メッセージ:「私の神よ、私を覚えていてください」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

2022年5月19日

担当:若竹孝行

メッセージ:「私の神よ、私を覚えていてください」(15分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:ネヘミヤ10章~13章

13章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:14節、22節b、31節b

「私の神よ、どうか、このことのゆえに私を覚えていてください。私が神の宮とその務めのためにした数々の誠実な行ないを、ぬぐい去らないでください。」

「私の神よ、このことにおいても、どうか私を覚えていてください。そして、あなたの豊かな恵みにしたがって私をあわれんでください。」

「私の神よ、どうか私を覚えて、いつくしんでください。」

★おはようございます。そして、お帰りなさい。

●メッセージ

預言者ネヘミヤは、この最後の13章で、3回も「私の神よ、私をおぼえていてください」と神に願っています。それも、これまでずっと、とても個人的に交わって来たようすを表す「私の神よ」と神に呼びかけています。預言者とは神のことばを代弁する人ですから、神に選ばれ、神ととても親密な関係を築いているのですが、それでもなお、改めて「私の神よ」と個人的な呼びかけをしています。それは、ネヘミヤ自身のことを神に覚えていてほしい、覚えて、祝福してほしいと願っている表れです。では、ネヘミヤは、それまで、主の恵みを感じていなかったのでしょうか。いえ、そうではありません。主の恵みに十分すぎるほど満たされていたはずです。しかし、ネヘミヤはなおも祝福をと願うのであります。それは、自分勝手な思いからではなく、神がネヘミヤを祝福されることで、ネヘミヤの上に神の栄光が現わされることを、これまでにも身をもって知ってきているからです。神の栄光が現われるとは、民が神の祝福を通して、神の存在を知り、神の偉大さを感じ、神に悔い改め、神を賛美し、神に祈り、期待し、神をあがめることです。被創造物の民が神が創造主の神であることを知ること、これが最大の神の栄光の現われであります。

では、ネヘミヤは何をしたから、何に対して、神の祝福を願ったのでしょうか。それは、14節にあるように預言者として、●「神の宮とその務めのためにした数々の誠実な行い」に対してです。エルサレムを神の方へと向き直させ、悔い改めさせることです。具体的には、妨害者トビヤの家財を、すべて投げ出して神殿きよめをしたこと、安息日の取り引きをやめて、聖なる日としたこと。そして神の民が世の人と結婚することを禁じたこと、でした。これらの誠実な行いに対して、ネヘミヤは、それらの行いを忘れないでください、あわれんでください、いつくしんでください、と願い出ます。ネヘミヤは正当な理由で、もっと祝福を、それゆえにもっと神の栄光を現わしてください、と求めました。

私たちは、どうでしょうか。私たちは、神様の祝福を願っているでしょうか。私たちの上に神様の栄光を現わしてくださいと求めているでしょうか。鳥のひなは、親鳥が巣に帰って来るや否や口を大きく開け、鳴いて餌を求めます。この時に口を開けず、鳴きもしないひなは死んでしまいます。私たちも同じで、私たちは神の祝福をもっともっと願わなければ、霊的に死んでしまうのです。もちろん、新約時代にある私たちは、すでに大きなイエス様の恵みを得ています。ネヘミヤのように、●「神の宮とその務めのためにした数々の誠実な行い」をしたから、恵みをいただいたのではありません。神様は私たちを愛し、私たちをご自身の形と似せて創造し、神様を知る者とし、また自由な意思をさずけました。しかし、そのことによって、私たちは自由であるがゆえに、神様からそむくことも覚えました。しかしながら、神様は●「人の心が思い図ることは、幼い時から悪である」(創世記8章21節)ことも知りつつも、私たちを愛し続け、ひとり子であられるイエス様をこの世にお送りくださり、イエス様の聖いいのちを犠牲にし、私たちの罪を帳消しにしてくださいました。その上、イエス様を死からよみがえらせ、死を克服し、元の永遠のいのちをお与えになられました。それは、イエス様を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためでした。人類すべての人が、永遠のいのちにあずかるチャンスを得たのです。神様の一方的な愛によって、イエス様を通して、私たちは何にも代えがたい恵みをいただきました。私たちが特別、神様のために何かをしたからではありません。

いえ、違います。ひとつだけ、私たちは最高に良いことをしました。神様にもっとも喜ばれることをしました。それは、「イエス様を信じる」という決断をしたことです。その決断を神様は大喜びされ、天において大宴会が行なわれています。イエス様の放蕩息子のたとえ話を思い出してみてください。父親の前から消え、好き放題なことをした息子が、回心して父親のもとに帰ってきます。父親は、その息子の姿をみるやいなや、走り寄って抱きしめ、立派な服を着せ、宴会を催します。私たちにとっての「放蕩息子が父のもとに帰って来る」ということは「イエス様を信じる」ということです。私たちが「イエス様を信じる」と決断をすると、神様は祝福として、聖霊様をお送りくださいます。そして、わたしたちの心に聖霊様がお住まい下さり、私たちは神様の宮、神殿とされます。そして、周りの人々が、その神の御業に、神の栄光が現わされていることに気付き、神の御名をほめたたえます。

しかし、これで終わりではありません。これは神の祝福の始まりです。しかし、私たちは、あまりにも控え目すぎるのではないでしょうか。ネヘミヤは、神の栄光がより現わされるようにと、神からのこれまで以上の祝福を求め、「私の神よ、私を覚えていてください」と願いました。

私たちも、イエス様の救いの恵み以上の祝福を願い求めても、求めすぎにはなりません。それが、神様の栄光を現わすものであれば、神様は喜んでお与えになります。たとえば、私は聖霊様を通して得られる、天の平安と喜びを、神様の祝福として常に求めています。神様は私が主にあって喜んでいるならば、その上に栄光を現わされます。神様は、寛大であり、太っ腹なかたです。私たちを恵もう、祝福しようとお待ちかねです。「恵みに恵みが増し加わる」とはこのことであります。もっと、主の祝福を切に切に願い求めませんか。

旧約聖書にはヤベツの祈りというのがあります。歴代誌第一4章10節です。●「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあってわざわいから遠ざけ、私が痛みを覚えることのないようにしてください。」ヤベツの祈りに関する実践的な本がいろいろ出版されていますが、この祈りは、私たちがこの世で裕福になる、また成功を収めるための祈りではありません。天に宝を積む祈りであります。ヤベツの祈りの真意は、「私を大いに祝福し、私を主のために大いに用いてください。御手が私とともにあって、福音宣教の妨げから遠ざけ、また私がまどわされ福音からもれることのないようにしてください。」であります。新約聖書で、このヤベツの祈りと同じ志をもつ御言葉が、パウロの、コリント人への手紙第一9章23節であります。●「私は福音のためにあらゆることをします。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。」これは、私の決意表明でもあり、祈りでもあります。

私たちも、ネヘミヤのように、「私の神よ、私を覚えていてください」と主に願いましょう。そして、次のように付け足してみましょう。たとえば、私ならこう言います。「私は、主にあって喜んでいますから、どうかいつくしんでください。」「私は、主にあって、平安に満たされていますから、どうかあわれんでください。」神を知り、神と交わり、神を喜び、神を賛美する者は、「すでに持っているものに、増し加えられて与えられます。」

皆さまは、何に対して、「私の神よ、私を覚えていてください」と主に願いますでしょうか。

これから黙想の時間をもちます。

喜び与え

https://www.youtube.com/watch?v=6i-ihWDTn-Q

お祈りいたします。

●主のいのり

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。