· 

メッセージ主題:『希望の成就』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2023.1.22主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、軽く愛餐の時をもちます。)

●午後5時開会:ただいまより、2023年1月22日主日礼拝式を始めます。

礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。

私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。

賛美①:主をほめよ高らかに

https://www.youtube.com/watch?v=UcnwxW_SGY0

賛美②:主を仰ぎ見て

https://www.youtube.com/watch?v=Viar5edeGzU

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

賛美③:いばらの冠 (1月の歌)

https://www.youtube.com/watch?v=f7S7aRLoQ10

賛美④:野に咲く花

https://www.youtube.com/watch?v=b7_WueFte6U

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。

賛美⑤:わが魂の羊飼い

https://www.youtube.com/watch?v=SUSg_GEgJCA

【YOUTUBE配信開始】

2023年1月22日 主日礼拝メッセージ

2023年の年間聖句は「山上の説教」マタイの福音書5章3節~10節の8つの幸いです。

いっしょに唱えましょう。(新改訳聖書2017)

第1の幸い(マタイの福音書5章3節)

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」

(自分ではどうしようもなく、主の力と知恵を求めるしかないと思っている人)

第2の幸い(マタイの福音書5章4節)

「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」

(どうしようもなく罪を犯してしまう、そのことを悲しみ悔いる人)

第3の幸い(マタイの福音書5章5節)

「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」

(自分を無力でどうしようもないものだと、へりくだらざるをえない人)

第4の幸い(マタイの福音書5章6節)

「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」

(自分の中にある罪を憎み、義である主を求める人)

第5の幸い(マタイの福音書5章7節)

「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」

(主を知ることで、憐みをおぼえ、主のように、他の人に憐れみをかける人)

第6の幸い(マタイの福音書5章8節)

「心のきよい者は幸いです。その人たちは神をみるからです。」

(悔い改めを通して、主に聖くしていただけると信じる人)

第7の幸い(マタイの福音書5章9節)

「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」

(神との関係を、創造主と創造物の関係に、修復された、主の証し人)

第8の幸い(マタイの福音書5章10節)

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」

(信仰に堅く立ち、この世と調子を合わさない人)

神様からのメッセージの前に礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

●聖書拝読:創世記46章(新改訳聖書)

中心聖句:

「イスラエルはヨセフに言った。『もう今、私は死んでもよい。この目であなたが生きているのを見たからには。』」(30)

メッセージ主題:『希望の成就』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。

●メッセージ

(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)

46章では、エジプトに移住したヤコブとその子供たちと家族の名前が記されていて、もともとエジプトにいたヨセフと二人の子どもをあわせて、総勢70名がヤコブ一家として、認識されています。これはイスラエル人がエジプト人とエジプトで共存する際の、イスラエル人として大切なルーツとなるものであります。神に選ばれし民族は、神に選ばれていることを記録と記憶にとどめるために、ルーツを重んじます。使徒マタイが、イエス様のルーツを記し、預言者が預言した通りに、キリストが現れたことをユダヤの人々に明らかにしようとしたのを同じ思いであります。

そして、ヤコブ一家は、家畜を飼う者として、エジプト人の生活から切り離されて、ゴシェンの地に住みつきます。エジプト人は羊を飼うものを忌み嫌っていましたから、神は、そう簡単にエジプト人と交わることがないように、異教の中で、自らの神をあがめ続けるように、イスラエル人を導いたのであります。

さて、その中で、今日は、ヤコブの言葉に注目したいと思います。

●「もう今、私は死んでもよい。この目であなたが生きているのを見たからには。」

ヤコブは、死に関して、この46章を含めて、42章と45章で3回述べています。

42章38節●「私の子(ベニヤミン)は、あなたがたといっしょには行かせない。彼の兄(ヨセフ)は死に、彼だけが残っているのだから、あなたがたの行く道中で、もし彼にわざわいがふりかかれば、あなたがたは、このしらが頭の私を、悲しみながらよみに下させることになるのだ。」

ヤコブが最も愛した妻ラケルの二人の息子、兄のヨセフは野の獣に殺されたであろうと伝えられ、また、弟のベニヤミンまで父ヤコブから切り離されることは、まったく希望を失い、悲しみに打ちひしがれて死んでいくしかないと嘆いています。

そして、エジプトから持ち帰った食糧も底をつき、再びエジプトへ食糧を求めに行くとき、ユダが父ヤコブを説得し、ルベンたちがベニヤミンもつれて旅立とうとするときの、ヤコブの言葉も、死を意味していて、何か覚悟を決めた感があり印象的です。

43章14節●「全能の神がその方(ヨセフ)に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟(シメオン)とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も、失うときには、失うのだ。」

「失うときには、失うのだ」とは、なんと悲しい言葉でしょうか。ここでは、希望を失って、あきらめムードのような口調です。しかし、ヤコブはここで「全能の神」を出してきています。あきらめムードなのかもしれませんが、やけくそ状態ではなく、主に従う態度を見せています。『主が与えられたヨセフにベニヤミン、それにシメオン。主が取り去ることもある。』と、主への服従を心に決め、その上で、主の憐みに一筋の期待をかけているヤコブの姿があります。「失う時には、失うのだ」。悲しくも、主に服従し、主に期待をかける、私たちも心に留めておきたいものです。主が私たちにお与えくださったものは、私たちのものではなく主のものです。主が私たちのためにそれを取り去ることもある、それは、私たちが主に従うためのことであることを。

そして、ヤコブは、まだヨセフが生きていていることを知らされます。

45章28節●「それで十分だ。私の子ヨセフがまだ生きているとは、私は死なないうちに彼に会いに行こう。」

ヤコブは、カナンの地で死んだと思っていたヨセフが、生きていて、それにエジプトの監督官になっていることを知らされ、失望が希望へと変えられました。主の御名を賛美している様子がうかがえます。また、「それで十分だ」とは、ヨセフが用意してくれた車を見て、発した言葉でしょう。車は老人をエジプトまで運ぶには十分だという意味も含まれているかもしれませんが、20節でのパロの言葉「家財に未練を残してはならない」という言葉を聞いて、車には家財が入らないことを悟り、「持ち物はなくていい、この身ひとつで十分だ」という、ヤコブの思いはすでに希望であるヨセフの待つエジプトにあることを示しています。それゆえに、ヤコブは「私は死なないうちに彼(ヨセフ)に会いに行こう」と言い、老齢であるがゆえに、主がいつヤコブを取られるか分からないので、「主よ、ヨセフに会うまでは生きながらえさせてください。」また「旅の無事を」と主の憐みと守りを願ったに違いありません。

ヤコブは、ヨセフが生きているということに希望を取り戻し、神の導きに感謝していました。が、しかし、一方で、祖父アブラハム、父イサクからの、神の約束の地であるカナンを離れるということに不安でもありました。『神が本当にエジプトに導いておられるのか。』 そこで、ヤコブはベエル・シェバまで来た時に、父イサクの神にいけにえをささげ、エジプトに行くことが本当に神に導きなのか、そうであれば旅の安全、ヨセフの再開を神に願ったのです。ベエル・シェバは、祖父アブラハムがペリシテ人の君主アビメレクと同盟を結んだ地であり(創世記21:32)、父イサクもしばらく滞在していた土地でありました(創世記26:33)。そこで、ヤコブは、神と出会い、「カナンの地を離れ、エジプトに下ることは、神の導きであり、ヨセフによって看取られる」ことを、神から告げられます。神は、ヤコブのとまどいを知っていました。

●「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民にするからだ。わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る。ヨセフの手はあなたの目を閉じてくれるであろう。」(3,4)

人は、良い知らせを聞いて、希望を持ちますが、その一方で確信がなく不安になることがあります。ヤコブも同じでありました。その時に、祈りをささげ、ヤコブのように神から直接「恐れてはならない」と言われないまでも、神から平安をいただくなら、神さまからお墨付きをいただいたと確信をもって進むことができるのではないでしょうか。私は、よく私の行く道を決める時、平安があるかどうかを重視します。少しでも、その平安を邪魔する要因があるときには、白紙にして祈りなおします。そして、「主よ、お語り下さい」と願います。

と、こう言っていますが、一昨年、この小阪チャペルに導かれたときは、葛藤がありました。「主よ、どうして、私が小阪の地に行かなくてはいけないのですか。私は、東大阪の地をほとんど知りませんのに。」神学校を卒業し、牧師にさせていただく前、「神様に行けと言われればどこにでも行きます」と祈り、結局、仕事場である大阪市北区の南森町の事務所で教会を立ち上げることとなりました。それから5年。今度は、教会の拠点を私にとってはまったく知らない東大阪の地に移しなさいと告げられた時には、以前あれほど、「神様に行けと言われればどこにでも行きます」と言い切っていた私が、「えぇ、どうして東大阪ですか」と主に口答えです。傲慢になっていました。いえ、傲慢でもありましたが、不安でもありました。私は、70歳になれば、どこか教会のない田舎のところで、暮らして伝道しようとも考えていたからでありました。しかし、祈っても祈っても「小阪に行きなさい」という声は消えません。私はとうとう観念して、主の声に従うことにしました。「主の声に聞き従う」これほど、確かな道はないのは、頭では分かっていたのですが、いざ自分の身にそのことがふりかかると、すんなりとはいかないものだということ、まだまだ自己中心の私がいることが、痛いほどわかりました。ヤコブの「失うときには、失うのだ」という「主に全面的に従う」主への信仰にいたる葛藤は、今となって、少しは理解できるように思います。

さて、ヤコブは、ベエル・シェバで、主の声を聞いていますので、期待に胸膨らませ、希望をもってエジプトに入ったに違いありません。そして、エジプトの監督官になったヨセフと涙の再会となります。その上での、今日の中心聖句「もう今、私は死んでもよい。この目であなたが生きているのを見たからには。」です。「死んでもよい」とは「もう願いは成就した、やり残したことはない」という意味でしょう。「希望は失望には終わらなかった」ということです。ヤコブはエジプトに入って17年ののち、147歳で一生を閉じます。

人はいつか死にます。イエス様を通して神さまから頂いた希望をもって、そして、その希望は成就すると確信をもって、この人生を全うしたいものです。「希望は失望には終わらない」

ローマ人への手紙5章1節から5節をお読みして、八さん、熊さんにバトンタッチをしたいと思います。

●「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。また、キリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐は練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」

では、天国長屋の八さん、熊さん、よろしくお願いいたします。

―――――

八: ひゃー、若さん、ローマ書のところ引用して、わてらにバトンタッチやって、

そんなんずっこいわ。

熊: 八、バトンは渡されたんやから、走らなあかんて。

八: なんや、熊。えらい素直やな。どうしたんや。

熊: まあ、このローマ書のところ、けっこう大切なところや。

それを若さんが俺たちにまかせはったんやから、なんとかあがいてみようやなか。

八: わかった。おまはんがそいうんやったら、走ってみよか。

熊: ところで、神との平和って、なんや。

八: おい、そっからスタートかいな。かなわんなぁ。

神様のひとり子であられるイエス・キリストの十字架と復活を信じたら、

神さまと和解ができるんや。

熊: つまりあれかいな、わてらが、アダムはん以降、ずっと神様にそっぽを向いてきた、

その罪が、神さまとの断絶を生んだ。ところが、イエス様を信じることによって、

罪赦された者となって、神さまと仲直りできたちゅうこっちゃな。

八: そや、イエス様がその仲直りの仲介役をしてくださったんや。神様との和解が、

神様との平和や。この神様との平和こそが、人間にとってもっとも大事なことなんや。

熊: 世界平和も個人個人の神様との平和なくしては、成り立たんちゅうわけやな。

八: えらい大きくでよったなぁ。けんどその通りや。

それにやで、このローマ書のみ言葉には、ある秘密がひとつ隠されとんねん。

熊: それって、希望が失望に終わらん、ちゅうこととちゃうんか。患難が忍耐を、

忍耐が練られた品性を、練られた品性が希望を生み出すんやろ。

希望、ちゅうたら、イエス様を信じるわてらに約束された「永遠のいのち」

「天国での新たな生活」やわな。

八: 近いなぁ、その辺りなんやけど、「なんで希望が失望に終わらんか」ちゅうところに、

秘密が隠されてんねん。

熊: それって、パウロはん、ゆうてはるやないかいな。

●「なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に

注がれているからです。」ちゅうて。

八: そや、けんど、これがちょいと分かりにくいんや。

熊: そうか。そうでもないでぇ。

イエス様を信じるわてらに、イエス様はイエス様の平和であり助け主である

聖霊様をお送りくださって、聖霊様を通して、神様との親しい交わりをもつことが

でける。そやから、いつでもどこでも神様とお話でける。

聖霊様のいらっしゃるところが聖所や。そやから、わてらの希望は、

ずっと続いていくちゅうこっちゃ。そやろ。

八: 大したもんや、ようわかっとる。聖霊様のおかげで、わてらは、いっつも

神様を身近に感じることができる。だから、失望に終わらへんちゅうこっちゃな。

希望は、聖霊様の働きのおかげでは、わてらははげまされ、希望は成就するんや。

熊: ところで、話変わるけど、ヤコブはんの●「もう今、私は死んでもよい。

この目であなたが生きているのを見たからには。」というの、親心やなぁ。

親は離れ離れであっても、子どものことをいっつも案じとる。

死んだといわれても、その屍を見ないかぎり、まだ生きとるんとちゃうかと

おもてしまう。いや、そう思いたいのが親心や。

八: せやなぁ。災害でなくなった家族、遺体と対面しない限り、まだどっかで

生きてんのとちゃうかと思てしまう。がれきの下に埋まってしもてはったり、

海や川に流されて行方が分からんようになったり、土砂の海に沈んでしもたり。

家族は死んでも死に切れん思いや。

熊: ところが、ヤコブはんは、その死んだと思てた、または思うようにしてたヨセフはんが、

生きてはった。ヤコブはんにとっては、ヨセフはんが、偉うなっておろうが、

貧乏であろうが、生きてまた会えたことが喜びや、幸せや。

八: 神様もおんなじこと、わてらに思てくれてはんねやろうなぁ。

迷い子が、父なる神さまのもとに帰ってきよった。どんなか嬉しいやろうか。

熊: まるで、イエス様のたとえ話の「放蕩息子」や。行方知れずの放蕩息子が父親のもとに

帰って来て、父親は大喜び。天の神様もわてらがイエス様を信じて、神様と和解して、

霊的な親子として、交わりがもてる、わてらが嬉しいと思うより、はるかに

大きな喜びで迎え入れてくださる。ヤコブはんも、そんな気持ちなんやろうな。

八: 親というもんは、ありがたいもんや。神様もわてらの親や。わてらにずっと希望を

たくしてくださる。いつかいっしょに暮らせる日を待ち望んでくれてはるんや。

そのために、イエス様をお送りくださった、聖霊様をわてらの心の中にとどまるように

してくださった。「希望を失望に終わらへん。」神様にとっても、わてらにとってもや。

ほい、若さん、このへんでバトンタッチ。アンカーしっかり頼んまっせ。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。神様も私たちに期待していてくださる。天国でいっしょに暮らそうと、、、神様はおっしゃってくださいます。感謝なことです。まず、神様から、私たちに和解の手段を提案してくださって、イエス様をお送りくださいました。もう準備はできています。次は私たちの番です。私たちがイエス様を救い主と真に信じ、聖霊様との親しい交流を欠かさないなら、希望は失望に終わる事なく、必ず成就します。そのために、イエス様は聖霊様を私たちにお送りくださっているのです。どうか、神のひとり子であり救い主であるイエス様を信じてください、信じる決心をしてください。信じている人は、どんなことがあってもイエス様に希望を持ち続け、信じ続けてください。

では、いつもの通り、宣言をしたいと思います。今日の宣言は、私たちが、聖霊様との深い交わりを通して、希望を確信へとかえていただくために、「聖霊様との交わりを大切にします」です。では、三回宣言しましょう。

「聖霊様との交わりを大切にします」、「聖霊様との交わりを大切にします」、「聖霊様との交わりを大切にします」アーメン!

黙想をいたします。

黙想の時にお読みするのは、詩篇8篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。マタイの福音書12章33節。

「木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しはその実によって知られるからです。」

黙想いたします。詩篇8篇。

黙想時の曲

⑥[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

賛美⑦:威光尊厳栄誉

https://www.youtube.com/watch?v=1KmKjqmylE0

賛美⑧:全世界に出て行こう

https://www.youtube.com/watch?v=D5UcfQn2fHQ

●礼拝の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の1月22日 午後5時から小阪チャペルにて、主日礼拝。

聖書: 創世記47章

「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ

https://vinechristchurch.jimdofree.com/