メッセージ:「主は生きておられる」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

2022年3月31日

担当:若竹孝行

メッセージ:「主は生きておられる」(15分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:サムエル記第二4章~6章

4章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:9

「ダビデは、ベエロテ人リンモンの子レカブとその兄弟バアナに答えて言った。『主は生きておられる。主は私のたましいを、あらゆる苦難から贖い出してくださった。』」

おはようございます。そして、お帰りなさい。

サムエル記第二1章では、サウル王やヨナタンの死をダビデに知らせにきた若者を、ほめるどころか、殺してしました。その若者は、ダビデによって良き知らせをもってきたと思い、そのための褒美も期待していたでしょう。しかし、ダビデは、「主に油注がれた方に手を下して殺すのを恐れなかったとは、どうしたことか。」と怒り、そのアマレク人で寄留者の子である若者を討ちました。ダビデはサウル王とその息子ヨナタンのために、主に哀歌をささげました。サウル王は、ねたみのゆえに、ダビデの命をねらい続けた王でしたが、ダビデは、サウル王が変わってくれることを願い祈り続けていました。なぜなら、サウル王は、かつて主が油注がれた方であり、ダビデはそのことを重んじ、かつ主を畏れていたのです。

その殺されてしまった若者は、サウル王の陣営の者でした。サウル王が殺してくれ、敵ではなく味方に、もう命がないので、敵の手で殺されるより、自害するか、それもできない場合は、味方に殺してくれと頼むのは、理解できることです。しかし、その場合、王の願いによって、王を手にかけた家来は、自害するべきでありました。それが、戦いの美学、敗者の美学かもしれません。王が戦いで死ぬと、気高い家来は、死をもって王に仕える、それがある種の美学だったのかもしれません。

日本でも、戦国時代の武将とその家来が同じ美学を共有していました。戦いで武将が追いつめられると、負けを認め、自害をし、それ以上の死者を出さない、自分の命とひきかえに、自分の家来たちを生かす選択をすることがありました。またその時、切腹をする場合には、介添え人、つまり切腹と同時に首をはねる役目をする家来がいましたが、その家来も自害をすることが多々あったようでありますし、それがかれらの美学でもありました。自らの大将の首をはねる訳ですから、忠誠を誓った、つまり大将に命をあずけることを誓った者の責任として、自害という選択が美学だったのでしょう。

本当は、サウル王の場合も同じこと、つまりサウル王の息の根を止めた若者は自害すべきだったかも知れません。しかし、その若者は寄留者の子であり、そこまでの忠誠をサウル王に誓ってはいませんでした。ダビデは、そのことで、サウル王の哀れを感じ、またその若者に怒りをぶつけました。ダビデは、まことに主を畏れ、かつ主が油を注がれた人に対して、敬意を表したのです。

4章でも同じことが起こりました。ベエロテ人のリンモンの子レカブとその兄弟バアナは、サウルの子イシュ・ボシェテが寝室の寝床で寝ていたのを、突き殺し、首をはねました。まさに「寝首を掻かれる」とはこのことです。卑怯なやりかたで殺したレカブとバアナは、意気揚々とサウルの子イシュ・ボシェテの首をダビデに差し出します。ダビデは、サウル王の時のあの若者の処罰と同じように、部下たちに命じて、レカブとバアナを殺し、手足を切り離しました。その時のことばが、今朝の中心聖句です。●「主は生きておられる。主は私のたましいを、あらゆる苦難から贖い出してくださった。」これだけをみると、レカブとバアナに、敵イシュ・ボシェテを倒したことを感謝しているかのように聞こえます。しかし、褒美の代わりに、レカブとバアナは、無残に処刑されました。これは、どう考えればよろしいでしょうか。私は、この「主は生きておられる。主は私のたましいを、あらゆる苦難から贖い出してくださった。」というのは、ある種の宣言・信仰告白ではないかと思っています。ダビデはこう言いたかったのではないでしょうか。『なにもレカブやバアナによって、卑怯な手段でイシュ・ボシェテを殺さなくても、主が私に加勢してくださっておられるのだから、主のもっとも良いタイミングで勝利を収めることができる。それを私は信じ告白し、宣言します』と。

この信仰の宣言は、今の私たちにもとても有効かつ有益です。「主は生きておられる」と現在時制で、普遍的な真理を現わし、常に主は私たちのすべての言動を見聞きしておられ、これまでもそしてこれからも、私たちを私たち以上に理解し、私たちに働きかけてくださっていることへの宣言であります。ダビデは詩篇18篇でも次のように主をほめたたえています。46節~48節です。●「主は生きておられる。ほむべきかな、わが岩。あがむべきかな、わが救いの神。この神は、私のために復讐する方。諸国の民を私のもとに従わせてくださる。神は、敵から私を助け出される方。実にあなたは、向かい立つ者から私を引き上げ、不法を行う者から救い出してくださいます。」

もしも、不法を行ったレカブとバアナの行為を容認し、しかも褒美を与えてしまいますと、その容認したダビデも主からの裁きをうけることになってしまうのです。ですから、その意味でもダビデはレカブとバアナを処刑しました。

「主は生きておられる」これは、ダビデだけではなく、私たちの宣言でもあります。ダビデは次に「主は私のたましいを、あらゆる苦難から贖い出してくださった。」と宣言しています。この「救い出してくださった」とは完了形であり、救いの完成が宣言されています。「主は生きておられる」と同じように、過去・現在・未来において、救いが完成されているという宣言であります。つまり、私たちがよく感謝を表すときに、先取りの感謝という表現があります。祈りや願いがすでに聞き届けられたと感謝をささげることですが、この「主は私のたましいを、あらゆる苦難から贖い出してくださった」も、いわば先取りの宣言であります。

イエス様は先取りの感謝でもあり宣言でもある言葉を残されておられます。マルコの福音書11章22節~24節●「イエスは弟子たちに答えられた。『神を信じなさい。まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、「立ち上がって、海に入れ」と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。』」 「あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。」とは、なんと力強い言葉でしょうか。しかし、勘違いしてはいけないことがあります。祈りや祈りの対象はすべて神の栄光を現わすためのものであるということを覚えておきましょう。自分の欲や利益のための祈り求めることが、神の栄光を現わすことでしょうか。逆に神の栄光を現わすことは、神は不思議をもって私たちを祈りに導きます。神の御心にそった祈りは、私たちからでたものではなく、神が私たちをそのように導いてくださっているのです。ですからこのイエス様のお言葉は、「神の栄光が現れるものとして、あなたがたが祈り求めるものは何でも、神が導いておられるのだから、すでに得たと信じなさい。そうすれば、神がそのとおりになさいます。」このようになります。私はこの言葉を強く信じています。そして、皆さまにもお勧めします。

ヨハネもイエス様のこのお言葉を、もう少し私たちに分かりやすく説いています。

ヨハネの手紙第一5章14節15節です。●「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神はきいてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。」

どうか大胆に主の御前に近づき、ダビデと同じように宣言し、そして、主の栄光の現われのために、すでに聞き届けられたと確信し祈り求めましょう。もしも、その願いや祈りが神の御心にそったものであるなら、神のベストタイミングで、不思議をもって、必ず成就すると確信し宣言しましょう。

皆さん、私の後について、宣言してみてください。目を閉じていたしましょう。

では、宣言します。

『主は生きておられる。/主は私のたましいを、/あらゆる苦難から/贖い出してくださった。』アーメン。

これから黙想の時間をもちます。

愛の絆

https://www.youtube.com/watch?v=TaIUDJUsvYU

お祈りいたします。

●主のいのり

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。