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メッセージ主題:『祈りの力』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2023.7.23主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、軽く愛餐の時をもちます。)

●午後5時開会:ただいまより、2023年7月23日主日礼拝式を始めます。

●祈り

角笛

礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

続いて

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。

私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。

賛美①:イエスは愛で満たす

https://www.youtube.com/watch?v=I_G7hCgLRn0

賛美②:花も

https://www.youtube.com/watch?v=nLOKGTBm3ug

賛美③:力ある主の御名(7月の賛美)

https://www.youtube.com/watch?v=gWa6ahDb9GU

賛美④:夢見人ドリーマー

https://www.youtube.com/watch?v=G897INjOE8o

賛美⑤:わが喜びの理由

https://www.youtube.com/watch?v=-ZYhj5oCn8o

賛美⑥:御手の中で

https://www.youtube.com/watch?v=6Jatal3F0KM

【YOUTUBE配信開始】

2023年の年間聖句は「山上の説教」マタイの福音書5章3節~10節の8つの幸いです。

いっしょに唱えましょう。(新改訳聖書2017)

第1の幸い(マタイの福音書5章3節)

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」

(自分ではどうしようもなく、主の力と知恵を求めるしかないと思っている人)

第2の幸い(マタイの福音書5章4節)

「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」

(どうしようもなく罪を犯してしまう、そのことを悲しみ悔いる人)

第3の幸い(マタイの福音書5章5節)

「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」

(自分を無力でどうしようもないものだと、へりくだらざるをえない人)

第4の幸い(マタイの福音書5章6節)

「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」

(自分の中にある罪を憎み、義である主を求める人)

第5の幸い(マタイの福音書5章7節)

「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」

(主を知ることで、憐みをおぼえ、主のように、他の人に憐れみをかける人)

第6の幸い(マタイの福音書5章8節)

「心のきよい者は幸いです。その人たちは神をみるからです。」

(悔い改めを通して、主に聖くしていただけると信じる人)

第7の幸い(マタイの福音書5章9節)

「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」

(神との関係を、創造主と創造物の関係に、修復された、主の証し人)

第8の幸い(マタイの福音書5章10節)

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」

(信仰に堅く立ち、この世と調子を合わさない人)

●2023年7月23日 主日礼拝メッセージ

●聖書拝読:ルカの福音書22章(新改訳聖書)

中心聖句:

「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(32)

メッセージ主題:『祈りの力』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。

●メッセージ

(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)

22章では、大きく分けて、「ユダの裏切り」、「最後の晩餐」、「ゲッセマネでのイエスの祈り」、「イエスの逮捕」と「ペテロの否定」が記されています。

イスカリオテのユダは、銀貨30枚でイエスを祭司長たちに売ってしまいました。イエス様の値段はたかだか銀貨30枚(マタイ26:15)でした。当時の銀貨は2種類。デナリウス銀貨だと1枚で1日の日当ぐらい。ですから1デナリが仮に1万円だと考えても30枚で30万円。もしもデナイウス銀貨でなく、シュケル銀貨だとその4倍、つまり120万円。イスカリオテのユダは、本当に銀貨30枚を欲しかったのでしょうか。もちろん、ヨハネの福音書の記述によれば、ユダは、会計係で、みんなからの献金をちょろまかしていたということです。しかし、ユダにとって、たかだか30万円や120万円がほしくてイエス様を売ってしまうのでしょうか。私は、お金ではなく、イエス様へのユダの勝手な期待が裏切られたことによる動機の方がおおきかったのではないかと思うのです。エルサレムの民衆も同じでした。「ホザナホザナ」とイエス様を歓迎したにもかかわらず、その口が乾かないうちに「イエスを十字架につけろ」と叫ぶのであります。イエス様は、救世主で、ユダヤ民にとって、ローマ支配を終わらせて下さるのだと信じ期待していたのですが、どうもそうではないことが明らかになってきて、イエス様に対する失望が、ユダの裏切という行為を加速させたのではないかとも思われるのです。ルカの福音書では、それを「ユダにサタンが入った」と表現されています。ここで分かることは、「失望」はサタンの仕業であるということです。サタンはアダムとエバのときからそうでした。人を誘惑し、人を神から引き離して、失望を与えることを得意としています。私たちは、サタンの誘惑には無力です。しかし、イエス様が40日40夜断食して、わざわざサタンの誘惑を受けたとき、イエス様は御言葉によって、サタンの誘惑を振り切りました。御言葉にはそれだけ力があることになります。イエス様は私たちに模範もお示しくださったのです。サタンには失望、イエス様には希望があるのです。そして、サタンの誘惑や失望に打ち勝つには、御言葉を引き出す祈りと聖霊様の働きであることが分かります。パウロは、ローマ人への手紙5章で、次のように説いています。●「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すことを知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」聖霊によって、患難が忍耐を、忍耐が練られた品性を、練られた品性が希望を生み出すのですが、その生み出す過程に、聖霊の介入だけではなく、御言葉の助けと支えと励ましがあるのではないでしょうか。御言葉にも、それだけの力があります。その御言葉を信じられなければ、私たちは、ユダと同じように失望し、イエス様を裏切ってしまうことになるのでしょう。そして、祈りによってその御言葉の力はより発揮されるのだと、私は信じています。

そして、「最後の晩餐」では、聖餐の大切さ、聖餐式を通して、イエス様の血潮による贖いを覚えるということの大切さを説いています。イエス様はパンをとり、●「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい」(19)と、そして、杯をとり、●「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」(20)このイエス様の言葉を覚えるとき、必ず祈りに導かれます。また祈りに導かれなければ、その聖餐は意味がありません。イエス様との深い交わりを導く祈りこそが、私たちがクリスチャンとして活き活きと生きる力の源となるのです。まことに、詩篇を代表する、詩篇1篇の2節3節のことばがそれを物語っています。●「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」

この教会では、月始めの主日に聖餐式をしていますが、毎週している教会もあります。また、残念ながらまったくしない教会もあるようです。私にはイエス様の十字架での贖いを覚える、聖餐式をしない理由がまったく理解できないのですが、他方では、個人的に毎朝されておられる御仁もいらっしゃいます。とにかく、聖餐式は儀式的な要素が強いですが、私たちの罪を贖って下さるイエス様に感謝しあがめる心が大切です。

さて、次に、イエス様は、その食事の席で、シモン・ペテロにもサタンが誘惑をかけていることを知り、ペテロの信仰がなくならないように祈られました。31-32節●「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ペテロが、その日ニワトリが鳴くまでに、三度、イエス様を知らないと言ってしまう弱さ、捕まるという恐怖を、イエス様はご存知だったからです。イスカリオテのユダは、サタンに誘惑され、イエス様への期待と信頼を失ってしまいましたが、ペテロは、イエス様を三度知らないと言って、掴まえられることを逃れますが、イエス様がペテロのために祈られましたので、悔い改めて立ち直ることができました。ユダとペテロとの違いはなんでしょうか。ペテロは、イエス様への信仰を失くしませんでした。もちろん、捕まることが怖くなって3回、イエス様を知らないと言ってしまいましたが、イエス様への信仰を失くしたわけではありません。一方、ユダは、イエス様への信仰を失くして、裏切り行為にでてしまいます。神への信仰を失くすということが、サタンの最終目的であります。イエス様はそれを祈りによって防がれました。イエス様は今の私たちに対しても祈って下さっています。また私たちがイエス様の御名によって祈る時、同じ力が注がれます。

次に、オリーブ山ゲッセマネでの祈りでは、神様がイエス様に課せた「人類の罪の贖いのために死ぬ」というミッションに対しての、葛藤が現われています。そして、その葛藤の末、祈りの中で、イエス様は父なる神のみこころに服従します。●「『父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。』」(42)「すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」(43-44)イエス様が、死の覚悟を決めるのは、そう簡単ではなかったことを物語っています。イエス様も人間としての弱さをもっておられました。それを天の御使いがイエス様を力づけ、十字架上での贖いの死を遂げるという最大のミッションへの決心を固める助けをします。もちろん、それゆえに、イエス様は、祭司長たちにつかまってからは、想像を絶する恐ろしいほどの苦痛と屈辱に耐え、十字架で私たちのために、命をおとすのですが、それもゲッセマネでの祈りを通しての覚悟があってのことでした。しかし、私たちは、この覚悟を導いた祈りを軽く扱っているときがないでしょうか。「イエス様、十字架におかかりくださりありがとうございます。」私にはどうも軽く聞こえてしまうのです。イエス様のゲッセマネでの葛藤しながらの祈りを思うとき、そう軽々しくは言えないのです。私たちも何かの覚悟をしなければならない時、イエス様のような、覚悟を導く祈りを求めないといけないでしょう、祈りの力を信じつつ。また、その時には、主の声と導きを辛抱強く待ち、耳を澄ませて静まりの時をもつ必要があるのでしょう。

最期に、「ペテロの否定」では、捕まることへの恐ろしさのゆえに、人間的な弱さ、だれもがもつ弱さではありますが、その弱さゆえに、ペテロはイエス様を三回知らないと言い逃れをしました。そして、まさにその時に、イエス様がおっしゃったように、鶏が鳴き、イエス様がペテロの方を振り返って見つめられました。この見つめられたのは、「ほら、言ったとおりだろ」といったように、ペテロを非難するまなざしではなく、憐れみにみちた、「祈っていますよ」というまなざしです。ペテロはそのまなざしで、イエス様の言葉を思い出し、「外に出て、激しく泣いた」とあります。これは悔い改めの涙であり、また祈りの涙でもあります。イエス様がゲッセマネで、汗が血のしずくのように流れ祈られた、同じようにペテロも涙が血のしずくのように流れ、悔い改めて祈ったのであります。ペテロはこの祈りと祈りの力によって、ユダのように、イエス様から離れることなく、さらにイエス様への信仰を強くしていくのであります。

皆さんは祈りの力を信じますか。八さん、熊さんは、いかがですか。

後はよろしくお願いいたします。

―――――

八: 「祈りの力」かいな、そら、信じてるわいな、信じひんかったら、祈ってもしゃーない。

熊: それはそうやわな。けんど、『この祈り、ひょっとしたら聞いてもらわれへんかもしれへんなぁ』って思って、祈ってることあれへんかぁ。わてなぁ、正直ゆうて、ときどきあんねんや。

八: うたごうて祈ったらあかんでぇ。

熊: うたごうてるわけやないねん、自信がないねんな。『この祈り、神様のみ心にかなってるのかどうか。』

八: それは、良くある話や。ほら、イエス様かて、ゲッセマネの祈りで、どう祈ってはった?

熊: えぇーとやな。●「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけて下さい。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」

八: ほら、イエス様かて、父なる神様のみこころをはっきり分からん時には、「御心ならば」ちゅうて祈ってはるやろ。これが謙遜の祈りとちゃうか。わてらには、神様のみこころははっきりと分からん。せやから、「御心ならば」ちゅうことばがついて来て当り前なんや。

熊: なるほどなぁ。ほんで、「御心やなかったら」どうなるん?

八: そら、あれやがな。その道は閉ざされるか、他の道が示され、開かれる。

熊: ほなら、あれかいな。祈りの方向が間違ってても、神様のみこころにそってなくても、

祈ってみたらええちゅうことやわな。

八: まあ、そやけど。祈る前に、また祈っている中で、その祈りが、自分の利益のためか、神様の栄光が現わされるためか、考える必要もあるでぇ。

熊: 自己中心的な祈りはあかん、ちゅうことやわな。

八: 自己中心なのかどうかは、わからんことも多い。せやから、祈りの中で導いてもらわなあかんねん。

熊: 若さんがゆうてたな。「迷たときは、損な道をとったらええでぇ。大阪商人のことば、『損して得取れ』ちゅうってあるやろ。あれなぁ、聖書的でもあるんやで。この世で損しても、天の御国で得したらええねん。」ちゅうてな。

八: 「損して得取れ」か。若さんらしいね。祈りも天の御国を見つめながら、この世のことを祈ったらええのんかもしれへんなぁ。

若さん、祈りには力がある。「御心のままに」と祈りながら、神様の栄光が現われるための願いや求めをしたいもんやね。祈りの力を信じる、まずはそこからや。な、若さん。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。

祈りの力は私たちから出るものではありません。私たちが祈るとき使う特別なことばでも、特別な言い方でも、また、どれだけ何度言うかでさえでもありません。また、祈りの力は、祈るときある特定の方向を向くかとか、ある特別な姿勢をとるとか、それによって神の耳の傾けられ方が違うとかはありません。祈りの力は、工芸品や聖像、キャンドル、数珠などを使用して祈るから出てくるのでもありません。祈りの力は、私たちの祈りを聞いて答えてくださる全能の神様から来るのです。 祈りは、全能なる神様と私たちとが霊的につながる、また霊的に一つとなる機会です。だから、私たちの願いを叶えて下さるとか下さらないとかとは、まったく関係ありません。

もう一度申し上げます。祈りは、神様と一心同体になろうとする、私たちの積極的なアプローチ、主の御前に近づくことです。

私たちは、祈りの中で、ただただ、神様の力ある御業、神様の栄光を期待すべきなのです。祈りの答えが何であれ、私たちが祈るのは、祈りの力の源である神様に向かって祈るのですから、神様は完全な御心にともなって、御心のときに、つまり永遠である神様の時に、神様の御計画にそって、答えてくださるのです。その、神様の答えには、神の力と不思議が現れ、私たちは祈りの力を喜ぶのであります。祈りは、私たちが私たちの思惑や都合によって、神様をコントロールしようとするような傲慢ではなく、まことに、神様の御思いが、私たちの思いとなりますようにと願う従順に導いて下さるものでなければなりません。

さて、では、今日も、いつもの通り、宣言をしたいと思います。今日の宣言は、「祈りの力を信じます」です。イエス様の祈りの力によって、希望は失望に終わりません。今もイエス様は、私たち一人一人のために祈ってくださっています。ですから、私たちも、祈りの力を信じ、おおいに祈り合おうではありませんか。疑うことなく、祈りの力を信じつつ、イエス様との深い交わりに導いていただきましょう。「御心通りになりますように」と従う気持を込めて、宣言しましょう。

では、三回宣言します。よろしくお願いいたします。

「祈りの力を信じます」、「祈りの力を信じます」、「祈りの力を信じます」。アーメン!

黙想をいたします。

黙想の時にお読みするのは、詩篇88篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。マタイの福音書6章6節。

「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」

黙想いたします。詩篇88篇。

黙想時の曲

⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

賛美⑧:イエスよ十字架に

https://www.youtube.com/watch?v=uebpS6ypY8g

賛美⑨:主よささげます

https://www.youtube.com/watch?v=ml61X163l9k

●礼拝の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の7月30日 午後5時から小阪チャペルにて、主日礼拝。

聖書: ルカの福音書23章

「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ

https://vinechristchurch.jimdofree.com/

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2023.7.23主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、軽く愛餐の時をもちます。)

●午後5時開会:ただいまより、2023年7月23日主日礼拝式を始めます。

●祈り

角笛

礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

続いて

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。

私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。

賛美①:イエスは愛で満たす

https://www.youtube.com/watch?v=I_G7hCgLRn0

賛美②:花も

https://www.youtube.com/watch?v=nLOKGTBm3ug

賛美③:力ある主の御名(7月の賛美)

https://www.youtube.com/watch?v=gWa6ahDb9GU

賛美④:夢見人ドリーマー

https://www.youtube.com/watch?v=G897INjOE8o

賛美⑤:わが喜びの理由

https://www.youtube.com/watch?v=-ZYhj5oCn8o

賛美⑥:御手の中で

https://www.youtube.com/watch?v=6Jatal3F0KM

【YOUTUBE配信開始】

2023年の年間聖句は「山上の説教」マタイの福音書5章3節~10節の8つの幸いです。

いっしょに唱えましょう。(新改訳聖書2017)

第1の幸い(マタイの福音書5章3節)

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」

(自分ではどうしようもなく、主の力と知恵を求めるしかないと思っている人)

第2の幸い(マタイの福音書5章4節)

「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」

(どうしようもなく罪を犯してしまう、そのことを悲しみ悔いる人)

第3の幸い(マタイの福音書5章5節)

「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」

(自分を無力でどうしようもないものだと、へりくだらざるをえない人)

第4の幸い(マタイの福音書5章6節)

「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」

(自分の中にある罪を憎み、義である主を求める人)

第5の幸い(マタイの福音書5章7節)

「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」

(主を知ることで、憐みをおぼえ、主のように、他の人に憐れみをかける人)

第6の幸い(マタイの福音書5章8節)

「心のきよい者は幸いです。その人たちは神をみるからです。」

(悔い改めを通して、主に聖くしていただけると信じる人)

第7の幸い(マタイの福音書5章9節)

「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」

(神との関係を、創造主と創造物の関係に、修復された、主の証し人)

第8の幸い(マタイの福音書5章10節)

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」

(信仰に堅く立ち、この世と調子を合わさない人)

●2023年7月23日 主日礼拝メッセージ

●聖書拝読:ルカの福音書22章(新改訳聖書)

中心聖句:

「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(32)

メッセージ主題:『祈りの力』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。

●メッセージ

(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)

22章では、大きく分けて、「ユダの裏切り」、「最後の晩餐」、「ゲッセマネでのイエスの祈り」、「イエスの逮捕」と「ペテロの否定」が記されています。

イスカリオテのユダは、銀貨30枚でイエスを祭司長たちに売ってしまいました。イエス様の値段はたかだか銀貨30枚(マタイ26:15)でした。当時の銀貨は2種類。デナリウス銀貨だと1枚で1日の日当ぐらい。ですから1デナリが仮に1万円だと考えても30枚で30万円。もしもデナイウス銀貨でなく、シュケル銀貨だとその4倍、つまり120万円。イスカリオテのユダは、本当に銀貨30枚を欲しかったのでしょうか。もちろん、ヨハネの福音書の記述によれば、ユダは、会計係で、みんなからの献金をちょろまかしていたということです。しかし、ユダにとって、たかだか30万円や120万円がほしくてイエス様を売ってしまうのでしょうか。私は、お金ではなく、イエス様へのユダの勝手な期待が裏切られたことによる動機の方がおおきかったのではないかと思うのです。エルサレムの民衆も同じでした。「ホザナホザナ」とイエス様を歓迎したにもかかわらず、その口が乾かないうちに「イエスを十字架につけろ」と叫ぶのであります。イエス様は、救世主で、ユダヤ民にとって、ローマ支配を終わらせて下さるのだと信じ期待していたのですが、どうもそうではないことが明らかになってきて、イエス様に対する失望が、ユダの裏切という行為を加速させたのではないかとも思われるのです。ルカの福音書では、それを「ユダにサタンが入った」と表現されています。ここで分かることは、「失望」はサタンの仕業であるということです。サタンはアダムとエバのときからそうでした。人を誘惑し、人を神から引き離して、失望を与えることを得意としています。私たちは、サタンの誘惑には無力です。しかし、イエス様が40日40夜断食して、わざわざサタンの誘惑を受けたとき、イエス様は御言葉によって、サタンの誘惑を振り切りました。御言葉にはそれだけ力があることになります。イエス様は私たちに模範もお示しくださったのです。サタンには失望、イエス様には希望があるのです。そして、サタンの誘惑や失望に打ち勝つには、御言葉を引き出す祈りと聖霊様の働きであることが分かります。パウロは、ローマ人への手紙5章で、次のように説いています。●「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すことを知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」聖霊によって、患難が忍耐を、忍耐が練られた品性を、練られた品性が希望を生み出すのですが、その生み出す過程に、聖霊の介入だけではなく、御言葉の助けと支えと励ましがあるのではないでしょうか。御言葉にも、それだけの力があります。その御言葉を信じられなければ、私たちは、ユダと同じように失望し、イエス様を裏切ってしまうことになるのでしょう。そして、祈りによってその御言葉の力はより発揮されるのだと、私は信じています。

そして、「最後の晩餐」では、聖餐の大切さ、聖餐式を通して、イエス様の血潮による贖いを覚えるということの大切さを説いています。イエス様はパンをとり、●「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい」(19)と、そして、杯をとり、●「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」(20)このイエス様の言葉を覚えるとき、必ず祈りに導かれます。また祈りに導かれなければ、その聖餐は意味がありません。イエス様との深い交わりを導く祈りこそが、私たちがクリスチャンとして活き活きと生きる力の源となるのです。まことに、詩篇を代表する、詩篇1篇の2節3節のことばがそれを物語っています。●「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」

この教会では、月始めの主日に聖餐式をしていますが、毎週している教会もあります。また、残念ながらまったくしない教会もあるようです。私にはイエス様の十字架での贖いを覚える、聖餐式をしない理由がまったく理解できないのですが、他方では、個人的に毎朝されておられる御仁もいらっしゃいます。とにかく、聖餐式は儀式的な要素が強いですが、私たちの罪を贖って下さるイエス様に感謝しあがめる心が大切です。

さて、次に、イエス様は、その食事の席で、シモン・ペテロにもサタンが誘惑をかけていることを知り、ペテロの信仰がなくならないように祈られました。31-32節●「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ペテロが、その日ニワトリが鳴くまでに、三度、イエス様を知らないと言ってしまう弱さ、捕まるという恐怖を、イエス様はご存知だったからです。イスカリオテのユダは、サタンに誘惑され、イエス様への期待と信頼を失ってしまいましたが、ペテロは、イエス様を三度知らないと言って、掴まえられることを逃れますが、イエス様がペテロのために祈られましたので、悔い改めて立ち直ることができました。ユダとペテロとの違いはなんでしょうか。ペテロは、イエス様への信仰を失くしませんでした。もちろん、捕まることが怖くなって3回、イエス様を知らないと言ってしまいましたが、イエス様への信仰を失くしたわけではありません。一方、ユダは、イエス様への信仰を失くして、裏切り行為にでてしまいます。神への信仰を失くすということが、サタンの最終目的であります。イエス様はそれを祈りによって防がれました。イエス様は今の私たちに対しても祈って下さっています。また私たちがイエス様の御名によって祈る時、同じ力が注がれます。

次に、オリーブ山ゲッセマネでの祈りでは、神様がイエス様に課せた「人類の罪の贖いのために死ぬ」というミッションに対しての、葛藤が現われています。そして、その葛藤の末、祈りの中で、イエス様は父なる神のみこころに服従します。●「『父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。』」(42)「すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」(43-44)イエス様が、死の覚悟を決めるのは、そう簡単ではなかったことを物語っています。イエス様も人間としての弱さをもっておられました。それを天の御使いがイエス様を力づけ、十字架上での贖いの死を遂げるという最大のミッションへの決心を固める助けをします。もちろん、それゆえに、イエス様は、祭司長たちにつかまってからは、想像を絶する恐ろしいほどの苦痛と屈辱に耐え、十字架で私たちのために、命をおとすのですが、それもゲッセマネでの祈りを通しての覚悟があってのことでした。しかし、私たちは、この覚悟を導いた祈りを軽く扱っているときがないでしょうか。「イエス様、十字架におかかりくださりありがとうございます。」私にはどうも軽く聞こえてしまうのです。イエス様のゲッセマネでの葛藤しながらの祈りを思うとき、そう軽々しくは言えないのです。私たちも何かの覚悟をしなければならない時、イエス様のような、覚悟を導く祈りを求めないといけないでしょう、祈りの力を信じつつ。また、その時には、主の声と導きを辛抱強く待ち、耳を澄ませて静まりの時をもつ必要があるのでしょう。

最期に、「ペテロの否定」では、捕まることへの恐ろしさのゆえに、人間的な弱さ、だれもがもつ弱さではありますが、その弱さゆえに、ペテロはイエス様を三回知らないと言い逃れをしました。そして、まさにその時に、イエス様がおっしゃったように、鶏が鳴き、イエス様がペテロの方を振り返って見つめられました。この見つめられたのは、「ほら、言ったとおりだろ」といったように、ペテロを非難するまなざしではなく、憐れみにみちた、「祈っていますよ」というまなざしです。ペテロはそのまなざしで、イエス様の言葉を思い出し、「外に出て、激しく泣いた」とあります。これは悔い改めの涙であり、また祈りの涙でもあります。イエス様がゲッセマネで、汗が血のしずくのように流れ祈られた、同じようにペテロも涙が血のしずくのように流れ、悔い改めて祈ったのであります。ペテロはこの祈りと祈りの力によって、ユダのように、イエス様から離れることなく、さらにイエス様への信仰を強くしていくのであります。

皆さんは祈りの力を信じますか。八さん、熊さんは、いかがですか。

後はよろしくお願いいたします。

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八: 「祈りの力」かいな、そら、信じてるわいな、信じひんかったら、祈ってもしゃーない。

熊: それはそうやわな。けんど、『この祈り、ひょっとしたら聞いてもらわれへんかもしれへんなぁ』って思って、祈ってることあれへんかぁ。わてなぁ、正直ゆうて、ときどきあんねんや。

八: うたごうて祈ったらあかんでぇ。

熊: うたごうてるわけやないねん、自信がないねんな。『この祈り、神様のみ心にかなってるのかどうか。』

八: それは、良くある話や。ほら、イエス様かて、ゲッセマネの祈りで、どう祈ってはった?

熊: えぇーとやな。●「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけて下さい。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」

八: ほら、イエス様かて、父なる神様のみこころをはっきり分からん時には、「御心ならば」ちゅうて祈ってはるやろ。これが謙遜の祈りとちゃうか。わてらには、神様のみこころははっきりと分からん。せやから、「御心ならば」ちゅうことばがついて来て当り前なんや。

熊: なるほどなぁ。ほんで、「御心やなかったら」どうなるん?

八: そら、あれやがな。その道は閉ざされるか、他の道が示され、開かれる。

熊: ほなら、あれかいな。祈りの方向が間違ってても、神様のみこころにそってなくても、

祈ってみたらええちゅうことやわな。

八: まあ、そやけど。祈る前に、また祈っている中で、その祈りが、自分の利益のためか、神様の栄光が現わされるためか、考える必要もあるでぇ。

熊: 自己中心的な祈りはあかん、ちゅうことやわな。

八: 自己中心なのかどうかは、わからんことも多い。せやから、祈りの中で導いてもらわなあかんねん。

熊: 若さんがゆうてたな。「迷たときは、損な道をとったらええでぇ。大阪商人のことば、『損して得取れ』ちゅうってあるやろ。あれなぁ、聖書的でもあるんやで。この世で損しても、天の御国で得したらええねん。」ちゅうてな。

八: 「損して得取れ」か。若さんらしいね。祈りも天の御国を見つめながら、この世のことを祈ったらええのんかもしれへんなぁ。

若さん、祈りには力がある。「御心のままに」と祈りながら、神様の栄光が現われるための願いや求めをしたいもんやね。祈りの力を信じる、まずはそこからや。な、若さん。

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八さん、熊さん、ありがとうございます。

祈りの力は私たちから出るものではありません。私たちが祈るとき使う特別なことばでも、特別な言い方でも、また、どれだけ何度言うかでさえでもありません。また、祈りの力は、祈るときある特定の方向を向くかとか、ある特別な姿勢をとるとか、それによって神の耳の傾けられ方が違うとかはありません。祈りの力は、工芸品や聖像、キャンドル、数珠などを使用して祈るから出てくるのでもありません。祈りの力は、私たちの祈りを聞いて答えてくださる全能の神様から来るのです。 祈りは、全能なる神様と私たちとが霊的につながる、また霊的に一つとなる機会です。だから、私たちの願いを叶えて下さるとか下さらないとかとは、まったく関係ありません。

もう一度申し上げます。祈りは、神様と一心同体になろうとする、私たちの積極的なアプローチ、主の御前に近づくことです。

私たちは、祈りの中で、ただただ、神様の力ある御業、神様の栄光を期待すべきなのです。祈りの答えが何であれ、私たちが祈るのは、祈りの力の源である神様に向かって祈るのですから、神様は完全な御心にともなって、御心のときに、つまり永遠である神様の時に、神様の御計画にそって、答えてくださるのです。その、神様の答えには、神の力と不思議が現れ、私たちは祈りの力を喜ぶのであります。祈りは、私たちが私たちの思惑や都合によって、神様をコントロールしようとするような傲慢ではなく、まことに、神様の御思いが、私たちの思いとなりますようにと願う従順に導いて下さるものでなければなりません。

さて、では、今日も、いつもの通り、宣言をしたいと思います。今日の宣言は、「祈りの力を信じます」です。イエス様の祈りの力によって、希望は失望に終わりません。今もイエス様は、私たち一人一人のために祈ってくださっています。ですから、私たちも、祈りの力を信じ、おおいに祈り合おうではありませんか。疑うことなく、祈りの力を信じつつ、イエス様との深い交わりに導いていただきましょう。「御心通りになりますように」と従う気持を込めて、宣言しましょう。

では、三回宣言します。よろしくお願いいたします。

「祈りの力を信じます」、「祈りの力を信じます」、「祈りの力を信じます」。アーメン!

黙想をいたします。

黙想の時にお読みするのは、詩篇88篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。マタイの福音書6章6節。

「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」

黙想いたします。詩篇88篇。

黙想時の曲

⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

賛美⑧:イエスよ十字架に

https://www.youtube.com/watch?v=uebpS6ypY8g

賛美⑨:主よささげます

https://www.youtube.com/watch?v=ml61X163l9k

●礼拝の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の7月30日 午後5時から小阪チャペルにて、主日礼拝。

聖書: ルカの福音書23章

「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ

https://vinechristchurch.jimdofree.com/