ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル
2022.5.29主日礼拝式
(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、軽く愛餐の時をもちます。)
●午後5時開会:ただいまより、2022年5月29日主日礼拝式を始めます。
賛美①:いともかしこし
https://www.youtube.com/watch?v=6wLhRC_Grdg
賛美②:喜び与え
https://www.youtube.com/watch?v=6i-ihWDTn-Q&list=RDMM&start_radio=1&rv=V-oE7EF-KA8
●使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、
永遠の生命を信ず。アーメン。
賛美③:聖い心 (5月の歌)
https://www.youtube.com/watch?v=jQUDGu4BUZY&list=RDMMZWktcXSPVCY&index=14
賛美④:大いなる方 (6月の歌)
https://www.youtube.com/watch?v=NO-udR8H8vw&list=RDNO-udR8H8vw&start_radio=1
●十戒
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。 それらに仕えてはならない。
あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。
安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
あなたの父と母を敬え。
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
あなたの隣人の家を欲しがってはならない。
讃美⑤:我が身の望みは
https://www.youtube.com/watch?v=raPOXLCjz8o
【YOUTUBE配信開始】
2022年5月29日 主日礼拝メッセージ
メッセージの前に2022年の年間聖句をいっしょに唱えましょう。
ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)
●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
●聖書拝読:創世記14章(新改訳聖書)
中心聖句:
「彼(メルキゼデク)はアブラムを祝福して言った。『祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より、あなたの手に、あなたの敵を渡された、いと高き神に、誉れあれ。』」(19-20)
メッセージ主題:『主よ、私を祝福してください』
改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。
できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。
●メッセージ
この18節に登場する、メルキゼデクは、イスラエル統治以前のシャレムの王で、名前の意味は「義の王」です。アブラムが東方の王たちとの戦いに勝利し、ロトとその財産と民とを連れ戻して帰ってきました。その時に、メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って出迎え、アブラムを「いと高き神」の名によって祝福しました。そして、アブラムは、すべての分捕り物の10分の1をメルキゼデクに献げます。教会の什一献金は、ここから由来しています。また、メルキゼデクは、系図もなく、出生記録もなく、ただ神によってたてられたと考えられており、ヘブル人への手紙7章では真の大祭司イエス・キリストの型であるとされています。7章すべてを費やして、メルキゼデクとイエス・キリストの関係性を説いています。7章15-16節●「もしメルキゼデクに等しい、別の祭司がたてられるのなら、以上のことは、いよいよ明らかになります。その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。」24-25節●「キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」イエス・キリストは、律法が全うできなかった、すぐれた希望を導き入れました。それは、キリストによって罪が完全に取り除かれ、キリストを通して、神に近づく道が開かれたことであります。そして、この希望は、ユダヤの人々だけでなく、全世界の人々に与えられました。全人類に、救われ永遠のいのちを授かることのできるチャンスが与えられたのであります。そのチャンスをものにするためには、イエス・キリストを信じるという道を選択することが鍵となります。
さて、今日の19節20節の中心聖句に戻りましょう。この中心聖句に出てくる「祝福を受けよ」と言われる「神の祝福」とは何でしょうか。上から下への一方的な恵みであります。この14節では、敵に対する勝利が祝福であります。具体的、または物質的な祝福もあれば、精神的な祝福、霊的な祝福もあります。裕福になることも、子孫が繁栄することも、神様からの恵みでありますし、精神的に落ち込んでいる時に、立ち直るための御手が差し伸べられるのも恵みであります。もちろん、最大の恵みは、イエス・キリストの罪の贖い、罪の帳消しと永遠のいのちを与えてくださったことです。しかし、神様はもっと太っ腹なお方であって、もっともっと私たちを恵もう、祝福してあげようと思っておられるのです。しかし、今の私たちはどうでしょう。主の恵みを毎日毎日感じて、感謝と賛美のいけにえを献げているでしょうか。問題は、神様の側にではなく、私たちの側にあります。
イエス様が癒された人々は、総じて、必死でした。イエス様の衣の裾にでも触れば癒されると堅く信じた人、屋根からつりおろして、癒しを求めた人、それぞれでした。しかし、癒された人のその後はどうなったのでしょうか。私は、その後も、それぞれにおいて、主の御名をあがめ続けたと信じたいのですが、実際はそうではないのかもしれません。ルカの福音書17章では次のエピソードが記されています。10人の皮膚病に冒された人が、イエス様によって癒され、イエス様は、それを祭司に見せに行かせました。10人はそれぞれ、祭司に皮膚病が癒されたことを見せ、一般市民の仲間入りをしました。当時は、祭司の許可なにしには、皮膚病の病人は、共同体に戻ることは許されませんでした。10人が癒されたにもかかわらず、イエス様のもとに感謝するために戻ってきたのはたった一人でした。しかも、ユダヤの民がさげすむサマリヤ人でした。これは、10人が癒されたけれども、イエス様の救いにあずかったのは1人であることを示しています。今回のメッセージでは、「癒し」と「救い」のことではありませんが、主の豊かなかつ継続的な祝福を求め続けることにおいて、イエス様のもとに帰って来るということが、いかに大切かを示唆している聖書の箇所だと思います。私たちは、現状の祝福に感謝しつつも、より一層、神様の祝福を願い、私たちの上に神様の栄光を現わしてくださいと求め続けることが許されていることを理解しなければいけません。
鳥のひなは、親鳥が巣に帰って来るや否や口を大きく開け、鳴いて餌を求めます。この時に口を開けず、鳴きもしないひなは死んでしまいます。私たちも同じで、私たちは神の祝福をもっともっと願わなければ、霊的に死んでしまうのです。もちろん、新約時代にある私たちは、すでに大きなイエス様の恵みを無償で得ています。神様は私たちを愛し、私たちをご自身の形と似せて創造し、神様を知る者とし、また自由な意思をさずけました。しかし、そのことによって、私たちは自由であるがゆえに、神様からそむくことも覚えてしまいました。しかしながら、神様は●「人の心が思い図ることは、幼い時から悪である」(創世記8章21節)ことも知りつつも、私たちを愛し続け、ひとり子であられるイエス様をこの世にお送りくださり、イエス様の聖いいのちを犠牲にし、私たちの罪を帳消しにしてくださいました。その上、イエス様を死からよみがえらせ、死を克服し、元の永遠のいのちをお与えになられました。それは、イエス様を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためでした。人類すべての人が、永遠のいのちにあずかるチャンスを得たのです。神様の一方的な愛によって、イエス様を通して、私たちは何にも代えがたい恵みをいただきました。私たちが特別、神様のために何かをしたからではありません。
いえ、違います。ひとつだけ、私たちは最高に良いことをしました。神様にもっとも喜ばれることをしました。それは、「イエス様を信じる」という決断をしたことです。その決断を神様は大喜びされ、天において大宴会が行なわれています。イエス様の放蕩息子のたとえ話を思い出してみてください。父親の前から消え、好き放題なことをした息子が、回心して父親のもとに帰ってきます。父親は、その息子の姿をみるやいなや、走り寄って抱きしめ、立派な服を着せ、宴会を催します。私たちにとっての「放蕩息子が父のもとに帰って来る」ということは「イエス様を信じる」ということです。私たちが「イエス様を信じる」と決断をすると、神様は祝福として、聖霊様をお送りくださいます。そして、わたしたちの心に聖霊様がお住まい下さり、私たちは神様の宮、神殿とされます。そして、周りの人々が、その神の御業に、神の栄光が現わされていることに気付き、神の御名をほめたたえます。
しかし、これで終わりではありません。これは神の祝福の始まりです。しかし、私たちは、あまりにも控え目すぎるのではないでしょうか。この控え目さによって、私たちは、救われた喜びを色あせたものとしてしまい、主が生きてはたらいてくださっておられることを感じなくしてしまうのです。つまり、霊的に死に体状態なのです。口を開けず、声も出さない雛は死んでしまいます。私たちは、その雛であることを覚えておきましょう。
私たちが、イエス様の救いの恵み以上の祝福を願い求めても、求めすぎにはなりません。それが、神様の栄光を現わすものであれば、神様は喜んでお与えくださいます。たとえば、私は聖霊様を通して得られる、天の平安と喜びを、神様の祝福として常に求めています。神様は私が主にあって喜んでいるならば、その上に栄光を現わされます。神様は、寛大であり、太っ腹なかたです。私たちを恵もう、祝福しようとお待ちかねです。「恵みに恵みが増し加わる」とはこのことであります。もっと、主の祝福を切に切に願い求めませんか。
旧約聖書にはヤベツの祈りというのがあります。歴代誌第一4章10節です。●「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあってわざわいから遠ざけ、私が痛みを覚えることのないようにしてください。」ヤベツの祈りに関する実践的な本がいろいろ出版されています、とくにビジネス関係が多いのですが、この祈りは、私たちがこの世で裕福になる、また成功を収めるための祈りではありません。天に宝を積む祈りであります。ヤベツの祈りの真意は、「私を大いに祝福し、私を主のために大いに用いてください。御手が私とともにあって、福音宣教の妨げから遠ざけ、また私がまどわされ福音からもれることのないようにしてください。」であります。新約聖書で、このヤベツの祈りと同じ志をもつ御言葉が、パウロの、コリント人への手紙第一9章23節であります。●「私は福音のためにあらゆることをします。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。」これは、私の決意表明でもあり、祈りでもあり、課題でもあります。初めの福音は、罪が赦され永遠のいのちをえるための福音であり、次の「福音の恵みをともに受ける者」の福音は、天の平安と喜びが今、満ちあふれる状態のことを言います。福音の後半の部分、天の平安と喜びで、今満たされることが、とても大切ですし、その平安と喜びにあずかれないとは、なんともったいないことでしょう。
さて、ここで天国長屋の八さんと熊さんにご登場ねがいましょう。
八さん、熊さん、よろしくお願いいたします。
―――――
八: 鳥の雛が口開けて親鳥が餌を口の中に入れてくれるのをまってる、
それにピーピーとなきながら。この譬えはようわかるわ。
御言葉がわてらの心に入って来て栄養となる、そしてそれも祝福や。
その御言葉によってわてらは生かされるんやから。
熊: せやなぁ、雛も必死や。必死で餌を求めんと親鳥は与えてくれへん。
黙ってたら、餓死するだけや。わてらもそうなんやな。「求めよ、さらば与えられん」
いろんなもの、神様にもとめたらええねんけど、やっぱり御言葉がいちばんやな。
御言葉が心にとどまってこそ、わてらは活き活きと生きていることができるんやから。
八: 「求めよ、さらば与えられん」も「求め続けよ」ちゅうところやろな。
ほら、しつこく求め続けた女の人がいはったやないか。
子犬が、食卓から落ちるパンくずを食べるっていう、、、ほら。
熊: ああ、ひょっとして、カナン人の女の話かいな。
イエス様が、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには
遣わされていません」って言いはって、そのカナン人の女の娘に悪霊が取りついていて、
その娘を直すことを拒否したっていう、、、カナン人の女だけに、カナワンわ、ゆうて、、、
八: あほ、イエス様そんな冗談いいはるかいな。せやけど、そこのところや。
初めは、イエス様はその女の娘を、異邦人だからっていいはって癒やすのを断りはった。
「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」って
いいはってな。ところがや、その女は、食い下がりよったんや。
「小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」ゆうて。結局、
イエス様は、その女の信仰をほめはって、娘をお癒やしになられはった。(マタイ15章)
熊: わてらも、イエス様にしつこく求め続けなあかんちゅうこっちゃな。
八: せやでぇ。わてらは、ある意味、神様の祝福に満足しきってしもたらあかんのかも
しれんで。
熊: なんか、それって、イエス様に悪ぅないか。求めて、与えてもらうものに
満足するっていうので、ええんとちゃうんかいな。感謝するやろ。
八: もちろん、感謝せなあかん。けんど、「もうこれでええか」と思てしまうと、
祝福はそこで止まる。止まったら、なんであかんと思う?、熊。
熊: 祝福が止まるちゅうことは、神様に感謝する気持ちも薄れるかもしれんな。
八: そやがな。それに、祝福が止まるちゅうことは、神様の栄光をお返しでけへん
ちゅうことにもなりかねん。
熊: つまりは、なにかえ、神様をあがめる気持ちも薄らぐちゅうこちゃな。
八: そや。 旧約聖書のモーセの民には、
日々与えられたマナという不思議な食べもんがあったやろ。
熊: あのマナは40年間、与えられ続けたわけやから、
モーセの民もおおいに感謝したやろうな。
八: たしかに、初めはな。けんど、マナばっかり食べてたら飽きてくる。
そこで、モーセの民は、エジプトで食べてた「肉鍋」のことも思い出して、
「神様、肉がたべたい」ゆうて、求めはったんや。まあ、求めるというよりは、
ぶつぶつとつぶやいてしもたんやな。
熊: けんど、神様はそのつぶやきをお聞きになって、「あなたがたは夕暮れには肉を食べ、
朝にはパンで満ち足りるであろう。あなたがたはわたしがあなたがたの神、
主であることを知るようになる。」(出エジプト16:12) こう言いはって、夕方には
うずらを、朝方にはマナをお与えになられはった。『イスラエルの民は、マナだけでは
満足せんやろ、ぶつぶつつぶやくやろうな、マナーの悪いやっちゃでぇ。』
ゆうておしかりになられるどころか、「神様が主であることを知るようになるために」
ゆうて、うずらを用意された。神様が主であることを知る、
つまりは、それが神様の栄光をあらわすことなんや。
八: 熊、あのな、シレーっと、ダジャレはさむのん、やめて、話みえへんようになるから。
熊: かんにん。モーセだけに、もうせん。
八: こら!(げんこつ)
熊: (頭抱える)
八: あかんでぇ、熊。、、、けんど、あれやなぁ。モーセの民は、つぶやいてしもたんやけど、
求めたんや、求め続けたんやろな。せやから、神様は、うずらもお送りくださった。
民が、神をあがめ、神に感謝し、神に栄光をお返しし続けるために。
熊: 「しつこい」ちゅうのは、女子はんには嫌われそうやけど、神様に対しては、
神様それをお許しになるちゅうか、ある意味喜ばれはんのかもしれへんな。
ほら、ヤコブはんもそうやったやんか。
八: たしかに、ヤコブはんもしつこかったな。神様と夜明けまで、すもうと取って、神様が
「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ゆうってはるのに、ヤコブはん
「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
熊: 神様、それに応えて、「あなたの名は何というのか」といいはった。
八: 「ヤコブです」
熊: 「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い。
人と戦って、勝ったからだ。」
八: 熊、ご協力おおきに。
熊: どういたしまして。
八: 神様はそこでヤコブはんを祝福された。まあ、すもう取ってる時に神様がヤコブはんの
もののつがいを打ったんで、もものつがいがはずれたんやけどな。
熊: けんど、それもある意味祝福やで。人を押しのけて自分が得するように生きて来た
ヤコブはんやったけど、もものつがいが外れることによって、
自分中心の性格が変わりはった。
八: せやな、もものつがいをはずされはって、腰がひくうなりはったんかもしれへんな。
熊: ヤコブはんも、夜明けまですもうとって、しんどかったやろな。とちゅうで、
「すもう休もう」って言いはったらよかったかもな。
八: 熊、今日、どうしたん。ダジャレばっかり、しつこいで。
熊: いや、このしつこさで、神様からの祝福あるんちゃうかな思て。期待してんねん。
八: あほぅ、いくらしつこくてもな、神様いいはんでぇ、「ダジャレだけに、祝福だしゃれへん。」
―――――
八さん、熊さん、今日は、ダジャレがよくでてきますね。けれどありがとうございます。私たちは、あまりにもあっさりしていないでしょうか。しつこく、神様に、イエス様に、「私を祝福してください」と求め続けてみませんか。「私を祝福してください」という願いの中には、「私の期待通りに、私の思いをかなえてください」という意味合いは入りません。「神様の栄光のみが現われますように」と願って、また「私は神様のご計画に従います」と告白しつつ、「私を祝福してください」と求めるのであります。イエス様は最後の夜、ゲッセマネでの祈りの中で、「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカの福音書22:42)神様が御心通りになさることで、神様の栄光が現われるのです。そのことを理解した上で、「主よ、私を祝福してください」と求め続けましょう。では、みなさん、一緒に願いましょう、私の後に言ってみてください。
「主よ、」 「私を祝福してください。」
アーメン。
黙想をいたします。
黙想の時にお読みするのは、詩篇21篇です。
●黙想:
黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。ルカの福音書5章4節。
「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」
黙想いたします。詩篇21篇。
黙想時の曲
[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM
https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0
●祈り
●主の祈り
天にまします我らの父よ
ねがわくは、御名をあがめさせたまえ
御国を来たらせたえ
御心の天になるごとく
地になさせたまえ
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり
アーメン。
【YOUTUBE配信終了】
賛美⑥:主よ捧げます
https://www.youtube.com/watch?v=XtkXuUBFOI4
讃美⑦:祈ります求めます
https://www.youtube.com/watch?v=GRFbvWaGn5M
●礼拝と献金の感謝の祈り
(小阪チャペルでは、献金は教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)
●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」
https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM
●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21
●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏
https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0
●閉会
●連絡
次回の6月5日 午後5時から小阪チャペルにて、主日礼拝。
聖書:創世記15章