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メッセージ主題:『聖霊に満たされ、行動を起こす』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2023.8.27主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、軽く愛餐の時をもちます。)

●午後5時開会:ただいまより、2023年8月27日主日礼拝式を始めます。

●祈り

角笛

礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

続いて

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。

私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。

賛美①:さあ賛美しよう

https://www.youtube.com/watch?v=9w0iSti2k1Y

賛美②:新しい歌を歌え

https://www.youtube.com/watch?v=B2tKz_cjL2g

賛美③:感謝せよ(第2歴代誌20)

https://www.youtube.com/watch?v=z8_LWwxrm4s

賛美④:アウェイクジャパン

https://www.youtube.com/watch?v=jzoUCp84lIs

賛美⑤:カルバリ山の十字架

https://www.youtube.com/watch?v=2KrBt4a9ySw

賛美⑥:主の御言葉待ち望む

https://www.youtube.com/watch?v=eMiTgz-SzBY

【YOUTUBE配信開始】

2023年の年間聖句は「山上の説教」マタイの福音書5章3節~10節の8つの幸いです。

いっしょに唱えましょう。(新改訳聖書2017)

第1の幸い(マタイの福音書5章3節)

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」

(自分ではどうしようもなく、主の力と知恵を求めるしかないと思っている人)

第2の幸い(マタイの福音書5章4節)

「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」

(どうしようもなく罪を犯してしまう、そのことを悲しみ悔いる人)

第3の幸い(マタイの福音書5章5節)

「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」

(自分を無力でどうしようもないものだと、へりくだらざるをえない人)

第4の幸い(マタイの福音書5章6節)

「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」

(自分の中にある罪を憎み、義である主を求める人)

第5の幸い(マタイの福音書5章7節)

「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」

(主を知ることで、憐みをおぼえ、主のように、他の人に憐れみをかける人)

第6の幸い(マタイの福音書5章8節)

「心のきよい者は幸いです。その人たちは神をみるからです。」

(悔い改めを通して、主に聖くしていただけると信じる人)

第7の幸い(マタイの福音書5章9節)

「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」

(神との関係を、創造主と創造物の関係に、修復された、主の証し人)

第8の幸い(マタイの福音書5章10節)

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」

(信仰に堅く立ち、この世と調子を合わさない人)

●2023年8月27日 主日礼拝メッセージ

「使徒の働き」とは

復活のイエス様の働き・聖霊様の働き、信仰の始まりと継承です。

そして、私たちは、次のことを、この「使徒の働き」を通して学びます。

(会衆)

イエス様の復活の確信

神の国の理解

聖霊の満たし

エクレシア(信仰者の集まりと交わり)

●聖書拝読:使徒の働き第3章(新改訳聖書2017)

朗読: 若竹惠子伝道師

中心聖句:

「すると、ペテロは言った。『金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。』そして彼の右手を取って立たせた。」(6-7a)

メッセージ主題:『聖霊に満たされ、行動を起こす』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。

●メッセージ

(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)

「使徒の働き」第2章で、聖霊が使徒たちに下り、使徒たちは力と勇気を得て、とくに使徒のリーダー的存在であったペテロは、大胆に同胞のユダヤ人たちに、神のひとり子であるイエスを異端児扱いして、十字架につけてしまったという罪を、悔い改めて、神に立ち返るように説教します。同じように第3章でも、使徒ペテロは、同じユダヤ人であったイエスに対する罪を悔い改め、ユダヤ人が待ち望んでいる千年王国の時には、メシアであるイエスが、再臨、つまり、この世にお下りくださって、この世を統治されると説きます。そして、その説教の前に、神殿の「美しの門」の前で、生まれつき足の不自由で、物乞いを生業としていた男を癒やします。神殿に訪れた人は、全員「美しの門」を通って、神殿の奥にいきますので、巡礼者は全員、その男のこと知っていました。ペテロとヨハネは、その男を、主イエスの御名により、完全なからだにして、立ち上がらせます。そして、喜び小躍りして、ペテロとヨハネについて行き、神殿の奥の庭に入って行きます。ここまでが第3章のあらましです。

その中で、今朝は、物乞いの男を癒やされた時のペテロの言葉に学びたいと思います。

「すると、ペテロは言った。『金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。』そして彼の右手を取って立たせた。」(6-7a)

ペテロはイエスの名によって、この男を癒やすのでありますが、ここには癒しや宣教に対する三つの重要点が示されています。

金銀は私にはない。

イエス・キリストの名によって。

彼の右手を取って立たせた。

★1つ目の「金銀は私にはない」。これは力強いことばです。ペテロは胸を張って物乞いの男に告げます。物乞いの当初の目的である、「お金をめぐんでほしい」ということに対して、ペテロは、明るく拒絶しました。物乞いの男は、ペテロが「私たちを見なさい」と言ったものですから、相当期待していただけにびっくりもし、失望したに違いありません。もちろん、ほんとうにお金をもっていなかったかも知れませんが、たとい、お金を持っていたとしても、ペテロはその物乞いにお金を差し出す気持ちはさらさらありません。ペテロは、物乞いの男を意図的に失望させたのです。なぜなら、お金に代表される世俗的なものでは、その物乞いをほんとうの意味で救うことができないことを知っていたからです。この世のもの、見えるもの、一時しのぎのものに対して、その男をわざと失望させたのです。ペテロは、まずその物乞いの男に、「この世の価値観から離れよ」と言いたかったのです。いえ、ペテロではなく、聖霊であるイエス様がペテロを通して、その男に告げたのです。「金銀は私にはない」「この世の価値観から離れよ」「表面的な一時しのぎの金銀では、あなたの心は満たされない」「あなたが、「美しの門」と通って神殿の奥へと入るには、この世の価値基準から決別しないといけない」と。

イエス様は私たちにも「この世の価値観から離れよ」とおっしゃいます。もちろん、お金は、この世を生きて行く上でとても大切です。しかし、イエス様はあえて「この世の価値基準から解放されなさい」とおっしゃるのです。イエス様は、昼間にこそこそと井戸の水を汲みに来たサマリヤの女に、●「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」とおっしゃいました(ヨハネ4:13-14)。イエス様のおっしゃる「渇き」とは、『神に対する人間の霊的な渇き』のことであって、イエス様が与える水とは、その霊的な渇きを満たす聖霊のことであります。その聖霊の心の内からの働きによって、聖霊によって私たちは満たされ、つまり聖霊に従うことによる平安と喜びが与えられ、聖霊が、永遠のいのちへと導くのであります。一方、サマリヤの女が汲もうとしていた井戸の水は、この世の価値観、価値基準によるもので、飲んでも飲んでもまたすぐ渇きを覚えてしまうのです。イエス様はおっしゃいます。●「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方をあいすることになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません」(マタイ6:24)。●「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。、、、自分のために、天に宝を蓄えなさい。、、、あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです」(マタイ6:19-21)。

「金銀は私にはない」。あなたは気がついていないかもしれないが、あなたの救いはこの世の価値観にはなく、あなたの心の平安は、この世のものではみたされません。

★二つ目の「イエス・キリストの名によって」とは、「イエス・キリスト、つまりこの世を創造された神の力が注がれる」ということを言っています。「神の力が注がれることを信じなさい」と説いています。もちろん、「イエス・キリストの名によって」と唱えたらいいという問題ではありません。イエス・キリストが今は天のお父様、神様の右に座しておられ、父なる神様と同じ権威と力があり、聖霊を通して、今この瞬間も、その権威と力が注がれていることを信じない限り、いくら「イエス・キリストの名によって」と唱えたところで、なんの力を発揮することはできません。そのことに関して、「使徒の働き」の19章では、興味深い記述があります。11節からお読みいたします。●「神はパウロの手によって、驚くべき力のあるわざを行なわれた。彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを、持って行って病人たちに当てると、病気が去り、悪霊も出て行くほどであった。ところが、ユダヤ人の巡回祈祷師のうちの何人かが、悪霊につかれている人たちに向かって、試しに主イエスの名を唱え、『パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる』と言ってみた。このようなことをしていたのは、ユダヤ人の祭司長スケワという人の七人の息子たちであった。すると、悪霊が彼らに答えた。『イエスのことは知っている。しかし、おまえたちは何者だ。』そして、悪霊につかれている人が彼らに飛びかかり、皆を押さえつけ、打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家から逃げ出した。」

これは「イエス・キリストの名によって」を語った失敗例、まったくもって恥ずべきものであり、彼らはイエスの名を呼ぶカタリです。悪霊は、私たちよりもはるかに、知恵にも力にも長けています。悪霊を支配できるのは、父なる神様と子なるイエス様しかいらっしゃいません。ある牧師が、病気の方を癒したいがために、善意で、「イエス・キリストの名によって、命じる。悪霊よ、この人から出て行け」と言いましたが、何の変化もありません。言った当の牧師は、「これで大丈夫」と言って、気持ちよく満足してその場を去って行きました、苦しんでいる病気の方を残して。使徒たちが悪霊を追い出したりできたのは、彼らが聖霊に満たされていたからです。イエス様に自分を明け渡し、内に住みたもう聖霊が使徒たちを支配していたからこそ、聖霊の力が発揮されたのです。牧師は油そそがれた人であるかもしれませんが、たかだか牧師です。常に24時間100パーセント聖霊に満たされているわけではありません。まして、世俗にどっぷりつかっている牧師ならなおさらです。今、悲しいことに、「サラリーマン牧師」という言葉が生まれてしまっています。たとえば、「説教」や「礼拝」や「集会」は牧師の仕事、それ以外はプライベート。ですから、「礼拝」後、信徒と交わろうとしない。人と交わることをしないで、何の牧師でしょう。もちろん、牧師にもプライベートな時間は必要です。しかし、「イエス・キリストの名によって、癒されよ」と命じて後はほったらかし。それでは、その病人のことを思って祈るのではなく、祈っている自分に酔っている、自己満足の祈りになってしまっているのではないでしょうか。かくいう、私も牧師の端くれです。しかし、私は、「イエス・キリストの名によって、命じる」という大胆なことは口がさけても言えません。牧師のくせに情けないと思われるかもしれませんが、自分をすべて主にゆだね、聖霊に満たされ、イエス・キリストと一心同体となってこそ、その知恵や力が発揮できるとすれば、命じる時点で、私がそのような者になっているかどうか、正直私には分からないのです。ですから、私は、「イエス・キリストの名によって、祈ります」としか言うことができないでいます。

イエス・キリストを信じていないのに、「イエス・キリストの名によって」と祈ったとしても、何の変化もないかもしれません。しかし、「イエス・キリストの名によって」と言わない祈りは、誰の権威や力にすがろうとしているのか、分からないのも困った話なのだと思います。もちろん、神様は私たちの心を私たち以上にご存じなので、口に出して言わなくてもいいかもしれませんが、「イエス・キリストの名によって」と言うということは、信仰告白にもなるので、神様はお喜びになります。また、神様が栄光を現すことにもなります。

★さて、三つ目の「彼の右手をとって立たせた」というペテロの行動ですが、ペテロが、「立ち上がって歩きなさい」と言っただけではなく、その男に手を差し伸べ、立たせました。わたしは、ここに宣教の業、神の栄光を見ることができるのではないかと思っています。イエス様は、神のひとり子でありますから、言葉に力があります。ラザロの死からの復活のときも、大声で、「ラザロよ、出て来なさい!」と墓の中に4日間も横たわったままになっていたラザロに叫びます。ラザロは手足を長い布で蒔かれたまま、墓からでてきます。神の栄光が現れた瞬間であります。

私たちは、先ほどの言いましたが、これを真似できるほどの、聖霊の満たしがあれば別ですが、一般的には、ペテロが行なったように、相手に手を差し伸べるという行動が、宣教には必要なのではないでしょうか。「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」とただ言うのではなく、相手のために行動するということが大切なのではないでしょうか。皆さまは、イエス様の良きサマリヤ人の譬えをご存じでしょう。ルカの福音書10章30節~37節にあります。『あるユダヤ人が旅の途中、強盗にあいひどい怪我をしてしまいました。そこに、同じユダヤ人である祭司やレビ人が通りかかりましたが、無視して通り過ぎました。また、ユダヤ人がさげすんでいたサマリヤ人も通りかかりました。そのサマリヤ人はかわいそうに思って、手当をし、近くの宿屋に連れて行って、宿屋の主人にお金を渡して、介抱してあげるように伝えました。渡したお金よりも費用がかかる場合は、帰りに払うと約束します。』このイエス様のたとえ話に、聖霊の働きは明確にはでてきません。しかし、このサマリヤ人の行なった親切は、もしこれがたとえ話ではなく現実のことであれば、確実に聖霊の働きであると言えるのではないでしょうか。

いえ、実は、このイエス様のたとえ話自体、聖霊の働きを感じます。いろんな国で、このたとえ話をもとにした「善きサマリヤ人の法」が制定されています。内容は、ざっとこのようなものです。

「災難に遭ったり急病になったりした人など(窮地の人)を救うために無償で善意の行動をとった場合、良識的かつ誠実にその人ができることをしたのなら、たとえ失敗しても結果責任を問われない」という趣旨の法であります。

誤った対応をして訴えられたり処罰を受ける恐れをなくして、その場に居合わせた人による傷病者の救護者の合理的な救護行為を法的に保護し、またそのような救護を促進しよう、との意図があります。

この「善きサマリヤ人の法」には、宗教色は強調されていませんし、聖霊の働きのことも説いていません。しかし、イエス様の戒めのひとつ●「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(マタイ22:39)は、私たちの力だけではできないのです。「人を自分自身のように愛する」なんて、とてもじゃないですが、聖霊がわたしに臨んでくださらないかぎり、自己中心のわたしにはできないのです。

聖霊に満たされたペテロは、私たちに、『この世の価値観をすて、聖霊に満たされ、イエス・キリストの知恵と力を得なさい。そして、行動を起こしなさい、必要な人に手を差し伸べなさい。』と教えてくれています。

さて、天国長屋の八さん熊さんは、聖霊がペテロを通して明らかにした、この教えをどう思いますか。

―――――

八: ペテロはんが示しはった、この三つのことは、わてらクリスチャンがやらんとあかん

基本やでな。

熊: せやなぁ。わてらは世の価値観にどっぷりつかってしもとる。

イエス様は、パウロはんを通して、「この世と調子を合わせてはいけません」

(ローマ12章2節)とおっしゃる。この世のものではない、天の御国に仰いで、

神様の知恵をいただかないとあかん。

八: そのためには、聖霊様の満たしが必要や。

熊: つまりはあれやわなぁ。わてらが、自分の心を聖霊様に明け渡して、

聖霊様と一心同体になるちゅうことやわな。

八: そうや。そんでもって、「イエス・キリストの名によって」祈るなり行動するなり

せなあかん。

熊: わてらが、勝手な思いで、祈ったり行動したりしても、しゃあないちゅうこっちゃ。

八: これって、むずかしいよなぁ。聖霊様に導かれて、祈ったり行動したりするちゅうこと

やから。

熊: けんど、これやらんとしゃあないねん。若さん、ゆうてはったやろ。

静まって、主の御声を聞こうとすることが大事やって。

八: わてら、凡人やから、聖霊様に満たされてるかどうか分からんことが多い。

けんど、わてらは、「イエス様いのち」や。せやから、少なくても

「イエス・キリストの名によって」って、祈って、そしてまた行動することは

できんのとちゃうやろか。

熊: せやなぁ。祈りは大事やけど、祈るだけやない、祈りつつ行動もともわなんとあかん

ちゅうことなんやろなぁ。ほんで、それが、神様のみ旨にかなうことやったら、

そのまま導いてくださるやろうし、み旨とちがうかったら、これまたやり直しや。

八: やり直しが損やと思うこと自体が、コソクちゅうか、この世の価値観にどっぷりや。

熊: ほんまやなぁ。やり直しは正直いやや。けんど、やり直しもあってもええやんか、

と思とかなあかんねんやろな。

なあ、若さん。どうおもわれまっか。

―――――

あれ、八さん、熊さん、今日は短いですね。あ、私が長い事しゃべってしまいましたらか、時間気にされたんですね。ごめんなさいね。けんど、「やり直し」もええんとちゃいますか。つらいけど。私なんて、やり直しばっかりです。自分の思いで突っ走ってしもたことぎょうさんありまっさかいに。モーセの民は、40年間荒野をさまよいました。あの旅はもっともっと短くできたはずですが、神様はわざわざ40年間を費やして、「やり直し」の連続をモーセの民にさせて、忍耐を訓練させはったんでしょうね。私たちは、失敗であろうが、成功であろうが、すべてを益としてくださる主に期待して、主の恵みである福音をお伝えする、福音の種まきをする、隣人も神様に愛されている、愛の対象であるちゅうことを忘れんようにせなあきまへん、、、

と私は思うのです。

さて、今日も、いつもの通り、宣言をしたいと思います。今日の宣言は、ちょっと長いですが、「聖霊の満たしを求めつつ、祈り行動します」です。私たちには、自我を100パーセント捨てきることは不可能です。ですから、聖霊の満たしをいっつもかっつも感じることは難しい。しかし、その聖霊の満たしを求めなければ、何にも始まりません。そのことを覚えつつ、三回唱えましょう。

「聖霊の満たしを求めつつ、祈り行動します!」、「聖霊の満たしを求めつつ、祈り行動します!」、「聖霊の満たしを求めつつ、祈り行動します!」。アーメン!

黙想をいたします。

黙想の時にお読みするのは、詩篇32篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。ヨハネの福音書14章13節。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行ない、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」

黙想いたします。詩篇32篇。

黙想時の曲

⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

賛美⑧:イエスはわがいのち

https://www.youtube.com/watch?v=ymbtYwbhGvo

賛美⑨:満たしてくださる方

https://www.youtube.com/watch?v=FXvmVIKlVfU

●礼拝の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の9月3日 午後5時から小阪チャペルにて、主日礼拝。

聖書: 使徒の働き4章

「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ

https://vinechristchurch.jimdofree.com/