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メッセージ主題:『何を見るのか』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2023.4.23主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、軽く愛餐の時をもちます。)

●午後5時開会:ただいまより、2023年4月23日主日礼拝式を始めます。

●祈り

角笛

礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

続いて

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。

私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。

賛美①:生ける限り主を

https://www.youtube.com/watch?v=r-M4O5Xr0Kc

賛美②:Above all

https://www.youtube.com/watch?v=-Ga-6if_LLY

賛美③:山々が生まれる前から (4月の歌)

https://www.youtube.com/watch?v=oCBaJ8sqW0U

賛美④:我がたましいよ歌え

https://www.youtube.com/watch?v=y1Ogyu-3_T0

賛美⑤:ただ感謝だけ

https://www.youtube.com/watch?v=h_YSJfOU-xU

賛美⑥: あなたがすべて

https://www.youtube.com/watch?v=eWuFuTvfvsQ

【YOUTUBE配信開始】

2023年の年間聖句は「山上の説教」マタイの福音書5章3節~10節の8つの幸いです。

いっしょに唱えましょう。(新改訳聖書2017)

第1の幸い(マタイの福音書5章3節)

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」

(自分ではどうしようもなく、主の力と知恵を求めるしかないと思っている人)

第2の幸い(マタイの福音書5章4節)

「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」

(どうしようもなく罪を犯してしまう、そのことを悲しみ悔いる人)

第3の幸い(マタイの福音書5章5節)

「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」

(自分を無力でどうしようもないものだと、へりくだらざるをえない人)

第4の幸い(マタイの福音書5章6節)

「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」

(自分の中にある罪を憎み、義である主を求める人)

第5の幸い(マタイの福音書5章7節)

「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」

(主を知ることで、憐みをおぼえ、主のように、他の人に憐れみをかける人)

第6の幸い(マタイの福音書5章8節)

「心のきよい者は幸いです。その人たちは神をみるからです。」

(悔い改めを通して、主に聖くしていただけると信じる人)

第7の幸い(マタイの福音書5章9節)

「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」

(神との関係を、創造主と創造物の関係に、修復された、主の証し人)

第8の幸い(マタイの福音書5章10節)

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」

(信仰に堅く立ち、この世と調子を合わさない人)

●2023年4月23日 主日礼拝メッセージ

●聖書拝読:ルカの福音書9章(新改訳聖書)

中心聖句:

「するとイエスは彼に言われた。『だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」(62)

メッセージ主題:『何を見るのか』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。

●メッセージ

(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)

このルカの福音書の9章では、4福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)にでてくる有名な5,000人に食べ物を与えるという奇跡の話と、そして、マタイ書とマルコ書にでてくるイエス様が栄光に輝くというエピソードが含まれています。とくに、興味深いのは、イエス様が白く光り輝いたとき、モーセとエリヤが出現し、イエス様と話し合っていたというところです。モーセは律法を、エリヤは預言者で、二人とも旧約聖書を代表する人物であります。そして、彼らはイスラエルの民に、神を中心とする新しい生き方を教える指導者でもありました。その二人がイエス様の最後についていっしょに話していたというのです。私には、モーセとエリヤが、イエス様に民を導くバトンを渡しているように思えるのです。神は雲の中から、「これ(イエス)は、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」(35)とおおせになりました。神は弟子たちにこのことを告げました。そして、それは、つまり、イエスを救い主キリストと信じるすべての人、つまり私たちに告げているのです。「イエスの言うことを聞きなさい。聞き従いなさい」と。導きのバトンは、確実にイエス様へと移ったのであります。

さて、今日の中心聖句の中にでてきます、鋤ですが、鋤は鎌と同様、農耕の道具です。このことで思い出されるのは、イザヤ書2章4節です。●「主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」とあります。『戦いがなく、平和な状態になることをたとえていて、その平和は永久に続く』ことを示唆しています。イエス様は農耕のことをよく譬えに出されます。それだけ民衆にとって身近な話題を通して、民衆の心に福音をとどめようともなされておられたに違いありません。鋤が平和の象徴であり、そして、鋤は牛が引く道具であり、「手に鋤をつける」という行為は、土を耕す牛を誘導するということでもあるでしょう。牛を誘導するのに、前を向かず、うしろを振りむいてはときちんと畑を耕すことができません。また、畑を耕す牛からは、イエス様のくびきをも連想することができます。●「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎがきます。」(マタイ11:29)畑を耕すときには、基本二頭の牛が用いられていたようで、くびきは二頭用のものですから、イエス様といっしょに働く・歩むことを意味します。そして、イエス様が生活や働きの主導権をにぎり、私たちはそれに従っていく。その方が、楽で、確かであるからです。畑がきれいに耕されるのと同じように、私たちの心の畑もよく耕され、豊かな実を実らせる土と変わるのであります。鋤からはこのように、平和をつくるイメージと、イエス様と共に働くイメージ、豊かな実を実らせるイメージが連想されます。イエス様は、イエス様に従い、共に働いて、平和を造り出す人は、神の国にふさわしいとされるのです。

そのような理解の上で、「手を鋤につける」とは、『イエス様に従う決心をする』ということになります。イエス様は漁師であったペテロと彼の兄弟アンデレに次のように仰せになりました。マタイの福音書4章19節20節●「『わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。』彼らはすぐに網を捨てて従った。」とあります。イエス様に従うということは、ペテロとアンデレにとっては「網を捨てる」という行為でした。「網」は漁師にとってのいのち、生活を意味します。彼らは網を捨てましたが、イエス様は生活を放棄しなさいとおっしゃっておられるのではありません。いままでの生活態度、信仰態度を改めなさい、自分中心の心を改めなさいとおっしゃっておられるのです。先週も申しましたが、マタイの福音書16章24節25節●「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」「自分の十字架を負う」とは、「命をかけて、精いっぱい、イエス様に従っていく」ということでした。

「うしろを見る」とは、「うしろを振り返り」今までの生活や世俗のことに心を置くということでしょう。旧約聖書の創世記に記されています、トロの妻がいい例であります。神の憐みによって、トロの家族は命からがら、ソドムの町から隣の町に逃げて、家族は救われました。ただし、妻だけは別でした。逃げる時に「うしろを振り返ってはいけない」という忠告を無視し、ソドムでの罪深い暮らしに心を惹かれてしまいました。ロトの妻は、たちまち塩の柱となり、永遠の死を迎えることとなります。先週も申しましたが、イエス様を信じ、イエス様に聞き従うと決めた限りは、No turning back もとにもどってはいけない、のであります。

また、私たちに置きましては、例えば、せっかく礼拝に来ているのに、仕事や勉強、レジャーや楽しみ、食事などのことに、心を捕らわれ、讃美も祈りもメッセージも上の空、という状態でもあるでしょう。また、せっかくイエス様に従う決意をしたにもかかわらず、誘惑にまどわされてしまうことでもあるでしょう。誘惑は、礼拝の時だけではなく、生活しているうえで、常におそってきます。私たちは、本当に、気をつけないといけません。常に祈りと讃美を口にとどめ、誘惑から遠ざかることが大切です。

さて、少し話を変えたいとおもいます。神様から示された、この小阪チャペルでは、愛餐、つまり食事の交わりも大切にしています。コロナ禍であっても、他の教会が愛餐を自粛している時でも、大切にしてきています。それは、イエス様が食事の交わりを大切にされておられたからです。イエス様のことばが霊の糧であるなら、食事は肉の糧です。この世で生きてこそ、福音である、霊のいのちの言葉が聞けるのです。イエス様が奇跡を行なったところで、四福音書とも報告している、有名な5000人の給食というのがあります。このルカ書でも今日の9章に出てきました。イエス様が群衆に教えを説かれ、日も暮れ始めて、解散の時間となりました。しかし、イエス様は群衆を座らせ、五つのパンと二匹の魚を取り、祝福して、12のかごに分けて配られました。すると、男性5000人、つまり子供や女性を合わせるとゆうに10000人はいたであろう群衆は、それらを食べて満腹したのです。「座る」という行為は、当時の食事の姿勢を意味するようです。イエス様は食事も大切にされたのです。この時、群衆は、食事をしたいから、イエス様のところに集まったのではありません。イエス様の話を聞き、その教えによって、自らを変えていただきたい、変わりたいと思って、イエス様の話を聞きに集まったのです。礼拝も同様です。食事や交わりをするだけのために集まるのではありません。讃美の歌を通して、神を賛美し、礼拝し、神様の言葉を聞いて、自分を変えていただきたい、生きる勇気と希望を得たい、心がいやされたいと願い、礼拝をささげるのであります。ですから、礼拝を、今日の食事は何だろうから始めるのではなく、今日の御言葉は何だろう、今日の恵みは何だろうから始めることをお勧めいたします。もちろん、メッセージを取り次ぐ私にも言えることです。今は毎週ルカの福音書を1章ずつ読み進んでいます。毎週、主が何をお語りになろうとされるのかワクワクしながら、礼拝の準備をしています。そして、このワクワクがきちんと皆さんにお伝え出来ますよう、導いてくださいと、主に知恵を求めています。

さて、皆さんが礼拝中に見ようとしておられるのは何でしょう。また、見ておられるのは何でしょうか。また、日曜日の礼拝の時間以外、何を見ておられるのでしょうか。

さて、今日も天国長屋の八さん、熊さんにお登場いただきましょう。

八さん、熊さん、よろしくお願いいたします。

―――――

八: 今日の若さんの言葉、耳痛いわぁ。

熊: なんでやねん?

八: そやかて、わて、小学校のときから、授業そっちのけで、窓の外をみて、

空想にふけってた。

熊: そやそや、わても授業中は上の空やったなぁ。カラスがカーカー鳴いて飛んでいくのを

聞いただけで、あのカラスの家はどこにあるんかいなぁ、とか、

家族はどのぐらいやろうか、とか。

八: わても同じやった、飛行機飛んでんのん、見ただけで、あれ、どこの国にいくのかいなぁ、

って。もう、そうなったら、どんどん空想が膨らんできて、自分の世界に入って、

あっという間に、終業ベルや。ま、それはそれでええねんけどな。

熊: その点、この小阪チャペルは、窓あれへんし、周りの音もあんまり入って来えへんし、

前みたら、十字架やから、イエス様のことしか、思い浮かべへんし。

八: 今日の話のところで、5000人の給食のところがあったやんか。

かごから、パンと魚をとってもとってもまたふえる。

熊: ♬とってもとってもまたふえる~、頑張らなくっちゃ~、頑張らなくっちゃ~。

八: あほぅ。歌ってどうするねん。けんど、あれには、みんな驚いたんとちゃうやろか。

なんてことを思ってしもたりするなぁ。

熊: わてもな、あの話の所で、食べても食べても減らんパンと魚。

ちょうど、イエス様のいのちの水と同じやなぁ、思もて。

●「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者は

だれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉と

なり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:13-14)

八: ちょっと話ちゃうけど、モーセの民に毎日与えられた、不思議な食べ物マナも、

モーセはんたちが約束の地、カナンへ到着するまで、40年間、ずっと与えられ続けた。

それは、わてらが、この世を去って、天の御国に引き上げられまで、与えられる、

命の水でもあるし、命のパンでもあるんやな。

熊: 命のパンは、聖書の御言葉でもあるやろうし、命の水は、内側からわき出でてくる

ちゅうねんから、聖霊様のことであるやろうなぁ。、、、、

というふうに、若さんのメッセージ中、わての頭の中では、どんどん話があっちゃ

こっちゃ行ったり、膨らんだりしてしまう。

八: 若さんには悪いけんど、ときどき、そんな空想から始まって、空想に終わってしまう

礼拝のときもある。けんど、それでも、イエス様の恵みのことを考えてるんやから、

ええんとちゃうやろか。

熊: ええんとちゃうか。だって、若さん、「聞きながら黙想してみてください」ちゅうて

言うてはんねんから。

八: けんど、若さん、「礼拝中に何を見てますか、見ようとしてますか」って尋ねはったやろ。

わてな、毎回の礼拝で期待してるものはあるでぇ。イエス様に元気づけてもらうことや。

けんど、なんにも見ようとはしてないな。

熊: 「見ようとしている」ちゅうより、「イエス様に導かれるままに、イエス様に期待してる」

と言ったほうがええかもしれん。今日は、イエス様何をお語りくださるんやろうか、

とワクワクしてきいてるなぁ。まあ、その間に空想もして楽しんでんねんけど。

八: 「イエス様何をお語りくださいますか」か、それって、もしかして、サムエルの心境か。

●「お話しください。しもべは聞いております。」(1サムエル3:10)

サムエルはんも、ワクワクしながら、聞こうとしていたかもしれへんな。

熊: ま、そんなとこやな。わての礼拝の姿勢は、何かを見ようとするんではなくて、

「何かを見させていただく、あたえていただく」ちゅう姿勢や。

八: それって大事やな。見ようとするんではなくて、見させていただく、かぁ。

わてらの目には、礼拝中は、やっぱり十字架しか入って来えへん。その十字架を通して、

イエス様がわてらに、何かを見させてくださる。

それが、神様の望んでおられる礼拝なんかもしれんな。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。「見る」のではなく「見させていただく」そのへりくだりの姿勢も大事ですね。私は、この「見る」ことは、「宝を積む」こととよく似ているなと思わされています。●「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6:19-21)心が天に向いているのか、地に向いているのか。大きな違いであります。しかし、この世の富自体が悪いとはイエス様はおっしゃっておられません。この世の富に固執すること、自分の宝、自分ひとりのものにすることに問題があるとおっしゃいます。この世の富を用いて、人の助けになろうとする行為は尊いものです。ただ、そこに、神の御名をあがめているかどうかが問われます。

私は見ることに関しては、熊さんが言ってくれたように、「十字架だけをみつめよう」と思っています。そして、その十字架を見つめ続ける中で、主が何かをお語りくださり、主が私たちに何かを見せてくださることを期待しています。

さて、今日も、いつもの通り、宣言をしたいと思います。今日の宣言は、イエス様を信じた限りは、イエス様の十字架、私たちの罪の贖いに感謝し続ける意味も含めて、唱えます。「私はいつも十字架だけを見つめます」です。では、三回宣言いたします。よろしくお願いいたします。

「私はいつも十字架だけを見つめます」、「私はいつも十字架だけを見つめます」、「私はいつも十字架だけを見つめます」。アーメン!

黙想をいたします。

黙想の時にお読みするのは、詩篇34篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。マタイの福音書13章17節。

「まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。」

黙想いたします。詩篇34篇。

黙想時の曲

⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

賛美⑧:愛の絆

https://www.youtube.com/watch?v=TaIUDJUsvYU

賛美⑨:主に賛美

https://www.youtube.com/watch?v=v5V7Ay1ogNQ

●礼拝の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の4月30日 午後5時から小阪チャペルにて、主日礼拝。

聖書: ルカの福音書10章

「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ

https://vinechristchurch.jimdofree.com/