ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル
2023.4.16主日礼拝式
(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、軽く愛餐の時をもちます。)
●午後5時開会:ただいまより、2023年4月16日主日礼拝式を始めます。
●祈り
角笛
礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。
ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)
●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
続いて
●使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、
永遠の生命を信ず。アーメン。
礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。
私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。
賛美①:神の御子にます
https://www.youtube.com/watch?v=OgR5Ts2Mszk
賛美②:イエスよ愛の手を差し伸べて
https://www.youtube.com/watch?v=-2fFzfPkwW8
賛美③:山々が生まれる前から (4月の歌)
https://www.youtube.com/watch?v=oCBaJ8sqW0U
賛美④:鹿のように
https://www.youtube.com/watch?v=3WSYYn8LQd0
賛美⑤:イエスがいるから
https://www.youtube.com/watch?v=FBwFX1ZAJz8
賛美⑥: 今主の御名あがめて
https://www.youtube.com/watch?v=eWuFuTvfvsQ
【YOUTUBE配信開始】
2023年の年間聖句は「山上の説教」マタイの福音書5章3節~10節の8つの幸いです。
いっしょに唱えましょう。(新改訳聖書2017)
第1の幸い(マタイの福音書5章3節)
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」
(自分ではどうしようもなく、主の力と知恵を求めるしかないと思っている人)
第2の幸い(マタイの福音書5章4節)
「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」
(どうしようもなく罪を犯してしまう、そのことを悲しみ悔いる人)
第3の幸い(マタイの福音書5章5節)
「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」
(自分を無力でどうしようもないものだと、へりくだらざるをえない人)
第4の幸い(マタイの福音書5章6節)
「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」
(自分の中にある罪を憎み、義である主を求める人)
第5の幸い(マタイの福音書5章7節)
「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」
(主を知ることで、憐みをおぼえ、主のように、他の人に憐れみをかける人)
第6の幸い(マタイの福音書5章8節)
「心のきよい者は幸いです。その人たちは神をみるからです。」
(悔い改めを通して、主に聖くしていただけると信じる人)
第7の幸い(マタイの福音書5章9節)
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」
(神との関係を、創造主と創造物の関係に、修復された、主の証し人)
第8の幸い(マタイの福音書5章10節)
「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」
(信仰に堅く立ち、この世と調子を合わさない人)
●2023年4月16日 主日礼拝メッセージ
●聖書拝読:ルカの福音書8章(新改訳聖書)
中心聖句:
「イエスは、『わたしにさわったのは、だれですか』と言われた。みな自分ではないと言ったので、ペテロは、『先生、この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです』と言った。」(45)
メッセージ主題:『信頼する勇気』
改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。
できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。
●メッセージ
(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)
ルカの福音書8章には、7つの話があります。①イエスに仕える女性たち、②「種を蒔く人」のたとえと説明、③「ともし火」のたとえ、④突風を静めるイエス、⑤悪霊に取りつかれた人をいやすイエス、⑥ヤイロの娘をいやすイエス、⑦長血の女のいやし。このひとつひとつが、メッセージになる要素をもっています。しかし、乱暴に言うことをお許しいただけるなら、これらの話は、「みなさんの心をどこにおくか」ということに尽きるのかもしれません。まあ、もっと乱暴に言えば、聖書全体が、「心をどこにおくか」という問題提起をしているとも言えます。
さて、今日は、長血の女のエピソードを中心に見てみたいと思います。12年間、出血の止まらない女性は、さまざまな医者に診てもらうのですが、誰も彼女を直すことができませんでした。彼女は、医者からもさじを投げられ、だれからも相手にされず、ひっそりと暮らしていました。といいますのも、病気は罪ゆえのものであるという社会的認識があったため、病人は罪人というレッテルをはられ、日陰の身として生きていくしかありませんでした。そんな彼女が、癒し主救い主であるイエス様がおいでになるという噂を耳にします。彼女は、ダメもとで、イエス様ならこのやっかいな病気を直していただけるかもしれないと、イエス様に最後の望みをたくすようになりました。が、しかし、だれもが彼女のことを知っていて疎ましく思われていたので、面と向かってイエス様に会うことには気が引けていました。この時期、イエス様は、でかける度に、群衆がおしよせていました。彼女は、イエス様の着物のふさにでもふれれば、直るのではないかと思い始めました。なにせ、イエス様は、足の不自由な人を直したり、目の見えない人を見えるようにしたりしておられましたから。そして、ある日、ついに実行します。恐る恐る、群衆に紛れて、小さくなってイエス様の後ろから近づき、イエス様の着物のふさに触ることに成功しました。するとどうでしょう、たちどこに、彼女はいやされました。
しかし、イエス様は、このことに気がつきます。「わたしにさわったのは、だれですか。」群衆がイエス様のまわりを取り囲んでいるのですから、イエス様に触れる人は多くいたはずです。弟子のペテロも●「先生。この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです。」触れたことをいちいち気にされても仕方がないのではとイエス様に訴えんばかりです。しかし、イエス様は、●「だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから。」とおっしゃって、だれが、着物にさわったのかを捜します。女は、隠しきれないと悟って、おそるおそる進み出て、イエス様の御前にひれ伏し、すべてを告白します。イエス様は、「あなたの信仰があなたを直したのです」とおっしゃいました。
私はこう考えます。イエス様は、はなからこの女性がイエス様の着物をさわって、癒されたことを知っていたはずです。しかし、イエス様は、彼女が名乗りでるまで、待たれたのではないでしょうか。彼女は、勇気をだして、イエス様の着物のすそに触りました。そして癒されました。しかし、それは秘密裏に行われたのです。イエス様は、長血の女として、みんなから疎まれていた彼女が完全に癒されたことを公にし、神の御名があがめられるだけでなく、彼女が社会生活へと戻れるようにされたのです。、、、と、私は思うのであります。お癒やしになり、心も体も健康になるだけではなく、社会復帰まで、面倒をみてくださる、それがイエス様、そして天のお父様の私たちの必要を満たすということではないでしょうか。
さて、この長血の女は、もう後がありませんでした。必死の思いで、イエス様にすがりつきました。では、必死の思いでない限り、イエス様は助けてくださらないのでしょうか。私にはわかりません。人間的には理不尽、不公平と思われることでも、神様の目では、ちがうのでしょう。しかし、イエス様が、最新の注意をはらって、私たちを守り導かれておられることは、確信しています。私たちは、神に信頼し続け期待し続けること、私たちの勝手な思いではなく、神の御心のみがなりなすようにと従い続けることが、求められているのです。
ある人が、イエス様はマエストロだとおっしゃいました。マエストロとは、交響楽団を指揮する、名指揮者のことです。指揮者は、ほんの少しの音の乱れもピンポイントで指摘し、調整していきます。マエストロにとっては、楽団員全員の音のそれぞれが大切であり、不必要なものはありません。弱い音も強い音も、聞き分けてくださるのです。イエス様も同じで、いろんな人がイエス様に触れますが、イエス様を必要としている人に力が流れ、イエス様はそのことをよくご存じです。イエス様は、私たちが、心を開いて、自分の悩みや苦痛、それに反対の喜びをも打ち明けようとして、イエス様に近づいて来るのをまってくださっています。
イエス様に、飢え渇きをもって、期待して近づいて来る人のことを、イエス様は18節で、次のようにおっしゃっておられます。●「持っている人は、さらに与えられる」と。これらの人がもっているものは、神に対する期待であり飢え渇きであり、また主に対する信仰でもあります。イエス様のタラントのたとえを思い出す人もいらっしゃるでしょう。イエス様の戒め、「イエス様のように、互いに愛し合う」ということをしようとする人々は、詩篇1篇の約束どおり、栄えるのです。しかし、●「持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられる」とは、イエス様に期待せず信頼も信仰もない人は、結局、世の栄光も約束も取り去られ、天の御国に招待もされないということでしょう。イエス様は、神に対する真の信仰を持たない人をイスラエルの民だとし、またイエス様のところにきた、イエス様の実の母親と兄弟たちも同様であると見ています。ですから、21節で、●「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行なう人たちです」とおっしゃるのです。
人を100パーセント信頼するというのは、勇気がいります。あたかも、支えてくれる人を信頼して後ろ向きに倒れるのとおなじです。あの長血の女は、絶望のどん底にありながら、イエス様に一筋の希望を見出し、イエス様の着物に触れるという勇気を得ました。今、イエス様を信じている人には、信仰の高みを目指す勇気を、信じていない人には、信じる勇気をもってくれるようにと、イエス様は待っておられます。皆さんはいかがでしょうか。
さて、今日も天国長屋の八さん、熊さんにお登場いただきましょう。
八さん、熊さん、よろしくお願いいたします。
―――――
八: わてな、今日の長血の女の話を聞いて、最後の最後の頼みの綱として、イエス様を選んで、
イエス様を信用して、勇気を振り絞って、イエス様の着物の裾にふれはった、
あの女の人の気持ち考えると、わては、イエス様を信じるとき、そんな勇気やなかったかなぁ、、、って思ててん。
熊: たしかに、わてら、あんまり背負てるものがないから、一生に一度の勇気みたいなもんと
ちゃうかもしれへんなぁ、イエス様を信じた時。
八: 熊、おまえもそやったか。けんど、若さんはちょっと違うかったみたいやで。
熊: まあなぁ、若さん、長男やし。
八: そうそう、その長男で、家の宗教、浄土真宗やったかな、親父さんから、墓も守って
ほしいゆうて言われてて、イエス様を信じるときに、えらい悩んだみたいやで。
熊: そういえば、親に10数枚の手紙を書いたってゆうてたな。
八: その手紙は、イエス様を信じて、洗礼受けて、3・4カ月たった時のことやな。
熊: そや、土曜日の夜からずっと書き続けて、何べんも書き直して、日曜日の礼拝の前に、
投函したゆうてた。
八: そん時の礼拝の最中、ずっと泣いてたってゆうてはった。熊は、なんで泣いてたか
理由は知ってるか。
熊: 知らんけど。やっぱり、家の宗教変えるちゅうのは、勇気のいることなんとちゃうやろか。
わてらには、洗礼を受けるとき、もう親はおらへんかったさかいな。
八: 人はそれぞれ背負てるものがちゃうから、まあ、それを十字架ちゅうて
ゆうてるねんけどな。
熊: あ、それって、「十字架を背負って生きる」ちゅうことか。
八: 世間では、「耐えがたい苦難や罪悪感やトラウマを背負って生きる」ちゅうこと
なんやろうけど、イエス様がおっしゃったのはだいぶちゃうような気がするねん。
熊: あ、それって、ルカの福音書やマタイの福音書にもあるやつやなぁ。
八: ルカでは、14章のところ、マタイでは、16章のところにあるなぁ。
熊: わては、マタイの方が分かりやすいわ。16章24節~25節。
●「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、
そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、
わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」
『いのちの限り、いのちを尽くして、わたしに従ってきなさい』、
これが、イエス様がおっしゃったことや。
八: 世間の使い方とだいぶちがう。わてらの苦痛や罪悪感やトラウマを、イエス様がわてらの
代わりに十字架として背負ってくださった。だから、わてらは、いのちを尽くして
イエス様に従っていくだけなんや。
熊: イエス様は、マタイの福音書11章の最後にいってはる。
八: 11章の最後? あ、それは、わてに言わして。わての大好きなところやから。
●「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、
あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに
安らぎがきます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(26-30)
熊: わてらの苦痛や罪悪感やトラウマを十字架として背負われるには、イエス様も勇気が
いったやろうなぁ。
八: そうやと思うでぇ。ゲッセマネでの祈りを見たら、お辛さがようわかる。
●「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。
しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)
熊: ほんで、「苦しみもだえて、切に祈られ、汗が血のしずくのように地に落ちた」と
あるからなぁ。汗でもあったし、涙でもあったやろうなぁ。イエス様は、神様を全く
信頼して従っていた、なんせ、神様は天の父親やから。そやけんど、十字架という
杯を飲むということには、勇気がいったと思うで。
八: その勇気のみなもとが、信頼であり愛やろうなぁ。愛は恐れを消すちゅうからな。
父と子の信頼、愛。それをイエス様はひしひしと感じてた。せやから、勇気をだして、
ゴルゴタの処刑場に上られはったんや。
熊: 感謝や、感謝しかあらへん。わてらもイエス様から、その何十分の一の勇気をもろて、
イエス様を信じようと決断したんや。
八: ところで、若さん、若さんは、あの手紙のとき、なんで泣いたん?
―――――
八さん、熊さん、ありがとうございます。あの手紙の時、泣いたのは、ひょっとして、親から勘当されても仕方がないと、親を愛しているが、イエス様に従っていきますと決意し、そのこともしたためて、投函したからです。そして、その日の礼拝で “I have decided to follow Jesus” という賛美を歌い始めたからです。日本語の訳は、「したがおうイエスさまに」です。この賛美のさびに、No turning back という歌詞があります。それは、「もうもとにはもどりません」という決意をし宣言するものです。
さて、今日も、いつもの通り、宣言をしたいと思います。今日の宣言は、イエス様を信じた限りは、もとにはもどらないと、唱えます。「私はもうもどりません」です。では、三回宣言いたします。よろしくお願いいたします。
「私はもうもどりません」、「私はもうもどりません」、「私はもうもどりません」。アーメン!
黙想をいたします。
黙想の時にお読みするのは、詩篇27篇です。
●黙想:
黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。ヨハネの福音書11章25-26節。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
黙想いたします。詩篇27篇。
黙想時の曲
⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM
https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0
●祈り
●主の祈り
天にまします我らの父よ
ねがわくは、御名をあがめさせたまえ
御国を来たらせたえ
御心の天になるごとく
地になさせたまえ
我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり
アーメン。
【YOUTUBE配信終了】
賛美⑧:したがおうイエスさまに
https://www.youtube.com/watch?v=2HxJ4AGUato
賛美⑨:我らの王はイエス
https://www.youtube.com/watch?v=styz3HC27ks
特別賛美:主の手をわが手に重ね
https://www.youtube.com/watch?v=XYj6mcSpcn4
●礼拝の感謝の祈り
(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)
●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」
https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM
●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21
●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏
https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0
●閉会
●連絡
次回の4月23日 午後5時から小阪チャペルにて、主日礼拝。
聖書: ルカの福音書9章
「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ
https://vinechristchurch.jimdofree.com/