メッセージ:「責任を肩代わりしていただいた感謝」(

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

2022年4月28日

担当:若竹孝行

メッセージ:「責任を肩代わりしていただいた感謝」(15分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:歴代誌第一19章~21章

21章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:17節

「ダビデは神に言った。『民を数えよと命じたのは私ではありませんか。罪があるのはこの私です。私が悪を行ったのです。この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。わが神、主よ。どうか、あなたの御手が、私と私の父の家に下さりますように。あなたの民を疫病に渡さないでください。』」

おはようございます。そして、お帰りなさい。

●メッセージ

この21章の1節に●「サタンがイスラエルに向かって立ち上がり、イスラエルの人口を数えるように、ダビデをそそのかした。」とあります。そして、8節でダビデはその人口調査を罪だと認めております。●「私のこのようなことをして、大きな罪を犯しました。どうか、このしもべの咎を取り去ってください。私は本当に愚かなことをしました。」 ではなぜ、人口調査をすることが罪なのでしょうか。人口調査自体は悪ではありませんが、この時の人口調査は兵士の数を数えるようにとのダビデの命令でした。5節●「ヨアブは民の登録人数をダビデに報告した。全イスラエルには剣を使う者が百十万人、ユダには剣を使う者が四十七万人いた。」ではなぜ、兵士の数を数えるのが罪なのでしょうか。「兵士の数を数えるというのは、自分の軍隊にどのぐらいの兵力があるかと確かめることですが、それは主の力や守りに頼っていない証拠でありました。」主にあって正しい将軍であった、ヨアブは、次のようにダビデに激しく訴えます。3節●「主が、御民を百倍にも増やしてくださいますように。わが主、王よ。彼らはみな、わが主のもの、そのしもべではないでしょうか。なぜわが主は、このようなことをお求めになるのですか。なぜイスラエルに罪過をもたらされるのですか。」しかし、ヨアブはダビデに説き伏せられ、兵士の数を数え、ダビデに報告します。

実際的な兵力は、いくらあっても神の力の足元にもおよびません。神の力を全き信頼することの大切さ、また兵力を調べることは神への反逆であることをヨアブはダビデに訴えたのです。

この神の力を信頼することが明確に示されている所があります。士師記7章にある、神による軍縮命令です。2節●「主はギデオンに言われた。『あなたと一緒にいる兵は多すぎるので、わたしは、ミディアン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが「自分の手が自分を救った」と言って、わたしに向かって誇るといけないからだ。』」このように主はギデオンに、32000人の兵を10000人に、そしてまだ兵は多すぎると申されて、たったの300人にまで減らさせました。7節●「主はギデオンに言われた。『手で水をすすった三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミディアン人をあなたの手に渡す。残りの兵はみな、それぞれ自分のところに帰らせよ。』」はたして、主の約束どおり、32000人から約百分の一の兵力で、ギデオンは、ミディアン人を倒しました。

また、エリコの戦いを思い出してみてください。難攻不落の城塞都市エリコを、主はヨシュアに次のように命じて、ヨシュアの手中に収めさせます。ヨシュア記6章2節~5節●「主はヨシュアに告げられた。『見よ、わたしはエリコとその王、勇士たちをあなたの手に渡した。あなたがた戦士はみな町の周りを回れ。町の周囲を一周せよ。六日間そのようにせよ。七人の祭司たちは七つの雄羊の角笛を手にして、箱の前を進め。七日目には、あなたがたは七回、町の周りを回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らせ。祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたら、民はみな大声でときの声をあげよ。そうすれば町の城壁は崩れ落ちる。民はそれぞれ、まっすぐに攻め上れ。』」

このように、主を信頼し主に拠り頼む、または主のご命令に従うことが、どれだけ、私たちに勝利をもたらすかということを、私たちは知っています。また、ダビデも知っているはずでしたが、ダビデをしても弱さを覚える時があるのです。ダビデは罪を犯しました。今朝は、ダビデが弱さゆえに罪を犯してしまったこと、または主に全き信頼して戦さに勝利すること、ではありません。もちろん、このことはとても大切です。しかし、今朝は、そのダビデの罪の責任の取り方を学びたいと思います。まくらの話がえらく長くなってしまいましたがお許しください。

主は先見者ガドを遣わしてダビデに言います。ガドはダビデがサウルに追われていた時代からダビデを助けて来た預言者で、先見の明があった、つまり未来を見抜く力が備えられていたので、そのように呼ばれているのでしょう。ガドはダビデに告げます。12節●「どれかを受け入れよ。三年間の飢饉か。三か月間、あなたが敵の前でせめたてられ、敵の剣があなたに追い迫ることか。三日間、主の剣、疫病がこの地に及び、主の使いがイスラエルの国中を荒らすことか。」ダビデは、13節「私が人の手に陥らないようにしてください。」つまり、「武人として、敵の剣によって滅ぼされるようにはしないでください」と願いました。ダビデは、結局、主の提案された3つの選択肢をえらぶことを拒否したかたちとなり、主はイスラエルに疫病を下され、イスラエルのうち7万人が倒れました。このことを目の当たりにしたダビデは、今朝の中心聖句のように、主に嘆願します。●「民を数えよと命じたのは私ではありませんか。罪があるのはこの私です。私が悪を行ったのです。この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。わが神、主よ。どうか、あなたの御手が、私と私の父の家に下さりますように。あなたの民を疫病に渡さないでください。」 『自分の罪の責任は自分が負う。』 当たり前のことのように思われますが、ダビデは王様であります。王様の失敗は、部下が責任を負うことはよくある話です。また、現代でも、社会においても、会社や組織においても、上司は、自分の失敗や失策に対して部下に責任を負わせることのなんと多いことでしょうか。ダビデは主の提案した選択肢を弱さのゆえに選ぶことができませんでしたが、自分の罪がゆえの疫病が、自分の民に降りかかっていることを見て、自分一人に罪を負わせてくださいと、主に願い出ているのであります。ダビデもよく間違いを犯します。しかし、その都度、その間違いの責任を人になすりつけるのではなく、罪を悔い改め、自分に責任があることを告白し、主に自分自身をささげる覚悟をします。そして、ダビデは主の言いつけに従い、エブス人オルナンの打ち場(脱穀の場所)に、主の祭壇を築くために上って行きます。主がダビデを大いに用いられた理由がここにあります。間違いを犯しても、人のせいにせず、自分が罪を犯したことを認め、その責任を負おうとし、主に従順に従うところです。

事実、この時の祭壇は、ダビデの最大の罪である、主への不信仰・反逆が赦された場所として、この場所にエルサレムの神殿を造ることをダビデは導かれ、息子ソロモンのために、その準備をし始めるのです。

私たちは、私たちが犯した罪の責任を負っているでしょうか。他人のせいにしていないでしょうか。また責任を負い方はどのようにしているでしょうか。私たちは気づくべきです。私たちの罪の責任は、私たちには負いきれません。私たちの罪は、いくら小さくても、私たちには負いきれないのです。お金で片付く問題もあるでしょう。謝ってすむ場合もあるでしょう。しかし、それは人に対しての責任の取り方かもしれませんが、同時に、私たちは神に対しても罪を犯しているのです。人に対してお金や謝罪で片付いたとしても、神に対しては、私たちはその責任を負いきれません。罪はどんな罪であれ、神に対しては、いのちが要求されます。私たちにはいのちは一つしかありません。一つの罪で、いのちを失うなら、私たちにはやり直しができないことになります。しかし、神はそんな私たちを憐れんで、まずは動物のいのちをいけにえとしてささげることを教え、また罪を明らかにする律法を守ることを命じました。そして、最後に御ひとり子であられるイエス・キリストを私たちのためにお送りくださいました。イエス様は、罪なき100パーセント聖いお方でありましたが、わざわざ人間としての肉体をもって、100パーセント人間としてこの地上でお生まれになり、十字架によってご自身のいのちを、私たちの罪をすべて帳消しにするために、私たちの代わりに、おささげ下さいました。そして、イエス様を信じる私たちに永遠のいのちをあたえるため、死を克服し、復活されました。私たちがイエス様とともに古い自分を捨て、新しく生まれ変われるように、やり直しができるように、準備をしてくださったのです。私たちはイエス様を信じ、心から愛し、しかし、罪を犯してしまったならば、イエス様のもとに行き、その罪を悔い改め、出直すことができるようにしてくださったのです。

ダビデの罪の責任の取り方、つまりは、祭壇を築き、献身の意味である「全焼のいけにえ」と、罪の赦しの感謝の意味である「和解のいけにえ」をささげる、ということは、現代の私たちにとっては、イエス様を信じ、イエス様の前で心から悔い改める、これが私たちの全焼のいけにえと和解のいけにえになるのであります。そして、その悔い改めと、主への信頼が、私たちを日ごとの勝利へと導いてくださいます。私たちの勝利は、相手や戦さや学業や仕事での勝利ではありません。もちろん、そのことも大事でしょう。しかし、私たちの日ごとの勝利は、サタンの誘惑や惑わしに対する勝利、自分中心の生活から神中心の生活に方向転換させていただいた勝利、そして主の道からそれなかったという勝利です。

皆さまはいかがでしょう。主にあって勝利していますか。自分の罪の責任をイエス様が肩代わりしていただいていることを本当に信じ感謝しているでしょうか。朝に夕に主を思い、主と語り、その日一日、主の道からそれなかったという勝利に、主の御名を賛美し、私たちのできうる全焼のいけにえと和解のいけにえを、主の御前にささげましょう。

これから黙想の時間をもちます。

聖い心

https://www.youtube.com/watch?v=jQUDGu4BUZY&list=RDMMZWktcXSPVCY&index=14

お祈りいたします。

●主のいのり

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。