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メッセージ主題:『主を恐れる』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2022.11.20主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、軽く愛餐の時をもちます。)

●午後5時開会:ただいまより、2022年11月20日主日礼拝式を始めます。

礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。

さあ、私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。

賛美①:慕いまつる主の

https://www.youtube.com/watch?v=y9jpLGs4i9s

賛美②:御腕に抱いて

https://www.youtube.com/watch?v=vV7m1nPNmZA

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

賛美③:主イエスの十字架の血で (11月の歌)

https://www.youtube.com/watch?v=0HDeZ6KnlNM

賛美④:わたしの望みは

https://www.youtube.com/watch?v=CqABNWC1hoM

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。

賛美⑤:われに聞かしめよ

https://www.youtube.com/watch?v=fNK7vdDFPaU

【YOUTUBE配信開始】

2022年11月20日 主日礼拝メッセージ

さあ、神様からのメッセージの前に2022年の年間聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

●聖書拝読:創世記39章(新改訳聖書)

中心聖句:

「ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥様さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」(9)

メッセージ主題:『主を恐れる』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。

●メッセージ

(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)

さて、この39章から創世記最後の50章まで、ヨセフ物語が続きます。ヨセフは奴隷として、エジプト王パロの廷臣で侍従長のポティファルに買い取られます。廷臣とは宮廷に仕える家来のことです。また聖書の中では、同じことばで、宦官とも訳されている箇所があると解説書にありました。宦官とは、女性の多い宮廷で仕えるために、男女のトラブルを避けるために、去勢された男性の家来のことであります。もしも、このポティファルが宦官でもあったとしたら、ポティファルの妻が、美男子のヨセフに言い寄るのには、それなりに納得でき、また哀れにも思えてなりません。私たちは、一方的に、ポティファルの妻が色情魔のように思いがちですが、夫に愛されない妻の、自分では抑えることのできない愛の渇望によって、ヨセフに付きまとう、憐れな女性であったのかもしれません。そして、ヨセフに言い寄る彼女の行動は、周りの者の知るところでもあったのではないでしょうか。不義密通は、死罪です。ヨセフの上着という証拠があり、妻の証言もありますから、本当はヨセフは死罪であるはずです。が、しかし、ポティファルは、処刑の代わりに、王の囚人が監禁されている監獄にヨセフを入れました。王の囚人とは、王に歯向かう政治犯であり、一般的な犯罪を犯して入る牢屋とは異なっていました。ヨセフは、どうして、死罪にならなかったのでしょうか。もちろん、主の働きによるものではありますが、ポティファルは、妻の素行をある程度知っていたのかもしれません。それと、ヨセフがそのようなことをしでかす人間ではないことを、日ごろの態度から感じていたのかもしれません。または、ポティファルの周りの人が耳打ちをしていたかもしれません。それがゆえに、かえって、妻とヨセフを引き離すために、政治犯の監獄へ入れたのかもしれません。王の監獄では、ポティファルの妻も容易には手が出なかったのでしょう。そして、神がご計画は素晴らしいと唸らざるをえないのが、21節~23節です。●「しかし、主がヨセフとともにおられ、彼ヨセフに恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。それで監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手にゆだねた。ヨセフはそこでなされるすべてのことを管理するようになった。監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。」『主が共におられる』という主の最高の祝福をヨセフはうけ、またそれにあぐらをかくことなく、監獄長の期待に応えられるよう自らも努力し、主が、ヨセフのすることすべてにおいて成功させてくださったのです。その成功の鍵となるのが、「主を恐れる」ということではないでしょうか。9節の●「どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」とポティファルの妻に訴えるヨセフは、明らかに、神を恐れていました。

では、「神を恐れる」とは、どういうことでしょうか。「神への恐れ」は、二つの意味合いがあると思います。未信者にとってと信者にとってです。

未信者にとって、「神への恐れ」とは神の裁きであります。神から永遠に切り離され、永遠の死に至る恐れです。神は永遠です。そして私たち人間も永遠です。永遠の死か、永遠の命が待っています。イエス様はおっしゃいます。●「恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。」(ルカの福音書12:5)ゲヘナとは地獄を意味します。この世は神の恵みで満ち溢れています。しかし、地獄とは、永遠に続く苦痛と恐怖の世界です。その反対に天国とは、永遠に続く平安と喜びの世界です。

信者にとっての「神への恐れ」は、神に対する崇拝と畏敬であります。ヘブル人への手紙では、次のように説明されています。●「私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。私たちの神は焼き尽くす火です。」(12:28-29) 「御国」とは、永遠の神の国であり、天国です。「神は焼き尽くす火です」とは、「神は、躊躇なく容赦なく裁かれる方である」ということです。この崇拝と畏敬の念、そして救われて永遠の命を与えられる感謝こそが、私たちキリストを信じる者にとっての「神への恐れ」であります。「神への恐れ」は、「神への愛」でもあります。イエス・キリストは、「救い主」でありますが、再びこの世に降りて来られる時には「裁き主」ともなります。「神への恐れ」は、全知全能の神を敬い、崇め、愛することでもあります。「神を恐れる」は、「神を怖がる」ことではなく、神を私たちの上に立つお方として、私たちを創造してくださったお方として、崇めることです。そして、私たちを守り導いてくださるお方を敬うことです。そして、「神を愛する」とは、全地全能で、この宇宙の創造主に、自分自身を明け渡すことであります。

また、箴言1章7節は「主を恐れることは知識の初めである」と宣言しています。しかし、アダムとエバは、神を恐れず、神が食べてはいけないと禁じた「善悪の知識の木の実」を食べてしまいました。神は、アダムとエバに選択の自由をあたえていました。神がアダムとエバに与えたかったのは、「善悪の知識の木の実」を食べないことで得る、つまり神を恐れ神の言いつけを守るということによる神の知識だったのです。しかし、アダムとエバは、善悪の知識の木の実を食べ、結果的に罪が自分に入ることによって、罪責感が生まれ、善悪を知る、人間の判断による善悪を知ることになったのです。そして、アダムとエバは、罪深い裸の自分に直視できなくなり、近くにあったイチジクの葉で、一時的に自分自身をおおうことによって、一時的な安堵感を得るようになり、自己防衛のための嘘をつくようになったのです。神は、言いつけを守らなかったアダムとエバを、エデンの園においておくことはできず、追放しまし。しかし、神はアダムとエバを憐れに思い、すぐ枯れてしまうようなイチジクの葉ではなく、動物のいのちを犠牲にして作られた皮の衣を、彼らに自らが着せてくださったのです。イチジクの葉の衣は、一時的で不安的な安堵感を表し、皮の衣は、恒久的な平安を表しているのです。

ですから、本当の知恵、神による知識は、私たちは、神がどういうお方であるかを理解し、神に対を崇め敬い、また恐れを持たない限り、それは与えられないのです。本当の知恵は、神こそが聖なるお方であり、全く正しいお方であることを理解し、認めことによってのみ与えられるのです。申命記10章12,13節では、主は次のようにおっしゃいます。●「今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。」

神への恐れは、神の道に歩み、神に仕え、そして神を愛する、それが私たち、神に創造された者の務めです。

神が憎むのは、罪です。「罪を憎んで、人を憎まず」という言葉がございますが、それは、神の本質です。そして、神の本質は、愛です。神は愛のゆえに、アダムとエバを造り、民を導き、救い主イエス・キリストを送り、全人類の罪を帳消しにするために、彼のいのちをささげさせ、また三日目に死を克服して、よみがえらせ、イエス・キリストを信じる者に永遠のいのちを約束しました。これが、神が私たち人類を愛する証しであります。ヨハネの福音書3章16節が、それを端的に言い表わしています。●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちをもつためである。」

それゆえに、私たちは神をおびえたりこわがったりする必要はありません。私たちには、何ものも私たちを神の愛から引き離すことはできません。パウロが次のように告白している通りです。●「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:38-39)私たちには、神が私たちから決して離れず、私たちを見捨てられないという神の約束が与えられています。主はおっしゃいます。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル13:5)事実、イエス様は、信じる私たちにイエス様の平安であり助け主でもある聖霊様を私たちの心にお送りくださり、私たちの心に住みとどまってくださるのです。イエス様はそのことを次のようにおっしゃいました。●「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。」(ヨハネ14:27)●「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」(14:16) 神様の愛の証は、聖霊様であります。

「主を恐れる」とは、主をあがめ、敬い、主のいましめを守り、従うことですが、それはイヤイヤではありません。主を積極的に愛することです。

さて、今日も天国長屋の八さん、熊さんに登場いただきます。

八さん、熊さん、よろしくお願いいたします。

―――――

八: ポティファルはんの奥さん、えらいヨセフにご執心やって、ちょっと中年の色きちがい

かなと思てたけど、若さんの説明のとおり、ポティファルはんが宦官やったら、

奥さんもちょいと可哀そうな気がするなぁ。

熊: せやなぁ、まあ、同情の余地はあるけんど、ヨセフはんを追い回したらあかんわな。

八: ポティファルはんも、奥さんのことは薄々感ずいてたんやろうから、ちょうどええ口実

やったんかもしれへんなぁ、王の囚人が監禁されている監獄にいれられ、

奥さんと引き離すことができたんやから。

熊: ひょっとしたら、ポティファルはん、監獄の長に、いろいろ情報をながしていたかも

しれへんなぁ。

八: ほんまや。せやから、監獄の長もヨセフはんを重用した、、、とも考えられるわな。

熊: ま、そうやわな。ところで、ヨセフはんのきりっとした態度、見事やなぁ。

「どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」

八: たしかにな。けんど、自分のご主人様の奥さんとの不倫は、ふつうはありえんやろ。

熊: まず、ご主人にばれたら、こっちの立場は奴隷やねんから、確実死罪や。

八: そんな、割の合わんことはせんやろなぁ。

熊: せや、けんど、ヨセフはんは、「私は神に罪を犯すことができましょうか。」って、

言うてた。人間の一つの罪の言動は、二方向の罪があるちゅうこっちゃ。

八: 二方向の罪?

熊: そや。一つは、相手の人に対する罪、そしてもう一つは、神様にたいする罪。

八: それって、どういうこっちゃ。

熊: 例えば、わてが、八のお金をだまって盗んだとするわな。

八: どこのだれぞが、「盗みまっせ」ゆうて盗むんや。それに、わて、お金ないし。

熊: ややこしいなぁ、人の上げ足とらんとってくれるか。例えばの話や。

八: んで、わてのないお金を盗むなんて、ふていやからやな、熊は。

熊: せやろ、わては、八のなけなしのお金を盗んだ。八に対して罪を犯したことになる。

八: いつ、盗んだんや、金返せ!

熊: まだゆうとる。たとえばの話やがな。んで、神様に対しても罪を犯したことになる。

八: なんや、神様のものも、何か盗んだんかいな。

熊: ちゃうがな。「汝盗むなかれ」ちゅう、十戒を破ったことになる。

せやから、神様に罪を犯したことになる、ちゅう話や。

八: なるほどなぁ。一つの罪が、二方向の罪となるんやな。

熊: 人様への罪は、あやまったり弁償したりして、償ったら一応おしまい、

ちゅうときもあれば、豚箱に入るちゅうときもあるわな。

けんど、神様に対する罪は、やっぱり死罪かいな。

八: 神様の場合はそうかもしれへんなぁ。せやから、ここでイエス様のご登場や。

イエス様は過去現在未来の罪をすべて、帳消しにしていただいただくんやさかい。

熊: イエス様の恵みは、ほんまにありがたい。神様が愛やちゅうことがしみじみ分かるわ。

八: 今日は、「主を恐れる」ちゅう話なんやけど、イエス様はわてらを友とよんでくれはる。

「主を恐れる」ちゅう中に、「主を慕う」ちゅうこともいれてほしいわ。

熊: ほんまやなぁ。「主を恐れる」ちゅうのは、「主を怖がる」のとちゃう、って若さん

ゆうてたけど、それに、「主を積極的に愛する」ことやちゅうてゆうてはった。

八: ほら、ヨハネはんもおっしゃってた。●「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを

締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、

全きものとなっていないのです。私たちは愛しています。

神がまず私たちを愛してくださったからです。」(1ヨハネ4:18-19)

熊: 「恐れる」ちゅう言葉の中に、「怖がる」と「崇める」というイメージがあるさかい、

ややこしいねん。どっちもコインの裏表にある言葉なんやろうなぁ。

八: やっぱり、わては、「主を恐れる」ちゅうより、「主を心から愛します」という方が、

ええわ。ね、若さん、そう思いまへんか。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。私もそう思います。「主を恐れる」ということは、正しいんですが、どうしても「主を怖がる」というイメージもはいっていて、なんかマイナスなような気がします。私も、「主を心から愛します」といったほうがええと思います。いや、そちらを言いたい。主への本当の愛は、世に対する恐れを締め出します。

では、いつもの通り、宣言をしたいと思います。今日の宣言は、「主を心から愛します」です。主をあがめ、主を敬い、主に仕える気持ちをこめて、三回宣言しましょう。

「主を心から愛します」、「主を心から愛します」、「主を心から愛します」アーメン!

黙想をいたします。

黙想の時にお読みするのは、詩篇50篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。ヨハネの福音書15章12節。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」

黙想いたします。詩篇50篇。

黙想時の曲

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

 

賛美⑥:あがめます+満たしてくださる方

https://www.youtube.com/watch?v=3WOVgDkgAFI

賛美⑦:あがめます全能の主

https://www.youtube.com/watch?v=fjOLLOMJMro

●礼拝と献げものの感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の11月20日 午後5時から小阪チャペルにて、主日礼拝。

聖書:創世記39章

「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ

https://vinechristchurch.jimdofree.com/