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メッセージ主題:『喜びの献身』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2022.4.17主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、軽く愛餐の時をもちます。)

●午後5時開会:ただいまより、2022年4月17日主日礼拝式を始めます。

賛美①:愛を伝えるために

https://www.youtube.com/watch?v=MR0tW7pWV8Y

賛美②:輝く日を仰ぐ時

https://www.youtube.com/watch?v=Jh8Sh1ZL-CI

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

賛美③:主を仰ぎ見て (4月の歌)

https://www.youtube.com/watch?v=Viar5edeGzU

賛美④:丘にたてる荒削りの

https://www.youtube.com/watch?v=HUY54RuEOdU

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。

讃美⑤:10000 Reasons

https://www.youtube.com/watch?v=EK73lRKSdKQ&list=RDZWktcXSPVCY&index=4

【YOUTUBE配信開始】

2022年4月17日 主日礼拝メッセージ

メッセージの前に2022年の年間聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

●聖書拝読:創世記8章(新改訳聖書)

中心聖句:

「ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。」(20)

メッセージ主題:『喜びの献身』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

●メッセージ

聖書の中で最初に全焼のいけにえをささげたのは、ノアでありました。ノアは、箱舟に入ってから箱舟を出るまで1年間、そしてようやく地上へと出て、その足で主のために祭壇を築き、祭壇の上で全焼のいけにえをささげました。全焼のいけにえとは、それをささげる者の神への全きの献身を表します。ノアは、箱舟に守られ、箱舟から出て地上に再び足を下ろしたことへの感謝、そして、ノアは主のものであるという、全き服従を、全焼のいけにえを通して、主に示しました。全焼のいけにえは、全きの白旗を上げて、主に降参し、主の自由になさってくださいと主に自分自身をささげる行為であります。

全焼のいけにえは、主は必ず受け取られます。21節の通りです。●「主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。『わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を討ち滅ぼすことはすまい。』」全焼のいけには、主に対する全くの降伏です。主は、白旗をあげて降伏する者を憐れまれ受け入れられます。

では、私たちは全焼のいけにえをささげるべきでしょうか。いえ、現代では全焼のいけにえは必要ないでしょう。それは、イエス様が十字架上でご自身のいのちをもって、私たちの罪をあがない、神様と私たちの間をとりもってくださったからです。もちろん、だからといって、主に全く降参し、自分自身を主に明け渡す必要はないということではありません。しかし、主に全く降参し自分自身を明け渡すことは、熱心に教会活動を行なったり、献げものをいっぱいすることでもありません。もちろん、熱心な教会活動や尊い献げものをささげることは、悪いことではありません。が、しかし、それよりももっと大切にしないといけないこと、しかも基本的なことがあります。

主はそのことを、預言者ホセアを通して次のように私たちに訴えます。ホセア書6章6節●「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」主に対して誠実とは、どういうことでしょうか。何かをするときに、主にあって偽りのないことをする、二心のない、主に対してまっすぐな気持ちで行うということではないでしょうか。少し角度を変えて言えば、主に対して愛をもって行うということではないでしょうか。マルコの福音書12章29節から31節にかけて、イエス様が律法学者に「一番大切なこと」を伝えておられます。●「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次はこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」そのイエス様の答えに対して、その律法学者は次のように応じています。●「『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」主がホセアを通しておっしゃった、「誠実」とは、主を愛し、隣人を愛する愛と深く関係していると言えるでしょう。そして、その愛ある誠実さは、「神を知る」ことと関係があるのでしょう。

「神を知る」ということはどういうことでしょうか。アダムがエバを「知った」というときの「知る」と同じで、親密なる人格的な交わりをさしています。つまり、「神を知る」とは、神との親密なる、かつ個人的な交わりを示しています。また、相手が創造主の神であるがゆえに、同等な交わりではありません。「御声を聞く」ということが、神との親密なる交わりのはじまりではないでしょうか。先日、1サムエル記15章を読んでいまして、次のことが気になりました。サウル王が「主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目の前に悪を行なった」とサムエルから非難されました。そして、サムエルは続けて言います。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(1サムエル記15章22節) 「主の御声に聞き従うことは、全焼のいけにえ」に勝るのであります。服従と献身がともなわなければ、形式的ないけにえや礼拝行為はまったく無意味であるということです。サウル王は、御声に聞き従っていると言いつつも自分の勝手な解釈、自己中心的な思いを加えてしまい、神を信じているのではなく、自分の神を信じる力、自分の神を信じる仕方や表現、自分の信仰深さをほこり、全地全能の神を畏れることから、離れて行ってしまったのです。まさに、箴言がいうところの真理、●「主を恐れることは知識の初めである」(箴言1章7節)つまり、「主を知ることは、主を恐れることからはじまる」ということをサウル王は忘れてしまったのであります。

「主を知る」このことこそが、いのちを得ることになります。ヨハネは、イエス様の次のことばを記しています。ヨハネの福音書17章3節●「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたとあなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」

しかし、「主を知る」ことは、忙しさの中では成就しません。日本語の忙しいという漢字は、心を亡くすと書きます。心を亡くしたところでは、主を知ることはできないのであります。また、「忙しさとは霊的な怠惰である」とも言われます。生活に忙しく、勉強にも忙しく、教会活動に忙しく、宣教活動にも忙しく、そのような毎日が充実しているとも考えていては、本当の霊的な豊かさを、永遠のいのちを得ることもできないのかもしれません。詩篇46篇10節「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」口語訳では「静まって、わたしこそ神であることを知れ」と言われる通り、主の御声を聞き、主を知るためにも、静まりの時をもつ必要があると思います。

話しをノアに戻しましょう。ノアは1年間という間、箱舟の中にいました。これの期間は、先週もお話ししましたが、「死んでいった者に対して喪に服している期間」とも「神様のあわれみを願っている期間」とも、また「希望を確信へと導いている期間」、「古い自分から新しい自分へと変身する期間」とも考えられるでしょう。また、今日の導きのように「静まって主を知る」期間とも考えられなくはないでしょう。ノアは主と交わり、主を知り、全知全能の主に対して、全面降伏した、その結果が、祭壇を築き、全焼のいけにえを主にささげたということではないでしょうか。

先ほども申しましたが、現代の私たちには、全焼のいけにえをささげる必要はありません。それが、主イエス様の恵みです。私たちが、そのイエス様の恵みを享受するためには、私たちが、イエス様を信じ、イエス様に全幅の信頼をよせ、イエス様のご指示である御声に耳を傾け、御心に聞き従うことこそが、私たちのできる全焼のいけにえなのです。そして、それが私たちの神への献身であります。

さて、ここで天国長屋の八さん、熊さんにご登場いただきましょう。

八さん、熊さん、よろしくお願いいたします。

―――――

八: 全焼のいけにえちゅうのは、献身やってんな。知らんかったわ。

熊: そやなぁ。献身ちゅうことは、その身をささげるちゅうこっちゃなぁ。

八: まあ、白旗上げて全面降伏ちゅうことなんやろ。神様のご支配に入んねんから。

熊: そやねんけど、、、今日の若さんのメッセージの「献身」なんやけどな、

なんかこう喜びっちゅうのが伝わってけぇへんねん。

八: そりゃ、どういうこっちゃ。

熊: そやかて、そうやろ。ノアはんは、1年間箱舟の中にいてはったんや。

やっと外に出られた。その救われた喜びちゅうか、箱舟から解放された喜びから、

祭壇を造って、全焼のいけにえをささげはったんや。

喜んでささげたんや、全焼のいけにえをな。つまりは、喜んで献身したんや。

八: そういわれればそうやはな。ノアはん、仕方なしにささげたんとはちゃうわな。

熊: そやろぅ。そやのに、若さん、その救われた喜びについて、

まあ、感謝ということばは使ってはったけど、献身や聞き従うことばっかりゆうて、

聴いているわてらには、ほんまは、喜んでの献身や、ちゅう大事なところが

伝わって来えへんかった。ちょっと残念やわ。

八: そうか。「白旗上げて降参する」ちゅう表現には、喜びがないわな。

熊: そやねん。そこが今日の若さんのメッセージの物足りんとこや。

若さんも含めてわてら、「イエス様いのち」や。イエス様の三ばかトリオや。

八: まあ、トリオは3人やから、「三バカ」ちゅうのも変やけんど、

わてら「三ばかトリオ」で通っとるわな。

熊: わてらが、「イエス様いのち」ちゅうのは、誰にも、イエス様に献身しなはれって、

言われたからやない。自らすすんで、「イエス様いのち」の三ばかトリオ

ちゅうてんねん。喜んで、アホになって、イエス様にしたごうとしてんねん。

な、ノアはんもいっしょや。それにダビデはんもいっしょやで。

二階からひややかな目で奥さんににらまれとっても、契約の箱がもどってきたゆうて、

王様やのに、嬉しさのあまり、上や下へのどんちゃん騒ぎ、阿波踊りみたいなもんや、

「踊る阿呆に見る阿呆、同じアホなら踊らな損損。」って。

八: まあ、阿波踊り踊ったわけやないけど、それにちかいもんやったんやろな。

第二サムエル記6章にそう書いてあるさかいな。

ダビデはんも、わてらの三ばかトリオの仲間や。

熊: 献身ってそんなに重苦しいもんとちゃうねん、庶民のわてらにとっては。

そら、牧師はんのように献身者ってよばれているお方は、それなりの覚悟で、

油注ぎがあるから、権威もあるのかもしれん。

しかしな、ダビデはんかて、油注がれている王様や。権威もある。

けんど、阿波踊りしはんねん。献身は、権威主義の一部とちゃうねん。

献身は、自分をひくうして、神様と周りの人に仕えるちゅうこっちゃ。

それも喜びをもってな。

八: たしかにせや。喜びがなかったら、献身している意味あれへん。

そうおもえば、イエス様かて、そやった。先週の木曜日は、洗足の木曜日やった。

イエス様が最後の晩餐の時に、弟子たちの足を洗いはった。

当時、人の足を洗うちゅうのは奴隷の仕事で、最高の謙遜を現わしてたらしいから、

イエス様がその謙遜の見本ちゅうか、互いに仕え合うちゅうことの大切さを

教えてくれはったんや。イエス様はイヤイヤやりはったんとちゃう、

喜んでやりはったんや。

熊: そやったなぁ。イエス様おっしゃったもんな。ヨハネの福音書の13章14節15節

●「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、

あなたがたも互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、

あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」

これも献身のひとつや。しかし、イエス様が示された最高の献身は、

イエス様が十字架におかかりになって、自らのいのちを犠牲にして、

わてらの罪を帳消しにしてくれはったことや。これ以上の献身はないで。

罪なきお方が、わてらの罪のために、いのちを落とされたんやから。

八: せやなぁ。イエス様もおっしゃった。「人がその友のためにいのちを捨てるという、

これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネの福音書15章13節)

イエス様しか、そんな愛はもってはれへん。ほんまにイエス様に感謝や。

いや、感謝しても感謝しきれん。なんせ、ただこで永遠のいのちもらうんやから。

熊: だから、わてらは喜んで、この身をイエス様にささげるんや。

人間なんぼ生きても120年そこそこや。けんど、イエス様信じたら、

この世でわてらが死んでも、永遠のいのちにあずかれるんや。

八: せやなぁ。この世でのMAX120年のいのち、

喜んでイエス様のためにささげようやないか。

それこそ、イエス様いのちの三ばかトリオや。

熊: ええなぁ、ええなぁ。そうこなあかんはな。今日はイースターや、

イエス様が十字架で死にはって、三日目に死を克服して復活され、

イエス様を信じるわてらも、その永遠のいのちにあずかれる、その記念日や。

ハッピー・イースターやで。救われた喜びで、いっぱいのはずや。

ノアはんかて、そやった。喜びに満ちて、全焼のいけにえをささげ、

神様に献身を現わしはったんや。自らすすんで、神さまのしもべとなりはった。

若さん、献身って、もっと楽しいもんにしませんか。

もちろん、苦労、困難もいやなこともあるかも知れんけど、

自らすすんで献身するんやから、同じアホなら喜んで踊りましょうよ。

この世の楽しみ、富み、知識、がんじがらめになることから、足あろて、

自由になりましょ。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。献身の喜びを思い起こさせてくださって、感謝いたします。「同じアホなら喜ばなそんそん」ですね。この世での人生、長くても120年。あっと言う間です。イエス様に聞き従って生きる人生、献身の人生こそ、最高です。その献身の喜びを他の方々にもお伝えさせていただきましょう。でも、今日は、イースター、イエス様の復活をお祝いする日です。主が私たちと共にいてくださる、その恵みを、ダビデ王に負けないぐらいに、喜び踊りましょう。「同じアホなら喜ばなそんそん」

では、黙想いたしましょう。黙想の時にお読みするのは、詩篇73篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。ルカの福音書14章27節33節。

「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」

「そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。」

では、黙想いたします。詩篇73篇。

黙想時の曲

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

 

賛美⑥:主の約束

https://www.youtube.com/watch?v=cn23KJI73pQ

讃美⑦:幸せ, Happiness

https://www.youtube.com/watch?v=JqBChceAbqk&list=RDZWktcXSPVCY&index=3

●礼拝と献金の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献金は教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の4月24日 午後5時から小阪チャペルにて、主日礼拝。

聖書:創世記9章