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メッセージ主題:『離れよ』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2022.5.15主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、軽く愛餐の時をもちます。)

●午後5時開会:ただいまより、2022年5月15日主日礼拝式を始めます。

賛美①:今日まで守られ

https://www.youtube.com/watch?v=VDxYOog2O70

賛美②:喜び与え

https://www.youtube.com/watch?v=6i-ihWDTn-Q

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

賛美③:聖い心 (5月の歌)

https://www.youtube.com/watch?v=jQUDGu4BUZY&list=RDMMZWktcXSPVCY&index=14

賛美④:丘にたてる荒削りの

https://www.youtube.com/watch?v=IonvTmxZWF0

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。

讃美⑤:輝く日を仰ぐ時

https://www.youtube.com/watch?v=US_Bfery1_c

【YOUTUBE配信開始】

2022年5月15日 主日礼拝メッセージ

メッセージの前に2022年の年間聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

●聖書拝読:創世記12章(新改訳聖書)

中心聖句:

「その後、主はアブラムに仰せられた。『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(1-3)

メッセージ主題:『離れよ』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

●メッセージ

11章の終わりでは、●「テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子アブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはハランのまで来て、そこに住みついた」とあります。

地図で確認してみましょう。

https://wol.jw.org/ja/wol/ml/r7/lp-j/17

目的はカナンの地でありましたが、テラたちはハランにとどまり、テラはそこで205年の生涯を閉じます。創世記12章は、そこから始まります。神は、アブラムに、神の示す地へ行きなさいと命じ、アブラムは、神に従い、カナンの地を目ざして旅立ちます。そして、アブラムの一行は、カナンの地に入り、なおも進んでシェケムの町の外側まで行くと、主がアブラムに現れ、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられ、アブラムは主のために、そのシェケムのモレの樫の木のところに祭壇を築きました。後に、アブラムの孫にあたるヤコブもその場所を買い取って祭壇を築きました。また、ヤコブはそこに井戸をほり、「ヤコブの泉」と呼ばれるようになりました。約2000年後、イエス様はそのヤコブの井戸でサマリヤの女と出会うことになります。

そして、その地におきた飢饉のために、アブラムたちはエジプトに下り、そこに滞在します。そこで、アブラムは妻サライの美しさゆえに、自分は殺されてしまうのではないかと恐れ、エジプトの王パロの前で、妻を妹だと偽ってしまいました。そのことで主はパロと宮廷に人々に恐ろしい災害で痛めつけ、(新共同訳では、病気に冒され)、アブラムの嘘がばれて、パロはアブラムたちをエジプトから厄介払いします。ここまでが、12章のあらすじです。

今日、私が注目しましたのは、主が●「わたしが示す地へ行きなさい」と仰せられたことにたいして、アブラムは●「主がお告げになったとおりに出かけた」(4節)というところです。アブラムは主に従順に従いました。それは、主の祝福の約束を信じたからです。2,3節●「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」父親といっしょに生まれ故郷のウルを離れ、ハランで父親を亡くし、ひょっとしたら、アブラムはハランで、カナンの地に進むべきか、ハランにとどまるべきか悩んでいたかもしれません。しかし、そこに主が現われ、アブラムを励まし、約束の地カナンへと導きます。

私たちの人生の上において、このような分岐点がいくつもあるのではないでしょうか。そして、その分岐点のひとつひとつに、実は、主が現われていてくださっているのではないでしょうか。ウルもハランも偶像礼拝の中心地でありました。アブラムの父テラも偶像礼拝者であったようですが、アブラムは、真の神を知っていたようです。新約聖書の使徒の働き7章で、ステパノが次のようにアブラハムのことを述べています。2,3節●「私たちの父アブラハムが、ハランに住む以前メソポタミヤ(そこにはアブラムの故郷ウルがあります)にいたとき、栄光の神が彼に現れて、『あなたの土地とあなたの親族を離れ、わたしがあなたに示す地に行け』と言われました。」とありますように、ウルですでに、神はアブラムに現われ、「わたしがあなたに示す地に行け」と啓示されておられます。つまり、テラがウルから出て行くことを扇動したのではなく、アブラムが先導し、父テラがアブラムについて行ったと解釈するほうが正しいように思われます。神はウルでアブラムに現われ、またハランでも現われ、カナンへと導かれます。しかし、私は思うのですが、神はポッとアブラムの前に現われたのではなく、アブラムの祈りがあったのではないでしょうか。アブラムは「これからの人生どうしたらいいでしょうか」と神に導きを求めていたのではないでしょうか。神は祈りを聞かれるお方です。アブラムのその祈りに答えて「わたしがあなたに示す地に行け」という指示を出されたのではないでしょうか。または、その土地から「離れよ」と告げられたのではないでしょうか。

私たちが分岐点に立ち、どちらの道に進むべきか戸惑う時、私たちは神に祈り、答えを求めようとします。しかし、本当にそうでしょうか。私たちは、自分の思いが先にあり、それを神に承認していただこうとすることが多いのではないでしょうか。実は私もそうでした。いえ、今でもそうです。「私はこっちの道を進みたいと思います。もし、それが神様のご計画ではないのなら、その道を閉ざしてください。」私は、「待つ」ということの苦手な人間です。いらちです。その分岐点にとどまって、主の御声を聞くことを、何度も何度も痛い目にあって学ばせていただいていますが、いまだ「いらち」は直っていません。神様は、私に自分の計画や思いから、まず「離れなさい」そして、時間を作って、神様のおっしゃることに耳を傾けるように求めなさいとおっしゃっておられるのです。

また、私は、ある考えに固執することも大いにあります。それは、下手すれば、偏見にもつながるかもしれません。神様はその時、聖霊様を通して、「ワカタケ、その考え方から離れなさい。我が子イエスならどのような考えをもつか、思い巡らしなさい。」と迫って来られます。しかし、この声も、ああだこうだと自分なりの考えをまとめようとしていたり、忙しくしていたりして、静まりの時を持たない限り、私には聞こえてきません。まことに、詩篇46篇10節のみことばは正しいのです。●「やめよ(つまり、むだな企てをやめ、静まれ)、わたしこそ神であることを知れ。」この「神であることを知れ」とは、『主の声に耳を傾け、主の指示をあおぎ、主に従いなさい』という意味です。また、同じようなことを神はイザヤを通してもおっしゃいます。イザヤ書30章15節●「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」しかし、このようには、いつもはできないのが、私であります。神は15節の最後に悲しみを訴えておられます。●「しかし、あなたがたは、これを望まなかった。」まったく私のことであります。『主の御声に耳を傾ける時間をつくらない』ということは、『主に信頼をおかず、当然、主の指示にも従わない』ということです。私は、痛い思いを何度も繰り返しながらも、自分勝手で自己主張の強い憐れな者です。しかし、神は、この哀れな者をも愛してくださいます。イザヤ書30章の18節は、心にしみました。いえ、心にしみた以上に、私の平安でもあり希望となりました。●「主は、あなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。」

私は、この御言葉に希望をたくします。私たちは、いろいろなことで思い煩います。「思い煩い」は、ただ単に心配するということではありません。心配に取りつかれている状態です。そして、心配も、いわば、主に完全に信頼していない証拠です。ですから、イエス様はマタイの福音書6章34節で次のようにおっしゃいます。●「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」では、心配せずに何をしろとおっしゃるのでしょうか。33節●「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」「神の国」とは、この地上でのことでありますから、天の御国のことではなく、『神のご支配』、神があなたを支配してくださる、つまりは、神に拠り頼むという自らの意志で拠り頼むのではなく、それ以上のこと、神に拠り頼まざるを得ない哀れな存在としての自分を自覚することであります。つまり、イエス様のおっしゃる●「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものである」(マタイの福音書5章3節)という御言葉の「心の貧しい者」が、神に拠り頼まざるを得ない哀れな存在であることを自覚する者のことであります。また、「その義」とは『神との正しい関係』、私たちは神が造り給うた創造物であり、かつ、神に愛されている存在であることを自覚することでしょう。しかし、神と私たちの間には罪という深い溝があり、それを橋渡ししてくださったのが、救い主イエス・キリストであります。ゆえに、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」とは、イエス・キリストを信じる信仰を求めなさいということであります。

そのことを理解したパウロは、ピリピ人への手紙4章6-7節で次のように述べるのです。●「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」そして、このことは、先ほどのイザヤ書30章18節が根底にあるのです●「主は、あなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。」

私たちは、心配事から離れ、思い煩いから離れ、迷いから離れ、また固執することからも離れ、イエス・キリストを信じることで、かえって自由になれるのです。アブラムは、生まれ故郷のウルや寄留地ハランの偶像礼拝から、「離れよ」「解き放たれよ」そして、「主に従い出でよ」とおっしゃられる主に従ったのであります。主にある自由を手に入れたのであります。私たちも、そのようにさせていただきましょう。

さて、ここで、天国長屋の八さんと熊さんに登場していただきましょう。

八さん、熊さん、よろしくお願いいたします。

―――――

八: 熊、何してんねん。もう、若さんからお呼びがかかったで。

熊: さっきな、アロンアルフアで、タンスの取っ手が壊れたから、直してたんや。

けんど、アロンアルフアが指についてしもて、指と指がこうくっついてしもたんや。

八: なんぎやなやっちゃなぁ。

お湯につけといたら、指の皮といっしょにポロっととれよるでぇ。

熊: さよか。じゃあ、このまま、話しつづけよ。八っつあんから、どうぞ。

八: いつも、わてからやな。まあ、ええわ。けんど、今日の若さんの話しやったら、

わてらが「神様に拠り頼む」んやはなくて、わてら自身が、

神にすがらんとやっていけへん状態にある、それが「心の貧しい」状態やって

言いはったやろ。わてらって、そんな哀れな、なさけない状態にあるんかいな。

熊: いや、神様の目からみたら、そうなんちゃうか。わてらが気がついてないだけやって。

わてら、神様にすがらんと、やっていかれへんねんて。やっぱり。とくに八は。

八: なるほどなぁ。けんど、なんでわてだけやねん。

熊おんなじで、どうしようもない状態におかれてんのに、

それを分からんちゅうこっちゃな。

けんど、人生、順風満帆やって思てる、お人もおるで。

熊: この世では、そうかもしれん。けんど、そん人たちが、天国へいけるか、

永遠のいのちにあずかれるかちゅうのは、別の話や。

神様は、わてらに永遠のいのちを分け与えたいと思てくれてはる。

本当の意味で、神の子どもとして迎えたいと思てくれてはるはずや。

八: それは確かにそやわな。さっきのイザヤ書のところで、

「主は、あなたがたに恵もうと待っておられ、

あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。」とあったように、やっぱり、

わてらは神様が恵もう、哀れもうと思うほど、どうしょうもなく哀れな存在なんやな。

熊: 神様は、いっつも、「八、こっちにおいで、そこから離れなさい。

わたしのところに来なさい」ゆうてくれはってんねやって。

八: なんか、わてらが、この時期、小さい時に、歌うた歌といっしょなや。

熊: どんな歌や?

八: 「ほ、ほ、ほ~たるこい! あっちのみ~ずはに~がいぞ、こっちのみ~ずはあ~まいぞ。

ほ、ほ、ほ~たるこい!」

熊: あ~、季節的にもえぇうたやな。神様、こんなふうに歌うて、わてら、

呼んでくれてはるのかもしれへんな。「八、八、こっちゃ~こい、そっちのみ~ずは、

のどかわく、わたしのみ~ずはいずみわく、八、八、こっちゃ~こい」、ゆうて。

八: そん~なことたないやろ。イエス様、そんな歌うたえへんでぇ。熊。

熊: おい、おい、八、わてが、せっかく調子合せてんでんで、

「せやな」ぐらいゆったらどうなんや。

八: 「世と調子合せたらあかんでぇ」ゆうて、若さん、いっつもゆうてはる。

熊: それと、これとはべつやないかいな。えぇ。イエス様かって、

サマリヤの女にゆうてはった。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。

しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。

わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

なぁあ、わてらにもゆうてくれてはるってぇ。「八、八、こっちゃ~こい」

八: 「せやな」これでええか。たしかにイエス様はわてらを招いてくれてはる。

けんど、その歌はうたわんかもしれへんな。

それにやで、わてらの応答がちゃんとしてないとあかんとおもうねん。

イエス様は「八、八、こっちゃ~こい」ゆうてくれはるかもしれへんけど、

わてらが、「さよか、ほないきまっさ」ゆうて、幼子みたいに素直に喜んで

従うんやったらええけど、ちょっとでもうたごうたり、注文つけたらあかんと思うねん。

熊: つまりなにかい、「イエス様、ほんまにほんまでっか?」ってうたごうてみたり、

「わてがそっちへ行って、水くれへんかったら、どうしてくれまんねん」って

いちゃもんつけたり、「水のみまっさっさかいに、つれの分も永遠のいのち、

いただけまっか」って、無茶ゆうたり、ってことかいな。

八: はいな。わてら、子供みたいに素直に喜んで、ちゅうわけにはいかんかもしれん。

いちおう、おとなやしな。

熊: まあ、そやな。そんな、きちゃない、髭ぼうぼうの、こども、どこぞ捜してもおれへんわ。

八: ほっといてくれ。髪ぼうぼうで悪かったな。けんどな、サマリヤの女も大人やったでぇ。

んで、あの人はこういいはった。「先生、私が渇くことがなく、

もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」

あの人は、必死やったと思うで。なんせな、大声では言われへんけど、

あの人、日陰の身やったやろ。「もうこんな生活しとうない。いやや、いやや。

変えられるもんやったら、変えてほしい。」そう思てたんとちゃうかいなぁ。

死に物狂いで、イエス様にすがりはったんちゃうかいなぁ。

熊: そこや、そこやがな。わてら、死に物狂いで、イエス様しかない、イエス様だけや、

と思て、イエス様にすがらんとあかんねんて。どんちかやわ。

幼子のように素直に喜んでイエス様の水のむか。死に物狂いでイエス様の水いただくか。

中途はない。

八: それって、ほんま、信仰ためされるなぁ。

「イエス様がああゆうてはるんやから、とりあえずのんどこか」じゃ、あかんねやな。

熊: そやで、ほら、黙示録にでてくる、ラオデキヤの教会みたいに、

「なまぬるく、熱くもなく冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう」

(3:15)って、そう神様に言われたらおしまいや。中途半端はあかん。

子どもか、死に物狂いか。八は、(パン)どっちや!

八: 熊、えらい芝居がかってんなぁ。わてら、「イエス様いのち」やないかいな。

死に物狂いでイエス様についていこ、ゆうて決めたんやないか。

サマリヤのあの人も、必死やった、わてらもそうしよう。

いや、そうせざるをえんねんや。わてらみないな罪人でどうしようもないもんが、

イエス様によばれんねんでぇ。「八、こっちゃ~こい」ゆうて。

イエス様に拠り頼まざるをえん、イエス様にすがりつかざるをえんほど、

わてらは、そのイエス様の水が、どうしてもほしいんや。

あっちの水はもうええねん。あっちを離れて、イエス様にくっつきむしや!

熊: 八、くっつきむしは、あかん。離れることもある。

どうせやったら、アロンアルフアでいこ!

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。アロンアルファで、イエス様にぴったりとくっついていたら、どんなにか幸せでしょうね。神様は、アブラハムに、住んでいる土地と偶像礼拝から離れなさい、そして、神様の約束の地、カナンに行きなさいと命じ、アブラハムはそれに従順に従いました。なぜなら、約束の地カナンには、主の祝福そして安らぎがあるからです。また、ダビデ王は、神にこそ平安と安らぎがあることを語っております。詩篇4篇8節●「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」そして、イエス様も次のようにおっしゃいます。マタイの福音書11章28節●「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」イエス様以外に、私たちに平安を与えてくださる方はいらっしゃいません。イエス様は、私たちに、イエス様の平安を与えるために、イエス様のいのちと引き換えに、私たちの罪を帳消しにしてくださいました。それだけやありません。十字架上での死を克服し、三日目によみがえられて、すべての人に永遠のいのちのチャンスをお与えくださいました。イエス様は、あなたのそばにいらっしゃいます。そして、あなたにおっしゃいます。「あなたの今を離れ、わたしのもとに来なさい、わたしから平安といのちの水をうけなさい。」

では、黙想いたしましょう。黙想の時にお読みするのは、詩篇39篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。ヨハネの福音書7章37-38節。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

黙想いたします。詩篇39篇。

黙想時の曲

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

 

賛美⑥:山も海も越え

https://www.youtube.com/watch?v=viuWmQFxnac

讃美⑦:主がそばにいるから

https://www.youtube.com/watch?v=n6x4CN-Ezjk

●礼拝と献金の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献金は教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の5月22日 午後5時から小阪チャペルにて、主日礼拝。

聖書:創世記13章