メッセージ:「岩が泉に」

大阪エリム・キリスト教会

木曜日早天祈祷会(午前6時半~7時半)

2022年6月30日

担当:若竹孝行

メッセージ:「岩が泉に」(15分間メッセージ)

今朝の聖書通読箇所:詩篇114篇~118篇

114篇を交読。(新改訳2017)

中心聖句:8節

「神は、岩を水の潤う沢に変えられた。堅い岩を水のあふれる泉に。」

★おはようございます。そして、お帰りなさい。

●メッセージ

この114篇の主題は出エジプトです。主の御力による不思議によってエジプトを脱出し、その旅路を、紅海やヨルダン川やシナイ山の擬人化によって回顧し、神の権威がモーセの民とともにあり、主の栄光が現われを描写しています。そして、最後の節8節は、出エジプト記17章6節の記述を、具体的な神の御力の現われとして示しています。●「『さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。』モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりに行なった。」同じ出来事を民数記では、メリバの水として、次のように描かれています(20:7-13)。8節●「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませよ。」そして、モーセは杖で岩を2度打ちました。すると豊かな水が湧き出たので、会衆もその家畜ものんだ、とあります。しかし、モーセは岩を杖で1度打つだけでよかったのを、モーセたちは主を信頼せず2度岩を打ったことで、モーセの民は、約束の地に足を踏み入れることができませんでした。

しかし、この114篇では、主の憐れみの現われしか語っておらず、間接的に主の御名を賛美しています。そして、出エジプトの物語自体は、バビロン捕囚とイエス・キリストの出現の予表でもあります。バビロン捕囚からの帰還によって、頑なになっていた民の心に主の潤いが訪れる、また律法によってがんじがらめにされていた民が、イエス・キリストの十字架での死による、民の罪の贖いによって、真の自由を得た解放感と永遠のいのちの希望。イエス様は、サマリヤの女に次のようにおしゃいました。「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:14) 私たちの世間慣れしてしまった心、神を感じにくい心、頑なでかつ傲慢で、そして自己中心的になってしまった心に、主イエス様を信じることによって、主がお送りくださる助け主である聖霊様の働きとともに、潤いと平安が与えられます。心の飢えも渇きも満たされます。イエス様はおっしゃいます。●「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6:35)

モーセは岩を不信仰ゆえに2度叩いて、喉の渇きは潤いましたが、約束の地には入れませんでした。私たちはそのようなことがあってはなりません。いえ、そのようなことにはなりません。そのためのイエス様の来臨であります。イエス様を信じれば聖霊様が私たちの心に宿り、決して離れることはありません。イエス様はおっしゃいます。ヨハネの福音書14章16節●「わたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」聖霊様が私たちの心から離れることは決してありません。これそこが、イエス様の恵みの中の恵みだと私を思うのであります。

さて、今日で大阪エリムキリスト教会の早天祈祷を卒業し、自らの東大阪の小阪チャペルに重点をおくことになりました。長い間、私を鍛えて下さり、感謝いたします。今日は最後ですから、特別に、八さん、熊さんにも登場していただきましょう。八さん、熊さん、よろしくお願いいたします。

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八: いやぁ、モーセはんの岩を2度打ちはったんは、不信仰ゆえの弱さやったねんな。

熊: けんど、それだけ、民もモーセものどからっからやったにちがいない。

八: 岩を打った1回目でちょっと様子見したらよかったんやろうけど、

そんな余裕がなかったのかも。

熊: けんど、きびしいなぁ。40年間、エジプトを脱出して、民を導いてきたのに、

たった一度の過ちで、約束の地カナンに入られへんかったんやから。

八: そやなぁ、けんど、新約の時代にいるわてらは、イエス様の恵みによって、

罪赦されるものとなって救われてる。

また罪を犯したとしても、悔い改めによって、罪は何度でも洗われる。感謝やなぁ。

熊: それに、イエス様を通して神様がお送りくださる聖霊様が、

わてらの心になにがなんでもお宿りくださる。

これほど、ありがたいことはあれへんでぇ。

八: たしかにな。けんど、それに甘んじて、罪をいくら犯してもええちゅうことやない。

熊: そんなことわかってるわ。なにせ、聖霊様がわてらの心に住みついてくださって、

わてらを罪を犯しにくい性質へと変えられる、こんなありがたい話はあれへん。

イエス様の救いはいたれりつくせりや。

八: ほんまやなぁ。わてらの硬い岩のようになってた心をイエス様が打ってくださって、

その心に水の潤う沢に、水のあふれる泉に変えてくださった。

この水を、周りのみなさんにおすそ分けして、飲んでもらわなあかん。

熊: せやなぁ。最上の石清水や。きれいなおいしい水飲んだら、生き返ったようになる。

いや、絶対に生き返るんや。それに、モーセはんが打ちはった岩からでた水は、

ちょろちょろ水やあれへんでぇ。会衆や家畜が飲んだんやから、

ドバっと出たに違いあれへん。神様は気前がええわ。ちょろちょろやなくて

ドバっや!不可能を可能にされる神様や!岩が泉になるねん!

八: そんで、わてらの飲む水は、イエス様の御言葉やな。御言葉には力がある、

権威がある。わてらを変えてくださるに十分な権威がな。

熊: み言葉を聞いたり、読んだりして、わてらの血と肉とせなあかん。

八: そや、血と肉となるから、わてらの細胞から、どんどん変えられるんや。

熊: その、どんどん変えられるためにも、聖書を読んだり聞いたりするだけやったら

あかんのんとちゃうやろか。

八: それや、それ。聖書の御言葉を実践せなあかん。

熊: 例えば、どうすんねんな。

八: ほら、若さんいつも言うとるやないか。

「いつも喜び、常に祈り、すべてのことに感謝する」ゆうて。

熊: ああ、1テサロニケ5章16節~18節やな。

せやけどな、わて、あの後の19節がきになんねん。

八: なにがや。「御霊を消してはなりません。」というところかいな。

熊: そうやがな。さっき、イエス様ゆうてはったやん。「助け主がいつまでも、

あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」って。

そやのに、助け主である御霊は消えんのかいな?

八: あれはな、ちゃうねん。助け主である聖霊様は、わてらの心にずっと

お住まいくださってる。けんどな、その聖霊様が遠くに行ってしまわれた

かのように感じることがある、神様を場合によっては感じひんようになる

ときもある。それは危険信号や。やから、「いつも喜び、常に祈り、

すべてのことに感謝しなさい」ってゆうてくれてはんねん。

熊: ようするに、神様といつもお話してたら、問題ないちゅうことやな。

八: ま、短くゆうたら、そうなるわな。

熊: いっつも神様とお話していたら、わてらの心は、水がドバっとでる泉みたいなもんに

なるちゅうこっちゃな。

八: そやで。そして、泉のように水がドバっとでるちゅうことは、わてらも、

その水をお裾分けせなあかんな。みんなに、イエス様のおいしい水、

生き返る水のんでもらわな。

熊: そのためにも、「いつも喜び、常に祈り、すべてのことに感謝する」のがええんや。

わてな、このテサロニケの御言葉、詩篇の1篇の2節3節に通じると思てんねん。

●「主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、

水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。

その人は、何をしても栄える。」「主のおしえを口ずさむ」、ちゅうのは、

神様に賛美をささげたり、お話したりすることや。

八: やっぱり詩篇の初めの言葉だけあるなぁ。ええわぁ。それに、「何をしても栄える」

やなんて、つまりは神様からの祝福を受ける、ちゅうことやし、

神様の栄光が現わされるちゅうことやから。わてらもそうでありたい、いや、

そうなんねん。心のうちにお住まいくださる聖霊様がそうしてくださるんやから。

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八さん、熊さん、ありがとうございます。神様は、私たちの岩のように頑なだった心を水の潤う沢に変えられ、水のあふれる泉に変えられます。主に不可能はありません。みなさんは必ず変えられます。そして、変えられれば、どうか、そのあふれ出る泉の水を、周りの方々にもお裾分けして、ともに神様を信じ、ともに神様を証しするものとされ、また、ともに喜び、ともに祈り、ともにすべてのことに感謝をささげる者とさせていただきましょう。

これから黙想の時間をもちます。

わが心の岩

https://www.youtube.com/watch?v=r4G9vI0OkEs&list=RDZWktcXSPVCY&index=6

お祈りいたします。

●主のいのり

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。