主に仕えていましたが、そのとき、主が来て、そばに立ち、「サムエル、サムエル」と呼ばれ、サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と答えました。祈りの中で、私たちはあまりにも自分たちの願い、または他者のためのとりなしの祈りに集中することが多いのではないでしょうか。願いやとりなしの祈りがダメだという事ではありませんが、まず「主の御声を聞く」ということが、最も大切なことではないでしょうか。

主の御声を聞かなければ、願いやとりなしの祈りは、自己満足に終わってしまうという危険性をはらんでいます。礼拝さえ守っていればいい、奉仕さえしていればいい、祈りさえしていればいい。もちろん、そんな気持ちで、礼拝をささげ、奉仕をし、祈りをささげているわけではないのは、じゅうじゅう承知しております。しかし、サウル王も同じことを言うでしょう。「私は、主の命令に従っています。あの羊や牛は、主にささげるいけにえです!」 習慣的な行為は、心の隙を産みます。しかし、同じ習慣にするなら、「まず初めに、主の御声を聞く」ということを習慣にしようではありませんか。礼拝をささげる前に、奉仕をする前に、そして祈りや賛美をささげる前に、「静まりの時」をもって、主の御声を聞こうとする姿勢がすべてを良い方向に、つまり主の思いの方向に変えていくのではないでしょうか。

詩篇46篇10節では、●「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」とありますが、口語訳では、「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる。」となっています。私は、この詩篇の箇所は、口語訳が好きなのですが、この「静まれ」、または「やめよ」とは、すべての考えをいったんおいて、主の御声をきくことだと思います。

現代人はあまりにも忙しい。クリスチャンでさえも、主の御声を聞こうとせず、行動に走ってしまうことがあるのではないでしょうか。日本語の「忙しい」の漢字は、「心を亡くす」と書きます。心を亡くした状態で、良い考えは浮かんできませんし、また、主の御声を聞こうともしないでしょう。主の御声を聞かず、また聞き従わず、行動することは、もっとも愚かなことでもあります。サウル王は、聖絶しなければならなかった、羊や牛を残しておいたために、王の座を追われることとなってしまいました。それらのことは、取り返しのつかない過ちとなってしまいました。では、私たちが、主の御声を聞かず、また聞き従わなかったとしたら、どんな悪いことが待ち受けているのでしょうか。サウル王のように、ちょっとした出来心が、ちょっとしたミスだと思っていたことが、取り返しのつかない過ち、罪となってしまうかも知れません。

私は今、このことをひしひしと感じています。昨年の今頃、祈りの中に東大阪の小阪の地に教会を、主が私を通して起こすことを、主に告げられました。初めは「どうして私が?」と思い、主に訴えていました。なぜなら、私の宣教活動に、東大阪の地は、頭の中に微塵もなかったからです。「知らない土地になぜ私が」と問い続けていました。しかし、「主の声に聞きしたがわず、牧師という立場に抵抗しつづけてきた私が、結局牧師とされた」こともあり、なかばあきらめて「小阪でいいのですね」と良い場所を祈り探し始めたのが5月。そして、10月に小阪チャペルを主によって開き、この度パートナーになってくださる方は、もともと小阪にずっと住んでおられた方であったことが、後になってわかりました。それも小坂を意図したわけではありませんでした。主は小阪チャペルを開き、その地域をよく知るパートナーを与えてくださり、ますます「小阪チャペル」が主の思いであることを確信している次第であります。が、しかし、私は恐ろしいのです。もし私がそのことにあぐらをかき、心の隙ができて、傲慢になり、罪を犯し、主が「小阪チャペル」を祝福されなかったらどうしよう。これからは、私だけの問題ではなく、パートナーにも迷惑がかかることになりかねません。ですから、今は今まで以上に、常に、主の御声を聞こう、主の御声に聞き従おうとしていますが、私自身がそんなにしっかりとした人間ではありませんので、いつなんどき、心のゆるみが、、、と思ってしまうのです。そして、この恐れがあるときはいいのでしょうが、その恐れが感じられなくなった時、感覚が鈍った時、どうなるのか、、、、順調に行っている時こそ、実に、主の御声を聞き、その声に従うことの大切さを、今、感じている次第です。どうか皆さんも、その感覚を鈍らさないようにしてください。すべての信仰活動信仰生活の前に、静まりの時をもち、主の御声を聞くようにしてみましょう。

これから黙想の時間をもちます。

静まって知れ

https://www.youtube.com/watch?v=cF8vUKQAhwM

お祈りいたします。

●主のいのり

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。