メッセージ:「神の憐れみを従順に受け取る」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

2022年4月21日

担当:若竹孝行

メッセージ:「神の憐れみを従順に受け取る」(15分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:列王記第二22章~25章

25章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:30節

「彼の生活費はその日々の分を、一生の間、いつも王から支給されていた。」

おはようございます。そして、お帰りなさい。

●メッセージ

第3回目のバビロン捕囚があり、その時は、バビロン王ネブカドネツァルは、「主の宮と王宮とエルサレムのすべての家を焼き、そのおもだった建物をことごとく火で焼いた」(9節)とあります。エルサレムは事実上、焼け野原状態であり、政治的にも経済的にも高い地位にあった要人たちの大半は、バビロンに捕囚され、また武器などがつくることができる技術者たちもすでに捕囚されていました。エルサレムに残されたのは、その地の貧しい民の一部であり、かれらは、ぶどうと作る者と農夫にされた(12節)とあるように、かつてのソロモン時代のエルサレムは跡形もなく消え去りました。

その後、バビロンの捕囚されたユダの民は、その捕囚の地で、ほそぼそと生計を立てていました。ユダの王エホヤキンは牢獄に入れられていましたが、エホヤキンが捕らえ移されて37年目に不思議なことが起こりました。エビル・メロダグがバビロンの王となったその年に、ユダの王エホヤキンは牢獄からだされ、優しいことばをかけられ、他の捕囚の王よりも位を高くされました。もちろん、エホヤキンは囚人の服ではなく、王としての服をまとい、いつもバビロン王メロダグの前で食事をし、親しく交わることを許されました。そして、今朝の中心聖句、●エホヤキンの「生活費はその日々の分を、一生の間、いつも王から支給されていた」とあります。どうして、捕虜の立場から、一転、王として厚遇されるようになったのでしょう。それは、バビロン捕囚の民が、その土地でおとなしく生活していたからかもしれませんが、その理由ははっきりとしません。しかし、私は、これこそが、一方的な主の憐れみの現われではないかと思えるのです。または、主の、ある意味でのユダの民の代表でもある王エホヤキンを通して、ユダの民の心を試みるテストでもあったのかもしれません。

この列王記第二の最後の最後に、エホヤキンの「生活費はその日々の分を、一生の間、いつも王から支給されていた」と記述されているように、生活費が日々渡されていたというのが、主のテストではなかったかと思われるのです。

この表現で思い起こされるのは、モーセの民の40年間の放浪の旅の間中、「日々の糧」であるマナが天から与えられたというところです。モーセの民は、約束の地カナンにたどり着くのに、40年間もかかりました。それは、モーセの民が神に従うことを学ばされた期間でもありました。しかし、神の憐れみによって、日々、マナが与えられ、モーセの民は世代を超えて目的地へとたどり着きます。

同じことが、エホヤキンにも行われました。神の憐れみにより、牢獄から出され、バビロン王との会食を許され、また日ごとの生活費も毎日与えられました。エホヤキンは、日々与えられた生活費に感謝し、謀反を企てることなく、平安のうちに従順に過ごすという、神のテストにパスしたのではないでしょうか。ですから、60年とも70年とも言えるバビロン捕囚の期間の後、新バビロニア帝国を滅ぼした、ペルシヤ帝国のクロス王によって、解放の時代をむかえ、エルサレムへと戻って行きます。このエホヤキンの厚遇と従順さが、エルサレムへの帰還の予表であったとも考えられます。

では、私たちは、ここから何を学ぶべきでしょうか。それは、神の憐れみへの従順さではないでしょうか。バビロンの王エビル・メロダグがエホヤキンを恵まれたほどに、私たちの神は私たちを恵んでくださらないはずはありません。イエス様は次のようにおっしゃいました。マタイの福音書7章9節~11節●「あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」

モーセの民には、天からのマナでした。また、エホヤキムには、主の憐れみによるバビロンの王を通しての厚遇でした。では、私たちへの、神の憐れみとはなんでしょうか。

天よりのパンそのものであるイエス・キリストご自身ではないでしょうか。イエス様はおっしゃいます。ヨハネの福音書6章32節33節●「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」そして、35節●「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」

イエス様の「わたしがいのちのパンです」とは、イエス様を信じることによって、天の御国での永遠のいのちの恵みにあずかることができるというだけでなく、イエス様を日々受け入れ、イエス様を食べる、イエス様を味わう、つまりイエス様の平安と喜びを、日々の生活を通して共有するという恵みにもあずかることができるということであります。福音には二つの側面があります。永遠のいのちの救いにあずかるという側面と、日々の生活の中で、主による平安と喜びと感謝に満たされるという側面です。この二つの側面を兼ね備えた福音をイエス様は恵みとして私たちに提示してくださっておられるのです。

私は、このことはパウロの次の言葉にもあらわれていると思っています。1コリント9章23節●「私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。」 パウロの初めの福音には、「宣教」という側面が色濃くでていますが、二番目の福音には、「恵みをともに受ける」ということからは、日常生活において主の平安と喜びに満たされ、常に祈り、あらゆることに感謝するという福音の側面がにじみ出ているような気がするのです。

どうか、イエス様が、日々、私たちと共におられ、生きて働いてくださることを覚え、朝に夕に主に感謝をささげる者とさせていただきましょう。また、ディボーションでの祈りだけではなく、日常生活の中で、瞬間の祈り、主との会話を楽しみ、神様からの憐れみによって、私たちは今を生かされていることへの喜びを表し、主の御名を賛美いたしましょう。

これから黙想の時間をもちます。

神は実にそのひとり子を

https://www.youtube.com/watch?v=C5slWkdNsgM&list=RDMMC5slWkdNsgM&start_radio=1

お祈りいたします。

●主のいのり

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。