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メッセージ主題:『主に賛美』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2022.10.9主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、軽く愛餐の時をもちます。)

●午後5時開会:ただいまより、2022年10月9日主日礼拝式を始めます。

礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。

さあ、私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。

賛美①:いつくしみ深き

https://www.youtube.com/watch?v=tjbyanYNDBs

賛美②:なんと素晴らしい

https://www.youtube.com/watch?v=FwnJPpRlwvY

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

賛美③:天国にあるもの (10月の歌)

https://www.youtube.com/watch?v=xAAmZXV22xQ

賛美④:いちど死にしわれをも

https://www.youtube.com/watch?v=kD4gIzI4aAU

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。

賛美⑤:このままの姿で

https://www.youtube.com/watch?v=lsalQ_Ik9As

【YOUTUBE配信開始】

2022年10月9日 主日礼拝メッセージ

さあ、神様からのメッセージの前に2022年の年間聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

●聖書拝読:創世記33章(新改訳聖書)

中心聖句:

「彼はそこに祭壇を築き、それをエル・エロへ・イスラエルと名づけた。」(20)

メッセージ主題:『主に賛美』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。

●メッセージ

さて、この33章で、ついにヤコブは兄エサウと出会います。信仰によって変えられたヤコブは、翌朝には、もう恐れが消えていました。ヤコブは、第二の宿営グループの先頭に立って、兄エサウのもとに進みます。昨夜まで、兄エサウが打って出て来たときに、どう逃れるかと心配し思案し、いろいろと画策していたヤコブとは違います。ヤコブは兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎをしたとあります。ある解説書では、七回も地に伏しておじぎをするのは、やり過ぎだ、地にひれ伏すのは一度でいい、ヤコブは卑屈だ、兄をまだ恐れていると解説しています。ですが、私は、素直に、ヤコブが今までの兄に対してとった行動を心から詫びている姿であると取りました。そして、ヤコブが七回地にひれ伏すのを兄エサウも見て、20年前の悪感情は微塵ものこっておらず、ただただ懐かしい気持ちが込みあがって来たのでしょう。4節●「エサウは彼を迎えに走って来て、彼をいだき、首にだきついて口づけし、ふたりは泣いた。」とあります。この20年間の間に、兄エソウはヤコブを赦していたのです。

さて、ここで、ふと疑問に思いますのは、神の「兄エサウが弟ヤコブに仕える」と予告したことと、矛盾するような気がするのであります。主はエサウとヤコブの母親リベカに仰せられました。25章23節●「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから別れ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」しかし、エサウがヤコブに仕えたことはありませんし、この和解の後もそのようなことはありません。エサウが彼の定住先の死海の南側のセイルにヤコブを招いた時も、ヤコブはその招きを丁重に断って、出会ったパダン・アラムから北のスコテにしばらく移り住みます。エサウとヤコブが次に会うのは、結局父イサクを弔った時でした。では、神の「兄が弟に仕える」とは間違いだったのでしょうか。いえ、神が間違うはずがありません。では、どういうことでしょう。この言葉は、「神の選び」を表しているものかも知れないと考えさせられました。神はエサウではなく、ヤコブを選び、ヤコブをさまざまな試練を通して、真の信仰へと導き、イスラエルという祝福の名を授けたのです。ちなみに、36章では、エサウの子孫はエドム人と呼ばれるようになったとあります。オバデヤ書では、イスラエルに敵対する民としてのエドム人が描かれ、神の裁きを受けることになると書かれています。まあ、オバデヤ書では、神の裁きはエドムにとどまらず、全世界が終わりの日に裁きを受けることが宣告されているのですが。15節●「主の日はすべての国々の上に近づいている。」とある通りです。余談ではありますが、オバデヤ書の17節~21節では、エルサレムが聖別され、そこにおいて神の統治が始まると約束されています。また、オバデヤ書の最後は、「王権は主のものとなる」とあり、キリストの再臨が暗示されています。話をエドム人にもどしますと、ユダヤ古代史の資料では、エドム人は最終的にはユダヤ人に同化されて行ったということであります。同化であって、エソウの民がヤコブの民に仕えるということでないと思えます。

ヤコブとエソウの違いを「神の選び」だと考えますと、新約以降の「神の選び」は、神の御子イエス・キリストを信じるか信じないかによると言えるでしょう。では、私たちが、私たちの自由意志によってイエス・キリストを私たちの主として選んだのでしょうか、それを私たちは「神の選び」と都合よく言っているのでしょうか。イエス様は次のようにおっしゃいました。●「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネの福音書15:16)ここだけを切り出して、「私たちクリスチャンは、神に選ばれた者だ、ハレルヤ!」と思ってしまうのは大間違いであります。この15章では、イエス様が弟子たちに次のように諭しているところです。9節●「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」12節●「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」17節●「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」『わたしがあなたがたを選んだ』という16節のことばは、12節と17節の「互いに愛し合う」という戒めに挟まれていて、その互いに愛し合うということを内に向かっても外に向かっても実践するための、弟子の選びであります。しかし、私たちがイエス・キリストを主と選んだのは、私たちの自由意志に他ならないのでしょうか。パウロは次のように説いています。1コリント12章3節●「神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ』と言わず、また、聖霊によらなければ、『イエスは主です』と言うことはできません。」誰が、難しく分かりづらい聖書を一読して、または聖書の言葉の数節から「神の子キリスト」を理解し、信じ、神であるキリストに全てをゆだねることができるのでしょうか。できるはずがありません。まあ、できる人もいらっしゃるかもしれませんが、大抵の人はできません。使徒の働き8章に登場するエチオピアの宦官がいい例です。聖書を手にして読んだはいいが、さっぱり分からない。そこへ御霊がピリポに語りかけ、ピリポはそのエチオピアの宦官に、イザヤ書の解き明かしをし、イエス・キリストのことを宣べ伝え、バプテスマを授けます。エチオピアの宦官が聖書を理解するのにはピリポの助けが必要であり、ピリポが聖書の解き明かしをするには聖霊の導きが必要でした。つまりは、聖霊の働きなくしては、聖書理解はありえません。それゆえに、聖霊によらなければ、主イエスを信じることもできないのです。

また、もともと、聖書を手にした時点で、何らかの聖霊の導きがあるのです。そして、今日、ここに集われておられる皆さまも、またYOUTUBEをご覧の皆さまも、聖霊様がそれぞれに働かれているのです。まして、主を呼び求める者のために、神が御手を差し伸べられない訳がありません。主を呼び求める者のために、あらかじめ、神は御子イエス様をこの地上へとお送りくださり、そしてイエス様は、十字架を受け入れられ、死んで墓に葬られ、三日目によみがえって天に昇り、助け主である聖霊様を送ってくださいました。このことは、世の始めに天の父である神がご準備してくださった福音であります。

神は、ウルの地からアブラハムを選び出し、イシュマエルではなくイサクを選び、また、エサウではなくヤコブを選び、神は全世界の人々を罪により永遠の死から救わんと、ヤコブの子孫からイエス・キリストを誕生させます。すでに、全人類の救いの準備はイエス・キリストによって完了しています。あとは、私たちの側にあります。イエス・キリストを信じる、いや信じて行こうとする決意と告白が必要です。しかし、そのイエス・キリストを求める決心にも、聖霊様が働いてのことです。目に見えないお方を信じるには、目に見えない聖霊様の助けが必要なのです。

ヤコブは32章で、目に見えないはずの神と格闘したとありますが、先週、私たちは、その格闘は、ヤコブの神を求める祈り、肉と霊との戦いのような祈りだったと理解しました。それは、イエス様のゲッセマネのオリーブ山での祈りと同じではないでしょうか。「『父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。』すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」(ルカ22:42-44) イエス様も自分の思いと神の思いの間で祈りながらゆれていたのです。そして、ついには、その心の揺れを天の父なる神への祈りを通して、父なる神に克服させていただいたとも言えるでしょう。

ヤコブのその時に、もものつがいが外されたのは、肉の思いである自己中心的な考えが一時的であったとしても、取り去られたことを意味すると先週教えられました。私たちが生きている限り、肉の思いが永久に取り去られることはありません。また、ヤコブの「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」と神にしがみついたのは、彼なりの信仰告白であったことも学びました。そして、今日の33章で、ヤコブは兄エサウと和解し、再びそれぞれの道を歩みます。もちろん、和解したのですから、お互いに連絡が取れるよう、比較的近くに住むことになります。ヤコブは兄エサウと別れたのち、カナンの地にあるシュケムの町につき、その手前で天幕をはり、その土地を購入して、祭壇を築きました。以前、ヤコブが兄エサウを逃れて、独りぼっちで旅をしているとき、神と夢の中でであった場所ベテルに「石の柱を立てて、油を注いだ」とあります(創世記28章18節)。ですが、「祭壇」という言葉は用いられていません。この時点からヤコブには神への信仰が始まったのですが、肉的な思いのまさる稚拙な信仰でした。ですから、ベテルに祭壇を築いたとは記されていないのです。ヤコブがベテルの石の柱のところに「祭壇」を築いたのは、ずっと後で、35章にそのことが記されています。このことについては、35章のメッセージの時に触れさせていただきます。ヤコブがカナンの地シュケムの土地に「祭壇」を築いたとあるのには、とても意味深いと私は思わされています。ベテルの「石の柱」がヤコブの信仰の始まりだとすれば、シュケムの「祭壇」は、ヤコブの信仰の成熟とも考えられないでしょうか。もちろん、まったく肉的な思いがなくなったというのではありません。信仰の父アブラハムも、神に従順を示したイサクも、肉的な思いはなくなりませんでしたが、すばらしい信仰の持ち主でした。そして、ヤコブもその一員となったのです。肉的な思いのない信仰の持ち主は、イエス様だけです。私たち人間は、みな罪人であり、その肉的な思いを自分の十字架として背負って生きて行かなくてはいけないのです。失敗を繰り返しながら、一歩でも半歩でも神様の御前に近づかせていただきたいと、日々主と共に歩ませていただくのです。「祭壇」では、祈りと賛美といけにえがささげられます。しかし、現代の私たちにはいけにえは必要ありません。イエス様がそのいけにえとなられたからです。イエス様がよみがえられたことで、イエス様といういけにえは、永遠に効力があるのです。ですから、いえにえは必要ありませんが、「賛美のいけにえ」ということばがあります。私たちの悔いた心・神に拠り頼む心を賛美に合わせてささげるのです。詩篇51篇17節では、●「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」とダビデは詠っています。「祭壇」は、特定の場所を差す時もありますが、祈りと賛美をささげる場所が祭壇となります。つまり、いつでもどこでも祭壇となりうるのです。

ヤコブは旅の平安と無事に感謝し、シュケムに「祭壇」を築きました。そして、そのシュケムは、主がアブラム(後のアブラハム)に現われ、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」という約束を与え、その約束に応えてアブラムが、人生で初めて祭壇を築き、神を礼拝した土地であります。その祝福を約束された土地で、ヤコブは祭壇を築き、「エル・エロへ・イスラエル」と名づけました。「エル・エロへ・イスラエル」とは「神はイスラエルの神」という意味です。エルは、「神」、エロへはエルの複数形エロヒムの変化形で、「神々」を意味します。「神々」とは、いろいろな神がいるということではなく、「父なる神、子なるキリスト、聖霊」という複数の性質を表すとも考えられています。また、「エロヒム」は神を強調する時にも用いられるとも聞いたことがあります。ヤコブは、シュケムにおいて、主の祝福を感謝したのです。アブラハムもヤコブも、主に感謝を表すために祭壇を築き、祈りと賛美をささげました。私たちも、過去の事柄の感謝であれ、今の事柄の感謝であれ、未来の事柄の感謝であれ、主に感謝を表すために、いつでも、どこでも、主に祈りと賛美をささげようではありませんか。私たちの心の中に主の宮があるのですから。

さて、今日も天国長屋の八さん、熊さんに登場いただきましょう。

八さん、熊さん、よろしくお願いいたします。

―――――

八: 神様の「兄が弟に仕える」というのは、若さんの言うように、「神様の選び」

やったかもしれへんなぁ。けんど、そこのところのメッセージをききながら、

「後の者が先になり、先の者が後になる」ちゅう御言葉、思い出しててん。

熊: それって、マタイの福音書20章16節やなぁ。ぶどう園で日雇いではたらく人と

その賃金のたとえやろ。

八: そや。朝早くから雇われて丸1日働いた労働者も、夕方から働き始めて1時間ほどしか

働いてない労働者も、同じ賃金をもろた。賃金は天の御国での「永遠のいのち」や。

旧約時代からの義人も新約時代のわてらも、同じように救いに預かれる、

永遠のいのちがいただけるんや。そこには早いもん勝ち、ちゅう感覚はあらへん。

また、長いこと働いたから多くもらえるちゅう感覚もあらへん。

それに、これはイエス様が再びいらした時のことや。

熊: せやなぁ。けんど、なんでそれが、「兄が弟に仕える」のと関係があるん?

それとも「神の選び」の方か?

八: ヤコブはんのイスラエルは、エサウはんのエドムと仲が悪かった。

けんど、最終的には同じユダヤ人となっていったって、若さんゆうてはったやろ。

同じユダヤ人となって、永遠のいのち、いただける可能性はある、ちゅうことやろ?

熊: まあ、ユダヤ人は神様に選ばれた民やさかいなぁ。けんど、ユダヤ人かて、

イエス様を信じひんかったら、救われへんのとちゃうか。

八: わてもそうやと思うんやけど。神に選ばれたユダヤ人、イスラエルは特別やからなぁ。

あー、分からん。けんど、なんで「後の者が先になり、先の者が後になる」ちゅう

御言葉思い出したんやろ。

熊: そんなん、わてに聞かれても分かるわけないやないかいな。

それより、わては今日のメッセージを聞きながら、「祭壇」のことを考えてたわ。

多くの日本人の家には、神棚や仏壇がある。そこに神が仏さんが宿っている

と考えられてるからやな。教会には十字架がある。

わてらの家にも「祭壇」があってもええんとちゃうかぁなって。

八: たしかに、若さんがいうように、わてらの心の中に「主の宮」があるから、

いつでもどこでも、主に祈り、主を賛美することができる。

けんど、家庭祭壇というのもあるそうやでぇ。仏壇のように観音開きになってて、

そこには十字架が飾ってある。カトリックさんやったら、イエス様やマリア像が

飾ってあるのもあるらしい。

シンプルなんやったら、十字架だけを置いててもええそうや。

熊: それやったら、1人になって神様と静かに交わっている場所に

十字架をかけててもええんやな。

八: 祭壇に聖書をおいていてもええなぁ。祭壇って仰々しくなくても、わてら貧乏人には、

シンプル~に、十字架を壁にかけているだけでええんとちゃうやろか。

まあ、それが祭壇とよべるかどうかは、わからんけど。

熊: 観音開きのような祭壇やったら、やっぱり教会の牧師先生に相談した方がええやろうけど、

十字架を壁にかけるぐらいやったら、大丈夫なんとちゃうかなぁ。

八: 祭壇があってもなくてもええけど、わてらの心の中に「主の宮」があることを

忘れんようにせなあかんな。な、若さん、そう思うやろ。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。たしかに、私たちの心の中に「主の宮」があることを忘れてはいけません。助け主であり主の平安である聖霊様が私たちの心の中に宿っておられます。私たちがそのことを忘れて、祭壇にだけ注目してはいけません。祭壇は主への感謝のしるしです。しかし、祭壇の前だけで、感謝をしたり、祈ったり、賛美したりするのは、間違いです。祭壇がつまづきになってはいけません。本末転倒です。祭壇があってもなくても、どんなことにも感謝し、どこでも祈り、いつでも主を賛美する。私たちは、そのような者でありたいと思います。まあ、祭壇を置くんでしたら、シンプル~に、十字架だけにしておいた方がいいかもしれませんね。

では、いつもの通り、宣言をしたいと思います。今日の宣言は、「いつでも、どこでも、主に賛美」です。三回宣言します。

「いつでも、どこでも、主に賛美」、「いつでも、どこでも、主に賛美」、「いつでも、どこでも、主に賛美」アーメン!

黙想をいたします。

黙想の時にお読みするのは、詩篇99-100篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。ヨハネの福音書17章24節。

「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」

黙想いたします。詩篇99-100篇。

黙想時の曲

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

 

賛美⑥:主は我らの太陽

https://www.youtube.com/watch?v=Noaf5Y1jK20

賛美⑦:主に賛美

https://www.youtube.com/watch?v=v5V7Ay1ogNQ

●礼拝と献げものの感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の10月16日 午後5時から小阪チャペルにて、主日礼拝。

聖書:創世記34章