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メッセージ主題:『平安の子』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2023.4.30主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、軽く愛餐の時をもちます。)

●午後5時開会:ただいまより、2023年4月30日主日礼拝式を始めます。

●祈り

角笛

礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

続いて

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。

私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。

賛美①:主イエス 神の愛

https://www.youtube.com/watch?v=Di3mHDThCAE

賛美②:なんて麗しい名

https://www.youtube.com/watch?v=sF-lpfqlyVA

賛美③:山々が生まれる前から (4月の歌)

https://www.youtube.com/watch?v=oCBaJ8sqW0U

賛美④:主は今生きておられる

https://www.youtube.com/watch?v=EvCLEk74JU8

賛美⑤:叫べ 山から イエスの御名を (5月の歌)

https://www.youtube.com/watch?v=MZoyNo5XUx8

賛美⑥: Above All すべてにまさって

https://www.youtube.com/watch?v=-Ga-6if_LLY

【YOUTUBE配信開始】

2023年の年間聖句は「山上の説教」マタイの福音書5章3節~10節の8つの幸いです。

いっしょに唱えましょう。(新改訳聖書2017)

第1の幸い(マタイの福音書5章3節)

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」

(自分ではどうしようもなく、主の力と知恵を求めるしかないと思っている人)

第2の幸い(マタイの福音書5章4節)

「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」

(どうしようもなく罪を犯してしまう、そのことを悲しみ悔いる人)

第3の幸い(マタイの福音書5章5節)

「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」

(自分を無力でどうしようもないものだと、へりくだらざるをえない人)

第4の幸い(マタイの福音書5章6節)

「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」

(自分の中にある罪を憎み、義である主を求める人)

第5の幸い(マタイの福音書5章7節)

「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」

(主を知ることで、憐みをおぼえ、主のように、他の人に憐れみをかける人)

第6の幸い(マタイの福音書5章8節)

「心のきよい者は幸いです。その人たちは神をみるからです。」

(悔い改めを通して、主に聖くしていただけると信じる人)

第7の幸い(マタイの福音書5章9節)

「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」

(神との関係を、創造主と創造物の関係に、修復された、主の証し人)

第8の幸い(マタイの福音書5章10節)

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」

(信仰に堅く立ち、この世と調子を合わさない人)

●2023年4月30日 主日礼拝メッセージ

●聖書拝読:ルカの福音書10章(新改訳聖書)

中心聖句:

「どんな家にはいっても、まず、『この家に平安があるように。』と言いなさい。もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。」(5-6)

メッセージ主題:『平安の子』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。

●メッセージ

(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)

このルカ書の10章では、35組70人の宣教に出て行く者たちへの諸注意、そして、その成果、永遠のいのちを得る者の心得、良きサマリヤ人のたとえ、それと、マルタとマリヤ姉妹の例を通しての礼拝の持ち方が、記されています。この章では、主の受け入れる人、平安の子のことがメインテーマだと思われます。

イエス様は、70人を選び、二人一組にして、ご自分が行くつもりのところへ、彼らを遣わします。その時の諸注意の中に、その宣教の二人を受け入れる人のことを「平安の子」としています。新共同訳では、「平和の子」となっています。その宣教の人たちは、どんな家にはいっても、「この家に平安・平和があるように。」と言いなさいとイエス様は教えました。この挨拶言葉は、当時イスラエルの民の間で、朝・昼・晩に使われる、オールマイティな言葉でした。ヘブライ語で「シャローム」といいます。この「シャローム」は「平和」「調和」を意味する言葉で、また、本来は、「もとの状態に戻る」ことを意味し、肉体的にも精神的にも、また霊的にも健康な状態を示しています。ですから、「シャローム」はとても思いやりのある言葉だとも言えます。そして、「私はあなたの平和を乱す者ではありませんから、安心してください」と挨拶しているとも考えられます。

その一般的な「シャローム」と言って、その人のうちに入ろうとするときに、それを拒絶されて、戸をピシャリと閉じられるということは、初めから「交流を持ちたくない」という意志の表れです。ですから、その「シャローム」は、その後の親しい平和的な交わりを示唆します。家の人が、「シャローム」と言った人を受け入れるということは、親しい交わりを期待してのことです。ですから、イエス様は、4節で●「だれにも、道であいさつしてはいけません。」とおっしゃったのは、形ばかりの儀礼的な挨拶は、「その人を受け入れているのではない」と注意を促されておられるのです。ですから、必ず、家の中に入れてもらって、親しい交わりをもちなさいと、その人のために福音をお伝えし、平安を祈りなさいとおっしゃるのです。

この平安とはイエス様の福音、つまり神様との和解であり、その和解からの喜びのことです。70人の弟子たちは、イエス様の福音をお伝えするために、家々を回りました。では、「もし(平安の子が)いないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。」とは、どういうことでしょうか。種まきである、福音を伝えるのは私たちの役目です。しかし、その福音が受け入れられるかどうかは、聖霊様の働きです。パウロは、そのことを次のように伝えました。コリント人への手紙第一12章3節●「聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。」その人が福音を受け入れるかどうかは、聖霊の働きであって、その時点では、その人が選ばれているかどうかによるのです。その時点で聖霊に選ばれていなかったとしても、後に選ばれるかもしれません。ですから、私たちはその人のために根気よく祈らなければいけません。

選びは主のものです。イエス様の弟子が弟子になったのは、弟子の積極的な働きによるものではなく、イエス様の選び、イエス様の招きによるものでした。また、選ばれた人が偉いわけでもありません。ですから、弟子の間で、だれが一番偉いのかという議論は無意味であり、イエス様は、そのことを諭します。マルコの福音書9章35節●「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」とおっしゃいました。だからといって、「私は、教会の奉仕をたくさんし、伝道もよくしているから、私が一番偉い」と思うのは見当違いです。しかし、こういう勘違いされておられる御仁も多くいらっしゃることは、事実であり残念なことです。このような人たちは、「主よ、主よ」と言いながら、栄光を自分のものとしています。栄光は主のものです。この危険性は、信仰活動に熱心な人にほど生まれてしまいます。私たちは、本当に、聖霊様によって、自らを日々チェックしていただかなくてはいけません。そのチェックの時間が静まりの時でもあります。「静まって、主の声を聞く時間をもちましょう。」

このことを、イエス様は、宣教から帰ってきて、喜びのあまり武勇伝を披露している弟子たちに対して、次のような別の表現で表されています。20節●「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」「あなたがたの名が天に書き記されていること」とは、旧約聖書時代以来めんめんと続く思想、「いのちの書」のことで、この「いのちの書」は、単なる書き記された名簿というよりは、神の霊的に記憶されたもののようなイメージです。この「いのちの書」には、この世に生れて来た人たちの名が全員記されています。どのような名前で記されているかは分かりませんが、その人が神の目からみて正しいとされた人以外は、その人が死ぬときに消されてしまうのです。出エジプト記32章33節では次のように記されています。●「主はモーセに仰せられた。『わたしに罪を犯した者はだれであれ、わたしの書物から消し去ろう。』」つまり、神の目に正しい人、罪を認められなかった人は、天の御国へ招かれるということです。この言葉の裏付けとして、聖書中の代表聖句ヨハネの福音書3章16節があります。●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」イエス・キリストの血潮によって、イエスを信じる者の罪は消され、神の目には、罪なき者、正しい者と映るのです。

そして、イエス様は、だれが偉いとかどうのこうのと議論するのではなく、ただ、「いのちの書」に名前がしるされていることを喜びなさいとおっしゃるのです。教会の奉仕を一生懸命していたとしても、神の目から正しいとされなければ、つまりイエス様を信じていなければ、「いのちの書」から消されるということになります。問題は、イエス・キリストを本当に救い主として信じているのか、それとも賛美が好きで教会が楽しいだけ、教会にくるとホッとするだけのことなのか。身の引き締まる思いであります。教会に通うことと、イエス・キリストを信じることとは、本質的に違うことなのです。

話を、「平安の子」にもどしますと、「平安の子」とは「いのちの書」に名前が残る人であり、イエス様を心から受け入れる人です。しかし、「平安の子」も罪を犯してしまいますから、日々、悔い改めの時間をもつ人、「静まって、主の声を聞く時間を割く」人のことであります。「いのちの書」に名前が残る人ということは、「永遠のいのちを自分のものとして受けることのできる」人のことで、そのような人は、律法の二大柱、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」と「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということを「しよう」または「したい」と考えます。そして、38節以降のマルタとマリヤ姉妹の物語の中の、妹マリヤのように、「主の足もとにすわって、みことばに聞き入る」人のことです。マリヤのように、「主の足もとにすわる」ということは、何もしていない、静まっているときのことです。では、姉のマルタのしたことは悪かったのでしょうか。イエス様は「悪い」とはおっしゃいませんでした。マルタは、イエス様一行をもてなそうとして、そのもてなしの用意で忙しくしていました。イエス様はそのようなマルタにやさしく諭します。41節●「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っていますう。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」つまり、「静まって、主の声に聞き入りなさい」ということです。「人をもてなす」ことは、尊いことです。しかし、そのことにとらわれて、主の声を聞き逃すのであれば何にもなりません。本末転倒です。

この小阪チャペルでは、先週も申しましたが、愛餐の時、つまりいっしょに食事をしながら交わりの時を持つ時間を、礼拝の時間と同じぐらい大切にしています。ですから、コロナ禍であっても、「コロナから守って下さい」と祈って、愛餐の時を続けています。そして、愛餐の時の食事は、今のところ、近くの食堂から注文しています。そして、汁物やデザートに関しては、礼拝前までに準備していただいています。それは、小阪チャペルにいらしていただいた方が、だれひとりとして、礼拝以外に注意をひかれることのないようにとの配慮であります。お接待や食事の準備で忙しく、礼拝に集中できないのなら、なんにもなりません。参加者全員が心ひとつとなって主に賛美をささげ、主からのメッセージに耳を傾けてほしいと願っての事です。礼拝メッセージの時間は、実に「静まって、主の声に聞き入る時間」でもあるのです。また、賛美の奉仕も、奉仕に緊張して、また人の目を気にして、主の御名をあがめることに集中できないのであれば、なんにもなりません。私は、牧師として、皆さんが、私も含めてですが、つねに、「平安な子」であってほしいと願っています。

さて、今日も天国長屋の八さん、熊さんにお登場いただきましょう。

八さん、熊さん、よろしくお願いいたします。

―――――

八: 「平安な子」か。素直にイエス様を信じる人のことなんやなぁ。

熊: わてなぁ、今年、いつも礼拝の時に唱えてる、8つの幸いの中の7つ目、

●「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」が、

あたまに浮かんだわ。

八: 若さん、以前に、「平和をつくる者」とは、「神様との関係を、創造主と創造物の関係に、

修復された、主の証し人」のことや、ちゅうて、ゆうてはった。それに、あれやろなぁ。

イエス様を信じて、イエス様の平安である助け主、聖霊様が心に宿っている人のこと

でもあるんやろうな。

熊: イエス様を信じる人は、神様の子どもとして、イエス様を通して、養子縁組され、

イエス様と父なる神様の共同相続人となることができる。

そんで、「平和をつくる」んやから、イエス様のことを伝える人でもあるんやろうなぁ。

八: それにやで、イエス様も「平和の君」と呼ばれはってる。

熊: それって、イザヤ書9章6節にあるやつやろう。

八: 神様の名前ちゅうかタイトル、「不思議な助言者」「力ある神」「永遠の父」「平和の君」の

うちの一つや。

熊: イエス様が、神様とわてらの仲介役となって、和解を実現された。

神と人との和解こそが、真の平和なんやろうなぁ。

八: 罪からの、律法からの解放や。

熊: かいほう、ちゅうたら、あれやな。今日若さん触れはれへんかった、良きサマリヤ人の

たとえ。あのサマリヤ人も、強盗に襲われた旅人を、介抱してあげて、おまけに宿屋に

運び入れて、費用をいっさいがっさい負担しはった。

八: 「かいほう」の漢字はちゃうけど、イエス様は、傷ついたわてらを介抱し、疲れを癒やさ

れる。そして、罪の意識でがんじがらめになったわてらを解放してくださって、

自由にしてくださる。

熊: イエス様こそが、あの良きサマリヤ人なんやあ。まあ、わてらには、なかなかできる

こっちゃない。けんど、「隣人」というのは、あのサマリヤ人のような人を言うん

やろうし、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ちゅう戒めは、結局、

なかなか守れるもんやあれへん。

八: そやなぁ。人が何らかの助けを必要としていて、その人の隣人になるちゅうのは、

むずかしい、けんど不可能やない。そこにイエス様が介在してくれはったら。

熊: せやなぁ、人間の力や知恵では無理なんかもしれんけど、不可能を可能にされる神様が

手伝ってくれはったら、できるねんやろなぁ。

八: やっぱり、「静まって、神の御声に耳を傾ける」ことをして、はじめて良きサマリヤ人に

なれるのかもしれへん。「平安の子」か、これって、めちゃくちゃ大事なことなんと

ちゃうやろか。なあ、若さん。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。「静まって、主の声に聞き入る時間」をもつ「平安の子」は、クリスチャンの基本姿勢でもあるでしょう。良く、朝のディボーション、静まりの時が強調されます。それはそれで正しいことです。しかし、「朝の静まりの時」をもったから、それで十分とは言えません。いえ、十分ということはあり得ません。ことあるごとに、ほんの少しの時間でも時間を割いて、静まりの時をもち、主の声に耳を澄ます、この姿勢がクリスチャン生活には大切、いえ不可欠なのだと確信しています。主はいつも絶え間なく私たちに語り掛けてくださっておられると私は思っております。しかし、私たちが、他の事に気を取られ、または集中してしまい、主の声が聞こえないのです。他の事に気を取られ、または集中することが必ずしも悪いことではありません。人間は万能ではありませんから、そうなるのは仕方がないことなのです。ただ、主はそれでも忍耐してくださいます。子供が、テレビに夢中になり、お母さんの言ったことを上の空で返事をして、おかあさんに角が生えて来る。神様は、そんなとき、時を変えて、語り掛けてくださるのかも知れません。もしも、どうしてもその時が今なら、神様はわたしたちを神様の方に振り向かせてくださるでしょう。とにかく、神様は、私たちの「静まりの時」を待ってくださっておられます。

また「静まりの時」は必ずしも「祈り」の時とは限りません。黙想も静まりの時に行なわれます。あ、ちなみに、先週、八さんが、「空想」と「黙想」は同じじゃないかということを言っておりましたが、それは違います。「空想」は「絵空事を想う、非現実的なもの」ですが、「黙想」とは、クリスチャン的に言えば、「神と触れ合い、真理を見つめること」です。少なくても私はそう理解しています。

さて、今日も、いつもの通り、宣言をしたいと思います。今日の宣言は、クリスチャン生活の基本である、「静まって主の声に聞き入ります」です。では、三回宣言いたします。よろしくお願いいたします。

「静まって主の声に聞き入ります」、「静まって主の声に聞き入ります」、「静まって主の声に聞き入ります」。アーメン!

黙想をいたします。

黙想の時にお読みするのは、詩篇37篇1-24節です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。マタイの福音書6章33節。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

黙想いたします。詩篇37篇1-24節。

黙想時の曲

⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

賛美⑧:Still 静まって知れ

https://www.youtube.com/watch?v=cF8vUKQAhwM

賛美⑨:God Bless You

https://www.youtube.com/watch?v=5czeDQSBt94

●礼拝の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の5月7日 午後5時から小阪チャペルにて、主日礼拝。

聖書: ルカの福音書11章

「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ

https://vinechristchurch.jimdofree.com/