メッセージ:「神に何を願うか」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

2022年4月7日

担当:若竹孝行

メッセージ:「神に何を願うか」(15分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:列王記第一1章~3章

3章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:11-14

「神は彼に仰せられた。『あなたがこのことを願い、自分のために長寿を願わず、自分のために富を願わず、あなたの敵のいのちさえ願わず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を願ったので、見よ、わたしはあなたが言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに、知恵と判断の心を与える。あなたより前に、あなたのような者はなく、あなたの後に、あなたのような者は起こらない。そのうえ、あなたが願わなかったもの、富と誉れもあなたに与える。あなたが生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者は一人もいない。また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしの掟と命令を守ってわたしの道に歩むなら、あなたの日々を長くしよう。』」

おはようございます。そして、お帰りなさい。

●メッセージ

この3章では、若いソロモンが、父ダビデ王の後継者として、イスラエルを率いることになるに際して、ソロモンがイスラエルの神に、王としての統治能力、部下たちが進言してくる事ごとや民が訴える事ごとに対する判断力、9節では、「聞き分ける心」として表現され、また11節では、「聞き分ける判断力」を、神に願い求め、神はその願いを聞き入れました。

主のみこころにかなった願いに対する主の応えは11節から14節にあります。今朝は、おもにこの箇所から学びたいと思います。

11節12節●「あなたがこのことを願い、自分のために長寿を願わず、自分のために富を願わず、あなたの敵のいのちさえ願わず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を願ったので、見よ、わたしはあなたが言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに、知恵と判断の心を与える。あなたより前に、あなたのような者はなく、あなたの後に、あなたのような者は起こらない。」

長寿や富や敵のいのちも願わないとは、自分への直接的な利益を優先させない願いであります。もちろん、「正しい訴えを聞き分ける判断力」も、王としての利益であると言えば利益かもしれませんが、それは、ソロモンの個人的な利益ではなく、国を統率するための利益であり、民のためのものでした。また、ソロモンは、ソロモンの代わりに神にイスラエルを統率してくださいと願ったのではなく、ソロモンを通して、ソロモンを用いて神に統率していただく、そのための判断力を願い求めたのであります。このことはとても大切だと思われます。

私たちは、ひょっとしたら、「神よ、私は非力です。どうか私の代わりになんとかしてください」とお願いすることが多いのではないでしょうか。ソロモンは、「神よ、私は非力です。どうか私に知恵と力をあたえ、私を用いてください」とお願いしたのです。ソロモンは、自分自身の力と知恵を信じて、世を治めたのではありません。彼は、神の力と知恵を求めて、それを世のためにつかい世を治めたのです。私たちも、神の力と知恵を求めて、自分の利益のためではなく、神のみ旨にかなった使い方で、私たち自身が用いられますように祈りつつ歩もうではありませんか。

神は私たちが神のみ旨にそった願いをするなら、13節14節のように、私たちに必要なものをあたえてくださいます。また、時として、私たちの必要以上に見えるものを与えてくださることがあります。●「そのうえ、あなたが願わなかったもの、富と誉れもあなたに与える。あなたが生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者は一人もいない。また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしの掟と命令を守ってわたしの道に歩むなら、あなたの日々を長くしよう。」主は、主のご計画に従って、このように大盤振る舞いとも思えるようなこともなさいます。そのことによって、主の栄光が現わされるわけですが、勘違いをしてはいけないことは、主が栄光を現わされるのに、私たちの行ないや決定は何の関係もないということです。主は、私たちを用いて、主の栄光を現わされますが、私たちに左右されることはありません。主が決定されたことは、必ず起こります。また、そのことが主によって遅らされたとしても、主の決定に変わりはありません。では、私たちは何のために存在するのでしょうか。主に用いられるためではありませんか。何の目的に用いられますか。

イエス様はこの世を救うために遣わされました。そして、そのイエス様が私たちに、宣教せよ、主の愛を伝え、ともに福音にあずかる者となりなさいとおっしゃるのです。マタイの福音書28章19節20節●「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」 いわゆる大宣教命令でありますが、私たちはこのために選ばれ、用いられています。私たちは、非力です。ですから、私たちは、個々において主の知恵と力を求め続け、主に用いられ、ともに福音にあずかるものとして、喜びを分かち合い励まし合う存在でありたいと思います。

私たちは、主に用いられるために、主の知恵と力を求め続けるわけですが、イエス様は次のようにおっしゃいます。マタイの福音書6章33節●「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(必要なもの)はすべて、それに加えて与えられます。」神の国である神の支配、そして神の義とは神との正しい関係。その神の支配と神との正しい関係において生活することが大切であり、そこにイエス・キリストを信じる信仰が不可欠であることを示しています。ですから、「神の国と神の義を求めなさい」とは、ただただ、祈っているだけでいいというのではありません。イエス・キリストを信じる信仰において、この世で生活しなさい。もちろん、世と迎合するのではなく、地の塩、世の光として。

では、この世で、イエス・キリストを証しする者として、主に用いられるために、皆さんは何を願い求めますか。いえ、今、願い求めていますか

こと私に関して言えば、私は今、「忍耐」を主に願っています。辛抱強く祈り続ける忍耐、人の話を最後まで真摯に聞く根気強さを願っています。これは、愛に根差していることですが、つくづく愛の足りないものであることを痛感させられるからであります。

私は、パウロの次の言葉を信じています。2コリント12章9節●「しかし主は『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現われるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」パウロの「むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」とは、本当に誇るわけではありません。パウロの言いたかったことは、自分の弱さを認め、主に弱さを告白するということです。

自分の弱さがどこにあるのかさぐり、その弱さを認め、主に告白し、謙遜に主に助けを求めましょう。ソロモンもこのことを求め、それは主のみこころにかなったものでありました。「主の力は私たちの弱さのうちに完全に現われる」ことを信じ、そのように告白することで、主がそのことを喜ばれ、あなたを、助け、用いてくださいます。

これから黙想の時間をもちます。

神の国と神の義

https://www.youtube.com/watch?v=CGyo9D1vD1A

お祈りいたします。

●主のいのり

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。