· 

メッセージ主題:『悪に対して愛』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2023.2.19主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、軽く愛餐の時をもちます。)

●午後5時開会:ただいまより、2023年2月19日主日礼拝式を始めます。

礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。

私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。

賛美①:雨を降り注ぎ

https://www.youtube.com/watch?v=GZNRdYKE7RA

賛美②:祈りまつる

https://www.youtube.com/watch?v=xtQVzI3euTA

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

賛美③:わが魂の羊飼い (2月の歌)

https://www.youtube.com/watch?v=SUSg_GEgJCA

賛美④:栄光イエスにあれ

https://www.youtube.com/watch?v=Aw1g72Jffd0

●十戒

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。    それらに仕えてはならない。

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。

賛美⑤:ハレルヤ神の聖所で

https://www.youtube.com/watch?v=exHHS18_rwE

【YOUTUBE配信開始】

2023年2月19日 主日礼拝メッセージ

2023年の年間聖句は「山上の説教」マタイの福音書5章3節~10節の8つの幸いです。

いっしょに唱えましょう。(新改訳聖書2017)

第1の幸い(マタイの福音書5章3節)

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」

(自分ではどうしようもなく、主の力と知恵を求めるしかないと思っている人)

第2の幸い(マタイの福音書5章4節)

「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」

(どうしようもなく罪を犯してしまう、そのことを悲しみ悔いる人)

第3の幸い(マタイの福音書5章5節)

「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」

(自分を無力でどうしようもないものだと、へりくだらざるをえない人)

第4の幸い(マタイの福音書5章6節)

「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」

(自分の中にある罪を憎み、義である主を求める人)

第5の幸い(マタイの福音書5章7節)

「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」

(主を知ることで、憐みをおぼえ、主のように、他の人に憐れみをかける人)

第6の幸い(マタイの福音書5章8節)

「心のきよい者は幸いです。その人たちは神をみるからです。」

(悔い改めを通して、主に聖くしていただけると信じる人)

第7の幸い(マタイの福音書5章9節)

「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」

(神との関係を、創造主と創造物の関係に、修復された、主の証し人)

第8の幸い(マタイの福音書5章10節)

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」

(信仰に堅く立ち、この世と調子を合わさない人)

神様からのメッセージの前に礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

●聖書拝読:創世記50章(新改訳聖書)

中心聖句:

「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」(20)

メッセージ主題:『悪に対して愛』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。

●メッセージ

(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)

創世記最終章50章では、ヤコブの死とその亡骸をミイラにし、カナンの地のマクペラの畑地のほら穴に、葬った記述(1-14)、ヨセフとヨセフの兄弟たちとの和解とその確認(15-21)、そしてヨセフの家族に囲まれた平和な暮らしとヨセフの死、父ヤコブと同じようにミイラとしたことが記されています。

創世記で、亡骸をミイラとすることが初めて出て来るのが、この50章です。死体をミイラ化するエジプトの技術がヤコブとヨセフにも使われたことを見ますと、高貴な方々のよみがえりを期待してミイラ化して埋葬するという感覚が、ヨセフたちにも影響しているような気がします。それが、そのままヨセフの信仰に影響していたかどうかは分かりません。そうでないことを期待します。

さて、今日注目します聖句は、20節です。●「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」私たちは、時として嫌な思いや、憤りを感じることがあります。それが、自己中心的なものから出て来るのか、理不尽な扱いに対してのものなのかを、冷静に判断する必要がありますが、20年以上前のヨセフの兄弟たちのヨセフに対する理不尽さは悪意に満ちたものでした。腹違いといえども兄弟を奴隷として売り飛ばす行為は異常ともいえます。恐らくヨセフもその時は兄弟たちも恨んだことでしょう。嘆き恨みつらみに暮れた日々を送ったにちがいありません。しかし、その日々は短かったかもしれません。ヨセフは奴隷として必死に生きなければいけなかったからです。そして、ヨセフがエジプトへ連れて行かれてからは、「主がヨセフとともにおられて」という記述の通り、主によって順調に、多くの人を助けるために、導かれていきます。もちろん、その間に、兄弟たちの悪を思い出す日もあったでしょう。しかし、ヨセフは、主に従って生き抜くことに前向きでした。そして、ついにヨセフの兄弟に会い、自分のことをかれらに明らかにする時に、彼らを恨んでいないことを伝えています。

●「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」(創世記45:4-5)

しかし、父ヤコブの死んだ後、兄たちはヨセフの報復を恐れて、「父が兄たちの罪を赦してやりなさい」というヤコブのいわば遺言をヨセフに伝えます。そこで、ヨセフは、●「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。」と、兄たちに報復しないことを告げます。ヨセフは、「裁きは主のもの」であることを強調し、兄たちを安心させます。

「裁きは神のもの」。そうです。私たちはこのことを忘れてはいけません。イエス様も同じことをおっしゃいます。●「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」(マタイ7:1-2)「裁く」とは、「判定する」ということでもあります。または、「決めつける」ということにも通じるでしょう。私たちはだれも他の人を正しく判断することはできません。また、他の人だけではなく、自分自身も正しく判断できません。正しく判断できるのは、神のみです。しかし、そのことを忘れて、私たちは他人のことをあれやこれやと決めつけてしまいがちになります。また、自分の力量を過信したり、制限したりしてしまいます。「裁きは主のもの」、重たい言葉です。

イエス様は、後に「黄金律」と呼ばれる、み言葉をお伝えになります。●「何事にも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」(マタイ7:12)また、その逆も真なりではないでしょうか。「自分にしてもらいたくないことは、他の人にもしない」。これが、裁かない秘訣でもあるのかもしれません。自分のしてもらいたいこととしてもらいたくないことを常にチェックしながら、暮らしてしていくことが、「裁かない」ことにつながるのかもしれません。

とはいえ、私たちは、気づくと、他人を攻め、自分さえも呪ってしまうようなものです。「裁きは主のもの」と心に刻んで、心のゆるみを避けつつ、他人に対しても、自分に対しても、主の憐みを願わざるをえません。

しかし、主はそんな情けない私たちを、良い時でも悪い時でも、主の栄光を現わすために、用いようとしてくださいます。私は、神様の次のことばを信じています。エレミヤ書29章11節●「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるものだ。」

なんと力強いおことばでしょう。私たちには、さまざまな出来事がおこり、そのつど右往左往します。絶望に陥ることもあるでしょう。しかし、主は「私の計画は、あなたがたに将来と希望を与える」とおっしゃるのです。私たちは、この主の言葉に希望をもちつづけなければいけません。

そして、悪には悪をでも、悪には倍返しでもなく、悪には愛を、です。なかなか難しい問題ですが、イエス様は「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)とおっしゃいます。迫害の連鎖を、復讐の連鎖を断ち切りなさいとおっしゃいます。そのためには、敵に対しても、悪に対しても祈ることです。敵を愛することはなかなか容易ではありませんが、敵にために祈ることはできる可能性はあります。もちろん、言葉だけで祈ってもダメですね。敵に対して、悪感情とか嫌悪感を取り除かないと、敵のために祈ることは無理でしょう。ですから、神に、敵に対する、悪感情や嫌悪感を少なくしてもらうように祈りことから始めないといけないのではないでしょうか。イエス様のおっしゃる「敵を愛する」ことからは、気が遠くなるほど、私たちは、遠くにいるような気がします。しかし、私たちイエス様を信じ従おうとする者としては、道のりが遠くても、歩み始めないといけない、避けて通れない道です。

ヨセフは、いつ、兄たちの悪を赦せたのでしょうか。少なくとも、奴隷としてエジプトに入るまでは、うらみつらみいっぱいだったかもしれません。しかし、エジプトに入り、パロの部下のポティファルに買い取られてから、主が共におられることがはっきりと分かるぐらいに、彼は守られ祝福を受け続受けるなかで、兄たちの悪を赦すというよりは、兄たちの悪を忘れて行った、いえ忘れてはいないでしょうが、頻繁には思い出さなくなったのではないでしょうか。私は、これこそ主の憐みではないかと思うのです。敵を愛することも赦すことも至難の業ですし、悪や罪を忘れることも難しいでしょう。しかし、主は、ヨセフにまた私たちに、悪や罪を思い出さないぐらいに、祝福を与えてくださろうとしておられるのではないでしょうか。ヨセフにとっては、その祝福によって、兄たちの悪を思う心は、良い方向へと変えられたのです。主は、主の大いなる祝福によって、ヨセフの心の向きを変えられたのでした。主は、ヨセフを、憎しみから、解放してくださいました。

今日のタイトルは、「悪に対して愛」というタイトルです。この愛は私たちの愛ではありません。イエス様の愛です。悪を行なったものには、イエス様の赦し、悪を行なわれた者には、イエス様の憐みの祝福です。他人の悪を赦すことも、自分の悪を赦すも、私たち自身ではどうすることもできません。「裁きは主のもの」と言われますが、「赦しも主のもの」なのです。イエス様しかいらっしゃらないのです。悪を完全に赦すということをは、完全に忘れることでもあるのでしょうか。イエス様は、私たちに大いなる祝福をお与えくださって、その悪を思い出しにくくしてくださることも可能なのです。そのためにも主の祝福を大いに願いましょう。

さて、今日も天国長屋の八さん、熊さんにお登場いただきます。

八さん、熊さん、よろしくお願いいたします。

―――――

八: 今日で「創世記」終わりやなぁ。

熊: 50章で、50週。毎週1章ずつ。長かったような短かったような。

八: いや、長かったでぇ。で、最後に「敵を愛する」ちゅうことが着地点かいな。

熊: 「敵を愛する」ちゅうのは、むずかしなぁ。「敵を愛する」ことができたら、

戦争なんか起こらへん。「敵を愛する」ゆうことよりも、「愛をもって悪に対抗する」

ちゅうた方がええかもしれへんなぁ。

八: 「罪を憎んで、人を憎まず」ちゅう言葉もあるでぇ。

熊: それは、孔子のことば、らしいなあ。憎むべきは罪であって、人ではない。

八: そこは、イエス様と同じかもしれん。イエス様も罪は徹底的に憎みはったから。

熊: けんどな、孔子はんの「罪を憎んで、人を憎まず」ちゅう言葉には、「赦し」

ということがはいっとらへん。イエス様は「敵を愛しなさい、敵のために祈りなさい」

って言いはった。

八: 「敵を愛する」ちゅうことは、「敵を赦す」ちゅうこっちゃ。

「敵を赦す」ちゅうことは、「敵の罪を赦す」ちゅうこっちゃ。

熊: せやねん。本当の意味で「罪を赦す」のはイエス様しかでけへん。ということは、

イエス様が、わてらと敵の間にはって仲裁してくださらないかぎり、わてらは敵を

赦すことも、愛することもでけへんちゅうこっちゃ。

八: どっちにしたって、「敵を愛する」ことは難しいわ。「愛してくれる人を愛する」ことも

ちゃんとようでけへんねんから。

熊: 「愛してくれる人を愛する」? 八、おまえ、いつの間に恋人でけたんや。

わてに内緒で、隠れてつきおうてんのかいな。

八: このわてに恋人なんてできるわけ、あれへんやないか。

ちゃうがな、父なる神様やイエス様やがな。

わてら、「イエス様いのち」ってゆうてる。イエス様はわてらを愛してくださってる。

神さまはわてらを変わらず愛してくださってる。しかし、わてらはどうや。

わてらの神様やイエス様に対する愛は、上がったり下がったりで不安定や。

「イエス様いのち」が泣くわ。「わてらを愛してくださる神様やイエス様を、

わてらはちゃんと愛することもでけん」。

熊: 八、そんなことは、神様もイエス様も百も承知や。そやから、わてらに助っ人として

聖霊様をお送りくださってるんやないかいな。わてらは、イエス様を信じてても、

罪だらけの不完全な人間や。せやから、敵なんて愛せるわけないねん、イエス様が間に

はってくれへんかったら。

八: イエス様は「敵のために祈りなさい」ちゅうてた。けんど、それすらも、

拒否する自分がいるでぇ。

熊: 「敵のために祈る」ちゅうことも、むずかしいわな。けんどは、イエス様は、

「すぐに愛しなさい」「すぐに祈りなさい」とはおっしゃってはれへん。

ここを、勘違いしたらあかんのとちゃうかと、わては思てんねん。

八: じゃあ、いつになったらできんねん。その、敵を祈ったり愛したりするんは。

熊: そんなこと、わてにかってわからんわいな。けんど、ヨセフはんみてみぃ。

ヨセフはん、本当に、お兄さんたちの悪を赦せたのは、お兄さんたちが、お父さんの

落胆している姿とずっと見続けて、ヨセフはんにしたことを後悔したことが

分かったからやないか。つまりは、20年という歳月がかかったわけや、

ほんまのほんまに、赦すのにな。

八: はぁ、本当に赦すのに20年かかったか。あぁ、けんど、そうかも知れへんなぁ。

熊、熊の言うとおりかもしれん。本当に兄さんたちの悪をすぐに赦してるんやったら、

エジプトから、お兄さんたちやヤコブ父さんに会いに行けたはずや、もっと早くになぁ。

けど、それがでけへんかったちゅうか、せぇへんかったちゅうことは、ヨセフはんは、

結局ゆるしてはれへんかったちゅうこっちゃわなぁ。まあ、なんか、

まだこだわってはったんやろなぁ。

ちゅうことは、わてらが、相手を赦すのにも、相手のために祈るのにも、自分を赦す

のにも、時間の猶予があってええちゅうことやな。神様それをお認めになって

くださっている。もちろん、イエス様を通して祈らせていただかんとあかんねんけどな。

「創世記」はあれやな、神様の愛によって、この世界が造られ、神様の憐みによって

わてらが生かされ、相手を赦すこと、そして、それらはすべて神様のご計画にある。

そのことが書かれてるんやな。

熊: まあ、そうかも知れんなぁ。それに一貫して、創造主である神様を礼拝すること、

神様に従うこと、そのことが、わてらの一番の幸せやちゅうことも

書かれてあるんとちゃうやろか。な、若さん。

けんど、わてら、よう辛抱強く、創世記、読み続けましたなぁ。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。辛抱強くというよりは、私にとっては、いろいろと新しいことの発見でした。毎週が苦しくもありまた楽しくもありましたよ。また、第50章の最後は、ヨセフの死で終わっていますが、ヨセフの遺言に、ヨセフの遺体を携え、エジプトを出て、その子孫の民といっしょに、カナンの地に上っていくことが記されています。それは、モーセの時代に成就するのですが、ヨセフはミイラにされますから、いつかはよみがえることを期待してのことでしょう。肉体の死が終わりではなく、また復活に望みをかける信仰が描かれています。新約時代の私たちにも、肉体の死がおわりではなく、イエス・キリストを信じるものには永遠のいのちがあり、信じた時点から永遠のいのちのはじまりであること、そのことを、創世記は暗にしめしているような気がします。

では、いつもの通り、宣言をしたいと思います。今日の宣言は、悪に対して、主によって、私たちの心の向きをかえ、赦すというよりは、そのことから心を解放していただくことをめざします。相手をまたは、自分を赦さないのは、祈れないのは、そのことに、私たちの心が奴隷となっているからです。私たちの主、イエス様は、その憎しみの奴隷となった私たちの心を解放し来られたのです。その解放の糸口のひとつに、ヨセフの時のように、主の大いなる祝福があるのではないでしょうか。

今回は、「主によって心を解放していただきます。」と宣言したいと思います。では、三回宣言しましょう。

「主によって心を解放していただきます」、「主によって心を解放していただきます」、「主によって心を解放していただきます」アーメン!

黙想をいたします。

黙想の時にお読みするのは、詩篇103篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。ルカの福音書4章21節。

「きょう、聖書のこのみことば(主の恵みの年の初まり)が、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」

黙想いたします。詩篇103篇。

黙想時の曲

⑥[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

賛美⑦:目を上げて主の御顔を

https://www.youtube.com/watch?v=mUNJ1_gJtjw

賛美⑧:御手の中で

https://www.youtube.com/watch?v=6Jatal3F0KM

●礼拝の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の2月26日 午後5時から小阪チャペルにて、主日礼拝。

聖書: 

「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ

https://vinechristchurch.jimdofree.com/