メッセージ:「きよい心」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

2022年6月16日

担当:若竹孝行

メッセージ:「きよい心」(15分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:詩篇51篇~55篇

51篇を交読。(新改訳2017)

中心聖句:10節

「神よ、私にきよい心を造り、揺るがない霊を、私のうちに新しくしてください。」

★おはようございます。そして、お帰りなさい。

●メッセージ

ダビデは、この詩篇を通して、ダビデの生涯における最大の罪を悔い、神に赦しを求めています。それは、この詩篇の表題そのものに現われています。「ダビデがバテ・シェバと通じた後、預言者ナタンが彼のもとに来た時に」とあります。その出来事は、2サムエル11章~12章に記されています。ダビデが、部下のウリヤの妻が沐浴しているところが見え、それがバテ・シェバですが、その人妻と通じてしまいました。人妻と通じるという大罪は死罪です。日本でも江戸時代には不義密通は死罪とされました。しかし、ダビデは、バテ・シェバが身ごもってしまったのを知り、王という立場を利用して、結局、夫ウリヤを戦場の最前線に送り、ウリヤを戦死させたのです。これは計画殺人であり、死罪でした。ダビデは英雄でありイスラエルの王でありましたが、神の前ではひとりの人間であり、預言者ナタンを通して、神はダビデに彼の犯した罪を悟らしめ、悔い改めさせました。しかし、不倫の子は、ダビデの罪によって、病気になり七日目に死にました。失意のどん底にいるバテ・シェバを慰め、彼女のところに入り、彼女と寝て、そして男の子を産み、その子はソロモンと名づけられました。、、、、なにかここまで聞いていますと、どうしてダビデは死罪という大罪を二度も犯しているのに、生かされているのだと、不可解に思うのであります。「どんな罪をも悔い改めれば赦される、信じれば救われる」という福音の最大の恵みを表しているとも言えるのですが、これもすべては、イエス・キリストを誕生させるためのものであることが分かってきます。罪を犯して、すぐに滅ぼされるものもあれば、ダビデのように、死罪にもかかわらず生かされるものもいて、一見、不条理にも思えるのですが、すべては、神のひとり子であるイエス・キリストが生まれるためであったことが、おぼろげにも分かってきますと、この聖書にしるされています、神の壮大な計画に、私などは鳥肌が立つのであります。

さて、この詩篇51篇は、死罪を犯したダビデの真の悔い改めの詩篇であることから、また、悔い改めなくして祝福はないと考える私にとっては、この詩篇51篇は、私の信仰書であり、その中心聖句10節は、旧約聖書のみならず新約聖書でも中心的ことばであると、私は考えています。

●「神よ、私にきよい心を造り、揺るがない霊を、私のうちに新しくしてください。」

ダビデは、「きよい心」をわたしの内に創造してくださいと願い求めています。ダビデは、自分が生まれながらに悪であることを認め、また、神が「人の心が思い図ることは、幼いときから悪である」(創世記8:21)と述べられたことが、彼のこころにつきささります。そして、「悪の心」から「きよい心」に入れ替えさせてくださいと願うのでした。これは、新約時代に生きる私たちにとっては、イエス・キリストと共に死に、共によみがえることを意味しています。古い罪まみれの自分は死に、新しいイエスキリストという価値をもった者として生まれ変わるのです。使徒パウロはローマ人への手紙で次のように告白しています。●「私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。」(6:8)また、テトスへの手紙では、●「しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現われたとき、神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。」(3:4-5)そして、コリント人への手紙第二では、●「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(5:17)

パウロは『キリストによる、心の新しい創造』をいたるところで強調しています。そして、新しい創造が行なわれるためには、古い自分は死ななければならないのです。今までの自分の価値観を、キリスト・イエスによって、全く新しいものへと造りかえられなければならないのです。イエス様もご自身も次のようにおっしゃっておられます。マタイの福音書9章17節●「人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋にいれます。そうすれば両方とも保てます。」新しい契約は、新しい価値観に収まる。イエス・キリストを信じるなら、聖霊がその人の心に下り、住み続けてくださいます。その聖霊が私たちを、キリストの教えを思い起こさせ、キリストに似る者へと変えてくださいます。もしも、その人の心に新しい創造が、新しい価値観が生まれていないのなら、その人はイエス・キリストを本当に受け入れてはいません。私たちの主イエス様は、私たちに新しいいのちのぶどう酒を私たちの心に注いでくださいます。そして、同時に、イエス様がお送りくださる聖霊によって、私たちの器としての心も造り替えてくださるのです。

新約時代の私たちにとっては、「きよい心の創造」は、イエス・キリストを主として信じ、本当に受け入れ、私たちの心の中心にイエス様にとどまり続けていただくことです。そして、その上で、「揺るがない霊」を求めるのでありますが、その「揺るがない霊」とは、誘惑にまけない心のことです。しかし、これも聖霊であり、また聖霊が導かれるいのちのことば、聖書に記された神のことばのことです。

私たちの心の内の「きよい心の創造」は、私たちの罪を赦し、私たちを雪よりも白く(7節)してくださいますが、私たちは、常に雪よりも白いわけではありません。私たちには、古い自分がまだ残っていて、罪を行なおうとする傾向があります。悔い改めを通して、イエス・キリストの聖い血潮によって、私たちの罪を洗い流していただく必要があります。また、罪を犯すことを食い止めてくださるのが、心の内に住みたもう聖霊ですが、私たちがイエス様に拠り頼もうとすればするほど、聖霊の力、罪を犯す誘惑から勝つ力が得られます。そして、万が一、誘惑に負け、罪を犯してしまったとしても、心からの悔い改めによって、罪は赦されます。16節17節に●「まことに、私が供えても、あなたはいけにえを喜ばれず、全焼のささげ物を望まれません。神へのいけにえは、砕かれた霊。打たれ、砕かれた心。神よ、あなたはそれを蔑まれません。」全焼のいけにえとは、神様への全くの服従を意味します。そして、その神に喜ばれるいけにえとは、砕かれた心、つまり、罪をおかしてしまったことを悲しむ心、罪を犯さないようにしたいと思う心です。形ばかりの良い行いで、罪が相殺されることはありません。良い行いを神様が祝福されるのは、まず砕かれた心をささげなければ、その良い行いを神様が顧みることはありません。ダビデはそのことを、自身の決意表明としても、この詩篇51篇で記しているのです。パウロの言葉を借りれば、「洗いと再生」、悔い改めと再創造を繰り返しながら、私たちは、イエス・キリストの似姿へと変えられていくのです。パウロはそのことをエペソ人への手紙で次のように述べています。●「また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。」(4:23-24)

どうか、古い人を脱ぎすて、新しい人を着させていただきましょう。そのために、天のお父様に、主イエス・キリストを通して「きよい心の創造」を願い求めましょう。私たちの本能には、罪を犯す傾向がありますが、神の息が吹き込まれ、神を認識でき、生きるものとされたのですから、それは人間にしか与えられていない恵みがあり、悔い改めることができるのでありますから、やり直しができるのですから、大いに主の御前にひれ伏し、悔い改め、「きよい心」を願い求めましょう。次の御言葉は、私たちに勇気と希望を与えてくださいます。

●「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」(エペソ2:10)

これから黙想の時間をもちます。

聖い心

https://www.youtube.com/watch?v=jQUDGu4BUZY&list=RDGMEMMib4QpREwENw3_jAc0YgNw&index=14

お祈りいたします。

●主のいのり

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。