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メッセージ主題:『寄り添う姿勢』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2022.11.27主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、軽く愛餐の時をもちます。)

●午後5時開会:ただいまより、2022年11月27日主日礼拝式を始めます。

礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。

さあ、私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。

賛美①:主がわたしの手を

https://www.youtube.com/watch?v=kWgG1eEzyPs

賛美②:栄の王にます主の

https://www.youtube.com/watch?v=xNQYNFFR8Ec

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

賛美③:主イエスの十字架の血で (11月の歌)

https://www.youtube.com/watch?v=0HDeZ6KnlNM

賛美④:まどいの雲消えて

https://www.youtube.com/watch?v=1BgeqxLnPXo

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。

賛美⑤:救い主の愛と

https://www.youtube.com/watch?v=m7EuM2vA6o0

【YOUTUBE配信開始】

2022年11月27日 主日礼拝メッセージ

さあ、神様からのメッセージの前に2022年の年間聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

●聖書拝読:創世記40章(新改訳聖書)

中心聖句:

「それで、彼(ヨセフ)は、自分の主人の家にいっしょに拘留されているこのパロの廷臣たちに尋ねて、「なぜ、きょうはあなたがたの顔色が悪いのですか」と言った。」(7)

メッセージ主題:『寄り添う姿勢』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。

●メッセージ

(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)

ヨセフは、王の囚人(政治犯)が監禁されている監獄に入れられてしまいましたが、主がヨセフとともにおられ、監獄の長の信任を得、監獄にいるすべての囚人を任されました。そこに、献酌官長と調理官長の二人が拘留されてきます。この監獄は、政治犯を対象としていたそうです。献酌官長とは、王の相談役であったようですし、また調理官長は、文字通り、王の料理責任者でありました。この二人は王を毒殺しようした嫌疑で投獄されたのかもしれないとある解説書にありました。そこで、主はこの二人に同時に夢を見させ、ヨセフにその夢を解き明かさせます。夢の内容はともかくとして、献酌官長は、無罪となる夢を、調理官長は有罪となる夢を見せられていました。そして、ヨセフの夢の解き明かしの通り、パロは、調理官長を木に吊るします。

さて、今日は、このヨセフの夢の解き明かしの賜物や彼らの夢の内容には注目しません。注目したいのは、次のことです。ヨセフが、監獄の囚人を任されるぐらいに監獄の長に信頼されていたとしても、監獄の囚人にはちがいありません、その囚人であるヨセフは無実でありながら監獄に入れられたという苦しみと痛み、しかし、その苦痛の中にありながら、献酌官長と調理官長の顔色の悪いのに気がついて寄り添っていくという、ヨセフの姿勢です。そのヨセフに、私はキリストを見ます。私たちの主イエス・キリストは、私たちが気付かない私たちの真の思いをもご存じで、私たちに寄り添ってくださいます。そして、その主の寄り添いによって、気づかぬ私たち自身の思いを気付かせてくさり、その思いを理解し、素直に受け止め、主の声に聞き従うようにしてくださいます。

献酌官長と調理官長のそれぞれの夢は、彼らに気づきをあたえ、励ましたり、悔い改めさせるものだったのかもしれません。そしてヨセフの寄り添いと夢の解き明かしによって、彼らの真の思いを気づかせられたのかもしれません。それは、イエス・キリストが私たちに寄り添ってくださるのと同じであります。そのことが、よくわかるのが、主の教会だと私は思うのです。

キリストは教会の頭であり、教会はキリストを頭とする、キリストのからだです。コロサイ人への手紙1章18節●「御子はそのからだである教会のかしらです。」とパウロが告白する通りであります。つまり、教会はキリストを表します。キリストを表さない教会は、キリストのからだではありません。ある先生は、教会には四つの役割があるとおっしゃいました。病院、家庭、学校、港です。

教会は病院です。主は癒し主でもありますから、教会は癒しの機能があります。ただし、人間の身体を癒やすこともありますが、もっぱら、私たちの精神や霊を癒やす場所でもあるでしょう。英語で病院はhospital と言いますが、これはラテン語のhospes が語源となっているそうです。そして hospes は「来客、客人」という意味で、hospital は、客人を手厚くもてなす宿泊所を意味していました。今末期がんの患者が治療ではなく、平安に最後を迎えるための施設、ホスピスがそうです。また、ここから、日本人の大好きな言葉「おもてなし」hospitality や、host 「客をもてなす主人」という言葉も生まれました。その意味では、教会は客を手厚くもてなすところであり、身体的というよりは、精神的、霊的な病人を介護する場所でもあるのでしょう。そして、霊的な病人とは、罪人のことです。神を知らない、神を必要としない、神を人生の中心に置かない事も、それらは罪ですから、教会では、霊的にも癒され、整えられていくことが、主によって期待されています。

教会は家庭です。もちろん、教会は神の家族です。そして、教会では「兄弟姉妹」と言われるように、上下関係ではなく、役割の違いがあります。ですから、お互いに励まし合い、慰め合い、イエス・キリストへの思いを共有するところでもあります。また、家庭でしつけが行なわれるように、教会では、キリストに似る者へとしつけされるのです。ちなみに、英語family はラテン語のfamulus が派生したものだそうで、もともとは「奴隷・召し使い」という意味だそうです。お互いに仕え合い、そして支え合う、それが家族としての教会の姿なのでしょう。初代教会では、自分の財産を共有することも行われていました。しかし、それは強いられるものではなく、自由意志でした。アナニヤとサッピラの事件をみてもよく分かります。使徒の働き5章1節~11節。アナニヤと彼の妻サッピラは、持ち物を売り、それを全部教会に献げるつもりでしたが、お金が惜しくなったのか、偽って一部を残しておきました。正直にそのように報告すればよかったのですが、見栄やプライドが邪魔をしたのか、自分の献金をごまかしてしまいました。自由意志による献金ですから、嘘をつかなければ、罪ではなく、事なきを得たのですが、主はその嘘をゆるさず、彼らを死に陥れました。それだけ、教会での見栄やプライドは主の嫌うところだとも言えるかもしれません。教会は家庭を大事にする神の家族です。教会では、見栄やプライドは不要です。ですが、そこが人間の罪深いところで、自戒をこめて、牧師がその最たるものでしょう。「先生と呼ばれるほどのバカでなし」とは、よく言ったものです。牧師は、神の言葉を取り次ぐ役割のある人でありますが、もう一方で、罪人の頭なのです。

教会は学校です。教会は聖書や御言葉を学ぶところでもあります。聖霊様によって、クリスチャンとして整えられていく場所でもあります。学校が学び舎という機能だけでなく、楽しい交わりを深めるところでもあります。英語のschool はラテン語のschora から派生し、そのラテン語はギリシャ語のshkolaで、意味は「余暇、ひま」という意味だそうです。仕事や家事手伝いをしないで学校に通う。暇、自由な時間があるから学べるのかもしれません。逆に言いますと、学校は、仕事や家事手伝いといった世的なことから解放され、自由に学びのできるところとも言えるでしょう。そして、教会は、世的なことから解放され、間接的にも直接的にも、霊的に養われ整われる場所であることにはちがいありません。

教会は港です。港は、嵐の時には、停泊し、難を逃れたり、傷んでる箇所があれば、修復する場でもあります。聖歌472番の「人生の海の嵐に」の歌詞がたん的に、そのことを表しています。

人生の海の嵐に もまれ来しこの身も

不思議なる神の手により 命拾いしぬ

いと静けき港に着き われは今 安ろう

救い主イエスの手にある 身はいとも安し

悲しみと罪の中より 救われしこの身に

誘(いざな)いの声も魂 揺すぶること得じ

いと静けき港に着き われは今 安ろう

救い主イエスの手にある 身はいとも安し

すさまじき罪の嵐の もてあそぶまにまに

死を待つは誰(たれ)ぞ直(ただ)ちに 逃げ込め港に

いと静けき港に着き われは今 安ろう

救い主イエスの手にある 身はいとも安し

繰り返しの「いと静けき港に着き、われは今、安ろう。救い主イエスの手にある、身はいとも安し」というフレーズで、港はイエス様ご自身でありますが、キリストを頭とする教会も港なのです。嵐という世の中に出て行き、また疲れて帰ってきて、ほっとする場所が教会なのです。キリストを信じる私たちの心には、聖霊様が住みついてくださっています。そして、聖霊様は、イエス・キリストの平安であり、イエス様の教えを 思い出さしてくださる助け主です。ですから、私たちが2人3人と集まるところには、私たちの心にお住まいくださる聖霊様同士が応呼するといいましょうか、一人一人に宿っておられる聖霊様が一つとなるとでもいいましょうか、そして、そこにはキリストが臨在されます。イエス様は次のように約束なさいました。マタイの福音書18章19節20節●「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」私たちが心を合わせて祈るなら、神様はその祈りを聞かれ、かなえてくださるとおっしゃいます。では、なぜ、1人ではなく、複数の一致した祈りなのでしょうか。そこには、独りよがりの祈りを回避しなさいとおっしゃっておられるような気がするのです。事実、この前の15節~17節では、イエス様は、信者の集合体である教会の、罪に対する自浄作用を説いています。兄弟姉妹同士が罪について、愛をもって対処すべきことが記されています。その上での、ふたり三人の心一つとなった祈りなのです。もちろん、複数の人が心合わせて祈っていることが、自分勝手な祈りなら、神は聞かれるはずはありません。神の栄光が現われるような願い、神の喜ばれるような願いに、神は耳を傾け、その願いを、神の一番良いときにかなえてくださるのです。

ここで、少しはっきりとしておきたいと思いますが、私の申し上げている「教会」とは、教会堂という建物のことではなく、キリストを信じる、または信じようとする人々の集まりです。そして、信者ではありますが、罪人の集まりです。キリストを長く信じているから罪がなくなったということは全くありません。そう思っておられる方は、残念ながら罪の意識が希薄になってしまっているだけで、ですから、相手を裁いてしまうのです。教会は小社会です。ですから、一般社会と同じように、意見の違いもあり、もめごともあります。しかし、お互いが主にあってゆるしを得、主にあって平和を造り出そうとする集まりです。と言い切りたいところですが、そうは問屋が卸さないのが、罪人の集まりでもある教会です。イエス様が、マタイの福音書7章で、私たちを『偽善者』と呼んでいます。なぜなら、●「あなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか」と仰せになるからです。「自分のことを棚にあげて、裁くな」「罪のない人が裁きなさい」とおっしゃいます。きびしい。しかし、イエス様はそうおっしゃいながら、私たちを愛し、訓練してくださるのです。ご自身のいのちを私たち罪人の救いのためにささげられたのです。イエス様こそ、一番、教会を愛してくださっておられる方なのです。

そして、教会は、すべてを集約すると、自分の境遇がどうあれ、兄弟姉妹に寄り添い、耳を傾け、祈り合う、または祈り合おうとする集まりだと思うのであります。そして、それは、やはりイエス・キリストのあの三年半の活動の原点でもあるのではないでしょうか。逆にいえば、イエス様の三年半の活動やお言葉に、教会の秘訣があるといっても過言ではないでしょう。

ヨセフは、そのことができていた、神からその賜物を得ていた人物であり、その点で、イエス・キリストのイメージとオーバーラップするのでしょう。キリストを頭とする教会も、寄り添い祈る姿勢を、お互いが持ち続けることが大切だと思わされるのであります。

さて、今日も天国長屋の八さん、熊さんに登場いただきましょう。

八さん、熊さん、よろしくお願いいたします。

―――――

八: ヨセフはんは、すごいなぁ。無実の罪で監獄にいれられて、しょげたり、

やけくそになったりせんと、かえって監獄の長に信頼され、ほかの罪人(ざいにん)の

お世話を任されんねんから、大したもんや、ヨセフはんは。

熊: せやなぁ。けんどそれも、神様が共にいて祝福してくださったからや。

神様の祝福なしには、たとえヨセフはんでも、なんにもでけへんかったやろうしな。

八: それやそれ、主のみ旨だけがなるねん。ほら、箴言にあるやんか。

●「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」ちゅうって。

熊: 箴言19章21節やな。詩篇にもあるでぇ。たしか33篇やったかな。

●「まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、

それは堅く立つ。主は国々のはかりごとを無効にし、国々の民の計画をむなしくされる。

主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る。」(9-11)

八: せやけど、わてらは幸せやなぁ。そんな神様を信じれんねんから。

わてらをご自分の民として選んでくれはったんやから。

熊: わてらも、ヨセフはんと同じぐらい、神様からの祝福を受ける価値があるんやろうか、

神様にとって。わてらの使い道ってあるんやろうか。

八: あほかいな、神様は、わてらのことも、●「わたしの目には、あなたは高価で尊い。

わたしはあなたを愛している。」って、イザヤ書の43章4節でおっしゃって

くださってる。わてらには、わからん、価値を神様は見出してくださってるんや。

まあ、ヨセフはんのように、用いられるかどうかは分からん。あのお人は特別や。

けんどな、わてらにもできることはあるんや。

熊: わてらにできること。わてら「イエス様いのち」やから、命がけでイエス様愛する

ちゅうことかいな。

八: それもあるやろ。しかしなぁ、それだけやない。ほかの人に寄り添って、その人の声を

聴いて差し上げること、また聞いた限りは祈って差し上げること。

これや、これがわてらにできることとちゃうか。お金も、名誉もないし、

人を動かす力もあれへん。けんど、人の話に耳を傾けることはできる。

ええアドバイスはでけへんやろうけど、祈ることはできる。

その人がイエス様から答えをもらうように祈ることはできる。それでええんとちゃうか。

熊: わて一人やったら心もとないけど、イエス様がいっしょやし、

それに、、、、八つぁんもいっしょやったら、心強いわなぁ。

八: そやで。ふたり三人と心寄せて祈るところにイエス様もいらっしゃるんやから。

熊: けんど、ヨセフはんは、心細くなかったんかいな、監獄でひとりで

切り盛りしてたんやろうし。

八: あほぅ、ヨセフはんは、神様がいつもいっしょにいてはって、ヨセフはんもそのこと

十分わかってはった。誰よりも強い味方がついていはんねんや、

いろいろと葛藤もあったやろうけど、頼るべきお方は、神様しかいはれへん。

ヨセフはんは、主に信頼してはったから、他の人にも寄り添うことができたんやと、

わては、そう思うで。

熊: そうか、人に寄り添うことができるちゅうことは、主に全き信頼してはったからなんやな。

八: わてらも、ヨセフはんのように、主にすべてをゆだねて、周りの人に寄り添う者に、

その人たちのために取り成しの祈りをする者に、させて頂こうやないかいな。

熊: 取り成しの祈りかぁ。自分のための祈りもええけど、人のために祈りをささげる、

イエス様と同じや。なんか嬉しゅうなってきた。取り成しの祈り、ささげまっせぇ。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。イエス様の、あのゲッセマネでの祈りは、ご自身のために祈りではなく、「御心がなりますように」と私たちの救いの完成を祈られたのです。●「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネの福音書15:13)とおっしゃるイエス様は、●「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」(15:12)と愛の実践をすすめます。イエス様が私たちに寄り添ってくださっておられるように、私たちも私たちの周りの人々に寄り添って、彼らの声に耳を傾け、大いにとりなしの祈りをささげる者とさせていただきましょう。

では、いつもの通り、宣言をしたいと思います。今日の宣言は、寄り添い耳を傾けることも覚えつつ「とりなしの祈りをささげます」です。イエス様が私たちを愛してくださったように、私たちも私たちの周りの人の顔を浮かべ、気持ちをこめて、三回宣言しましょう。

「とりなしの祈りをささげます」、「とりなしの祈りをささげます」、「とりなしの祈りをささげます」アーメン!

黙想をいたします。

黙想の時にお読みするのは、詩篇34篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。ヨハネの福音書14章23節。

「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」

黙想いたします。詩篇34篇。

黙想時の曲

[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

 

賛美⑥:世には良き友も

https://www.youtube.com/watch?v=-jtInLObWbM

賛美⑦:慕いまつる主の

https://www.youtube.com/watch?v=y9jpLGs4i9s

●礼拝と献げものの感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の12月4日 午後5時から小阪チャペルにて、主日特別礼拝。

聖書: 

「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ

https://vinechristchurch.jimdofree.com/