ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル
2022.10.2主日礼拝式
(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、軽く愛餐の時をもちます。)
●午後5時開会:ただいまより、2022年10月2日主日礼拝式を始めます。
礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。
さあ、私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。
賛美①:驚くばかりの
https://www.youtube.com/watch?v=2MjZ7DBAgI4
賛美②:主がそばにいるから
https://www.youtube.com/watch?v=ikdWPBdaqd0
●使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、
永遠の生命を信ず。アーメン。
賛美③:天国にあるもの (10月の歌)
https://www.youtube.com/watch?v=xAAmZXV22xQ
賛美④:イエスに栄光あれ
https://www.youtube.com/watch?v=v5sKPkQ68tY
●十戒
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。 それらに仕えてはならない。
あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。
安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
あなたの父と母を敬え。
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
あなたの隣人の家を欲しがってはならない。
賛美⑤:どんな時でも
https://www.youtube.com/watch?v=64er54gdx2E
【YOUTUBE配信開始】
2022年10月2日 主日礼拝メッセージ
今日は、小阪チャペル1周年となります。メッセージは特別に記念するものではありませんが、後で記念の交わり会をほんの少ししたいと思います。
さて、神様からのメッセージの前に2022年の年間聖句をいっしょに唱えましょう。
ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)
●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
●聖書拝読:創世記32章(新改訳聖書)
中心聖句:
「するとその人は言った。『わたしを去らせよ。夜が明けるから。』しかし、ヤコブは答えた。『私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。』」(26)
メッセージ主題:『退路を断たれ、主を真剣に求める』
改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。
できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。
●メッセージ
帰郷の途中で、ヤコブは兄のエサウが400人を引き連れて迎えに来るという報告を、前もって遣わした使者によって受けました。それを聞いたヤコブは、かつてヤコブが兄エサウに犯した罪によって、兄がその仕返しにくるのではないかと恐れます。そこで、ヤコブは、急遽、二つの宿営に分け、初めの宿営がエサウによって打たれても、後の宿営は逃げおおせると考えました。もちろん、ヤコブは後の宿営にとどまります。そして、神に憐みを願います。「どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。」つまりは、「私のいる後の宿営だけは残してください」とまったく都合のよい話を神に願うのであります。まあ、この願いの前に、ヤコブは支障にも●「私はあなたがしもべに賜ったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です」(10)とへりくだっては見せていますが、神に対して次のように12節で訴えています。●「あなたはかつて、『わたしは必ずあなたをしあわせにし、あなたの子孫を多くて数えきれない海の砂のようにする。』と仰せられました。」だから、私を助けてください。どうしても、自己中心の考え方がぬけきえません。そして、兄エサウのご機嫌をとろうと、兄への貢ぎ物を3段階に分けて用意します。そして、先発隊が出発した後、夜に残る宿営にいる家族と持ち物すべてをヤボク川の浅瀬を渡らせ、ヤコブ一人となりました。しかし、このひとりになった理由は、自分の身を守るためではありませんでした。ひとりになって、主に祈りをささげるためでした。私たちもそうではないでしょうか。八方ふさがりといいますか、すべての人間的な知恵を出し切って、それでも不安が襲い掛かる時、一人静かに神さまにより頼み、助けを祈り求めるのではないでしょうか。もちろん、数人で心を合わせて祈る祈りも尊いものですが、ひとりで神さまと対峙することも大切です。ある牧師は、朝のディボーションこそが、その日一日を決めるとおっしゃっておられました。つまり、それだけ神様と一対一で向かい合うことが大切だということです。ヤコブもそのような心境に、神がご自身が導かれたのでしょう。それを24節では次のように表現しています。●「ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。」もちろん、この表現は「本当に神と格闘した」とも取れますが、私は、これは夜明けまで、神に祈ったのだと思っています。あたかも格闘のように、ヤコブは神に思いのたけをぶちまけたのではないでしょうか。また、霊の思いと肉の思いの格闘だったかもしれません。そして、25節●「ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見て」とありますように、ヤコブは執拗に食い下がるように、神に助けを祈り求めたにちがいありません。そして、「ヤコブに勝てない」とありますから、ヤコブの肉の思いが強く、自分の力や知恵に頼る思いがまだまだ強いことを表しているのかもしれません。その祈りの中で、自分の力や財力や知恵に頼るのではなく、完全に主に頼る以外にないことをヤコブは悟らされていきます。そして、その結果、●「ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。」のです。「ヤコブのもものつがい」に象徴される自我、肉の思いが外され、神に完全に降伏することとなります。「ヤコブのもものつがいがはずれる」ことによって、ヤコブは、もう逃げも隠れもできず、じたばたするのを諦めます。その自分の力や知恵で何とかしようとするのを諦めたとき、人は神に完全により頼むことができるのでしょう。もものつがいがはずれたヤコブは、神に「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」と、しがみつくのであります。これは、次のように言い換えることもできるのではないでしょうか。「私は、あなたが私を祝福してくださるお方だと信じて疑いません。」と信仰告白しているのと同じだと言えます。
そして、神はヤコブに、「人を押しのける」ヤコブから、「神が争われる、神が支配する」というイスラエルという名前を授けます。「神が争われ、神が支配する」のですから、「神が守られる」という意味にもなるでしょう。ここに、自己中心から、神中心の新姓イスラエルが誕生するのです。
さて、今日のメッセージのタイトル、「退路をたたれ、主を真剣に求める」とありますが、「退路を断つ」とは、自らの甘えをなくし、覚悟をきめて前進するということですが、これはなかなか至難の業です。自ら退路を断てる人はそうそういらっしゃらないような気がします。それができる人が、人生に成功する人かもしれません。ヤコブも自ら退路を断てる人ではなかったのではないでしょうか。ですから、ヤコブが神に助けを求めたときに、神がヤコブのもものつがいをはずし、退路を断って、ヤコブに覚悟を決めさせました。そして、神はヤコブが想像しなかった祝福をヤコブにもたらすことになります。そのことは、33章以降でお話ししたいと思います。
先ほど、自ら退路を断てる人は人生に成功する人かも知れませんと申しましたが、退路を断たれて成功する人もいらっしゃいます。あ、ここで確認しておかなければいけませんね。私の言う「人生に成功」とは、必ずしも「富を得る」ということではありません。ある程度、自分の人生に納得して最後を迎えることができるかということです。もちろん、退路を断っても断たれなくても、人生に成功する人もいらっしゃいます。私も自分の人生に納得して最後を迎えることができるのかどうか、まだ未来のことですから希望はありますが自信はありません。しかし、人生には、挫折するようなことは何度もあるのではないでしょうか。挫折は、退路を断たれるということではありません。例えば、仕事を辞めるか辞めないかという、切羽詰まった事態に陥った時、仕事に挫折し、仕事をやめて転職することは退路を断ったことにはなりません。仕事を辞める辞めないという選択肢すらないとき、退路が断たれた状態だと思います。さまざまな諸事情で仕事を続けざるを得ない、もう後がない、ここで踏ん張るしかない。そして、その時点で踏ん張ってきたことが、後になって振り返ってみて、「あの時踏ん張っていてよかった」と思えることもあるのではないでしょうか。
信仰も同じことが言えます。教会につまずき、牧師につまずき、人につまずき、そして目に見えるものにつまずき、目に見えない神にもつまずき、その上、自分自身にも失望して、信仰をなくしてしまう。私は青年の時、まわりの地域の同じ年代の多くの兄弟姉妹が「霊に燃えていた」にもかかわらず、教会から姿を消してしまったことを悲しく思い、しかしまだ完全に信仰はなくしていませんようにと祈るばかりであります。何かにつまずいて、または、何か違和感や疎外感を感じて、別の教会に代わることは、信仰をなくすことではありません。そのように教える教会もありますが、それは間違いです。地上での教会は違えど、天の御国での公同の教会は1つで、イエス・キリストへの信仰を持ち続けているかぎり、天の教会での永久教会員です。他の宗教に鞍替えすることは、先ほどの仕事の話でいう転職に当たります。イエス・キリストをお送りくださった天の父なる神様を信じ続けるか、止めてしまうかという選択肢も残っていない、いったん信じた神様に頼るしかない状態が、信仰的に「退路を断たれた」状態です。そして、人間の知恵や力ではもうどうすることもできなくなって、退路を断たれた状態こそが、真に神に拠り頼むことができるのではと感じています。パウロの言った、「弱い時にこそ強い」という信仰の極意はそれに当たるのではないでしょうか。コリント人への手紙第二12章9節~10節。●「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」自分を空しくして全き主に拠り頼むとき、主の完全完璧なる力が、その人をおおい、その人は主の祝福を受け取ることができ、主の栄光が現わされるのです。ヤコブも、もものつがいを外された時がそうでした。ヤコブの弱さが完全に露呈したときに、ヤコブは神に拠り頼むということしかできず、神に祝福を願い求めたのです。先ほども申しましたが、これはヤコブの心からの信仰告白なのです。アブラハムの神、イサクの神はヤコブの信仰を見て、ヤコブをイスラエルと名づけ、祝福を約束されました。
人は退路を断たれ、自分の弱さ、小ささ、無能さをみとめ、主に拠りすがる時、主の憐れみによって、キリストの力が私たちをおおうのであります。
さて、今日も天国長屋の八さん、熊さんに登場いただきましょう。
八さん、熊さん、よろしくお願いいたします。
―――――
八: 「退路を断たれる」かぁ。それやったら、わてら、「退路を断たれぱなしやな」。
熊: なんでやねん。
八: だって、そやないかいな。わてら、「イエス様いのち」や。
神様に頼るしか、能のない人間やねんから。
熊: なんか違うような気がするなぁ。「退路を断たれる」ちゅうのは、
ほんまに切羽詰まった状態におかれてる時に使うんやろ。
わてらの「イエス様いのち」って言っているのには、まだなにか、
余裕があるような気がする。
八: そうかなぁ。わてらの暮らしは、いつも貧乏でぎりぎりやでぇ。
熊: 貧乏とこの「退路をたたれる」ちゅうのとはちゃうって。
八: じゃあ、「わてらの『イエス様いのち』って言っているのには、まだまだ、
余裕があるような気がする」って、どういうこっちゃ。
熊: そやなぁ。例えば、ペテロはんや。イエス様、ペテロはんにこうおっしゃった。
●「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいに
かけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰が
なくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、
兄弟たちを力づけてやりなさい。」
八: ああ、あの場面な。ルカの福音書22章のところやな。
ペテロはんは、むきになってイエス様にいいはったなぁ。
●「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
熊: ところが、イエス様が「きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らない
と言います」とおっしゃったとおりに、ペテロは捕まるのが怖くなって、
「わしは知らん」ゆうて逃げはった。
八: そんでもって、ペテロはん、イエス様がおっしゃった通り、鶏が鳴くまでに、三度、
イエス様を知らないと言いはったことが現実となって、外に出て、激しく泣いた。
熊: そや、わてらの「イエス様いのち」は、ペテロはんの「主よ。ごいっしょになら、
牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」と言いはったんと同じや、
とわては思うねん。ペテロはんもあの時は余裕があった。イエス様が捕まってしまうちゅうことは絶対ありえへんと思てたにちがいない。わてらも身の危険がせまってない、今やからこそ、「イエス様いのち」って言えるんかもしれへん。窮地に立たされた時、「イエス様って誰?知らんなぁ」ってうそぶいてしまうんとちゃうやろか。
八: まあ、確かにそうかも知れん。しかし、わては認めなくないわ、
「イエス様って誰?知らんなぁ」ってうそぶいてしまうなんて。
熊: 八の認めたくない気持ち、わてもよう分かる。けんど、イエス様、
ペテロはんにこうおっしゃったやろ。
●「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。
だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」って。
イエス様、わてらのためにも信仰がなくならないようにって、祈ってくれてはる。
だから、必ず立ち直れんねん。それにその時には、もっと信仰が強くなっているはずや。
な、だから今は「イエス様いのち」で胸張っててもええねんて。
八: わてらもペテロはんのように、また、ヤコブはんの時のように、
退路を断たれる時が来るんかもしれんねやな。
けんど、イエス様がすでに祈られてる。それこそ、励みやなぁ、強みやぁ。
熊: そやねん。ペテロはんのときも、ヤコブはんのときも、「退路を断たれる」
ちゅうのは一つの大きな試練や。ほんで、神様は乗り越えられない試練は与えはれへん。
八: コリント人への手紙第一10章13節やな。●「あなたがたの会った試練はみな人の
知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、
耐えられないほどの試練に遭わせることはなさいません。
むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」
熊: そや、その脱出の道、ちゅうのが、わてらのために祈ってくださっているイエス様を
信じゆだねるちゅうこっちゃ。そやから、次の14節で、●「ですから、私の愛する
者たちよ。偶像礼拝を避けなさい」ちゅうてんねん。『イエス様と絶対につながって
いなさい』ってパウロはんは忠告してはんねん。
八: なるほどなぁ。ヤコブはんも、神様と顔と顔を突き合わして、格闘して、もものつがいを
外されて、退路を断たれて、その状況から脱出するのは、神様に拠り頼むしかない
ことを悟りはったんやな。ヤコブはんもペテロはんも、本物の信仰へと導かれはった。
やっぱ、神様のなさることはすごいなぁ。時にかなって美しい。
熊: さて、今日はこの辺でどうでっしゃろ。若さん、後はよろしゅうおたの申します。
―――――
あら、今日は熊さんがしめてくれはりましたね。八さん、熊さん、ありがとうございます。
退路を断たれることによって、もう頼りにできるのは、神様、イエス様しかいないと悟らせていただくことはとても大切ですね。「求めよ、さらば与えられん」とありますように、主を求める者に、主はそっぽを向けません。必ず応えてくださいます。もちろん、私たちの思いどおりの答えが返って来るとは限りませんが、私たちの最も適切な、かつ必要に応じて十分な答えが返ってきます。脱出の道である主を真剣に求めましょう。箴言8章17節には次のようにあります。●「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に探す者は、わたしを見つける。」
では、いつもの通り、宣言をしたいと思います。今日の宣言は、窮地に備えて、「私は、主を求めます」です。三回宣言します。
「私は、主を求めます」、「私は、主を求めます」、「私は、いつも主を求めます」アーメン!
黙想をいたします。
黙想の時にお読みするのは、詩篇34篇です。
●黙想:
黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。マタイの福音書22章37節。
「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」
黙想いたします。詩篇34篇。
黙想時の曲
[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM
https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0
●祈り
●主の祈り
天にまします我らの父よ
ねがわくは、御名をあがめさせたまえ
御国を来たらせたえ
御心の天になるごとく
地になさせたまえ
我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり
アーメン。
【YOUTUBE配信終了】
賛美⑥:ただ一つの願い
https://www.youtube.com/watch?v=UHObMeDWqHg
賛美⑦:その日全世界が
https://www.youtube.com/watch?v=JTUrlAjNL0I
●礼拝と献げものの感謝の祈り
(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)
●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」
https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM
●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21
●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏
https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0
●閉会
●連絡
次回の10月9日 午後5時から小阪チャペルにて、主日礼拝。
聖書:創世記33章