メッセージ:「知恵と力は神のもの」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

2022年5月26日

担当:若竹孝行

メッセージ:「知恵と力は神のもの」(15分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:ヨブ記10章~12章

12章を交読。(新改訳2017)

中心聖句:12-13節

「年寄りに知恵があり、年のたけた者に英知があるのか。知恵と力は神とともにあり、思慮と英知も神のものだ。」

★おはようございます。そして、お帰りなさい。

●メッセージ

ヨブは10章で、神に不平をぶちまけます。8節●「あなたの手が私をかたどり、私を造られました。それなのに、私を滅ぼし尽くそうとされます。」とか18節●「なぜ、あなたは私を母の胎から出されたのですか。私が息絶えていたなら、だれの目にも留まらなかったでしょう。」ほぼほぼ、ヨブは自暴自棄となっていました。

その自暴自棄になっていたヨブに対して、常識人であるヨブの友人ツォファルは、まったく常識的なアドバイスをヨブにします。11章5-6節●「しかし、神が語りかけ、あなたに対して唇を開いてくださっていたなら、神は知恵の奥義をあなたに告げ、知性を倍にしてくださったであろう。知れ。神があなたのために、あなたの咎を忘れてくださることを。」さらに、13-15節●「もし、あなたが心を定め、神に向かって手を伸べ広げるなら、もし、手に不法があればそれを遠ざけ、あなたの天幕に不正をすまわせないなら、そのとき、あなたは欠けのない者として顔を上げることができ、堅く立って恐れることはない。」

ヨブはそれに答えて、「そんなことは百も承知や、ツォファルはん、子供でも知っとるわ」と、こんなに口汚くは言いませんでしたが、人間が考える常識的な知恵は、神様の前ではなんの役にもたたないことをヨブは訴えています。それの代表的なことばが、今朝の中心聖句です。12-13節●「年寄りに知恵があり、年のたけた者に英知があるのか。知恵と力は神とともにあり、思慮と英知も神のものだ。」です。『人生経験で得た知恵は大したことあれへん。ほんまもんの知恵は、神様からいただくものや』そして14節●「見よ。神が打ち壊すと、二度と立て直せない。人を閉じ込めると、開けられない。見よ。神が引き止めると水は涸れ、水を送ると地はくつがえる。」『神様の力はとてつもなく大きいんや、その破壊力は想像を超えてんねん。ノアの洪水の時も、モーセが海を渡る時も、びっくりすることが起こった』と訴えています。思い出してください、神様がこの世をお造りになったときのことを。「光あれ」という言葉から、世界が創造されていましたし、また洪水によって、ノアの箱舟にはいっている動物やノアの家族以外は、みなほろぼされました。モーセが民を連れて、海を渡るときも、海が二つに分かれました。それにエリコの城壁は神様によって崩されました。神様の力は、私たちの創造や知恵をはるかに越えたところにあるのです。ヨブはそのことを百も承知で、しかし、なおかつ「主よなんでですか」と「なんで、私はそんなに苦しい道を歩まされるのですか」と、神様に申し立てます。

私は、ここまで読み進んで、自分自身を恥じることが大いにあります。なぜなら、長年、クリスチャンをやっていますと、また最近牧師としてたてられていますと、人々の悩みを聞く機会が多くあります。悩みに耳を傾けているとき、本当はそれだけでいいのでしょうが、時々「どうしたらいいのでしょう」と、苦しい胸の内から出た問に対して、アドバイスを求められる時があります。その時、私は、このツォファルのように、まったく常識的な答えを返してしまっているのではないか、と反省させられるのであります。もちろん、御言葉も用います。しかし、どうも人間の知恵からでた返答をしているような気がするのです。そして、いつも、聞いて差し上げるだけで、そして祈ってさしあげるだけでよかったかもしれないなと思わされるのであります。私は、今も、この12章のヨブのもがきに対して、返す言葉がありません。

しかし、ヨブは苦闘の末、悟ります。13章15-16節●「見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望み、なおも私の道を神の御前に主張しよう。神もまた、私の救いとなってくださる。神を敬わない者は、御前に出ることはできない。」どんなに、神様が試練を与えたとしても、希望を失ってはいけない、神様は必ず救いとなってくださると信じ切ることが大切と。それは後にパウロが聖霊様によって悟りが得られたところとおなじであります。ローマ人への手紙5章3-4節●「苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」というところです。ヨブは12章では、まだ、これらの悟りに到達していませんでした。いえ、聖霊様によって導かれていく途中だったのでしょう。ヨブは12章では、本当の知恵や力は神からでたものであるというところまで導かれていました。

さて、このヨブの「本当の知恵と力は神のもの」であると宣言するということは、私たちは、すべての知恵や力を、私たちが誇ることなく、神の御名をほめたたえ、神に栄光をお返しすることであることをしっかりと頭の中にたたきこんでおかなければなりません。私たちの知識は、あまりにも、限定的で、薄っぺらいものであることを認識すべきです。そして、その薄っぺらい知識も神様から出ていることを心に留めておくべきで、聖霊様によって、その知恵さえも主に感謝しつつ、御名をほめたたえ、栄光をお返ししなければなりません。いえ、主に感謝し、栄光をお返ししたい、させてくださいと願い出るぐらいでないといけないと私などは思うわけであります。絶対主権に対する服従といいますか、無抵抗での降参、人生の主導権の明け渡しとでもいいましょうか、そのことを悟り、朝ごとに、主を見つめなおし、主を仰ぎなおし、主の知恵と力を求めなおして、一日をはじめることの大切さを感じるのであります。

イエス様は、律法学者や祭司長がイエス様を陥れようと企んで、『税金を納めるべきかどうか』という問いに答えて次のようにおっしゃいました。ルカの福音書20章25節「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」と税金の金額相当の「デナリ銀貨」を指さしておっしゃいます。イエス様のおっしゃった「神のものは神に返す」ということは、どういうことでしょうか。神はすべてのものを創造したもうお方でありますから、何一つ神様によらずにできたものはありません。つまり、私たちは、神様の権威がすべてに勝ることを悟り、ゆえに、すべてに感謝し、すべての栄光を神様におかえしすべきなのです。そして、まさにヨブが13章で導かれたように、●「神が私を殺しても、私は神を待ち望む」と神の権力と愛はすべてに勝ることを告白します。

どうか、私たちも、「知恵と力は神様のもの」と告白し、神様に絶対的主権があることを認識し、すべての状況下で、主の御名をあがめることができますよう、また、聖霊様によって、時が良くても悪くても御言葉を、神様の愛を、救いと永遠のいのちと、それに伴う天の御国での喜びと平安を伝える者、証しする者にされるよう、導いていただきましょう。

これから黙想の時間をもちます。

イエスに栄光あれ

https://www.youtube.com/watch?v=v5sKPkQ68tY&list=RDMM-9xTmfkmDaw&index=9

お祈りいたします。

●主のいのり

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。