ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル
2022.6.26主日礼拝式
(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、軽く愛餐の時をもちます。)
●午後5時開会:ただいまより、2022年6月26日主日礼拝式を始めます。
賛美①:ああ恵み
https://www.youtube.com/watch?v=5IQ6xt0ufnA
賛美②:いつも喜んでいよう
https://www.youtube.com/watch?v=5IQ6xt0ufnA
●使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、
永遠の生命を信ず。アーメン。
賛美③:大いなる方 (6月の歌)
https://www.youtube.com/watch?v=NO-udR8H8vw&list=RDNO-udR8H8vw&start_radio=1
賛美④:小さな祈り
https://www.youtube.com/watch?v=yTyLafZeWX4
●十戒
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。 それらに仕えてはならない。
あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。
安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
あなたの父と母を敬え。
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
あなたの隣人の家を欲しがってはならない。
讃美⑤:御腕に抱いて
https://www.youtube.com/watch?v=vV7m1nPNmZA
【YOUTUBE配信開始】
2022年6月26日 主日礼拝メッセージ
メッセージの前に2022年の年間聖句をいっしょに唱えましょう。
ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)
●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
●聖書拝読:創世記18章(新改訳聖書)
中心聖句:
「主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」(14)
メッセージ主題:『不可能を可能にする主』
改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。
できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。
●メッセージ
私は、この18章の初めの描写に興味津々であります。1節●「主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現れた。」2節●「彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向って立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。」とあります。いったい、主の御姿はどのような様子だったのでしょうか。お連れのお二人は誰なのでしょう。また、なぜアブラハムは、その方々が主の一行だと分かったのでしょうか。もうワクワクものです。
アブラハムは、主の足を洗い、食べ物をささげ、木陰で食事をとっていただきました。アブラハムは、急な来客に、できる限りのおもてなしをしました。まず、この時点で私はつまづきを覚えました。私は、主を迎えるにあたって、今、できるかぎりのおもてなしをしているだろうか。そして、私のできる限りのおもてなしってなんだろうか。「主の足を洗う」つまり、主にへりくだって、主を迎え入れることですが、本当にそうできているのか。先日、父の学校という5回5週間のオンラインセミナーに参加させていただきました。そこで、最後の5週目で愛する妻の足を洗うという儀式、洗足の儀式がありました。これは、さまざまな教会で行われています洗足式、イースターの前の週の木曜日に行なう儀式でもあります。イエス様が最後の晩餐の時に弟子たちの足を洗って、へりくだって人に仕えることの見本をみせられたことを記念してのものです。その記述はヨハネの福音書13章1節~17節にあります。その時、私には妻はいませんでしたが、フィアンセがいましたので、彼女にお願いして足を洗わせていただきました。現代では靴下や靴も履きますので、足は汚れていませんし、玄関で足を洗うことはありませんが、イエス様の時代は、サンダルですから、外にでると必ず土の汚れがつきます。それを丁寧に洗って、家の中に入っていただきます。この足洗は奴隷の仕事でした。また、日本でも同じようなことが、明治の初期まで続いていました。フィアンセの足を洗いながら、このようにして、妻にも神様にも仕えて行こうと思わされました。
そして、主に仕えますと言いつつ、本当に、主をいつも心の中心に迎え入れているのかと反省させられます。私たちの心は、回る独楽のようでもあると思うのです。まことの中心に物を置けば、その物も独楽の回転も安定していますが、少しでもずれた所に置くと、それははじき出されます。そして、独楽自体の回転も安定しません。主を心のど真ん中に置かないと、私たちは主をはじき出してしまうかもしれませんし、私たちの心も不安定になります。また、「アブラハムが主のご一行に食事をささげる」ということは私にとって、相手が最も喜ぶ物をささげることだと思うのです。主がお喜びになること、私にとっては、皆さんはもう耳タコかもしれませんが、「いつも喜び、つねに祈り、すべてのことに感謝する」ことだと思うのです。このことができなければ、私は、主にもっとも美味しい食事を提供できていないことになるのだと思うのです。
さて、主のご一行は、アブラハムの妻サラに約1年後には男の子ができているとアブラハムに告げます。しかし、それを聞いていたサラは心の中で笑います。なぜなら、サラに男の子ができる年には90歳。常識的に考えても子供のできる年ではありません。笑ってしまうのは当然かもしれません。しかし、主は真顔で、そしてご自身のことを『主』とお呼びになり、次のようにアブラハムに告げます。14節●「主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」『主に不可能なことはない』とは、とてもパンチの効いた言葉ではないでしょうか。無から有を造り出す神だからこそ、言い得ることばです。神はこの世界をお造りになる時に混沌から「光あれ」と告げて、光を放ち、秩序を造られました。神がこの世界を創造されたことを信じるなら、90歳のサラに子どもができることも信じられるはずです。と、頭では分かっているのですが、現実的ではないと思ってしまう不信仰な私がどこかに潜んでいることも事実です。しかし、アブラハムは、この「主に不可能なことがあろうか。」という言葉を聞いて、さらに、信仰を深めました。パウロがその事を説いています。ローマ人への手紙4章17節~22節。少し長いですがお読みいたします。●「このことは、彼(アブラハム)が信じた神、すなわち死者を生かし、ないものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。」
さすが信仰の父と呼ばれるアブラハムだけのことはあります。正直、私は、まだまだ人間の可能性の範囲内で考えてしまうことが多い者です。もちろん、兄弟姉妹の癒しや救いを祈り願うものではありますが、ときどき、人間的な考えで、主の力を見限ってしまうことがあるのです。その時には、不信仰をお赦しくださいとひれ伏すのですが、ほんとうにからし種ほどの信仰もないものだと打ちのめされるのです。イエス様はおっしゃいます。マタイの福音書17章20節●「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』といえば移るのです。どんなことでもあなたがたにできないことはありません。」、、、私たちは知っています。私たちの力では到底、山が動かないことは。これができるのは、神のみです。では、どうして私たちが「ここからあそこに移れ」と言えるのでしょうか。それは、神が私たちを通して「ここからあそこに移れ」とおっしゃるからです。つまり、神に私たちを用いてくださいと、神のしもべとして仕えてこそ、からし種ほどの信仰が与えられるのかもしれません。神のご計画にそうものでないかぎり、しもべの私たちは、何もできないのです。私は、そのことを、このイエス様のお言葉から思い知らされました。そして、イエス様に、「私を無色透明にしてください」「私を本当に神さまに仕える者にしてください」と祈り始めるのです。私は「ソロモンのように思慮分別の知恵をお与えください」、とは何かおこがましくて祈れません。もちろん、『求めなさい、そうすれば与えられます』という御言葉は真実で、あらゆる状況下で有効であると分かってはいます。しかし、なぜか知恵をください、と求めるようには導かれていません。私は、サムエルのように主の言葉に耳を傾けるように導かれている気がします。少年サムエルが主の宮で寝ていた時、主がサムエルを呼ばれるのを聞き、「お話しください。しもべは聞いております」と主に申し上げます。(1サムエル記3:10)旧約聖書中に出て来る預言者のように神のことばを語る者でありたいというのではありません。そうではなくて、イエス様に、天のお父様である神に、常にお伺いを立てるものでありたいと願っています。自分の判断ではなく、主の判断を仰ぐ、私の口から出ることばが、神が許可されたことばであるようにと願っています。それが常にできれば最高であり、主の栄光が現わされることとなるのでありますが、実際には、それを願っている私自身がそれを邪魔しています。ですから、「私を無色透明にしてください」と主に請い願うのであります。別の言葉で申しますと、「通りよき管」とひょうげんされるでしょう。
私たちには、それぞれ様々な願いがあります。天のお父様である神に、そして救い主であられる御子イエス様に祈り求めるわけであります。では、なぜ私たちは、神さまに、そしてイエス様に願い求めるのでしょうか。それは、実に、天のお父様やイエス様が「不可能を可能にしてくださる」力をお持ちだと信じているからではないでしょうか。また、信じたいと思っているからではないでしょうか。アブラハムはその神を信じて、お言葉どおり、100歳で長子イサクを授かりました。私たちに、それだけの強い信仰の力は、今は備わっていないかもしれません。しかし、私たちは、それでも神様にそしてイエス様にさまざまなことを願い求めています。それは、私たちの心の内にいらっしゃる聖霊様の働きによって、神様をそしてイエス様を身近に感じられるからでしょう。どうか今日という日をさかいに、私たちの神は「不可能を可能にしてくださる方」であると信じ、宣言してみようではありませんか。今は100パーセント、そう信じられなかったとしても、宣言することで信じられるようになると思うのです。私も今日から、その宣言をしつつ、いろいろな祈りをささげたいと思います。この礼拝の終わりに、その宣言をいたしましょう。
さて、今日も天国長屋の八さんと熊さんにご登場いただきます。
八さん、熊さん、よろしくお願いいたします。
―――――
八: おお、今日は宣言されるんや。先週忘れてはったからなぁ。
熊: ほんまやで。礼拝の最後に宣言されるんやと思て待ってたのに。
八: さしずめ、「主にこころ全開」ちゅうんちゃうかったんやろか。
熊: 「主にこころ全開」か、そうかもなぁ。前回は忘れてたんやけど、
今回はもう早々宣言するよって言いはったから、安心やわ。
八: 先週につづいて、熊、おまはん、シレーっと、ダジャレはさんでくるなぁ。
熊: まいど。
八: まいど、やあらへんで。けんど、若さんがゆうてはった、
「神様にまいど、お伺いをたてる」ちゅうの、むずかしいなぁ。
熊: なんでやねんな。
八: そやかて、何かにつけてお伺い立ててたら、きりあらへんで。
熊: そりゃまた、どうして?
八: だって、そやないかいな。「神様、これ食べてもよろしおまっか」と尋ねてから、
「はい、ではいただきます」とか、「アバ、父。今のお返事『はい』でよろしおまっか」
と聞いてから、「はい」って言うてたら、会話なり立てへん。
熊: そんな細かいところまで、お伺いたてんでもええんとちゃうの。
八: さよか。ほな、どういう時にお伺いたてんのやろ。
熊: そりゃ、なんか重要なことを決める時とか、これどう言うたらええやろ、
って悩む時とかかいなぁ。
八: それって、お伺いたてるんも、結局は自分の判断なんとちゃうの。
熊: そういうことになるんかなぁ。けんど、若さん、「心の内にお住まい下さる聖霊さまの
働きによって」とも、ゆうてはったやろ? そやから、そのお伺い立てるんも、 聖霊様が働いてくださるのとちゃうんかなぁ。
八: なるほどなぁ。せやったら、いっつも聖霊様の動きちゅうか、内なる声ちゅうのかに、
耳を傾けとかなあかんねんな。
熊: せやから、若さん、「主の声に耳を傾ける」ことを大事にしはんねんな。
八: ほら、パウロはんもゆうてはるやないか。
「イエス・キリストをいつも思っていなさい」って。
熊: たしか、2テモテへの手紙2章8節やな。●「ダビデの子孫として生まれ、
死者の中からよみがえったイエス・キリストをいつも思っていなさい。」
八: それやがな。いつも思っているちゅうことは、
いつも主の声に耳を傾けてるちゅうことにもなるやないかいな。
熊: いつもイエス様のことを想うちゅうことは、いつも会話してはるちゅうこっちゃな。
八: けんどあれやな。神様を身近に感じることができるちゅうのは、ええなぁ。
イエス様の恵みやで。
熊: 不可能を可能にしてくださる神様、神様はひとり子のイエス様を死を克服させて、
生き返らせはった。こんなこと、神様にしかでけん。
その神様を、アバ父と呼べる関係にしてくださったのがイエス様や。
八: せやなぁ。わてら、イエス様を通して、神様と親子関係なんやから。
神様がもってはる永遠のいのちも、子として与えてもらえるんやから、
嬉しい話やないかいな。
熊: これこそ、世界を創造された神様とその創造物であるわてらが、イエス様によって
養子縁組できる、滅びる運命であったわてらに永遠のいのちを与えてくださる。
不可能を可能にしてくださる神様ならではや。
八: そうか。究極の不可能を可能にしてくださった御業は、
わてらが永遠のいのちにあずかれるちゅうイエス様の恵みなんや。
熊: まっこと、神様に不可能はないなぁ。そや、詩篇にもあるやんか、「主は完全」って。
完全ちゅうのは、不可能はないちゅうことなんやろな。
八: その詩篇って、19篇にあるやつか。●「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、
主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めはただしくて、
人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。」(7節8節)
熊: それ、それ。その「主のみおしえは完全」ちゅうやつ。
完全やからこそ、不可能という隙間もあたえへん。わてらの神様はすごいお方や。
八: さあ、今日の宣言、どんなやろな。若さん、宣言わすれんとってや。お願いやで。
―――――
八さん、熊さん、ありがとうございます。先週はほんまにすみませんでした、宣言わすれるやなんて。今週はちゃんとしますよ。イエス様の誕生と死と復活こそが、神様の不可能を可能にする力の現われです。そして、私たちは、イエス様を通して、その神様と養子縁組され、永遠のいのちを相続できるようにされました。このイエス様の恵みこそが、神様の力の現われです。私たちの主に不可能はありません。どうか、その不可能を可能にする力と権威をおもちの神様の声に耳を傾け、神様と会話し、神様のことをいつも思っていましょう。
では、先週、忘れました宣言をしたいと、復活させたいと思います。今日は、「主に不可能はない!」です。この言葉によって、主の御名をほめたたえましょう。
「主に不可能はない!」「主に不可能はない!」「主に不可能はない!」
黙想をいたします。神様に心のすべてをお見せください。
黙想の時にお読みするのは、詩篇103篇です。
●黙想:
黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。マタイの福音書20章26節。
「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」
黙想いたします。詩篇103篇。
黙想時の曲
[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM
https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0
●祈り
●主の祈り
天にまします我らの父よ
ねがわくは、御名をあがめさせたまえ
御国を来たらせたえ
御心の天になるごとく
地になさせたまえ
我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり
アーメン。
【YOUTUBE配信終了】
賛美⑥:いかに恐るべき
https://www.youtube.com/watch?v=8WuwSr6xwQ8
讃美⑦:いのちの光
https://www.youtube.com/watch?v=Uc3CJhPS1Y4
●礼拝と献金の感謝の祈り
(小阪チャペルでは、献金は教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)
●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」
https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM
●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21
●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏
https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0
●閉会
●連絡
次回の7月3日 午後5時から小阪チャペルにて、主日礼拝。
聖書:創世記19章