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メッセージ主題:『主にある交わりを大切に』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2022.10.16主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、軽く愛餐の時をもちます。)

●午後5時開会:ただいまより、2022年10月16日主日礼拝式を始めます。

礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。

さあ、私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。

賛美①:鹿のように

https://www.youtube.com/watch?v=cU-r7dYIj58

賛美②:どんな時でも

https://www.youtube.com/watch?v=64er54gdx2E

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

賛美③:天国にあるもの (10月の歌)

https://www.youtube.com/watch?v=xAAmZXV22xQ

賛美④:主われを愛す

https://www.youtube.com/watch?v=FYptcS91X6M

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。

賛美⑤:聖いお方

https://www.youtube.com/watch?v=zNMDSBv16W4

【YOUTUBE配信開始】

2022年10月16日 主日礼拝メッセージ

さあ、神様からのメッセージの前に2022年の年間聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

●聖書拝読:創世記34章(新改訳聖書)

中心聖句:

「レアがヤコブに産んだ娘ディナが、その土地の娘たちを訪ねようとして出かけた。」(1)

メッセージ主題:『主にある交わりを大切に』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。

●メッセージ

この34章は、個人の事件としての性格と、民族の事件としての性格の両方を兼ね備えています。1節のヤコブとレアとの間に生まれた娘ディナが、シェケムの土地の女性と交わりを持つことが、事件の発端であるかのように書かれていますが、元はと言えば、33章19節でヤコブがシェケムの町に到着し、天幕をはった土地を買い取ったことから、34章の事件へと発展していくのであります。ヤコブがその土地を買い取ったことにより、遊牧民であるヤコブの民が定住し、それによる他民族との文化的交流、慣習的交流がなされ、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神をあがめていた民にとってみれば、シェケム民族のモラルは低く、またそのモラルの低下が、イスラエルの民の信仰の低下にまで及ぶのであります。事実、娘のディナは、シェケムの娘たちと交わりをもち、シェケム族の族長のヒビ人はハモルの子シェケムと良い仲になってしまいます。恐らくシェケム族の人たちの性的モラルは低かったのでしょう。娘ディナも、シェケム族の女性との交流によって、その性的モラルの低さに感化されていったのではないでしょうか。モラルの低さが魅力的に感じてしまう、罪の性質が私たちには備わってしまっているからです。また、シェケムの町の女性が着飾っているのをディナも見て、魅了されていったのかもしれません。ディナにも心の隙がなかったとは言い切れないのではないでしょうか。付き人もつれず、ひとりで、恐らく親にもだまって、遊びに行ったのです。一方、ハモルの子シェケムにとっては、結婚前に交わることも、モラルの低さゆえに、平気だったかもしれません。しかし、イスラエルの民にとっては、婚前交渉は許されないことでした。とりわけ、ディナの実兄シメオンとレビにとっては、妹の身の上に起きたことは受け入れられないことでした。しかし、ヤコブは彼らが帰ってくるまで黙っていました。妹ディナを恥ずかしめられたと知った兄シメオンとレビは、妹ディナと結婚したいと言ってきたシェケムと彼の父ハモルに対し、結婚の条件として割礼をほどこすことを持ち出します。15-16節●「ただ次の条件であなたがたに同意しましょう。それは、あなたがたの男子がみな、割礼を受けて、私たちと同じようになることです。そうすれば、私たちの娘たちをあなたがたに与え、あなたがたの娘たちを私たちがめとります。そうして私たちはあなたがたとともに住み、私たちは一つの民となりましょう。」もうここでは、ディナ一個人の結婚の問題ではなく、民族としての結婚へと話が大きくなっていきます。シメオンとレビの悪だくみは、割礼をほどこした男子が、痛みで弱くなったところを襲い、彼らを滅ぼすというものでした。そして、それは実行されます。シェケムの男たちを滅ぼすだけならまだしも、かれらの全ての持ち物、家畜から妻子まで全財産を略奪してしまいます。そして、その略奪にはヤコブのほかの息子たちも加担します。ようやくここでヤコブは、シメオンとレビのしたことをとがめますが、後の祭りであります。まあ、とがめるというよりは、愚痴を言っているかんじです。不思議なことに、この一連の事件で、ヤコブは沈黙を守っています。ここにヤコブの弱さがあります。ヤコブには4人の妻がいて、それぞれの妻には子供がいて、この時点ではまだベニヤミンは生まれていませんので総勢11人の子供、4人の妻。ヤコブは、大所帯の複雑な家族構成の中で、いろいろと調整や駆け引きをし、また閉口し、気苦労することも多かったのではないでしょうか。ヤコブは疲れ、すこし自信をなくしていたのかもしれません。族長であるにもかかわらず、疲れ切ったヤコブはだんまりを決め込んでいたのかもしれません。そのヤコブのだんまりが、この事件を深い悲しみへと追い込んで行ってしまったのです。そして、神の導きもこの事件の後に、35章の冒頭で行われます。いえ、これは私の想像ですが、だんまりを決め込んだヤコブは、神にこの事件の早急なる解決を求めなかったのではないでしょうか。ヤコブは、ある意味、家族間の問題で疲れ切って、自暴自棄に陥っていたとも考えられるのではないでしょうか。ですから、34章の最後の方30節で、この殺戮強奪の首謀者である、シメオンとレビに次のように告げます。●「あなたがたは、私に困ったことをしてくれて、私をこの地の住民カナン人とペリジ人の憎まれ者にしてしまった。私には少人数しかいない。彼らがいっしょに集まって私を責め、私を打つならば、私も私の家の者も根絶やしにされるであろう。」これは、シメオンとレビを叱責している言葉ではありません。彼らに愚痴を言っているとしか思えません。それに、彼らの罪を指摘し、謝罪の方法を指示するわけでもなく、「私に」「私を」「私には」と自分の面子のことや人数が少ないから滅ぼされると心配し、この時点でも、いえその以前から、神の知恵と導きを求めることをしていないのは、まことに残念であります。

この忌むべき事件は、遊牧民であるイスラエルの民が、定住することで、先住民族と交わり、モラルが低くなり、神を恐れなくなってしまったことから起こりました。また、事件の発端の時に、ヤコブが、神の知恵と導きを求め、解決方法をさぐらなかったことから、深みへと陥ってしまいました。

現代の私たちは、このことをどう考えるべきでしょうか。3つの点が考えられます。1つ目は、クリスチャン以外の人との交わりについて。2つ目は、家族での交わりについて。3つ目は、神との交わりについて、であります。

◎1つ目のクリスチャン以外の人との交わりについて。

パウロは、コリント人への第二の手紙で、次のように述べています。●「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるのでしょう。」(6:14) パウロは、クリスチャンが、クリスチャン以外の人と交際することを避けなくてはいけないといっているのではありません。クリスチャン以外の人と同じ生き方をしてはいけないと忠告しているのです。ローマ人への手紙では、このように導いています。●「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」(12:2) 当然、私たちクリスチャンも、この世の中に生きていますので、学校や、会社や、社会において、いろいろな方とのお付き合いがあります。また、そのお付き合いなくしては、福音は伝えられません。福音を伝えるための第一歩は、友情の架け橋を築くことであると、私は考えています。もちろん、福音を伝える方法はたくさんあるでしょう。しかし、福音を右の耳から左の耳へ素通りさせるのではなく、心に留めていただくには、その友情の架け橋は重要であると考えます。言うまでもありませんが、すべては聖霊様の働きによらなければ、福音を伝え、心に留めていただき、主イエスを信じていただくことはできません。人とのお付き合いにおいて、『この世と調子を合わせてはいけない。また神のみこころは何かを求める』ことを常に心に留めておくことが大切です。キリストによって、一新された者として、キリストを判断基準とする生き方において、人との交わりを進めて行く必要があります。

◎2つ目の家族での交わりについて。

ヤコブは、意図せずとも、4人の妻を持ってしまったことによる、複雑な家庭環境を築いていってしまったことに、彼のだんまり、父親としての権威の失墜があります。妻は1人で十分、いえいえ、1人を愛し続けることによる平和と幸福がございます。神はアブラハムの妾であるハガルをアブラハムから去らせました。ハガルは、アブラハムの妻サラがアブラハムに与えた女性ですが、後にサラとハガルはお互いにいがみ合ってしまいます。夫はひとりの妻を愛しつづける、これでいいのであります。夫が浮気もせず、ひとりの妻を愛していただけでいいのか。いえいえ、妻の方にも努力していただかないと困るのであります。「亭主元気で留守がいい」という言葉がございますが、確かに、それのほうが妻は活き活きしているのかもしれません。定年退職後、夫が家にいることが多く、金魚のフンのように妻に付きまとうので息苦しい、という声もちらほら。夫は、日ごろ妻孝行ができなかったからと、定年後張り切ってしまうのですが、妻としては生活のリズムが狂うので、うっとうしい。やはり「亭主元気で留守がいい」となってしまうのですが、それの原因は、定年後にあるわけではなく、日ごろの生活に問題があるのではと思うのであります。聖書には、テモテへの第1の手紙3章4節では、●「自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人」が、良き夫であり良き父親であるとあります。また、エペソ人への手紙5章22節~25節では、妻たる者と夫たる者の姿が表されています。●「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」妻には『夫に従いなさい』とありますが、夫には『妻を愛しなさい』とあります。『夫に従う』という言葉に抵抗がある方もいらっしゃるでしょう。『夫を立てなさい』という言葉になおしたらいかがでしょうか。少しはできそうな感じになりましたでしょうか。たとえば、次のような言葉をぐっとしまい込むようにされれば、分かりやすいでしょうか。「どうしてあなたは、いつも、、、」とか「なんど言っても、、、」とか。まあ、具体的はことは、ともかくとして、家庭において、キリストを中心とする平和を築き上げることが大切だと思われます。母親が父親を立てれば、子供たちも父親に一目置くことになるでしょう。だんまりヤコブは、その事ができていなかったのではないでしょうか。シメオンとレビを筆頭として子どもたちが、神と父をないがしろにして、好き勝手なことをしてしまいます。

◎3つ目の神との交わりについて。

34章では、この窮地にも、ヤコブや子どもたちの神との交わり、神への求めが全く記されておりません。遊牧民であるヤコブ一家は、シェケムに土地を購入し、そこに祭壇を設け、「エル・エロへ・イスラエル」(神、イスラエルの神)と名づけ、定住しますが、そこでの問題は、神を礼拝し続けなかったことにあるのではないでしょうか。ヤコブは感謝の祭壇を設け、そこで安心してしまい、神との交わりが希薄になっていってしまったのではないでしょうか。私たちが、「洗礼」を受けた後、安心してしまって、教会から遠ざかったり、礼拝を重んじなかったりするのと同じことなのかもしれません。「洗礼」は信仰の始まりであり、完成ではありません。モーセの民がエジプトをでて、約束の地カナンに到着するまで、神が毎日マナという食べ物を民に与え、神に感謝をささげ、神を敬いあがめることを、また神により頼むことをお教えくださったように、私たちも毎日神様との交わりをもつ必要があります。このことを怠ったがゆえに、ヤコブ一家は事件を起こし、一家の危機へと転がり落ちて行きました。私たちも同じであります。いつなんどき、事件を起こし、また事件に巻き込まれるかもしれません。その時、日々の神様との交わりが、苦難の中にも平安を導いてくださいます。

3つの交わりについてみてきましたが、お分かりのように、この3つの交わりは『神との交わり』に集約できます。日々の生活における、神との親密な交わりがあれば、ヤコブ一族のこの事件は起こっていなかったかもしれません。若いディナの、しきたりや文化の違いを無視した心の隙、ヤコブの、周りに配慮しすぎる心の隙、そして、シメオンたちの、罪を罪でもって復讐するという心の隙が、この不幸な事件を招いたのです。日々において、神との親密な交わりを大切にし、このような心の隙ができないように、主に導いていただきましょう。

さて、今日も天国長屋の八さん、熊さんに登場いただきます。

八さん、熊さん、よろしくお願いいたします。

―――――

八: 心の隙かぁ、危ないなぁ。熊なんか、隙だらけやから、気をつけなあかんでぇ。

熊: あほぅ、八に言われとうないわ。こないだかて、近所のこどもたちと、

スポーツチャンバラしてて、「隙あらばかかってこい」いうてる間に、

ボコボコにされとったやないか。

八: あれは、ちょっと油断してただけや。

熊: その油断が心の隙やちゅうねん。わてら、「イエス様いのち」って日ごろからゆうとる。

けんど、イエス様からみたら、「隙だらけやないかい!」とおしかりをうける

かもしれんでぇ。

八: イエス様なにがなんでも、あのスポーツチャンバラの柔らかい棒で、

「パコーン」なんてせえへんでぇ。

熊: 当たり前やないかいな。イエス様は隙だらけのわてらを、「しゃぁないなぁ」って

思ってはるかもしれへんけど、愛してくださってるんや。

まあ、憐れんでくださってるんやな。

八: なんや、それって、ペテロはんが、「イエス様なんか知らん」ゆうて、自分の身を

守ろうとしたときに、引き連れていかれてるイエス様と目と目がおうた。

そのイエス様の憐れみのまなざしと同じかえ。

熊: まぁ、そういうこっちゃなぁ。イエス様は、わてらが隙だらけ欠けだらけであることを

ご存じの上で、憐れんでくださってるんや。ところで、八、ディナちゅう、

ヤコブはんの娘はんやけど、結構、自由奔放な子やったんとちゃうかな。

八: なんでまた、そう思うねん。

熊: だって、そやないか。族長の娘やで、ディナおじょうはんは。

そのお嬢が、ひとりで、だれもおつきの人を伴わんと、シェケムの町の同じ年ごろの

娘はんたちに会いに行ったんやろ。今でゆうたら、繁華街にひとりで遊びに行ったんと

かわらんのとちゃうか。はじめは女子はん同士で遊んではった。

そこに遊び人のシェケムぼっちゃんが現れた。

八: なるほど、ほんでシェケムぼっちゃんは、町の人間やから、多少は垢抜けとる。

熊: そや。なぁ、田舎娘なんかいちころや。シェケムぼっちゃんにボーッとなる。

八: んで、二人はねんごろとなってしもたんやな。シェケムぼっちゃんも、ディナお嬢はんを

好いてた。そんでもって、お父はんのハモルはんに、「結婚したい」ゆうて。

熊: ハモルはんは、町の名士や。ヤコブはんのところに行って、ディナお嬢はんを嫁にほしい、

支度金はいくらでも出すから。これでことが収まると、ハモルはんは思てた。

それに、族長同士の娘と息子の結婚や。勢力的にも、好都合や。

八: ヤコブはんは、だま~っとったけど、野から帰ってきた息子たちは、それを聞いて怒った。

熊: 当たり前やわな。やんちゃかもしれへんけど、かわいい妹が手籠めにされたんや。

それに謝りもせんと、上から目線で、結婚を前提に金で解決しようとした。

怒って当然や。けんど、その後が悪い。息子たちの悪だくみも相当やで。ところで、八、

ハモルはんがヤコブはんを訪ねた時、ディナはんはどこにおったと思う?

八: せやなぁ、手籠めにされて泣く泣く帰ってきたんやったら、お母はんのレアはんの

ところやろな。けんど、シェケムはんとディナはんが、お互いに好きどうしやったら、

ディナはんはシェケムはんと一緒やろなぁ。

熊: わては、ディナはんは、シェケムはんのところにおると思うねん。34章の1節目に

ディナはん登場するけど、シェケムの町に行ってから消息不明や。

やから、わては、ディナはんは、シェケムはんといっしょにおるとにらんでるんや。

八: そんで、熊はけっきょく何が言いたいねん?

熊: こんどの事件は、自由奔放なディナはんの行動に原因があるや。けんど、ディナはんを

ちゃんと教育でけへんかった父親ヤコブはんにも責任がある。この当時は、

今よりも父親の権威があったはずや。それやのに、ヤコブはん、まったくリーダー

シップを発揮せんダメ親父のイメージや、この34章ではな。つまりは、ヤコブ一族は、

この時、信仰的にダレとんねん。リーダーである親父の信仰が祭壇を築いた時点では、

成熟したはずやのに、心の隙がどっかにあったんやろなぁ。

八: その心の隙の兆し、ヤコブ一家の信仰のアキレス腱ちゅうかな、

わて今わかったような気がする。

熊: なんやねん、その信仰のアキレス腱ちゅうのは?

八: ラケルはんや。

熊: ラケルはんて、あのヤコブはんの嫁はんかいな?

八: せやがな。

熊: なんでまた?

八: 覚えてるか。ラケルはんが父親ラバンはんの大事にしてたもの。

熊: ああ、テラフィムやろ。ラケルはんが、おいどの下敷きにして隠し持って行ってしもた

小さい偶像。

八: あれは、偶像礼拝の偶像や。あのテラフィム、どこにあるか知っているか。

熊: あれから、聖書には何にも書いてないから、まだラケルはんがもってるんやろなぁ。

八: そやねん。ラケルはんも、そして、おそらく姉のレアはんも、ヤコブはんにかくれて、

偶像礼拝に近いことをしてたかもしれへん。ひょっとしたら、ヤコブはんも知ってても

知らんふりしてたかもしれへん。そのことが、今回の事件の発端なんとちゃうやろか。

信仰のあいまいさ。心の隙どころとちゃうな、心の亀裂や。わてらもようよう

気をつけんとあかん。

熊: せやなぁ。わてらには、テラフィムみたいな分かりやすい目に見える偶像はもってない

かもしれんけんど、目に見えへん偶像があるやもしれん。

八: たとえば、見栄やプライドもそやろうしなぁ。執着しているもん、み~んな書き出して、

注意しとかなあかんな。さて、この辺で若さんと交代しょうか。

若さん、はい、バトンタッチ!

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。この事件の発端は、土地を買ったことじゃなくて、ラケルの隠し持っていたテラフィムですか。なにか、金田一耕助の謎解きシリーズのような、はたまた、火曜サスペンスドラマのような展開ですね。けれど、八さんの言う通りかもしれません。次の35章では、八さんの推理が正しいことが証明されるでしょう。

夏前に、「父の学校」というクリスチャン男性のプログラムを受講したのですが、そのときの毎回のシュプレヒコールが、「父が生きると家庭が生きる」というものでした。ヤコブは34章では、ほとんど死んだも同然の存在でした。34章でのヤコブの家庭は、バラバラでした。主がヤコブたちの心に生きていなかったともいえます。「父が生きると家庭が生きる」というシュプレヒコールは、実は「神が人の中で生きると人が生きる」「神が生きると人が生きる」というものに言い換えることができるのです。そして、私たちの中で神が生きるとは、私たちの中で聖霊様が働いてくださる、私たちが日々主と交わるということなのです。心の隙を聖霊様によって気づかせていただき、またその隙間を埋めていただきましょう。

では、いつもの通り、宣言をしたいと思います。今日の宣言は、「人の中で」という言葉を心で付け足して「神が生きると人が生きる」です。三回宣言します。今回のは、宣言というよりはシュプレヒコールです。

「神が生きると人が生きる」、「神が生きると人が生きる」、「神が生きると人が生きる」アーメン!

黙想をいたします。

黙想の時にお読みするのは、詩篇16篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。ヨハネの福音書5章17節。

「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」

黙想いたします。詩篇16篇。

黙想時の曲

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

 

賛美⑥:主は良いお方

https://www.youtube.com/watch?v=Pap_uwrW1hE

賛美⑦:ただひとり

https://www.youtube.com/watch?v=OEdTD-bybPs

●礼拝と献げものの感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の10月23日 午後5時から小阪チャペルにて、主日礼拝。

聖書:創世記35章