ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル
2022.10.30主日礼拝式
(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、軽く愛餐の時をもちます。)
●午後5時開会:ただいまより、2022年10月30日主日礼拝式を始めます。
礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。
さあ、私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。
賛美①:聞けわれらの賛美
https://www.youtube.com/watch?v=UQt8878IkYs
賛美②:望みも消えゆくままに
https://www.youtube.com/watch?v=GZjaJuVMYP8
●使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、
永遠の生命を信ず。アーメン。
賛美③:天国にあるもの (10月の歌)
https://www.youtube.com/watch?v=xAAmZXV22xQ
賛美④:主イエスの十字架の血で
https://www.youtube.com/watch?v=0HDeZ6KnlNM
●十戒
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。 それらに仕えてはならない。
あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。
安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
あなたの父と母を敬え。
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
あなたの隣人の家を欲しがってはならない。
賛美⑤:マラナタ
https://www.youtube.com/watch?v=z-tvvE53K_A
【YOUTUBE配信開始】
2022年10月30日 主日礼拝メッセージ
さあ、神様からのメッセージの前に2022年の年間聖句をいっしょに唱えましょう。
ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)
●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
●聖書拝読:創世記36章(新改訳聖書)
中心聖句:
「それでエサウはセイルの山地に住みついたのである。エサウとはすなわちエドムである。」(8)
メッセージ主題:『神の約束と神の選び』
改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。
できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。
●メッセージ
創世記36章は、エサウ、すなわちエドムの歴史であり、エサウの妻子、エサウの子孫、エドム人の族長たち、ホリ人の族長たち、エドムの王たち、エドムの族長の表と、6つの部分に分かれています。エサウたちは、ヤコブたちがベテルに帰って来る以前に、セイルの地域、つまり死海の南側の山地に定住していました。
この36章は、エサウが生きている時だけのことではなく、ダビデの時代にエドムが征服されて、イスラエルの一部となるまでの、200年から250年ぐらいの間の族長の年代表の記録であると考えられています。エサウ自身は、気の良い人間であり、ヤコブとの再会のときには、ヤコブをすっかり赦していました。しかし、エサウの子孫たちは、ヤコブがエサウの長子の権利を横取りしたことを根に持って、イスラエルと小競り合いを繰り返していました。しかし、ダビデの代にイスラエルに征服され統合吸収されていきました。
さて、エサウは、ヤコブと違い、ヤコブのような紆余曲折も苦難もなく、順調に繁栄をつづけ、族長としての信頼もあつかったようであります。つまり、人間的には大きなつまづきもなく、比較的、何不自由もなく成功を収めた人のようであります。当然、聖書での、エサウの記述は乏しく、表面的にしか分かりませんが、ヤコブとの対比として描かれているような気がします。ヤコブはその計算高く人を出し抜くという性格もあり、いろいろと苦労し、壁にぶち当たるのですが、神は、エサウではなく、そのヤコブを選び、鍛冶屋が鉄を鍛えるように、陶器師が粘土を練りこむように、神に全きより頼む人間として、造り変えていきます。親は出来の悪い子ほど可愛いと申します。ひょっとすれば、神も同じなのかも知れません。まあ、人間的な良し悪しではなく、神の目からみて高価で尊い人を選び、鍛え、救い出すので、ありましょう。
では、神の目からみて高価で尊い人とは誰なのでしょう、どういう人なのでしょうか。それは、私たちにはわかりません。神のみぞ知る選択です。神の勝手といえば勝手ですし、神の救われるべき人のパターンを考えたとしても、無意味でしょう。そういうパターンがあることを前提に考えてしまっていますし、またそのパターンを人間が考えられるとしたら、人間が神の知恵を限定していることになります。また、逆に人間が神をコントロールしていることにもなります。被造物である人間が、創造主である神を分かり、ある意味コントロールできる、神と肩を並べることができると思うことほど、ばかげたことはありません。不遜で高慢であり傲慢です。バベルの塔を作ろうとした民と同じであります。人間は例外なく死ぬまで罪人であり、神の義にまったく及ばない者であります。しかし、その私たちを神は愛おしく思ってくださって、御子イエス様をこの世にお送りくださり、その御子の命と引き換えに、私たちの過去・現在・未来の罪をお赦しくださったのです。それだけ、私たちは、神に愛されているということになります。
では、もともとの話でありますが、神の選びはあるのでしょうか。イエス様は、マタイ書の最後に「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」と弟子たちに申し付けました。いわゆる、イエス様の大宣教命令です。神の御子イエス様には、全世界の人々を救おうとする強い意志がみられます。しかし、イエス様の種を蒔く人のたとえ話には、福音の種を蒔いても、救われる人と救われない人のことが表現されています。マタイの福音書13章です。「道ばたに落ちた種を鳥が食べてしまう」とは、『福音、つまりイエス様の救いの恵みを聞いても、誰かに惑わされてしまう』ことです。また、「岩地に蒔かれた種は芽がでるが、根が十分に生えず枯れてしまう」とは、『福音を受け入れるが、福音のことで困難や迫害があるとつまずいてしまう』ことです。そして、「良い地に蒔かれる種が、百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶ」とは、『福音を自分のものとし、神をあがめ賛美し、福音を伝えていく』ことです。それにつけ足して、マルコの福音書4章には、「いばらの中に落ちた種は芽が出るが、実を結ばない」とあります。『福音を聞いてはいるが、世間や社会に縛られて、福音のもつ自由を理解せず、信仰を失ってしまう』ことです。
イエス様は全人類の救いのために来られ、永遠のいのちの約束は全員に与えられていますが、受ける側に問題がある、いえ問題ではなくて、さまざまな内的外的な、障害・妨げ・つまずきがあるとも考えられます。種をついばむ鳥がいるのなら、その鳥が来ないような知恵や注意力を神さまにいただけるよう、周りの人が祈り用心しなくてはならないでしょうし、岩地の種には、そこに土をかぶせてあげ、水を与える根気と優しさも必要なのかもしれません。また、いばらの中の種には、そのいばらの土地から植え替えることも勇気をもって行わなければならないでしょう。それが、先に救われた者、種が芽を出し根をはり、十分な大きさになった者の、祈りをもってしての役割かもしれません。陽を当て、種を育てるのは神さまです。しかし、土を耕し、種を蒔き、鳥のついばみをさける覆いをはったり、水をあげたり、種に土をかぶせたり、はたまた植え替えをするのは、信じる者の集まりである教会の仕事なのでしょう。
神の選びは確かにあります。聖書には、創世記もそうですが、そのように思える箇所がたくさんでてきますし、神さまもそうおっしゃいます。また、イエス様ご自身、弟子に対して、「わたしが選んだ」とおっしゃいます。しかし、その神の選びは私たちには分かりません。分からないからこそ、私たちは、聖霊様の導かれるまま、土を耕し(つまり、友情の架け橋をつくり)、種を蒔き、水をあげ、寒すぎず熱すぎずと調整をし、また外敵から守らないといけません。それが、たとえ神の選びからもれたエサウであったとしてもです。神の選びは結果としてしか分からないからです。イエス様の毒麦のたとえを思い出してみてください。
マタイの福音書13章24節~43節までにあります。毒麦と考えられている厄介な雑草を、畑から抜き取りたいと申し出る使用人に対して、「それでは小麦も一緒に引き抜いてしまうかもしれない。両方を収穫の時まで共に育つままにするよう」家の主人から命じられるというたとえです。つまり、イエス様が裁き主として再び来られる終末の時、つまずきとなる者と不法を行う者を、取り集めて、炉の中にくべ、焼いてしまうというものです。かれらは、選ばれず天の御国には入れません。「収穫の時まで共に育つままにする」ということは、私たちが判断するのではなく、両方とも分け隔てなく同じように世話をしなくてはいけないということでもあります。つまり、エサウであろうが、ヤコブであろうが、教会に来る人を拒んではいけないのです。もちろん、種をついばむ鳥や葉っぱや根を食い荒らす虫たちは、注意して取り除かなければいけません。それも、すべて聖霊様の知恵と力をいただかなければいけないでしょう。
さて、聖書の本流のアブラハム・イサク・ヤコブの物語に挟み込まれた、神の選びからもれたエサウを祖とするエドムの歴史を、私たちはどのように、私たちの信仰の中に取り込んでいけばいいのでしょうか。
ある牧師先生は、創世記に代表される神の側面は、「エル・シャダイ」であると説明されました。「エル・シャダイ」とは、「全能の神」という訳がつけられていますが、その先生によりますと、乳飲み子に乳をあげるようなイメージであるということです。私はそれは、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」という「子孫の繁栄」を意味しているのではないかと解釈しています。「エル・シャダイ全能の神」という言葉、最初に聖書に現れるのは創世記17章1節で、1節2節では、●「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしく増やそう。」これは、アブラムが99歳のときに主がアブラムに現れて語ったことばでした。99歳になったアブラムに子どもなどできやしないと笑ってしまったサラをみて、主がアブラムに●「主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」を仰せられ、そのようになりました。また、次に「エル・シャダイ全能の神」という言葉が出てきますのは、創世記35章11節です。●「わたしは全能の神である。生めよ。ふえよ。一つの国民、諸国の民のつどいが、あなたから出て、王たちがあなたの腰から出る。」 窮地に陥ったヤコブとその一族に、主が「立ってベテルに上り、そこに住みなさい」と仰せになられた時の励ましの言葉です。「エル・シャダイ全能の神」という言葉には、「約束をまもる神」のイメージがありますが、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」という「子孫の繁栄」の意味もこめられているのです。事実、神の約束とは、神がアダムとエバに仰せられた祝福の延長線上にあります。創世記1章28節●「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
なぜ、私が、急に「エル・シャダイ」のお話をしたかと申しますと、聖書の本流のアブラハム・イサク・ヤコブの物語に、エサウを祖とするエドムの歴史が挟み込まれているのは、エサウも「アブラハムからの子孫繁栄」という神の約束の中にあるということの証明なのではないかと思うからです。事実、アブラハムのもう一人の子どもイシュマエルの歴史も短くはありますが、創世記25章12節から18節までに挟み込まれています。創世記の筆者であり監修者でもあるモーセは、アブラハムの死の記述の次に兄イシュマエルの歴史そして弟イサクの歴史へとつないでいます。イサクの歴史の次に、ヤコブの紆余曲折あった信仰の成熟の歴史があり、そしてその後、イサクの死の記述の次に、36章で兄エサウの歴史があり、37章で弟ヤコブの歴史を簡単におさらいし、ヨセフ物語へと入っていきます。
神は、信仰の継承をアブラハム・イサクの次にヤコブ、としました。それは神の選びでもあったのですが、神は、アブラハムの時に交わした「子孫繫栄」という約束を、信仰の継承としての長子の権利は授けませんでしたが、イシュマエルとエサウの上にも果たされ、それぞれの子孫は増えていきます。ここに、神の約束である「子孫繁栄」と、神の選びである「信仰の継承」とは、まったく違った角度から見ないといけないことが分かってきます。そして、それは「子孫繁栄」つまりは「社会的・世間的な成功」、そして「信仰の継承」である「救い:永遠のいのちの獲得」とは異なることを示唆しています。これは、まさしく「真理」とも言えるでしょう。神はアダムの時から、もしくはノアの時から(なぜなら、創世記9章1節で、洪水の後ノアにも再び「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」と仰せられましたから。)「子孫繁栄」という約束は守りつつ、信仰の継承者を選ばれておられるのです。それは、今でも同じであります。「社会的・世間的な成功、および子孫繁栄」と「信仰の継承」とは異なるのでありますが、神は、子孫から信仰の継承者を選ばれておられることには間違いありません。
今日は、その信仰継承者こそが、天での神の家族の一員となることを、強く覚えたいと思うのであります。
さて、今日も天国長屋の八さん、熊さんに登場いただきます。
八さん、熊さん、よろしくお願いいたします。
―――――
八: なるほどねぇ、エサウの歴史を出したのは、イシュマエルの歴史を出したのと同じように、
神さまは、初めの約束、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」と仰せになられたことを、
ずっと守ってくださっていることを、証しするためのものやったんやなぁ。
なんか、ちょっとすっきりしたわ。
熊: ほんまやなぁ。これから、そんなサンドイッチがあったら、また余計なものが入っとる、
かなわんなぁと思うんやなくて、何か神さまが仰せになったことと関係している
と思て読んでた方がええなぁ。
八: それって、あれやなぁ。マタイの福音書の1章のイエス様の系図に、4人の女性が
差し込まれているのと同じなんやろなぁ。
熊: 4人の女性?ああ、タマルに、ラハブに、ルツに、ウリヤの妻。
八: 熊、よう覚えてんなぁ。
熊: わてな、タマルはんは、ユダに対して執念タマルのタマルはんで、覚えてんねん。
八: はぁ? ユダが息子との結婚の約束なかなか果たせへんかったからなぁ。
じゃあ、ラハブは?
熊: ラハブはんは、第1コリント13の4。
八: 第1コリント13の4? それって愛の章やがな。
熊: 13章の4節は「愛は」から始まる。愛はラブやろ。ひらがなで書くと「ラブは」や。
んで、「は」を「ラブ」の間にサンドイッチして、「ラはブ」や。
八: なんや、すんなり覚えた方が楽そうやな。じゃあ、ルツは?
熊: わてらのお隣にすんでる、おつるばあさん。そのおつるさんの逆立ちで、ルツ。
八: おつるばあさん、逆立ちなんかさせたら、天国行ってしまうがな。
んで、最後のウリヤの妻は?
熊: ダビデに妻を売りやがった。
八: そんなこと言われたら、ウリヤは死ぬに死に切れんやないか。もう、ええ加減にせえ。
熊: おあとがよろしいようで。
八: おあとがよろしいようで、って終わってしもたらあかんがな。
けんど、あの4人の女性がイエス様の系図に入っているのにも
何か意味があるんやろうなぁ。まあ、それはまたの機会にしてやで。
今日の創世記36章のエサウの歴史から、若さん「神の家族」をひっぱり出しはった。
びっくりやわ。
八: それも聖霊様のお導き、やねんやろな。
熊: 「愛のなせるわざや」「ラブ」や。
八: まだ、「愛」にこだわってるのかいな。ラハブはもうええねん。
熊: さよか。ところで、エサウはんは、神さまの約束通り、子孫は繁栄し、
まあまあの暮らしぶりやけど、それとは無関係で、信仰の継承者ではあれへんかった。
それは、わてらにも言えるんやな。暮らしぶりのええ悪いに関係なく、神さまは
わてらを信仰の継承者として選んでくださり、天の神の家族の仲間入りさせてくださるんや。
八: 神の家族は、たしかに天における家族にはちがいないけど、この世でもクリスチャンは
神の家族や、もちろん、いろいろと教団教派はあるやろうけど、カトリックもな。
けんど、イエス様というところではつながってはる。これだけで、十分なんや。
この世でも神の家族として仲ようせなあかん。お互いに助け合わなあかんのとちゃうか、
励まし合わなあかんのとちゃうか。
違いを見るんやのうて、イエス様だけを見てたらええねん、とわては思うねん。
熊: たしかになぁ。わてら、アホやさかい、こまかいことは分からん。
「イエス様いのち」それだけでええねん。ところで分からんついでに、
若さんゆうてはったな。「神の選びはわてらには分からんて。
分からんからこそ、わてらは、聖霊様の導かれるまま、土を耕し(友情の架け橋を
つくり)、種を蒔き、水をあげ、寒すぎず熱すぎずと調整をし、また外敵から
守らんとあかん。それが、たとえ、神の選びからもれたエサウであったとしてもや。
神の選びは結果としてしか分からんのやからな」て。
八: そやねん。わてな、あの若さんのゆってんのん聞いてて、パウロはんの言葉思い出したわ。
●「私はすべてのことを、福音のためにします。
それは、私も福音の恵みを、ともに受ける者となるためなのです。」
熊: それって、1コリント9章23節やな。まえ~にも、若さんゆってはったな。
これには二つの意味があるって。
八: 初めの福音は、宣教のための福音や。つまりは、永遠のいのちにあずかるイエス様の
恵みや。そんで、二つ目の福音は、今、イエス様の平和と喜びに満たされる恵みや。
そのためには、わてらの回りの人も、神の家族になってもらわなあかんし、また、
家族になってくれたとしても、いっしょに励まし合わんとあかん。祈り合わなあかん。
熊: そやなぁ。種を蒔くのも大事やけど、神さまが種を育ててくれはるお手伝いも
せなあかんわな。
八: そや。その二つができてこそ、神の家族や。
熊: 若さん、神の家族も、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」となって、
信仰の継承もできれば、ええでんなぁ。
―――――
八さん、熊さん、ありがとうございます。神の家族もますます増えて、同時に信仰の継承もゆるぎないものにできれば、いいですね。すべては聖霊様のお働きがあってのことですが、イエス様の大宣教命令の「あらゆる国の人々を弟子としなさい」のように、「あらゆる国の人々を神の家族にしたい」ものでございます。
では、いつもの通り、宣言をしたいと思います。今日の宣言は、福音を宣べ伝え、またお互いに励まし助けい、祈り合うことを覚え、「神の家族を増やします」を三回宣言しましょう。
「神の家族を増やします」、「神の家族を増やします」、「神の家族を増やします」アーメン!
黙想をいたします。
黙想の時にお読みするのは、詩篇34篇です。
●黙想:
黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。マルコの福音書3章35節。
「神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」
黙想いたします。詩篇34篇。
黙想時の曲
[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM
https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0
●祈り
●主の祈り
天にまします我らの父よ
ねがわくは、御名をあがめさせたまえ
御国を来たらせたえ
御心の天になるごとく
地になさせたまえ
我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり
アーメン。
【YOUTUBE配信終了】
賛美⑥:神の家族
https://www.youtube.com/watch?v=Ebw_P60mswQ
賛美⑦:イエスが愛したように
https://www.youtube.com/watch?v=q1CIhWWdx9g
●礼拝と献げものの感謝の祈り
(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)
●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」
https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM
●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21
●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏
https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0
●閉会
●連絡
次回の11月6日 午後5時から小阪チャペルにて、主日礼拝。聖餐式。
聖書:創世記37章