メッセージ:「覚悟はあるか」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

2022年4月14日

担当:若竹孝行

メッセージ:「覚悟はあるか」(15分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:列王記第二1章~3章

2章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:2節

「エリヤはエリシャに『ここにとどまっていなさい。主が私をベテルに遣わされたから』と言った。しかしエリシャは言った。『主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。』こうして、彼らはベテルに下って行った。」

おはようございます。そして、お帰りなさい。

●メッセージ

エリヤは、友であり弟子でもあるエリシャに、三度も「ここにとどまっていなさい」と告げます。(2節、4節、6節です。)しかし、エリシャは、「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」と言って、エリヤにくっついて行きます。

これは、エリヤが、主によって取り上げられることが近いことを、エリシャが知って、エリヤに祝福していただこうと思ってのことです。事実、エリシャはエリヤに「エリヤの二倍の霊力を授けてください」と願い出ます(9節)。エリヤはエリヤで、「ここにとどまっていなさい」とエリシャの信仰を試しています。そして、エリシャに次のことを伝えます。10節●「私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことはあなたにかなえられるだろう。できないなら、そうはならない。」つまり、それは逆を返せば、『ずっと私のそばにいなさい。そうすれば、私が取り去られるところを見る。そして、あなたの望みはかなえられる。』

事実、エリシャはエリヤが竜巻に乗って天へ上って行く所を見て、エリヤの身から落ちた外套を拾い上げ、その外套には力がありました。願いがかなったことになります。

さて、このところから、私たちは何を学ぶべきでしょうか。

例えば、エリヤが私たちの主イエス・キリストであったらどうでしょう。イエス様が「ここにとどまっていなさい。私は先を行く」とおっしゃったら、あなたは、「はい」と言って従順に言うこと聞いてとどまりますか。それとも、「主よどこまでもついて行きます」と言って、イエス様からの祝福を求めて、イエス様について行きますか。この話をきいた皆さんは、当然「主よどこまでもついて行きます」とおっしゃるでしょう。

しかし、それを聞いたイエス様は「本当に?」と言う顔をなさるかもしれません。もう少し具体的に申しますと、「本当にその覚悟はありますか」とお尋ねになるかもしれません。イエス様についていくというのは、それ相当の覚悟がいるのです。

イエス様が海の上を歩いて来られた時、ペテロはただ単にイエス様のところに、海の上に飛び出し近づきましたが、波を見て怖くなり、沈みかけました。イエス様はペテロの手を取り引き上げつつ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とおっしゃいました。ペテロはこの時点で、イエス様に従う覚悟ができておらず、困難を目の前にして、信仰が揺らいでしまいました。

イエス様はおっしゃいます。マルコの福音書8章34節●「だれでもわたしに従ってきたければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」これは、「従順の勧め」です。イエス様は、父なる神に従順に歩まれました。イエス様は、●「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」(マタイの福音書26:39)とおっしゃったように、天の父なる神に従順を表され、自ら十字架にかかり、私たちの罪をご自身のいのちをもって、贖われ、3日目の後に、死を克服して、イエス様に従う私たちに永遠のいのちを得ることができるようにしてくださいました。私たちの救い主イエス様に従うとは、この世の生活とは一線を画す覚悟、「自分を捨て、自分の十字架を負う」という覚悟が必要なのです。

もしも、イエス様に従う時に困難がなかったとしても、いろいろと手放さないといけないものがあるでしょう。世の楽しみ、世の富、世の知識。私たちは、それを誇りとし、またそれに心を惹かれる時があります。しかし、イエス様は、時として、それらを手放しなさいとおっしゃることがあります。また、主にある自分の計画も、それが主のご計画と違えば、諦めなさいとおっしゃるのであります。

私事で申し上げるなら、「福音を伝える者となりなさい」と三度主に迫られ、三度目に降参して、神学校への道を選びました。卒業後、南森町で牧師として立てられました。それから、わたしは密かに、ある計画を立てました。70歳になれば、英語塾もたたんで、家賃の安い田舎で、家の教会をほそぼそとし、地域伝道に少しでも主のお役に立てさせていただこうという計画でした。これは、主の働きでもありますから、その計画は主が承認してくださるものだと思っておりました。ところが、ひょんなことから、それこそが主の御計画でありますが、東大阪市の河内小阪で教会を始めることになりました。主の導きに、私は約3か月、抵抗しました。東大阪市はまったく知らない土地ですし、どうして小阪ですか、なぜわたしですかと問うていました。その時、主の声が聞こえたような気がしました。「数年前に『福音を伝える者となりなさい』と言って、あなたはその導きに従ったのではないですか。わたしがあなたを牧師にしたのです。わたしの導きに従いなさい。」そのとき、私の70歳になればという夢でもあり計画は、私のエゴによるものだと知らされました。そして、教会の場所を近鉄河内小阪駅の近くで探すこととなりました。ある人のつてで、広告に出す前の場所を与えられました。しかし、私はその時またも、夢を持ってしまいました。自分の思い描く教会堂に改築することです。その場所は、以前はカラオケ喫茶でしたが、カウンターを取り除き、天井を高くし、それなりの教会堂のイメージを大家さんに伝えました。しかし、あまりにも改造費がかさむので、その場所の話は流れてしまいました。それから3か月、様々なところを探しましたが、初めの場所のような好条件はありませんでした。私はまたも、私のエゴですばらしい教会堂を夢見てしまったことを悔い改め、「主がそのままで使いなさい」とおっしゃることに耳を傾けました。初めの場所が、ふたたび市場にでようとすることを聞き、大家に直接、「そのままで使わせてください」とお願いし、大家さんが床や壁紙などを新しくしてくださることで話がつきました。カラオケ喫茶の時のカウンターもミラーボールもソファーもテーブルもそのまま使うことにし、主の導きを守りました。私は、主のためと言いつつ、自分の夢を付け加え、そのつど、主は方向転換を私に求められました。そして、その方向転換は、私にとって、最も良いこと、であろうとは思うのですが、今はまだ正直確信がえられていません。私は、主に従いつつも、どこかで、また自分のための夢を造り出そうとしているような気がするのです。その都度、主は私の夢を手放し、方向転換をせまって来られるのでしょう。

でも、なんとなく、私は嬉しいのです。主が私に夢をあきらめさせ、方向転換をすすめるのが。なんとなく、主と会話をしているようで。状況はまったく違うかもしれませんが、ヤコブが主と相撲ととっている時ような、またアブラハムがソドムとゴモラの町を滅ぼさないように、主と駆け引きするような。もちろん、彼らは真剣に主と交渉しているのですが、私も真剣です。でも、なんとなく嬉しいのです。自分がどんどん、主とともにあゆませていただいているようで。

皆さんは、どうですか。自分の夢をあきらめて、または、この世のものを手放して、主に従う覚悟はおありでしょうか。これは今の私自身にも問うていることです。エリシャは、すべてを放棄し、エリヤとともに歩み、祝福をうけました。ヨルダンを渡り、主との交わりの中にはいり、二倍の霊力にあずかりました。エリシャの覚悟のように、「私は決してあなたから離れません」と主に訴え、主に従うようにさせて頂きましょう。次の日曜日はイースターです。主の復活の恵みを覚えつつ、何があったとしても主から決して離れない覚悟をもって、私たちの代わりに受けてくださった、主のご受難と復活に感謝をささげましょう。

これから黙想の時間をもちます。

主の手にわが手を重ね

https://www.youtube.com/watch?v=XYj6mcSpcn4

お祈りいたします。

●主のいのり

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。