ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル
2023.6.18主日礼拝式
(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、軽く愛餐の時をもちます。)
●午後5時開会:ただいまより、2023年6月18日主日礼拝式を始めます。
●祈り
角笛
礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。
ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)
●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
続いて
●使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、
永遠の生命を信ず。アーメン。
礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。
私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。
賛美①:十字架のかげに
https://www.youtube.com/watch?v=8dq4uQd8CjU
賛美②:慕いまつる主なるイエスよ
https://www.youtube.com/watch?v=GpPS49ihnA4
賛美③:わが心の目を開いてください (6月の歌)
https://www.youtube.com/watch?v=qEUZ9ftVCTE
賛美④:主は道をつくられる
https://www.youtube.com/watch?v=4xejvnNkoB4
賛美⑤:イエスはわがいのち
https://www.youtube.com/watch?v=CZs_OXQnKfs
賛美⑥:我に来よとイエス君は
https://www.youtube.com/watch?v=VVm_HykNNsw
【YOUTUBE配信開始】
2023年の年間聖句は「山上の説教」マタイの福音書5章3節~10節の8つの幸いです。
いっしょに唱えましょう。(新改訳聖書2017)
第1の幸い(マタイの福音書5章3節)
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」
(自分ではどうしようもなく、主の力と知恵を求めるしかないと思っている人)
第2の幸い(マタイの福音書5章4節)
「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」
(どうしようもなく罪を犯してしまう、そのことを悲しみ悔いる人)
第3の幸い(マタイの福音書5章5節)
「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」
(自分を無力でどうしようもないものだと、へりくだらざるをえない人)
第4の幸い(マタイの福音書5章6節)
「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」
(自分の中にある罪を憎み、義である主を求める人)
第5の幸い(マタイの福音書5章7節)
「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」
(主を知ることで、憐みをおぼえ、主のように、他の人に憐れみをかける人)
第6の幸い(マタイの福音書5章8節)
「心のきよい者は幸いです。その人たちは神をみるからです。」
(悔い改めを通して、主に聖くしていただけると信じる人)
第7の幸い(マタイの福音書5章9節)
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」
(神との関係を、創造主と創造物の関係に、修復された、主の証し人)
第8の幸い(マタイの福音書5章10節)
「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」
(信仰に堅く立ち、この世と調子を合わさない人)
●2023年6月18日 主日礼拝メッセージ
●聖書拝読:ルカの福音書17章(新改訳聖書)
中心聖句:
「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。」(20b)
メッセージ主題:『目に見えぬ神の国』
改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。
できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。
●メッセージ
(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)
17章を読んでいまして、「じゃあまた明日、また今度ね」と言うことを何気なしに使っていますが、本当にそのようになるのでしょうか? そのようなことを考えさせられました。
ルカ17章では、イエス様は、「悔い改めと赦しと奉仕」と「十人の皮膚病患者の癒し」、それと「神の国がくる時」の話をなさっておられます。
イエス様は、主にある兄弟姉妹が罪を犯したら、指摘してあげなさい。そして「悔い改める」なら何度でも赦してあげなさい、とおっしゃいます。そして、それは義務であるとおっしゃるのです。ですから次に、「言いつけられたことをしたまで」と言いなさいと諭します。つまり、「赦し」は、イエス様からの命令でもありますから、「赦したからといって、その赦した人がほめられるべきことではない」とおっしゃるのです。この「赦す」という行為には、誘惑が潜んでいるからです。「赦す」側に、赦すという行為に優越感がうまれる可能性があるからです。日本語「赦してあげる」と「あげる」という言葉には、その発信者が優位に立つことになりかねないからです。「赦し」だけではありません、日常的に「~してあげる」ということは多々ありますが、そこには恐ろしい罪が潜んでいる場合が多々あります。たとえば、教会で「祈ってあげましょう、祈って差し上げましょう」という言葉に、優越感が含まれていないとは否定できません。ただシンプルに「祈ります、祈りましょう」でいいはずです。イエス様は、私たちが、兄弟姉妹どうしで劣等感や優越感をもってはいけないと諭されておられるのではないでしょうか。
2番目の「十人の皮膚病患者の癒し」では、イエス様がさまざまな病気をいやされていることを知っている、皮膚病患者が、イエス様なら病気をいやしてくださると信じ、信頼して、町に近づくことのできない患者の人たちが、イエス様に遠くから、お願いします。イエス様は、その場で癒されるのではなく、「癒しを認定してくださる」祭司(このころ、祭司は医者の役目もしていました)のところへいって、皮膚病がなおったことを見せないとおっしゃいました。祭司のところに行く途中で癒しが与えられることを示唆していました。はたして、十人の皮膚病患者は癒されましたが、たった1人がイエス様に感謝をささげるために戻って来ました。そして、イエス様は、その人に「あなたの信仰が、あなたを直したのです」とおっしゃいました。この場合の「直し」は「救い」を意味していると考えられます。祭司のところに行くまでに皮膚病はいやされ、その癒しの感謝をささげるために、イエス様のもとに来て、彼は救われたのです。救いはイエス様のもとに帰って来てはじめて成就されるのです。このことはとても大切なことです。神さまは、キリストを信じていてもいなくても、神様の憐れみによって、病気が治癒されることもあります。しかし、救いはイエス様を通してでしか成し遂げられません。なぜなら、イエス様が、全人類の罪のために、自ら十字架にかかり、聖なる尊いいのちをもって、私たちの罪を贖ってくださったのです。まさに、救いは主のものなのです。
そして、3番目の「神の国がくる時」、つまり、キリストを信じる人々を迎え入れるために、イエス様が再びこの地上に降りて来られる時です。これは、パリサイ人のみならず、キリスト者の関心事です。しかし、イエス様は次のようにおっしゃいました。(20-21)●「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」「あなたがたのただ中」とは、キリストを信じる人の心のなかではないでしょうか。「イエス様は私の主です」と告白された方には、イエス様の平安であり助け主である聖霊様が心に宿られます。そして、そこが聖霊様の住まわれる神の宮、神殿となるのです。ですから、イエス様は、神の国は「あなたがたのただ中」にあるとおっしゃるのです。また、キリスト者、2,3人が心を合わせて祈る時、イエス様もその真ん中にいらっしゃるとおしゃいます。神の国はイエス様とともにあります。
神の国が現われるということは、同時にこの世界の終わりがあるということです。この世がなくなり、新天新地が現われるということです。始まりがあれば、終わりがあります。私たちの誕生と死と同じであります。私たちは、この世に生まれ出でて、必ず死を迎えます。自死でないかぎり、自分の死の時を選べません。それと同じように、この世界の終わりは私たちには予測不可能なのです。イエス様はノアやロトのことを例えとして持ち出されました。ノアの洪水が起こる前までは、人々はふつうどおりに生活していました。またロトが住んでいたソドムの人々も同じように生活していましたが、突然、彼らは死を迎えます。同じように私たちにも突然、この世の終わりがきます。その時にロトの妻が今までの生活を名残惜しんで振り返ってしまったがゆえに、塩の柱となり、永遠の死を迎えたのです。私たちもこの世を名残惜しんでいながら生活していては、新天新地に迎え入れられないかもしれないのです。ですから、今の生活に目を向けるのではなく、天に宝を積むように、天での生活を思いつつ、一日一日を大切にしなければいけません。
この17章では、以上のことを要約しますと、次のようになります。お互いが罪人であり罪を犯しますから、イエス様がお赦しになられたように、私たちもお互いを赦し合うという戒めの上に私たちはいます。しかし、それらの「赦し」の行為によって、私たちは救われるのではなく、イエス様を主とする信仰によって救われます。そして、神の国は私たちの心の中にあり、聖霊様との親しき交わりによって、天の御国での平安と喜びを、今生きている内に経験できるのです。その上で、その救いの確信を私たちが死ぬまで持ち続けることによって、新天新地に迎え入れられるのです。
さて、やっと本題の「目に見えぬ神の国」に入りたいと思いますが、大前提として、『神の国は、人の目で認められるようなものではない』ということです。私たちはよくリバイバルを願います。そして、リバイバルの目安として、教会の礼拝を守る方の人数を考えることがよくあります。リバイバルが起こり、多くの方々が教会に集うようになる。もちろん、大変喜ばしきことではありますが、神の国とは関係がないかもしれない、ということです。もちろん、関係があるかもしれません。しかし、イエス様は人数ではないとおっしゃっておられるのです。私は、以前本で読んだことがあるのですが、ある老牧師がひとりで、田舎で開拓伝道を始められました。チラシを配っても、特別集会の案内をしても、その時には集まったとしても、日曜礼拝には定着しない。そして、老牧師は、最終的に、施設にはいったそうです。この老牧師の働きは失敗だったのでしょうか。その老牧師から洗礼を受けた方はだれもいません。彼は骨折り損のくたびれ儲けだったのでしょうか。私は、この老牧師が涙をもって種蒔きをされたのだと信じたい。彼は、ついに刈り取りをすることはありませんでした。しかし、彼が種を蒔き、他の牧師が刈り取ったのかもしれません。
彼はそれで満足だったのか、それも分かりません。しかし、天のお父様である神は、その老牧師を喜ばれたのではないでしょうか。いえ、きっとそうに違いないと信じたい。
かくいう私も今、開拓伝道をしつつある者として、礼拝人数に一喜一憂することもありますし、他の教会をやっかむ気持ちがないとはいえません。また、私がお手伝いさせていただいています、宣教団体の働きも、参加人数や献金の額に、目が注がれがちです。
しかし、「神の国は、人の目で認められるものではありません」というイエス様の御言葉に、私たちは、常に心に留めておかなければならないのではないでしょうか。
復活されたイエス様は、弟子のトマスにおっしゃいました。●「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」目に見えるものよりも、見えないものに心を留めることの大切さ、信仰の基本、そして、偶像礼拝をさける意味合いもあるのかもしれません。使徒パウロもコリント人への第二の手紙で次のように説きます。●「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」
私は、自戒もこめて、次のようにおすすめしたい。教会堂の大きさや、りっぱさ、集会や礼拝の参加人数の多さに、主の御名をほめたたえることはあっても、それに心をとらわれるのではなく、常に目に見えぬ神の国に思いをはせていただきたいと。神の国はわたしたちのただ中にあるのですから。
さて、今日も天国長屋の八さん、熊さんにお登場いただきましょう。
八さん、熊さん、よろしくお願いいたします。
―――――
八: やっぱり、人間て弱いなぁ。見えるものに一喜一憂する。
熊: それは、わてらが、この世の価値観にどっぷりつかってしもてる証拠やろうなぁ。
せっかく、イエス様を見ないで信じたのに、目に見えるものに頼ろうとしてしまう。
八: なさけない、ちゅうたらないな。
熊: けんど、それは聖書もいえることやでなぁ。
八: 聖書にも言えるちゅうって、どういうこっちゃ。
熊: 聖書は文字で書かれてある。その文字通りのことをだけやなくて、黙想によって、
文字の奥深くにある、イエス様や神様の思いを汲み取らなあかん。
八: それが黙想ちゅうこっちゃろ。それやったら、しょっちゅうやってるでぇ。
まあ、それが当たってるかどうかは、分からんけどな。
熊: そやろ。わてらは若さんからしょっちゅう、黙想しなさいちゅうて言われてる。
それは、見えるものだけやのうて、見えてないものを見るちゅうか、
そのような心の目を養うことを訓練しなさいちゅうことなんやろな。
八: そやろ、それにもかかわらず。見えてるものに弱い。
熊: そやなぁ。けんど、それはしゃーないのかもしれへんでぇ。
八: なんや、もうあきらめてしまうんかいな。
熊: そやのうて、聖書でも、「神が大いに祝福された」という場合は、「増える」ちゅう
イメージがあるやないか。「増える」ちゅうのは数字が大きくなるちゅうことやから、
神の祝福は目に見えてくるんや。
八: そういえば、聖書の中で一番初めにでてくる神様の祝福は、創世記1章22節
●「神はそれらを祝福して仰せられた。『生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。
また鳥は地にふえよ。』」
熊: 横丁の隠居が言うてたんやけどな、「祝福」って、もともと「良い力を与える」ちゅう
ことらしいなぁ。せやから、「増えたり」「元気になったり」するんやろうなぁ。
八: それやったら、よけいややこしくなってきたんとちゃうか。神さまの祝福は、
わてらの目にみえて、神様の働きがよう分かって、神様に感謝し、御名を賛美し、
ほめたたえることになる。けんど、神の国は、わてらの心にあって、目に見えへんから、
わてらは心の目を研ぎすませとかなあかん。
熊: 祝福は目に見える。けんど、神の国は目に見えん。それやったら、若さんの言うてた
老牧師には祝福はなかったことになるのか。けんど神様はその老牧師を喜ばれたに
違いないちゅうてゆうてはった。
八: あかん。わからんようになってきた。若さん、はいバトンタッチ。
―――――
八さん、熊さん、ありがとうございます。祝福と神の国、難しいですよね。たとえば、出エジプト記で考えてみますと、モーセの民はエジプトを出て、神の守りと憐れみと試練によって、40年間もさまよいましたが、その間、家族が増え、祝福があったとも考えられます。しかし、第一世代は神の約束の地に足を踏み入れることはできませんでした。この約束の地を、仮に神の国と考えれば、モーセたちは、神の国を見ることはありませんでした。しかし、神の国への導きは信じていました。そのように考えれば、神の祝福と神の国は別物であるとも言えます。先の話での老牧師は、神の祝福を受けてはいないのかもしれませんが、彼は、神の憐れみによって、神の国を見続けて、伝道していたのではないでしょうか。神の祝福は、私たちが何かをしたことへの神から報酬ではありません。神の一方的な恵みです。神は恵もうとする者を恵まれます。神の祝福がないのは、私たちの日頃の行ないが悪いせいだとは思わないでください。パウロは若いテモテに告げます。●「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(2テモテ4:2)「時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」とは、「み言葉を伝える時、悔い改める人が多くても少なくても、または悟りが与えられてもられなくても、その結果に左右されるのではなく、常に主を見上げつつ、み言葉を行なう者、実践する者となりなさい」ということではないでしょうか。
私たちも、いまおかれている状況に、または結果に一喜一憂するのではなく、常に神の国を見続けて、イエス様の証し人とさせていただこうではありませんか。み言葉を行なう者、その人が神の国を見続けることができるのですから。
さて、では、今日も、いつもの通り、宣言をしたいと思います。今日の宣言は、神の祝福があるなしにかかわらず、どんな状況におかれようとも、希望をもって、み言葉を行なう者として、「神の国を見続けます」です。では、三回宣言いたします。よろしくお願いいたします。
「神の国を見続けます」、「神の国を見続けます」、「神の国を見続けます」。アーメン!
黙想をいたします。
黙想の時にお読みするのは、詩篇73篇です。
●黙想:
黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。マルコの福音書1章15節。
「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
黙想いたします。詩篇73篇。
黙想時の曲
⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM
https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0
●祈り
●主の祈り
天にまします我らの父よ
ねがわくは、御名をあがめさせたまえ
御国を来たらせたえ
御心の天になるごとく
地になさせたまえ
我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり
アーメン。
【YOUTUBE配信終了】
賛美⑧⑨:イエスに栄光あれ、栄光イエスにあれ
https://www.youtube.com/watch?v=9bLnSPZmXBQ
●礼拝の感謝の祈り
(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)
●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」
https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM
●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21
●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏
https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0
●閉会
●連絡
次回の6月25日 午後5時から小阪チャペルにて、主日礼拝。
聖書: ルカの福音書18章
「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ
https://vinechristchurch.jimdofree.com/