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メッセージ主題:『信仰とは条件つきではない』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2022.9.4主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、軽く愛餐の時をもちます。)

●午後5時開会:ただいまより、2022年9月4日主日礼拝式を始めます。

礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。

さあ、私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。

賛美①:カルバリ山の十字架 Jworship

https://www.youtube.com/watch?v=TAzi7b4zuww

賛美②:イエスに栄光あれ

https://www.youtube.com/watch?v=v5sKPkQ68tY

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

賛美③:主の宮 (9月の歌)

https://www.youtube.com/watch?v=UlGwD10RZc8

賛美④:主イエスの十字架の血で

https://www.youtube.com/watch?v=0HDeZ6KnlNM

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。

讃美⑤:天の喜び

https://www.youtube.com/watch?v=SLrh5hXA_Wo

【YOUTUBE配信開始】

2022年9月4日 主日礼拝メッセージ

神様からのメッセージの前に2022年の年間聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

●聖書拝読:創世記28章(新改訳聖書)

中心聖句:

「それからヤコブは誓願を立てて言った。『神が私とともにおられ、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る着物を賜り、無事に父の家に帰らせてくださり、こうして主が私の神となられるなら、石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る物の十分の一を必ず捧げます。』」(20-22)

メッセージ主題:『信仰とは条件つきではない』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。

●メッセージ

この28章には、ヤコブがイサクのもとを離れ、リベカの兄ラバンおじさんのところへ向かう話と、エサウが父イサクの機嫌をとろうと、アブラハムのもう一人の息子イシュマエルの娘を妻とする話と、ヤコブがハランへ向かう途中のベテルで一夜を過ごした時の夢の話とが出てきます。

父イサクは、息子ヤコブをハランに送り出す時に、口をすっぱくして次のことを言い含めました。「カナンの娘たちの中から妻をめとってはならない。」これは、カナンの女性がひどいからではありません。信仰上の問題です。同じ信仰の人の中から妻としなさいということです。これは、アブラハムがイサクの嫁選びをした時も同じでした。アブラハムは、最年長のしもべに、次のように誓わせました。創世記24章3節●「私はあなたに、天の神、地の神である主にかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。あなたは私のうまれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」夫婦ともども同じ神をあがめ平安を得ることの大切さを伝えています。イサクはもう一人の息子エサウが四十歳になって、ヘテ人(つまりはカナン人)の娘を妻にめとったために、その妻たちは、イサクとリベカにとって悩みの種となったからです。その上、リベカはヤコブを兄エサウから遠ざけるためにも、ヤコブをリベカの兄ラバンのいるハランに送り出す必要がありました。27章46節では、リベカはイサクに訴えます。●「私はヘテ人の娘たちのことで、生きているのがいやになりました。もしヤコブが、この地の娘たちで、このようなヘテ人の娘たちのうちから妻をめとったなら、私は、何のために生きることになるのでしょう。」夫婦だけではありません、信仰を同じくする人々との交わりが、いかに大切かを、神は、ヤコブやイサクの結婚問題を通して述べておられるのです。私たちは、世との交わりをなしにして生きてゆけません。しかし、同じ信仰のクリスチャンとの交わりは、より大切なものなのです。

しかし、エサウは、このことを勘違いしてしまいました。エサウは、以前に長子の権利を、食べ物と引き換えに、ヤコブに譲ってしまいました。長子の権利は財産だけではありません。アブラハム、イサクと続く信仰の継承でもありました。その信仰の継承、または信仰自体を軽んじて、食べ物に代表される生活の糧を選んでしまいました。つまり、アブラハム、イサクの信じている神を無視したことになります。そして、エソウは、信仰の異なるヘテ人を妻にめとり、そのことが、イサクやリベカの信頼を得る事ができないと知ると、ヤコブの出て行ったあと、アブラハムの子イシュマエルの娘をめとります。イサクとリベカの信頼を取り戻すためでありました。エサウにとっては、信仰は重要ではなかったのです。エソウは、人間的には悪い人ではありませんが、神を信じるというチャンスに恵まれない人でした。

では、ヤコブは信仰深かったのでしょうか。ヤコブは名前通り、エサウを押しのけて、長子の権利を奪い、また父イサクからの世継ぎの祝福をだまし取りました。信仰深い人がこのようなことをするでしょうか。この時点でヤコブに神への信仰があったかどうかも疑わしいものであります。しかし、事態は一変します。ヤコブがちょうど、ハランへ旅立ち、その日の夜、野宿したときのことです。

ヤコブは夢を見ました。12節~15節●「そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして、仰せられた。『わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は血のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。』」

神のアブラハムへの祝福でもあり、またイサクへの祝福でもありました。26:24●「わたしがあなたとともにいる」現代の私たちもよく耳にする「インマヌエル」(神は私たちと共におられる)がそれであります。「神がともにおられる」とは、神からの最大の励ましのことばでもあります。神が守り、導き、養い、大いに祝福されるのであります。

ヤコブは、神がすでにヤコブと共におられ、さびしく野宿していたとしても、神が守ってくださることを、夢で見て確信したのです。また、天と地とをむすぶはしごがあり、そこを主の使いが上り下りしているとは、地においての私たちの祈りが、天の神に届けられている、祈りが必ず聞き届けられていることを知らしめておられるのです。父母のもとを離れ、心細くなっているヤコブにとって、これほど心強いことはありません。これはヤコブの心の中に神への信仰が芽生えたことを意味するのだと思います。ゆえにヤコブは夢から目覚めると、17節●「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家(つまりベテル)にほかならない。ここは天の門だ。」と言って、翌朝、自分が枕にした石を取り、それを石の柱にして立て、その上に油をそそぎました。アブラハムやイサクなら、「祭壇を築き、主を礼拝した」という記述になっているのかもしれませんが、ヤコブの場合は、まだまだ信仰が芽生えてきた時点なので、「石の柱に油をそそぐ」という表現にとどめられているのではないかと思われます。

そして、このヤコブの信仰の稚拙さは28章の最後に現れています。今日の中心聖句でもありますが、●「それからヤコブは誓願を立てて言った。『神が私とともにおられ、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る着物を賜り、無事に父の家に帰らせてくださり、こうして主が私の神となられるなら、石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る物の十分の一を必ず捧げます。』」ヤコブは、あろうことか神に対して条件を付けてしまいました。『神が私を祝福するなら、私は神をあがめ、十分の一のささげものをしましょう』と。この言葉の中心は、主導権は、神ではなく、まだ「自分」です。ヤコブには、まだまだ自己中心的な信仰が芽生えたにすぎないのです。これから、神はヤコブを叔父ラハブのもとで訓練していきます。そのことはまた、次の機会にお話しできればと思います。

この28章では、多くのことが私たちに問いかけられています。信仰を同じくする人との交わりの大切さ、信仰を軽んじる生き方、祈りは神に必ず聞き届けられるということ、全能の神がつねに私たちと共におられるということに気づくこと、いえ気付かせていただくこと、そして神を信じたとしても、まだまだ自分中心とする信仰にあるということが示されています。みなさんは、どこに心を留められますか。私は最後の箇所が一番心に残りました。

クリスチャンの信仰は、ご利益信仰ではないと言われます。多くの貢ぎ物捧げ物をしたから、多くの富を得、幸せになれる。クリスチャンは確かにそうではありません。見返りを期待して、一生懸命、教会奉仕にはげむ、ということはないはずです。しかし、本当にそうでしょうか。私たちは、「天に宝を積む」という言葉を知っています。この地上で宝をためても、天に持って行けないことは、誰もが知っています。では、クリスチャンとして「天に宝を積む」とはどういうことでしょうか。まず、イエス様がどのようにおっしゃっておられるのかを見てみましょう。マタイの福音書6章19節~21節。●「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」イエス様の「天に宝をたくわえなさい」とは、「心を天におきなさい」ということです。つまり、天の宝とは、永遠のいのち、神の子ども、神の家族、神の平安と喜び、不安や苦しみや悲しみのない世界などのことで、これらのことを思いつつ、この世での生活を全うしなさい、ということであります。この天の宝は、イエス・キリストを自らの主と信じた時に、約束されたもので、献げ物をしたからとか、教会奉仕をしたからとか、という条件付きの宝物ではなく、イエス・キリストの恵み、無償の愛であります。そして、この無償の愛は、神の特質でもありました。旧約聖書時代でも、「神が共にいる」という最大の祝福は、神が選ばれた者に無償で与えられたものでした。しかし、ヤコブはこの時点では、その恵みに気づいていませんでした。私たちも、ヤコブと同じ間違いをしてはいないでしょうか。献げ物も教会奉仕も祈りも賛美も、それら自体はとても尊いことです。しかし、それと天に宝を蓄えるということは、別個のことです。先ほども申し上げましたように、天に宝を蓄えるとは、結局はイエス・キリストを思うということに集約されます。パウロは、私たちに次のように励ましました。2テモテ2:8●「私の福音の言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」そして、イエス様ご本人は、「自分の宝を天にたくわえなさい」とおっしゃった後で、33節●「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」とおっしゃいました。これは、この世で神の支配に従い、神との正しい関係において生活するということであり、それには、イエス・キリストを信じる信仰が不可欠であるということであります。ですから、パウロは「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」と私たちを励ますのであります。さしずめ、ヤコブの時代では、「神をいつも思い、あがめる」ということになるのでしょう。ヤコブのあの条件つきの誓願は、次のように変えられるべきでありました。『主が私の神であり、主が私とともにおられ、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る着物を賜り、無事に父の家に帰らせてくださると信じますから感謝いたします。石の柱として立てたこの石は、神の臨在に気づいた記念であります。私の心が、神の家となります。すべてあなたが私に賜る物の十分の一を感謝のしるしとしてお返し申し上げます。』

さて、皆さまは、「これこれをしてくれたら、信じます」という条件つきの信仰ではないでしょうし、神に対して、また人に対して良い行ないをしたから、多く祈ったから、多くの祝福があるとも信じてはおられないでしょう。また、では、今一度お尋ねいたします。皆さんの心はいつもどこにありますか。

さて、今日も、天国長屋の八さんと熊さんにご登場いただきましょう。

八さん、熊さん、よろしくお願いいたします。

―――――

八: 確かに、条件つきの信仰は、神様には喜ばれんはな。アウトや。

熊: 八、それは、分かんねんけどな。イエス様は●「あなたの信仰があなたを直したのです」

(ルカ8:48)とおっしゃった。

「信じたら直りまっせ、救われまっせ」って条件がついているように思えるやけど。

八: 12年間長血を患った女の人が、「イエス様やったら直してくださるにちがいない。

もうイエス様しかたよるお方はおれへん」と信じて、イエス様の着物のふさにさわった

時に、たちどころに癒されたちゅうところやな。

熊: そや、そこや。条件つきの信仰は、あかんけど、救いには条件がある。

八: 神様は、わてら全員をもれなく救いたいんや。そやから、ひとり子である、イエス様を

人間の身体を通してこの地上へお送りくださった。そして、罪と無関係のイエス様の

聖い血潮、いのちによって、わてらの罪をすべて帳消しにしてくださるように

してくださった。まあ、正確には、その準備が整ったちゅうこっちゃ。

熊: なんや、その準備が整ったちゅうのは。わてらの罪が帳消しになったんとちゃうのかいな。

八: 神様は、わてらひとりひとりに、わてらの罪が帳消しになるスイッチをくださったんや。

そのスイッチがイエス様を信じるちゅうスイッチや。

熊: そのスイッチちゅうのが、わてがゆうてた条件かいな。

八: そや。その信じるというスイッチが入ると、電気がついて明るくなるように、

わてらの罪が明るみにだされて、わてらに罪をきづかせてくださる。

そして、神様に悔い改めることによって、その罪が赦されるんや。

前もってイエス様がその赦しの準備をしてくださっていたさかいな。

そして、スイッチが入って、電気が流れるように、イエス様を信じた時点で聖霊様も

わてらの心にお住まいくださって、わてらを悔い改めに導いてくださるねん。

熊: けんど、そのスイッチはわてらが押すんやな。

「イエス様をわての主として信じます」って。

八: スイッチを押す決断はわてらの責任やけど、その決断に導いてくれはんのも聖霊様なんや。

ほら、パウロはんかて、コリント人への第一の手紙で、言うてはるやないか。

●「聖霊によるのでなければ、『イエスは主です』と言うことはできません。」

って(12:3)。

熊: 神様は、イエス様を信じる者が救われると条件をだされた。ヨハネの福音書の3章16節

もう耳タコやとはおもうけんど。●「神は、実に、そのひとり子をお与えになった

ほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、

永遠のいのちをもつためである。」それは、分かんねんけど、

じゃあ、なんで条件つきの信仰はあかんねんやろ。

八: そりゃそうやないかいな、その条件は人間から出てるからや。「イエス様を信じたら

救われる」ちゅう条件は、わてらをお造りになられた神様がわざわざ、わてらの救いの

ために、わてらを愛してくださっているさかいに、出された提案や。

ところが人間からの条件は、人間が自分自身を愛するがゆえに、こともあろうか、

畏れ多い神様に突き付けたものや。「これしたるから、これしてくんなはい」みたいな。

熊: いや、なんぼなんでも、そんなぶっきらぼうな言い方はせえへんと思うで。

「これしまっさかいに、これしておくんなさい」ちゅうようなお願いやと思うで。

八: まあ、そうかもしれんけど。ようは、自分が可愛いから、自分のためのお願いをするんや。

まあ、お願いをするのは悪いことやないかもしれん。わてらもお祈りするさかいな。

けんど、条件つけて、お願いするちゅうのは、神様をコントロールしようとしてんのと

同じや。そんなことしたら、神様かって、悲しくて、情けのうて、怒りはるやろ。

熊: せやなぁ。愛してくださっている神様を悲しませたらあかんわな。

ところで、八、もう一つだけ引っかかってることがあるんやけど。

八: なんや、まだあんのかいな。この際やゆうてみ。

熊: 条件つきの信仰はあかんのは分かってんけどな、結局「信仰」ってなんや。

八: うわ、なんか大きくなりそうな問題やな。それ、若さんに尋ねてみよ。もう時間やしな。

若さん、はい、バトンタッチ。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。バトンタッチねぇ。「信仰とは」ですか。ヘブル書11章1節では、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあります。つまり、信仰とは未来・将来に目を向ける希望とでもいえるでしょう。「イエス様を信じる」とは、「イエス様に期待する」とも言い換えることができますし、「神への信仰」とは「神への希望」でもあるでしょう。そして、その希望は失望には変わりません。イエス様や神様に期待や希望するのは、永遠のいのちであり、天における平安であり、喜びであるでしょう。また、癒しでもあります。この世における、私たちの願いは、必ず聞き届けられています。あたかもヤコブが夢に見た、地と天とをむすぶはしごを神の使いが上り下りしているように、私たちの祈りや願いや賛美は、天の神様に届いています。しかし、その願いが実現するかどうかは、神様のみ心しだいです、ご計画しだいです。私たちが条件をつけて願うものでもありません。私たちは神様のご計画に従うしかありませんが、神様は、私たちが神様に祈り願うことを励まされます。なぜなら、祈りは神様と一心同体となるひとつの手段だからです。そして、祈りをささげ続ける中で、自己中心的な祈りが、神中心の祈りへと変えられていくのです。八さん熊さん、これでよろしおまっか。

では、いつも通り、宣言をしたいと思います。今日の宣言は、主の御心のままにと思いつつ、「私は主に期待し祈ります」です。三回宣言します。

「私は主に期待し祈ります」、「私は主に期待し祈ります」、「私は主に期待し祈ります」アーメン!

黙想をいたします。

黙想の時にお読みするのは、詩篇51篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。ルカの福音書7章47節。

「だから、わたしは、『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」

黙想いたします。詩篇51篇。

黙想時の曲

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

 

賛美⑥:あなたのもの

https://www.youtube.com/watch?v=rJmd9r1kRts

●聖餐式

讃美⑦:聖なるお方

https://www.youtube.com/watch?v=zNMDSBv16W4&list=RDMM&start_radio=1&rv=rJmd9r1kRts

●礼拝とささげものの感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献金は教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の9月11日 午後5時から小阪チャペルにて、主日礼拝。

聖書:創世記29章