ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル
2022.8.21主日礼拝式
(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、軽く愛餐の時をもちます。)
●午後5時開会:ただいまより、2022年8月21日主日礼拝式を始めます。
礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。
さあ、私たちの賛美のいけにえを喜びをもって主にささげましょう。
賛美①:生ける限り主を
https://www.youtube.com/watch?v=r-M4O5Xr0Kc
賛美②:主と共に歩む、わが心の目を開いてください
https://www.youtube.com/watch?v=Dn4YQCjX4G0
●使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、
永遠の生命を信ず。アーメン。
賛美③:慕い求めます (8月の歌)
https://www.youtube.com/watch?v=ofFHpYHlwpI
賛美④:感謝せよ
https://www.youtube.com/watch?v=z8_LWwxrm4s
●十戒
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。 それらに仕えてはならない。
あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。
安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
あなたの父と母を敬え。
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
あなたの隣人の家を欲しがってはならない。
讃美⑤:主の足もとに
https://www.youtube.com/watch?v=HooSrKQM5PQ
【YOUTUBE配信開始】
2022年8月21日 主日礼拝メッセージ
神様からのメッセージの前に2022年の年間聖句をいっしょに唱えましょう。
ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)
●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
●聖書拝読:創世記26章(新改訳聖書)
中心聖句:
「ちょうどその日、イサクのしもべたちが帰って来て、彼らが掘り当てた井戸のことについて彼に告げて言った。『私どもは水を見つけました。』そこで彼は、その井戸をシブアと呼んだ。それゆえ、その町の名は、今日に至るまで、ベエル・シェバという。」(32-33)
メッセージ主題:『平和』
改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。
できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。
●メッセージ
先週の月曜日、8月15日は、終戦記念日、そして敗戦記念日でもありました。世界にはウクライナとロシアのように、戦争をしているところがあります。平和を願う一人の人間として心が痛みます。そして、創造主である神も平和を願っています。もちろん、人間と人間との間の平和も望んでいますが、神と創造物である人間との間の平和を一番望んでおられるのです。むかし、神がアダムとエバを創造したとき、エデンの園では、神とアダムとエバは、親友のような、いわばツーカーの仲でした。しかし、蛇によってアダムとエバは誘惑され、エデンの園の中央にある「善悪を知る木」の実を食べてしまいました。神から、エデンの園にある木の実はどれでも食べていいといわれていたのですが、この木の実だけは食べてはいけない、食べたら死ぬとまで厳しく言われていた木の実でしたが、食べてしまい、神はご自分の義のゆえに、言ったことは実行するしかなく、アダムとエバはエデンの園を追放されました。そして、寿命がくると死を迎えることになりました。もともと、エデンの園では、死は存在しませんでしたが、アダムとエバが、神との約束を破ったがゆえに、死が入り、死ぬ運命となってしまったのです。そして、神を中心としない罪が、まるで遺伝子のようにアダムとエバとその子孫たち、つまり私たちに受け継がれていきました。神を中心としない罪、自己中心の罪は、神との断絶をうみ、エデンの園で神との親しい交わりである平和は損なわれてしまいました。私は、エデンの園では、神とアダムやエバは親しく会話し交わりをもっていたと思っています。それが、神様と人類の断絶のため、神の声が聞き取りにくくなってしまったのではないでしょうか。しかし、神は、そんな人間でも愛し、哀れに思い、エデンの園でのように、親しく交わることを望んでおられます。私たちよりも神ははるかにその親しき交わりを望んでおられます。そして、ひとり子であられるイエス様をこの世にお送りくださり、人類の罪を、イエス様のいのちで帳消しとするようにされたのです。ヨハネの福音書3章16節は、真実であります。●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」このように、神はエデンの園でアダムとエバとの親しい交わり、平和を再現すべく、私たちにイエス・キリストを通して和解を、神の方から提案されたのです。なんと尊いことでしょう。その和解のチャンスは、私たち人類すべてに与えられました。神は、その上で、イエス・キリストを信じるか信じないかは、私たちに選択権を与えられました。それゆえに、私たちは、イエス・キリストを信じる以外に、神との和解は成立いたしません。イエス・キリストは神と私たちの仲保者であって、イエス・キリストなしでは、神との和解・平和は成し得ません。私たちは、このことを常に深く覚え、主である平和の君イエス・キリストとの親しい交わりを、この世にあって、今楽しむことができる恵みに感謝し、大いに主をほめたたえようではありませんか。
さて、今日の創世記26章では、ペリシテ人の王アビメレクとイサクは、いろいろとすったもんだがあり、特に井戸を巡っては、お互いの死活問題ともなりますので、再三もめごとの元となりました。イサクは神の祝福をうけ、豊かになり、アビメレクを脅かす存在となりました。それゆえに、アビメレクはイサクのところに行き、和解を求めたのです。28節●「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。それで私たちは申し出をします。どうか、私たちの間で、すなわち、私たちとあなたとの間で誓いを立ててください。あなたと契約を結びたいのです。」イサクがアビメレクと互いに契約を結び、その契約の日に、イサクのしもべたちが帰って来て、井戸を掘りあてたことを報告しました。その井戸をシブア(誓いの井戸)と呼び、その和解の場所は、ベエル・シェバと呼びました。アビメレクから和平の申し出があり、それは、イサクにとっては、神がアビメレクを用いての恵みであり、そして、イサクはアビメレクたちを平和のうちにさらせたとあり、その恵みを受け取ったことで、平安が訪れました。そして、神は、そのイサクのとった行動に対して、神がそれを祝福した印として、掘っていた井戸から水がでてきました。
私は、ここに、神からの恵みの本質があるような気がするのです。主が私たちに与えようとする恵み、恵みは私たちの努力の結果ではなく、神からの無償のプレゼントです。そのプレゼントである恵みを素直に受け取ることによって、平安が訪れ、神からの祝福が得られる、そのことを、神はイサクを通して私たちにお示しになっておられるのではないでしょうか。
神は無償のプレゼント、イエス・キリストの恵みを、私たちに提示されました。これを素直に受け取ることによって、神との和解が成立し、その上、神からの祝福が得られるのです。イサクの場合は、井戸水という命にも匹敵する祝福を得ました。私たちには、永遠のいのちという祝福がまっています。
さて、もう一つの神の示唆が、このイサクのとった行動から考えられます。ペリシテ人はイサクたちの井戸を埋めるという嫌がらせをしてきます。しかし、イサクは戦さよりは平和を好みました。それが、再三続き、ペリシテ人たちは、イサクの忍耐にある種の敬意を抱き、またイサクの信じる神に対して畏敬の念が生じました。それゆえ、彼らは●「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。」と告白し、イサクに和平を提案します。もとより、平和を大切にするイサクは、彼らの提案をうけいれ、契約を交わします。では、私たちはどうでしょうか。人の自分に対する嫌がらせや攻撃に対して、私たちは忍耐して、その攻撃をかわすことができているでしょうか。そして、最終的には、彼らの嫌がらせや不当な行為を、水に流すように赦すことができるでしょうか。イサクはペリシテ人を赦したおかげで、掘っている井戸から水がわき出て、神はイサクに祝福を与えました。
「目には目を」という言葉があります。これも聖書からでてきた言葉です。出エジプト記21章24節です。●「目には目、歯には歯、手には手、足には足。」これは、故意であれ事故であれ、なんらかの損害は、同じ価値のもので支払わなければならない、また、報復があったとしても、それ以上でもそれ以下であってもいけないという裁判の判断基準です。それらは、また、償いの基本であり、たとえば視覚を失った人には、加害者は被害者の目となってつくすべきである、またはその同等のことを行なうべきであることを示唆しています。決して報復・仕返しを助長するものではありませんが、この判断基準によって報復をもよしとする考え方がはびこってしまいました。しかし、イエス様は次のようにおっしゃいます。マタイの福音書5章38、39節●「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」そして43、44節では●「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」これを聞いた当時の民衆は、「敵であるローマ軍に、報復せずに降伏するのか、そんな弱っちいメシア・救い主はいらない」と思ったことでしょう。イエス様は、善をもって悪に打ち勝つ、また裁きは主のものであって、神に裁きを任せることの大切さを説いたのです。人間的な仕返しは、神の喜びとはならず、神の祝福を受けることはできないことをお教えくださっておられるのです。
イサクは図らずも、このイエス様の平和の教えを実践していたのです。いえ、神がイサクをそのように導いたのであります。戦いや争いではなく平和によって、イサクは、共存共栄を願い、ペリシテ人のために祈ったことでしょう。そして主がそれを祝福されたのです。
私たちも、この世にあって、腹の立つことも、仕返しをしたいという思いをもってしまうこともあるでしょう。それらの気持ちをすべて主に預け、祈りなさい、つまり神にその思いをぶつけなさいと、イエス様はおっしゃっておられるのではないでしょうか。イエス様が、私たちと天の父なる神との間を取り持ち、和解をご自身の血潮によって実現してくださったことに比べれば、私たちの相手に対する悪感情は祈りによって、祈り込むことによって鎮められるものなのでしょう。「敵を愛しなさい、迫害する者のために祈りなさい」とは、おいそれとできることではありません。しかし、私たちの罪を帳消しにするために、イエス様は命を投げ出されました。これほど尊いことはありません。そのイエス様が、「敵を愛しなさい、迫害する者のために祈りなさい」とおっしゃるのです。従わざるをえません。そして、従う先には、平安があるのです。イサクに平和が訪れたように。「目には祈り、歯にも祈り」その先にある平安と神の祝福である永遠のいのちの喜びを待ち望みつつ。
さて、ここで、天国長屋の八さん、熊さんに登場していただきましょう。
八さん、熊さん、よろしくお願いいたします。
―――――
八: 「目には祈り、歯にも祈り」やて、祈りには力があるさかいな。
熊: 神様に祈りをして、復讐するという心を、鎮めてもらわなあかんねんなぁ。
八: ほんまや。わてらの力じゃできん。「裁くな」ということすらでけへんねんから。
熊: そやなぁ。「裁きは主のもの」とゆうてる矢先から、「裁いてしまう」んやから、
なんぎやなぁ、わてらの罪深さは。
八: それはそうと、イサクはんは、辛抱強いなぁ。せっかく掘った井戸を埋められても、
嫌がらせされても、忍の一字や。
熊: いや、イサクはんは、神様に祈ってたと思うで。まあ、イサクはんは、もともと
争いごとはこのまん性格やろうけどな。ほら、アブラハムはんが、イサクはんを
いけにえとして神様にささげようとしたときでも、お父はんと争わなかった。
自分の命がかかってんのにやで。
八: いや、あれはアブラハムはんやったから、命乞いはせえへんかったんかもしれへん。
美しいリベカはんを嫁さんにもろてからは、やっぱり最愛のリベカはんと
いっしょにいたいと思て、命がおしゅうなった。
熊: あ、そやなぁ。そやから、アブラハムはんのときと同じように、リベカはんを
自分の妹やゆうて、殺されんようにした。
八: 今から思えば、アブラハムはんにしてもイサクはんにしても、愛している嫁さんと
いっしょにいたいと思う一心で命がおしゅうなったのやろなぁ。
妻を愛する弱みちゅうやつやろうなぁ。
熊: ちょんがぁのわてらが、非難できることとちゃう。イサクはんは、嫌がらせにおうたとき、
自分一人なら我慢できたとしても、族長としての面子もある。下の者から、
「なんでやり返されへんのですか!」ゆうて突き上げもあったやろうし。
八: それやさかい、神様に祈って祈って、祈り込んで、その結果、神様が
「報復はしてはならぬ」と言いつけはったかもな。せやから、民の者にも
「我慢してくれ」とお願いしたのかも知れん。
熊: イサクはんは神様に従順なお方や。きっとそうにちがいない。イサクはんは、
お父はんのアブラハムはんと子どものヤコブはんにおされて、影が薄いけんど、
見直したわ。祈りの人やったんやなぁ。祈りがないと、あんなに辛抱でけへんでぇ。
それとリベカはんを自分の命を惜しむほどに愛していた、リベカはん一途や。
八: 熊の言うとおりや。アブラハムはんとヤコブはんに押されて、聖書の中でもちょっとしか
出てこえへんけど、わて、イサクはんのこと、好きになってしもた。
イサクはんも平和の君や。
熊: 平和の君か。平和の君ゆうたら、やっぱりイエス様やろ。神様とわてらの仲をとりもって、
再び、エデンの園と時のように、親しい交わりをもたしてくれはんねんから。
八: そやなぁ。イエス様としたしゅうするちゅうことは、神様と親しくするちゅうこっちゃ。
この世で、今、それができるんやから、感謝やでなぁ。
熊: ほんま、ほんま。平安と喜びに満たされる人生。ま、ときどきそうでない時も
あるけんどな。イエス様をいっつも信頼することで、毎日が充実してくるんやなぁ。
八: せやな、腹立つことがあっても、「目には祈り、歯にも祈り」や。
若さん、元にもどったところで、そちらにお返しいたします。
―――――
八さん、熊さん、ありがとうございます。私たちには、イエス様の平安である、聖霊様が私たちの心の中にお住まいくださって、私たちに働きかけてくださっています。神様を身近に感じられるのも聖霊様のおかげです。どうか、祈りをもって主の平安を受け取りましょう。「目には祈り、歯にも祈り」神様は、罪深い私たちに愛と憐れみをもって、仲直りをし平和をとりもどすために、御子イエス様をお送りくださいました。そして、イエス様は祈りをもって、私たちを神様にとりなしてくださいました。皆さまの心の中心に、イエス様を今一度受け入れてみてください。そして、そのことを毎日、毎日、くり返させていただきましょ。
では、いつも通り、宣言をしたいと思います。
今日の宣言は、「主はわが平安」です。三回宣言します。
「主はわが平安」、「主はわが平安」、「主はわが平安」アーメン!
黙想をいたします。
黙想の時にお読みするのは、詩篇29篇です。
●黙想:
黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。ヨハネの福音書16章33節。
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
黙想いたします。詩篇29篇。
黙想時の曲
[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM
https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0
●祈り
●主の祈り
天にまします我らの父よ
ねがわくは、御名をあがめさせたまえ
御国を来たらせたえ
御心の天になるごとく
地になさせたまえ
我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり
アーメン。
【YOUTUBE配信終了】
賛美⑥:主の愛に生かされて
https://www.youtube.com/watch?v=zI2GcNhvovg
讃美⑦:You Raise Me Up
https://www.youtube.com/watch?v=CdbMJZ-2NhI
●礼拝と献金の感謝の祈り
(小阪チャペルでは、献金は教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)
●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」
https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM
●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21
●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏
https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0
●閉会
●連絡
次回の8月28日 午後5時から小阪チャペルにて、主日礼拝。
聖書:創世記27章