· 

メッセージ主題:『父の愛と平安と喜びを得て』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2023.6.4主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、軽く愛餐の時をもちます。)

●午後5時開会:ただいまより、2023年6月4日主日礼拝式を始めます。

●祈り

角笛

礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

続いて

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。

私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。

賛美①:注ぎたまえ主よ

https://www.youtube.com/watch?v=XQjw6U8eD24

賛美②:あなたがすべて

https://www.youtube.com/watch?v=B5EfsD13TIc

賛美③:わが心の目を開いてください (6月の歌)

https://www.youtube.com/watch?v=qEUZ9ftVCTE

賛美④:全地をほめよ

https://www.youtube.com/watch?v=Se1F3ToQKbQ

賛美⑤:感謝と喜びを

https://www.youtube.com/watch?v=EP9TCJD9NY4

賛美⑥:あなたをたたえ

https://www.youtube.com/watch?v=E94OkGTmjK4

【YOUTUBE配信開始】

2023年の年間聖句は「山上の説教」マタイの福音書5章3節~10節の8つの幸いです。

いっしょに唱えましょう。(新改訳聖書2017)

第1の幸い(マタイの福音書5章3節)

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」

(自分ではどうしようもなく、主の力と知恵を求めるしかないと思っている人)

第2の幸い(マタイの福音書5章4節)

「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」

(どうしようもなく罪を犯してしまう、そのことを悲しみ悔いる人)

第3の幸い(マタイの福音書5章5節)

「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」

(自分を無力でどうしようもないものだと、へりくだらざるをえない人)

第4の幸い(マタイの福音書5章6節)

「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」

(自分の中にある罪を憎み、義である主を求める人)

第5の幸い(マタイの福音書5章7節)

「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」

(主を知ることで、憐みをおぼえ、主のように、他の人に憐れみをかける人)

第6の幸い(マタイの福音書5章8節)

「心のきよい者は幸いです。その人たちは神をみるからです。」

(悔い改めを通して、主に聖くしていただけると信じる人)

第7の幸い(マタイの福音書5章9節)

「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」

(神との関係を、創造主と創造物の関係に、修復された、主の証し人)

第8の幸い(マタイの福音書5章10節)

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」

(信仰に堅く立ち、この世と調子を合わさない人)

●2023年6月4日 主日礼拝メッセージ

●聖書拝読:ルカの福音書15章(新改訳聖書)

中心聖句:

「父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。』」(31)

メッセージ主題:『父の愛と平安と喜びを得て』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。

●メッセージ

(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)

このルカ15章では、「見失った羊のたとえ」「失くした銀貨のたとえ」「放蕩息子のたとえ」が記されています。1つ目のたとえ「見失った羊」では、『悔い改める』、つまり神の方を見続けることを神は非常に喜ばれることが書かれてあり、2つ目のたとえ「失くした銀貨」でも、同じように『悔い改め』の重要性が記されています。また、3つ目のたとえ「放蕩息子」でも、父のもとに帰って来るという『悔い改め』を、父は手放しで大喜びすることが書かれています。『悔い改める』ことの大切さが強調されているわけですが、バプテスマのヨハネも「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ3:2)と民衆に訴えました。また、バプテスマのヨハネが斬首され、その後すぐにイエス様が宣教を開始されたときも、同じように「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(4:17)と説かれました。当時のユダヤ人は「律法を守ってさえすればいい」として、実質、神の方を向いていませんでした。いえ、これはユダヤ人に限ったことではありません。今の私たちクリスチャンにもバプテスマのヨハネもイエス様も訴えていることです。

「悔い改めなさい」と。教会に行ってさえすればいい、聖書を読んでさえすればいい、説教を聞いてさえすればいい、セミナーや聖会に参加さえすればいい。、、、こういう私も心が痛む時があります。、、、そうではなくて、神の身元に帰りなさいと。バプテスマのヨハネもイエス様もおっしゃるのであります。

教会で、証しをされるときに、「わたしは放蕩息子でした、放蕩娘でした」ということをよく耳にします。、、、謙遜におっしゃっておられるのかもしれません。しかし、『そうです、あなたはどうしようもない放蕩息子でした、放蕩娘でした』ともし私がその人たちに言うものなら、その人たちは、ムッとするかもしれません。または、「あなたに言われたくない」と口をとんがらせて抗議するかもしれません、「あなたも同じでしょ!」と。、、、あれれ? なぜムッとするのでしょう、なぜ口をとがらせるのでしょう。人はみんな罪人ですから、多かれ少なかれ、悔い改めを必要とする、放蕩息子娘であることには間違いありません。しかし、それを人から指摘されると、心穏やかでなくなる。そこに私たちの隠れた罪があります。放蕩息子や放蕩娘があたかも勲章のように取り扱われていませんでしょうか。自分の救われた経験をドラマチックにするために、放蕩息子や娘を演じている自分はいませんでしょうか。ドラマチックな救いの証しは、人の興味を引きますから。聞いている周りの人は、神様よりも、その救いの証しをしている人に注目してしまうかもしれません。そうなれば、本末転倒ではないでしょうか。私の洗礼のときに、私はどうしようもない放蕩息子だったのか、ドラマチックな救われ方をしたのか、、、そんなドラマは私にはありません。ただ、友人となったクリスチャンの笑顔が素敵で、あの笑顔の理由(わけ)を知りたいと思って、聖書を学び、チンプンカンプンな礼拝にも出席し続け、「これからは、イエス様を信じて行こう」と決心して、洗礼を受けたにすぎません。完全に信じて洗礼を受けたのではなく、後戻りしないように、洗礼を受けたと言う方が適切かもしれません。そこにドラマチックな要素はほとんどありませんが、そのように聖霊様が働かれたのです。実は、私は、ドラマチックな救われ方をした人は少ないのではないかと思っています。今日のイエス様のたとえでも、100匹の羊のうち、1匹だけドラマチックな救われ方をしました。また10枚の銀貨のうち、その主(あるじ)にしっかと握りしめられていたのは、9枚です。ドラマはまれだから、印象に残りますが、印象に残る残らないは関係なく、すべての洗礼に、すべての回心に、聖霊様が働いてくださっておられることは事実です。ですから、救われた経緯を聞いて、神の御業に感謝し、神の御名があがめられるのは結構なことですが、、、まあ、お𠮟りを覚悟の上で、申し上げれば、救われた経緯がドラマチックであろうがなかろうが、そんなん、どっちゃでもええんです。それよか、イエス様を信じた後、どう暮らしているのか、どう生かされているのか、そのことの方が、もっと大事なのではないでしょうか。

そんなことを思っている私だからかもしれませんが、私は放蕩息子や娘には興味はありません。逆に、どうしても、守られている99匹の羊に、また、女性の手の中にある9枚の銀貨の方に、そして、父といつもいっしょにいた兄のほうに関心がいってしまうのであります。

99匹の羊は、悔い改める必要のない正しい人のことですが、そんな人は誰一人いません。義人はいないと言われているとおりです。ここでの99匹の羊は、イエス様を信じている羊、いえ信じたいと思っている羊です。羊飼いであるイエス様の声に聞き従っている、いえ、聞き従おうとしている羊です。ヨハネの福音書には、次のように説かれています。●「わたしは門です。だれでも、わたしを通して入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」イエス様の門をくぐって、囲いの中に入り、ゆっくりと安らいでもいいでしょうし、羊飼いの声に従って、囲いから出て、美味しい牧草を見つけることもできます。私はできれば、この99匹の羊でありたいと願うのであります。あの99匹の羊には本当の平安と自由があるからです。まあ、ほんの少し、大好きなイエス様に担がれる1匹の羊もいいかもと思うことも無きにしもあらずやではありますが、担がれる前には恐ろしい目、寂しい目、辛い目にあっているのですから、イエス様に担がれるために、罪を犯したり反抗したり、痛い思いをするのは、見当違いというものでしょう。それよりも、私は、はなから安定や平安を選びたい、イエス様に守られ、イエス様の声を聞こうと耳を傾け、自由に美味しい牧草を頂きたいと思うのです。

また、たとえ話、放蕩息子の兄の方は、自分勝手に自由にお金を使い果たした弟、私はここに『ふうてんの寅さん』を見てしまいがちになるのですが、そんな甘いものじゃない、その落ちぶれた虐げられた弟が帰って来て、父親は叱りもせず、弟を兄が味わったことのないぐらいの歓迎で祝い喜んで迎えいる父の姿を見て、ある意味嫉妬し、父親にくってかかります。「親父、なんであんな弟が帰って来て、えらいご馳走でもてなすんや。お金使い果たしてしもてんから、奴隷として働かしてほしいと言ってんねんから、そのようにしたらええやんか。」まあ、世の中、この兄のような態度をとるのが普通ではないでしょうか。テレビドラマを見ていますと、ここからドロドロとしたストーリーとなってきます。しかし、おやじ殿は、兄に、「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。」と諭します。『確かに、弟は放蕩三昧してきたかもしれない。しかし、それゆえに、嫌な思いや苦労もし、死にたいとも思ったはずだ。それが、回心して帰って来たのだ。一方、兄のおまえはわしといつも一緒だった。平々凡々とした、変化のあまりない暮らしかもしれないが、お前は常に守られて来たのだ、平々凡々は当たり前のことではなく、その平々凡々の毎日が神が守られた奇跡なのだ。お前のために大宴会を催しもしたことがなかったかもしれないが、食べるのに窮することもなかったはずだ。平安とそれに伴う喜び、穏やかな生活がお前を満たして来たはずだ。平安こそが、わたしの宝であり、お前の宝でもある。』父親はこのように、兄を説得したのではないでしょうか。もちろん、愛も喜びも父からのプレゼント、宝物です。

話は少し変わって、あるクリスチャンの兄弟がこんなことを言っていました。「ある金持ちのおやっさんが、好き放題して、優雅な暮らしをして、子どもや孫にも恵まれて、年取って、あと残すは天国だけや、ちゅうて、教会に行って洗礼うけはって、んで、大往生しはった。ラッキーなおやっさんやでぇ。早う救われたわてらが、日曜日も遊びに行かんと礼拝まもって、また教会の行事やゆうたら、せっせと働いて、バカみたいに見えて来るわ。」私たちは、この兄弟のように、勘違いをしてしまうことがあるのではないでしょうか。特に、日本では、一般的な行事が日曜日に集中していいますので、教会の礼拝を守るのか、行事に参加するのか、悩ましいときもあります。ここでの、うらやましい気持ち、悩ましい気持ちは、どうして生まれてくるのでしょう。

それは、恐らく、礼拝が一番楽しい時間ではないからではないでしょうか。「『礼拝が楽しい』とは不謹慎だ」という声が聞こえてきそうですが、楽しむことにもいろんな意味が含まれると思っています。『賛美』は、神にささげる私たちの神への思いですし、「賛美が楽しい」ということは、ほとんどの方が共感できるのではないでしょうか。また、『祈り』は、実際に声に出す出さないは別にして、神様との会話、交わりです。「会話は楽しい、交わりは楽しい」ものであることが望ましいに越したことはありません。では、『説教』はどうでしょうか。「説教は楽しい」とは、なかなか言い難い、これは牧師である私の反省点でもあります。「説教は楽しい」というよりは、「説教は励まされる」とか「説教は何か示される」とか、言葉を変えた方がいいのかもしれませんが、「説教は聖霊様の働きが大きい」はずでありますから、なにか「霊的な働きが行われる場」でもあり、「黙想の場」でもあるので、「それが楽しみ」「今日は聖霊様がどう導いてくださるのか」その楽しみはあるかもしれません。

ある先輩兄弟が、「教会は楽しい」とおっしゃっていて、何が楽しいんですかとお聞きしますと、「礼拝の後の説教を中心とした意見交換」が楽しいということでした。説教の中の話題やみ言葉から始まって、恵みの証しやその他もろもろ、それが楽しいとおっしゃるのです。私は、この楽しみは、とても大切だと考えています。食事中や食事の後のときの自然発生的な意見交換、これを楽しみにする、ということは、説教をちゃんと聞いておかなければいけない、もっと言えば、ちゃんと聞けるような説教を導いていただかなければいけない、まあ、私は、大いに反省せざるを得ないところでもあります。

さて、ちょっとまくらで話過ぎましたね。今日も天国長屋の八さん、熊さんにお登場いただきましょう。

八さん、熊さん、よろしくお願いいたします。

―――――

八: 若さん、待ちくたびれたわ。そやけんど、「教会を楽しむ」かぁ。そう言われれば、

なんで、毎週、飽きもせんと、礼拝行ってんねんやろ。熊は、、、どう思う。

熊: そりゃ、決まってるやないか。日曜日やからやないかい。日曜日は礼拝!

八: いやいや、そういう話とちゃうねん。熊は、何を楽しみに礼拝に来てるんや。

熊: まずは、「賛美」やな、大きな声で神様をほめたたえる。ほら、天国では、わてらは

白い衣を着て、絶えず、賛美と祈りをささげるんやからな。

あんときは、説教は必要がない。イエス様と完全に一心同体となるんやから。

八: せやな。説教は、そういう意味では、この地上で必要なんやろうな。

イエス様と一心同体になるための「きづき」が与えられるためや。説教を通して、

み言葉を通して、聖霊様にいろいろと「きづき」を与えていただく。

それが説教の役目やろ。まあ、醍醐味かもしれんな、ちゃうかい。

熊: わて、むずかしいことは分からん。説教は、神様がわてらに何を求めているか、

どうなってほしいのかを教えてくださっているんとちゃうかな、と思うんや。

それに、礼拝全体を通して、元気もろてる、わてはそれが嬉しいんや。

ああ、今週も一週間、イエス様といっしょにがんばろって。

八: せやなぁ。せっかく礼拝をささげてても、元気もらわへんかったら損や。

神様が元気くださろうとしてんのに、もらわへん手はない。まあ、説教の内容は、

教会出たら忘れてしまう、、、ちゅうこともあるかもしれん。

せやから、元気もらうんが一番とちゃうかな。

熊: まあ、けんど、教会出たら、説教の内容忘れてしまうちゅうのはよくあるこっちゃ。

まあ、しょっちゅうあったらあかんねんやろうけんどな。

牧師先生は、そこに責任もたなあかんわな。聞いている人が元気でて、

神様の方をむくように、説教してもらわんと。まあ、聞く方にも問題あるんやけどな。

礼拝終わったら、何しょうかって、考えながら、メッセージ聞いてたらあかんわな。

八: そやそや、わてら聞く側にも責任はある、けんど、礼拝で、神様の愛と平安と喜びを

もろて、元気出さんとな。な、若さん、イエス様の恵みのメッセージ、あれが一番

励まされるから、ようよう、たのんますな。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。ひゃー、プレッシャーかけてきましたね。まあ、いいですわいな。私やのうて聖霊様が、皆さんに元気をくださいますから。それにしても、今日は短かったですね。まあ、私のまくらが長かったんですね。すんません。けれど、イエス様は、放蕩息子のたとえの話で、『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。』とおっしゃった。父なる神様のもの、愛や平安や喜び、それともっとたくさんあるかもしれません、知恵と力と勇気とか。それが、ぜんぶ、その兄のものであります。つまり、主を信じ、常に主と共に歩んでいる、歩んで行こうとしている人です。そして、それは私たちです。

さて、では、今日も、いつもの通り、宣言をしたいと思います。今日の宣言は、イエス様を通して、父なる神様の愛や平安や喜び、それに知恵や力や勇気をいただけることを期待しつつ、「イエス様を楽しみます」です。では、三回宣言いたします。よろしくお願いいたします。

「イエス様を楽しみます」、「イエス様を楽しみます」、「イエス様を楽しみます」。アーメン!

黙想をいたします。

黙想の時にお読みするのは、詩篇118篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。マタイの福音書13章23節。

「ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」

黙想いたします。詩篇118篇。

黙想時の曲

⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

賛美⑧:主がそばにいるから

https://www.youtube.com/watch?v=ikdWPBdaqd0

聖餐式

賛美⑨:エリヤの日

https://www.youtube.com/watch?v=2NCdtlxU0AM

●礼拝の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の6月11日 午後5時から小阪チャペルにて、主日礼拝。

聖書: ルカの福音書16章

「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ

https://vinechristchurch.jimdofree.com/