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メッセージ主題:『損を選ぶ道は平安』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2022.5.22主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、軽く愛餐の時をもちます。)

●午後5時開会:ただいまより、2022年5月22日主日礼拝式を始めます。

賛美①:主よみもとに近づかん

https://www.youtube.com/watch?v=Fq72dv3ZZ-0

賛美②:静まって知れ still

https://www.youtube.com/watch?v=2dLwYXHvwZU

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

賛美③:聖い心 (5月の歌)

https://www.youtube.com/watch?v=jQUDGu4BUZY&list=RDMMZWktcXSPVCY&index=14

賛美④:気づかなかった

https://www.youtube.com/watch?v=a9K2JVl-Ya0&list=RDMMa9K2JVl-Ya0&start_radio=1

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。

讃美⑤:愛の絆 

https://www.youtube.com/watch?v=5MDECId8lpI

【YOUTUBE配信開始】

2022年5月22日 主日礼拝メッセージ

メッセージの前に2022年の年間聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

●聖書拝読:創世記13章(新改訳聖書)

中心聖句:

「全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」(9)

メッセージ主題:『損を選ぶ道は平安』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。

●メッセージ

今日の聖書箇所の中心は、「損して得取れ」ということわざのいい例ではないでしょうか。もともと「損して得取れ」のことわざの意味は、『目先だけの得を考えるとかえって大きな損をすることがあり、逆に今の損を我慢すれば最終的に大きな得を得ることがある。』ということで、おもに商売のこつとして言われることばです。私は、商売人の子どもではありませんが、昔っからこの言葉が好きでした。英語塾という教育現場にいる者としても、短期的にテストの点を上げることもしますが、長期的に英語をなじませていった方がいいと考えている者のひとりですし、「私が低価格で損をして、相手の英語力が伸びれば、それは私の喜びとなり特になる」という考えで経営していますから、塾も低空飛行ですが、今までつぶれずにやってこれているのは、神様の憐れみ以外のなにものでもありません。今日の創世記の章は、経営や教育がメインテーマではありません。聖書全体が、「救いの書」「いのちの書」ではありますが、神様の私たちへの教育書でもあると言えるでしょう。さしずめ、今日の聖書の箇所は、ビジネス書でもあり、人との付き合い方の書でもあるとも言えるでしょう。

「損して得取れ」で思い出しましたが、私は次のことばもいつも心に刻んでいます。「短気は損気」 『辛抱できずに怒ったり、事を急いだりすることは自分にとって損である、短気を起こすと損をする、といった意味の言い回し』です。昔の牧師先生方の説教集を読んでいますと、「自分は瞬間湯沸かし器だったが、御言葉と聖霊様と教会によって変えられていった」というようなことが、よく出てきます。謙遜してそのようにおっしゃっておられるのかも知れませんが、若いころは短気ゆえにずいぶん損をされておられたのだな、とか、神様はすごい、牧師を率先してキリストに似る者へと変えていってくださる、私は信仰生活は長いですが、どのように変えられてきたのだろうと、そうつらつら、思ってしまうのであります。

さて、13章でありますが、アブラムについて行った甥のロトでありましたが、お互いに裕福になっていき、家畜や人も増えてしまって、両者の間でのいざこざが絶えなくなってきました。そこで、アブラムは、●「争いがないようにしてくれ、私たちは親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私からはなれてくれないか。」(8,9)と別れ話を持ちかけます。そこで、ロトは、ソドムとゴモラの町を含む、ヨルダンの低地全体を選び取り、移動していきました。ヨルダンの低地は、青々とし潤っていたからです。ここは、現在、正確な位置が特定できていませんが、死海の南の浅瀬のところだろうと推定されています。死海が、どんどん干上がってきていますから、いつかロトが住んでいた土地が現われるかもしれませんね。一方、アブラムは、ごつごつをした岩だらけのカナンの地に残りました。

この時点で、アブラムは疲れ切って、また少し途方に暮れていたかもしれません。ロトに美味しい所を持って行かれましたから。争いを好まないアブラムが、●「もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう」と提案したものですから、ロトは遠慮せずに、ヨルダンの低地に行ってしまいました。アブラムもそのことは予想はしていたでしょう。しかし、それが現実となった時、はたして、アブラムは、民の長として、民と家畜を養うだけのものがないカナンにとどまることがよい選択なのか、戸惑っていたのではないでしょうか。ここもアブラムにとっては人生の分岐点でありました。その時、主が現われてくださいます。しかし、私は、神がパッとアブラムの前に現われたのではなく、アブラムの祈りを聞き、神がそれに応答されたのではと思うのであります。アブラムは、静まって、神の声に耳を傾けていたに違いありません。私たちもそうではないでしょうか。私たちがどのようにしたらよいか分からなくなった時、神に救いを求めます。そして、その求めは聞かれ、神はなんらかの形でお答えになります。時には、人を用いて、また御使いを遣わし、そして、直接、お語りになります。神はアブラムに仰せられました。●「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全地を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。」カナンの地は高台にありますから、東西南北が見渡せ、またその見渡せる、相当広範囲な土地、すべてがアブラムとかれの子孫のものとなる、と神は約束なさいます。また、16節では、●「わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。」と神はおっしゃいます。カナンの地で子孫が増えることを約束なさいます。そして、神は、17節「立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」とアブラムを励まします。私が、なぜアブラムが気落ちしていたのかと推測する理由に、この神の「立って」という言葉にあります。これは、ただ単に、「立ち上がる」「体を起こす」という動作を表しているのではなく、「主を信頼し、元気・勇気を出す」という意味が込められています。アブラムは主の言葉にしたがい、ヘブロンに移り住み、主のための祭壇を築きます。後に、アブラムは、400シュケルというお金を出して、土地を買い、墓を建て、自分もその中に入ります。

さて、私たちは、このアブラムの物語で、何を主から学ぶべきでしょうか。年長者として当然、アブラムには選択権がありましたが、それを若いロトに譲りました。あえて、損な道を選びました。牧師はよく、分かれ道で迷った時は、あえて損する道を選びなさいとおっしゃいます。今日のアブラムもそうですが、イエス様もそうだからです。パウロは言います。コリント人への手紙第二8章9節●「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」私たちの主イエス・キリストは、わざわざ、ご自身を犠牲にするという損を選ばれました。私たちは打算的になってはいけません。損の道を選べば、必ず後から得の道が開けると。そのようなことは、全く分かりません。そんな打算的に選んだ損の道は、ずっと損のままかもしれません。しかし、人に得な道をゆずり、自分は損の道を選ぶとすれば、そのことを神様は見ておられないはずはありません。それは、つまりは天に宝を積むという行為ともなるでしょう。損な道を選んだ時点で、私たちはすでに、天に宝を積むという祝福を受けています。ただ、それがその時には私たちには見えないだけです。

私はできるだけ損する方を選びます。それは「損して得とれ」という意識があるからですが、私の考えている「得」は、この世の得ではありません。もちろん結果としてそのような世の得なるものが転がり込んでくる、いえ、神様の祝福としてあることもあるでしょうが、その「得」を期待しているのではなく、その方が気が楽だからです。もちろん、損でありますから、身体的にしんどかったり、金銭的に難しかったりしますが、分かって「損」を選ぶと、なぜか平安があるのです。実は、私にとって、これが得じゃないかと思っています。世の得を期待しなければ、世の損のままであっても、動揺はしません、分かって選んだのですから。しかし、私がもしアブラムの立場だったらどうでしょう。アブラムには養う必要の人々と家畜がありました。そのプレッシャーは相当なものだったと思います。そのプレッシャーにもかかわらず、アブラムは損の道を選びました。私一人ならともかく、族長という重圧に、「損の道を選ぶ」ことに躊躇するでしょう。いえ、ロトのように率先して「得」の道を選ぶかもしれません。その意味では、私はロトを責められません。ロトも群れの長として、責任をはたしただけなのかもしれません。

アブラムは岐路に立たされたとき、かならず主に祈ったことでしょう。そして、主は主の時に応じて、アブラムにお応えになったことでしょう。「損」の道をえらんだアブラムがプレッシャーに押しつぶされそうになったとき、主はアブラムに現われ、見渡す限りの土地を所有させ、子孫を増やすと約束され、アブラムを励まします。

主は私たちにも、アブラムと同じように臨んでくださいます。アブラムは損の道を選び、そこに主が臨まれ、励まし、祝福をあたえてくださいました。アブラムはその祝福の応答として、ヘブロンに、感謝と献身の思いを込め、主のための祭壇を築きました。私たちも損の道を選ぶとき、主が臨まれ、主の平安が私たちを包み、主が励ましてくださいます。いわば、それが主の祝福であります。私たちは、その主の祝福に対する応答として、主の御名をあがめ、祈り、賛美する、それこそが、主のための祭壇を築くことになるでしょう。「損を選ぶ道は、主の道、それは平安」

そしてヘブル書13章15節にあるように、「私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」

さて、今日も、八さん、熊さんに登場していただきましょう。

八さん、熊さん、よろしくお願いいたします。

―――――

八: 「損して得取れ」ってか。損の道を選んだからっちゅうて、得するわけやあれへんから、

初めっから損を選んだら、リスク高いわな。

初めっから得取ったら、後で損になっても、とんとんやん。

熊: まあ、そう考えられなくもないけどな。若さんのいう「損して得取れ」ちゅうのは、

「損して、主の平安に満たされる」ちゅうことやろ。

主の平安に満たされるんやったら、イエス様いのちのわてらにとったら、得得やわな。

八: はいな。けんどあれやな。一番損を選んだのは、イエス様やで。

なにせ、ご自身の聖いいのちを差し出して、

わてらの罪を帳消しにしてくださったんやさかい。

熊: そやなぁ。天の御国から、わざわざこの地上におくだりくださって、赤子から成長して、

やっと大人になったと思たら、十字架にかかって、それも罵倒され虐げられて。

まったく損な道を歩まれはった。

八: けんど、最終的には、死を克服してよみがえりはって、天に上げられ、

神様の右にお座りになられはった。

まあ、得やあらへんけど、もとに戻ったちゅうこっちゃな。

熊: けんど、イエス様はほんまに得してはれへんのかいな。

イエス様は、イエス様を信じるわてらに永遠のいのちを約束なさった。

そして、滅びる運命にあったわてらを、造り主である神様のもとに

お帰りになられる道を造りはったんや。神様のもとに帰る者が多なったちゅうことやろ。

これは得とちゃうか。神様の栄光が現われるんやから、やっぱり得やで。

八: そうか。まあ、天の御国は損得勘定やないけど、この世のものさしで考えたら、

やっぱり「損して得取って」はるんやなぁ、イエス様も。

熊: 悪い奴らははぎしりしとんで、きっと。ヨハネはんがゆうてはったやん。

●「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、

いつまでもながらえます。」って。

八: それって、ヨハネの手紙第一2章の17節やな。それに、この世の得のことは、

16節に書いてあんで。●「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、

暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、

この世から出たものだからです。」

熊: それは世の欲やろ、世の得とちゃうんちゃうの。

八: 欲も得もかわれへん。「欲得ずく」っていうやろうに。

なんでも、計算高なったらあかんねんやって。

熊: なんかわからんけど、説得力あるなぁ。

八: イエス様の愛はほんもんの愛や、自己犠牲の愛や。相手に得をさせて、自分は損をする。

それがほんもんの愛の形なんや。

熊: ということは、何かい、アブラムの愛は、イエス様の愛と同じやったんかいな。

パウロはんもコリント人への手紙13章でイエス様の愛について語ってはる。

4節から8節まで、若さんがいつも結婚式の聖書朗読に選んでいるところや。

●「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねがみません。愛は自慢せず、

高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、

人のした悪を思わず。不正を喜ばずに真理を喜びます。

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

愛は決して絶えることがありません。」

八: そうそう、そこやがな。損する道は、相手が得する道や、そして、相手が得して喜んで、

その相手の喜びが自分の喜びとなる、与える愛、それがイエス様の、神様の愛や。

若さんが、なんで「損する道は平安」っていいはったのは分かったわ。

「損する道はイエス様の道、そして愛の道や。」

イエス様はわてらに平安である聖霊様をくださった。

だから「損する道は平安」にもつながるんや。

熊: つまりは、なんやな、「損する道は愛の道」でもあるんやな、それもイエス様の愛の道や。

たしかに、アブラムはロトにええとこどりされて、ちょっとしょげてたかもしれん。

疲れもあったやろ、プレッシャーもあったやろ、けんど、アブラムは、

ロトが喜んで低地へ移動していったとき、霊的には喜んでたんとちゃうやろか。

ロトの喜びが自分の喜びとなる。そして、主の平安がアブラムを支配してくれてた。

八: 熊、それって目からうろこやわ。アブラムが、自分は損をしたけど、ロトが得したことを

喜んでた。アブラムのその決断のときには、イエス様がいらっしゃったんやな。

若さん、若さんが思てた、この時のアブラムのイメージとはちょっとちがうもんが、

わいてきたでぇ。アブラムは疲れてたやろうけど、ロトの喜びを自分の喜びとして

とらえることができてた、そして、そこにはイエス様の平安が

支配してくださってたんや。若さん、どうでっしゃろ。こんなんでましたけど。

熊: あ、八もうちょっとまって。ちょっとだけ言いたいことあんねん。

これをお聞きのみなさんで、まだ、「損する道を選ぶなんて、受け入れがたい」

とひそかに思っているお方、いはると思うんですわ。

わてかて、昔そうやったんでっさかい。横丁のご隠居はんが言うには、

「そんな時は、自分というものがまだまだ心の中心におるんやて、

自分が強すぎんねんな、我が強いっていうやろ。そういう時は、

我(が)という自分をなくすようにするとええ。ま、横においとくだけでもええわ。

『受け入れがたい』いうねんやったら、我をなくしてみぃ?『受け入れたい』や。

なっ、『イエス様を信じがたい』いうねんやったら、自分という我をなくしたら、

『イエス様を信じたい』になる。自分を横に置くことで、『損する道も選び難い』から

『損する道も選びたい』になる。これが、自分を横において、

イエス様を心の中心にお迎えしたときの、マジックや。」

みなさんも、このマジック、やってみはったらいかがでしょうか、

イエス様を心の中心にお迎えしてのマジック。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。この時のアブラムは悲壮感だけやなかったんですね。勉強になりました。主の平安に支配され、ロトの得した喜びが、自分の喜びとして受け入れることができた。これこそ本当の「損して得取れ」なのかもしれません。八さん、熊さん、ほんまにほんま、感謝いたします。それに熊さん、最後にええ話、聞かせていただきました。自分を横において、イエス様を心の中心にお迎えすることで、「~しがたい」と否定的な考えから、自分という我がなくなって、「~したい」って、積極的な考えとなる。私もそうでありたいと願います。

私たちもイエス様を心の中心にお迎えして、大いに損の道を選び、主の平安に支配され、相手の得をした喜びが、自分の喜びとなる、そのようなアブラムを通して現われたイエス様の自己犠牲の愛を実践させていただきましょう。

では、黙想いたします。黙想の時にお読みするのは、詩篇73篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。マタイの福音書5章44節。

「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」

黙想いたします。詩篇73篇。

黙想時の曲

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

 

賛美⑥:なんと素晴らしい

https://www.youtube.com/watch?v=8BUOZ20-IdU&list=RDGMEMhCgTQvcskbGUxqI4Sn2QYw&index=7

讃美⑦:神は実にそのひとり子を

https://www.youtube.com/watch?v=C5slWkdNsgM&list=RDGMEMhCgTQvcskbGUxqI4Sn2QYw&index=6

●礼拝と献金の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献金は教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の5月29日 午後5時から小阪チャペルにて、主日礼拝。

聖書:創世記14章