ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル
2022.9.11主日礼拝式
(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、軽く愛餐の時をもちます。)
●午後5時開会:ただいまより、2022年9月11日主日礼拝式を始めます。
礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。
さあ、私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。
賛美①:注ぎたまえ主よ
https://www.youtube.com/watch?v=T2TbTD6gMh4&list=RDT2TbTD6gMh4&start_radio=1
賛美②:なんと素晴らしい
https://www.youtube.com/watch?v=FwnJPpRlwvY
●使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、
永遠の生命を信ず。アーメン。
賛美③:主の宮 (9月の歌)
https://www.youtube.com/watch?v=UlGwD10RZc8
賛美④:御手の中で
https://www.youtube.com/watch?v=I03rng4MKfA
●十戒
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。 それらに仕えてはならない。
あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。
安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
あなたの父と母を敬え。
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
あなたの隣人の家を欲しがってはならない。
讃美⑤:あなたのみことばは
https://www.youtube.com/watch?v=W-FTB95OHZw
【YOUTUBE配信開始】
2022年9月11日 主日礼拝メッセージ
神様からのメッセージの前に2022年の年間聖句をいっしょに唱えましょう。
ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)
●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
●聖書拝読:創世記29章(新改訳聖書)
中心聖句:
「ヤコブはこうして、ラケルのところにもはいった。ヤコブはレアよりも、実はラケルを愛していた。それで、もう七年間ラバンに仕えた。」(30)
メッセージ主題:『忍耐はより頼みを導く』
改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。
できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。
●メッセージ
先週、学びましたように、ヤコブは神への信仰を持ち始めたとき、神に条件をつけるような、信仰の初期の状態でした。「神がこれこれをしてくれたら、神をあがめる、神にささげ物をする」実は私も初めはこのようなものでした。例えば、私のアメリカの母教会では、献金は礼拝の前にささげていました。まだ、洗礼を受ける前のことですが、『なんで礼拝前に献金をささげるのだろう、メッセージが良ければささげて、あまり面白くなければ、ささげなくていいのでは』、と思ってしまっていました。つまり、献金はメッセージに対するおひねり、みたいなものと受け取っていました。神様はお金など必要ないはず、教会の運営や牧師の給料に献金が必要なのだから、パフォーマンスが良くなければ、献金など必要ない、、、などと本当に失礼な考えでした。洗礼の準備会での学びで、献金は神に献げるものであって、礼拝の良し悪し、メッセージの出来不出来に関係しない、だから、メッセージの前だろうが後だろうが関係ないと学びました。もちろん、そうはいえども、献金は牧師への謝礼を含め教会の運営や宣教に使われます。すべては神の働きのために使われるのですが、献金が多い少ないは関係なく、神が必要を満たしてくださると信じ、神に信頼しないと、教会がビジネスになってしまいます。献金も感謝の心をともなわないでささげるのであれば、律法的になってしまいます。そうなってしまえば、神はご自身の栄光を現わすことなどいたしません。神は、ご自身の栄光を教会に現わすために、教会に対して忍耐を求めます。忍耐して祈りを重ね、主こそが唯一の信頼しより頼むべきお方であることを知らしめられます。
パウロがローマ人への手紙5章3節~5節で述べている通りです。●「そればかりでなく、患難さえ喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私の心に注がれているからです。」「患難」とは「私たちを襲う苦しみ」のことですし、「忍耐」は「期待して踏みとどまること」、では、何に期待して踏みとどまるのでしょうか。それは、患難の先に主が備えておられる祝福を期待してのことです。そして「練られた品性」は、「練達」とも表現されていて、「確信」を導きます。主により頼み、主が必ず脱出の道を解決の道を備えていてくださるという確信です。それゆえに、「希望」とは「救い・神との平和・和解」を意味しています。また、コリント人への第一の手紙の、有名な愛の章13章では、愛について次のように語っています。4節~7節まで、●「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」私たちの一般的に持つイメージの「愛」よりも、厳しさが入っています。「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」『なんや、忍耐するということばが2つも入ってる!「がまんする」と「耐え忍ぶ」』と、そう思われるかもしれません。New King James英語訳では、bear とendure という言葉が使われています。bear は、どちらかと言えば、短期的な苦しみに対する忍耐、endure は継続的な・長期的な苦しみに対する忍耐です。しかし、どちらも忍耐にはかわりありませんから、愛は忍耐に始まり、忍耐に終わるのです。忍の一字です。
神は、その忍耐をヤコブに学ばせました。ヤコブは、母リベカの兄ラバンの娘ラケルと結婚したいがゆえに、ラバンと約束をかわし、7年間無償で彼のために働きました。そして、夫婦の契りを結んだのでありますが、実はラケルではなく、姉のレアでありました。そして、ラケルとも夫婦の契りを結ぶため、ラバンはもう7年間、彼のために働くことを、ヤコブに約束させました。合計14年、ヤコブはラバンに仕えます。聖書では、20節に「ヤコブは、、、7年間仕えた」と30節に「ヤコブは、、、もう7年間ラバンに仕えた」とあるだけで、さらりと流していますが、ヤコブはこの14年間でさまざまなことを学んでいきます。そして、後でその知恵によってラバンを出し抜くことになりますが、神は、ラバンに仕えることを通して、ヤコブに忍耐を教えます。しかし、これでヤコブがまったく変えられたわけではありません。彼のこそくなところや計算高いところ、また意外と臆病なところはそのままであります。わたしたちもヤコブと同じであります。イエス・キリストを自らの救い主と受け入れ、信じる証としての洗礼を受けたとしても、それで神の目にあって完璧な人間にはならないのです。私たちが、イエス・キリストの似姿にまったく変えられるのは、この世の生を全うして、天に上げられる時です。私たちは、この世では未完成でありますが、少しずつキリストの似姿に変えられていきます。そこには、試練や患難が待ち受けています。神は私たちに、その試練や患難を通して、忍耐をやしない、また、主に完全に信頼し、より頼むことを学ばせようとなさるのです。
皆さん、覚えていらっしゃるでしょうか、主のギデオン軍の縮小命令を。士師記の7章2節には、次のようにあります。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。」と告げて、3万2千人いた兵士を3百人に縮小させ、対ミデヤン人に勝利をもたらしました。神は、数の問題ではなく、質の問題であることを問うておられるだけでなく、信仰の問題、私たちが戦うのではなく、主が私たちとともに戦ってくださる、または、主が私たちの代わりに戦ってくださるのだということを信じなさいと、主はおっしゃっておられるのです。ギデオンは、主のご指示を忍耐をもって聞き従ったのであります。
忍耐をもって主により頼むことこそが、人生の勝利であることを、主は教えてくださっています。そして、そのために、主は傲慢な自己中心のヤコブに14年間、仕えるということで、忍耐を養われたのです。
さて、今日も、天国長屋の八さんと熊さんにご登場いただきましょう。
八さん、熊さん、よろしくお願いいたします。
―――――
八: けんど、ヤコブはんは、ほんまに抜け目のないお人やなぁ。
熊: なんでまた、そう思うん?
八: だって、そやないか。ヤコブはんが、ハランの井戸に着いて、
ナホルの子ラバンの娘ラケルがもうすぐ羊を連れて来るちゅうことが分かったら、
三つの羊の群れがその井戸に到着するのを待っていた羊飼いたちに、
早く羊に水を飲ませて、放牧にでかけなさいとそそのかした。
熊: ま、そそのかしたかどうかは分からんけど、急いで、羊飼いたちを井戸から追っ払おうと
したようにも見えるわな。
八: そんでやで、ラケルはんが井戸に到着するやいなや、近寄っていって、
井戸の口の上の大きな石をころがして、ラケルはんが率いて来た羊の群れに
先に水を飲ましはった。
熊: 親切でやってあげたんとちゃうんか。まあ、下心みえみえやけど。
八: あほ、そこんところとちゃうがな。羊飼いの仁義を無視しとんねん、ヤコブはんは。
みんな、羊がそろうまで待ってたんやないか。
にもかかわらず、ヤコブはんが横入りしたんや。
熊: そう言われればそやなぁ。
八: 最近では、大阪でも、電車に乗り込む時、みんなちゃんとならんどる。
大阪も東京なみに、マナーちゅうもんがついてきた。
熊: まあ、並んでても、降りはる人優先やのに、そんなんかまわず、人の流れに逆ろうて、
乗り込んで席とろうとするお人もいらっしゃるけどな。
八: そういう人はいつの世でもいはる。ま、ま、そんなことはどうでもええねん。
水飲み場を横入りして、ラケルはんの羊の群れに井戸水を飲ます。それはズルや。
熊: けんど、あれやな。よう、他の羊飼いたちともめへんかったな。
アブラハムはんの時も、イサクはんの時も、井戸のことでは地元の人たちとよう
もめてはった。
八: それは、不思議やでなぁ。ひょっとしたら、ラバンはんは、ハランの地では
名士やったんかもしれん。そのラバンはんを訪ねてきた、ヤコブはんとは、
もめたくはなかったんかもしれん。
熊: とにかくや、ヤコブはんも必死や。ここでラケルはんに愛想つかされたら、
もともこもなくなるよってな。ひょっとしたら、未来のカミさんになるかもしれん
お方やさかいな、ラケルはんは。ま、実際、そうなったんやけどな。
八: けんど、イサクはんの嫁とりの物語とは、えらい違いや。アブラハムはんの召使の行動
には品と言うものがあったけど、ヤコブはんには、ちょっとそれが欠ける。
まあ、独りぼっちで旅するねんからしゃぁないちゅうたら、
しゃぁないかもしれへんけどな。
熊: けんど、八から、「品」ということばが聞けるとは思えへんかったわ。
八: ほっといてくれ。お互い様やないか。品のかけらもないわてらや。
熊: ところで、話変わるけど、ラバンはんも人の弱みにつけこむのん、うまいなぁ。
八: そやで。ヤコブはんが、ラケルはんぞっこんやのを見抜いて、
7年間もタダ働きさせたんや。
そして、姉のレアはんは、美人やないから、嫁ぎ先が決まらんかもしれん、というので、
これ幸いとヤコブはんをだましてくっつけはった。
ヤコブはんは、ラケルはんと夫婦(みょうと)になりたいから、もう7年間タダ働き。
熊: しかし、ころんでもタダでは起きひんヤコブはんやで。その14年間でいろんなこと
学んで、ラバンはんよりも裕福になっていくんやから。
わてな、神様、なんでヤコブはん選びはったんやろって、思うときがあるねん。
アブラハムはんは、信仰。イサクはんは、従順。ヤコブはんはなんやろうか。
八: せやなぁ。ここまでのヤコブはんは、、、、バイタリティーかな。
ヤコブはんは、いろんな欠けをもってはる。欠けの多いお人や。
つまりは、わてらと同じやちゅうことやな。
熊: ヤコブはんが、主に選ばれ、祝福されるちゅうことは、
わてらも同じように祝福されるちゅうことか。
八: そうともとれる。神様は、ヤコブはんに、まず忍耐することを覚えさせた。
これは、わてらにも言えるこっちゃ。
熊: わてな、14年間の忍耐と聞いて、ふと思い出したのが12年間長血を患っていた
女の人のこっちゃ。
八: ああ、あのイエス様の衣のふさにさわって、長血がいやされたちゅう女の人のことやな。
熊: あの女の人かって、12年間病と闘ってきた。けんど、誰にも治せへんかった。
ここで諦めたら終わりや。けんど、あの女の人は諦めんと、イエス様に希望を託した。
「衣のふさにさわっただけで治していただける」と信じた。イエス様はその女の人に、
「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。」とおっしゃった。
八: わてらもそうや。あの女の人のような肉体的な病はないかもしれん。
しかし、神様を必要とせぇへん生活病におかされてんねん。
いわば、信仰の生活習慣病や。
その病はイエス様しか直すことはでけへんねん。
わてらは、そのことに気がついて、ただただイエス様に近づいて、
イエス様の心に触れるだけでええんや。それこそが、恵みや。
熊: せやなぁ、感謝やなぁ。あの女の人のように、たちどころに病がいやされたちゅうことは
ないかもしれんけど、忍耐しつつも、イエス様と親しい交わりを持つことによって、
わてらはかえられていくんやろうなぁ。
八: そう思たら、欠けの多いヤコブはんも、ただ単に14年間忍耐しただけとちゃうな。
この14年間、神様といっぱいお話しされたんやで、きっと。
けんど、「自分」と言う、自己中心的なものが抜けきれん、そんな弱さをヤコブはんは
もってたけど、それでも神様は、ヤコブはんを愛しておられたんやろうな。
神様こそ忍耐してくれてはんねんや。
さて、若さん、このぐらいにしておきますわ。
―――――
八さん、熊さん、ありがとうございます。「神様こそ、私たちのために忍耐してくれてはる」ほんまにそうですね。神は愛です。そして、パウロのあの愛の章のフレーズの「愛」を「神」に置き換えると神様の本質が良く分かります。皆さんでいっしょに唱えてみましょう。
「神は寛容であり、神は親切です。また人をねたみません。神は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」
八さんがおっしゃるように、ヤコブの14年間では、神様との豊かな交わりがあったにちがいないと思います。聖書には何も書いていませんが、黙想してみてください。また、同じようにノアが箱舟を建築する100年もそうでしょうし、またアブラハムのウルからの旅路もそうであります。ただ単に忍耐を神様は強いるのではなく、その忍耐のなかに、神様との豊かな交わりを置いてくださいますかから感謝いたします。
では、いつも通り、宣言をしたいと思います。今日の宣言は、主のご愛を感じつつ、「忍耐しつつ主と交わります」です。三回宣言します。
「忍耐しつつ主と交わります」、「忍耐しつつ主と交わります」、「忍耐しつつ主と交わります」アーメン!
黙想をいたします。
黙想の時にお読みするのは、詩篇37篇です。
●黙想:
黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。ルカの福音書21章19節。
「あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。」
黙想いたします。詩篇37篇。
黙想時の曲
[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM
https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0
●祈り
●主の祈り
天にまします我らの父よ
ねがわくは、御名をあがめさせたまえ
御国を来たらせたえ
御心の天になるごとく
地になさせたまえ
我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり
アーメン。
【YOUTUBE配信終了】
賛美⑥:あなたがすべて
https://www.youtube.com/watch?v=f4AdnEmMQjQ
讃美⑦:主に賛美
https://www.youtube.com/watch?v=v5V7Ay1ogNQ
●礼拝と献げものの感謝の祈り
(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)
●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」
https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM
●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21
●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏
https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0
●閉会
●連絡
次回の9月18日 午後5時から小阪チャペルにて、主日礼拝。
聖書:創世記30章