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メッセージ主題:『イエスの名によって損をするたびに』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2023.9.10主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、軽く食事と交わりの時をもちます。7時半ごろ終了。)

●午後5時開会:ただいまより、2023年9月10日主日礼拝式を始めます。

●祈り

角笛

礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

続いて

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。

私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。

賛美①:神はひとり子を

https://www.youtube.com/watch?v=GCwT51jf-F4

賛美②:聖い心

https://www.youtube.com/watch?v=jQUDGu4BUZY

賛美③:アウェイクジャパン (9月の歌)

https://www.youtube.com/watch?v=jzoUCp84lIs

賛美④:望みも消えゆくまでに

https://www.youtube.com/watch?v=Ws3N3BpUgBA

賛美⑤:主イエス神の愛

https://www.youtube.com/watch?v=DEPNDP0J9bw

賛美⑥:イエスに栄光あれ

https://www.youtube.com/watch?v=v5sKPkQ68tY

【YOUTUBE配信開始】

2023年の年間聖句は「山上の説教」マタイの福音書5章3節~10節の8つの幸いです。

いっしょに唱えましょう。(新改訳聖書2017)

第1の幸い(マタイの福音書5章3節)

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」

(自分ではどうしようもなく、主の力と知恵を求めるしかないと思っている人)

第2の幸い(マタイの福音書5章4節)

「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」

(どうしようもなく罪を犯してしまう、そのことを悲しみ悔いる人)

第3の幸い(マタイの福音書5章5節)

「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」

(自分を無力でどうしようもないものだと、へりくだらざるをえない人)

第4の幸い(マタイの福音書5章6節)

「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」

(自分の中にある罪を憎み、義である主を求める人)

第5の幸い(マタイの福音書5章7節)

「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」

(主を知ることで、憐みをおぼえ、主のように、他の人に憐れみをかける人)

第6の幸い(マタイの福音書5章8節)

「心のきよい者は幸いです。その人たちは神をみるからです。」

(悔い改めを通して、主に聖くしていただけると信じる人)

第7の幸い(マタイの福音書5章9節)

「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」

(神との関係を、創造主と創造物の関係に、修復された、主の証し人)

第8の幸い(マタイの福音書5章10節)

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」

(信仰に堅く立ち、この世と調子を合わさない人)

●2023年9月10日 主日礼拝メッセージ

「使徒の働き」とは

復活のイエス様の働き・聖霊様の働き、信仰の始まりと継承です。

そして、私たちは、次のことを、この「使徒の働き」を通して学びます。

(会衆)

イエス様の復活の確信

神の国の理解

聖霊の満たし

エクレシア(信仰者の集まりと交わり)

●聖書拝読:使徒の働き第5章(新改訳聖書2017)

朗読: 若竹惠子伝道師

中心聖句:

「使徒たちは、御名のために辱められるに値する者とされたことを喜びながら、最高法院から出て行った。そして毎日、宮や家々でイエスがキリストであると教え、宣べ伝えることをやめなかった。」(41-42)

メッセージ主題:『イエスの名によって損をするたびに』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。

●メッセージ

(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)

「使徒の働き」第4章の終わりと、第5章の初めは、一つの続いた物語であります。

家の教会であったエクレシアでは、大勢の信徒が心と思いを一つにして、自分が所有しているものを自分のもと言わず、すべてを共有していました。それぞれの家に住んではいましたが、財産を共有し、必要な人や家庭に分け与えられていました。しかし、このエクレシアにおける財産共有生活は、長続きはしませんでした。なぜなら、この共有システムを悪利用して、働かずに生活する信徒がでてきたからです。ここに信徒でも罪人である、自己中心であることが如実に現れています。実は私たちも例外なくその自己中心の罪人です。その財産共有のほころびが見えて来たのが、5章の初めにあるアナニアとサッピラ夫妻の悲しい事件であります。エクレシアにおける財産共有は強制ではありませんでした。初めは、感謝をもって献げていたかもしれませんが、時間が経つにつれ、また信徒の数が増えて行くにつれ、この財産共有が信徒の間で、かなりのプレッシャーとなっていったに違いありません。財産共有が財産強要となってしまっていたのではないでしょうか。アナニアとサッピラ夫妻は、もちろん信徒であり、結構な財産家であったのかもしれませんし、信徒の間でも信頼されている夫婦だったのかもしれません。しかし、彼らの心の隙に悪が入り、地所を売った代金の一部を残して、ペテロに差し出しました。「これが全額です」と嘘をついてしましました。嘘をつく必要はなく、正直に言えばよかったのですが、善き信徒である、またはそうありたい、ほかの人にそう思ってもらいたいというプライドがそうさせたのか、人を欺いてしまいました。しかし、聖霊に満たされていたペテロはそれを見抜き、というよりも、聖霊がペテロにそうさせたのかもしれませんが、ペテロは●「どうして、このようなことを企んだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」と言うやいなや、アナニアは倒れて息が絶えてしまいました。また後できた妻のサッピラもアナニアと口裏を合わせていましたので、同じ結末となってしまいました。ペテロは残念で仕方がなかったのではないでしょうか。

一生懸命エクレシアのために尽くしてきたアナニアとサッピラ夫妻が、一回の迷いで死を迎えざるを得なかったことに、悔しく思ったにちがいありません。

さてここで質問です。アナニアとサッピラは、たましいの救いに預かれなかったのでしょうか。私たちクリスチャンは、全員、もれなく罪人です。しかし、イエス・キリストの十字架の贖いによって、私たちは、罪赦されたもの、悔い改めれば、何べんでも罪赦されることを知っています。アナニアとサッピラも、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、聖霊を心の中に受け入れています。ですから、彼らの救いはすでに完結しています。ですが、神を欺いた罪により、肉体の死を突然迎えるようになってしまいました。私たちは、全員、肉体の死を迎えます。アナニアとサッピラに関しては、ただそれが早まっただけのことと考えた方が良いのかもしれません。

アナニヤとサッピラに限らず、私たちには、自己中心的な考えや、他の人よりもほんの少し得をしたいと思ったり、善きクリスチャンに見られたいと思う気持があるのではないでしょうか。そういう意味では、私などは、もう何回、肉体の死を迎えていてもおかしくありません。また、これからも肉体の死に直面するかも分かりません。しかし、まだ生かされているということは、まだこの世での神様のお仕事が残っているとも考えられます。アナニヤとサッピラは、この欺きの罪を犯すまえまでに、十二分に神様のお仕事をされたのかもしれません。そして、この夫妻の死において、「教会全体と、このことを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた」とありますように、彼らの最後の役割は、神様の威厳を示すということなのかもしれません。

教会に献金をする、自分が一生懸命に働いて貯めたお金や、先祖代々から続く地所を売ったお金を、神様に差し出す。自分のお金なんだから、いっぱい楽しいことをしたり、美味しいものを食べたり、贅沢しほうだいしてもええやんか、と思うことはないでしょうか。「神さまに献げるのは損や」と思うときには、もしもそういう思いがでてきてしまったのなら、無理して献げなくてもいいのです。感謝をもって献げられるときに献げたらいいのです。献金は義務ではありません。まして、10分の1を献げなければ、救われません、なんて脅迫めいたことをいう教会は、イエス様の十字架の恵みをまったく無視しているとしか思えません。パウロの言うように、「自由」なのです。しかし、自分が稼いだお金を自分の好きなように使って何が悪いと考えたとき、私たちをお造りくださった神様は悲しまれないでしょうか。「自分が稼いだ」ほんとうにそうでしょうか。「神さまによって稼がしていただいた」とは考えられないでしょうか。神様からいただいた、または神様から預かったお金だと考えるのがクリスチャンではないでしょうか。神さまによって稼がされたお金であることを、私たちは理解すべきです。神さまに、稼がしていただいたという感謝を「献金」という形でささげても、「損」にはならないと思うのですがいかがでしょうか。

商売人の言葉で、「損して得とれ」というのがあります。仕事上での、私の大好きな言葉の一つです。「損して得とれ」とは、目先の利益や損失ばかりにとらわれてしまってはいけないといましめることわざです。一時は損をしたとしても、最終的には大きな利益を得られるように、物事を長期的な視点で見ることが大事だという意味を持ちます。この「損して得とれ」という言葉も結局得をすることが目的です。得は金銭的な得もあれば、心が豊かになる得もあるでしょう。経済的にも精神的にも損し続けている状態は不健康ですし、神様はそうお望みではありません。かならず、神様からの祝福が待っているはずです。ですが、だからと言って、私は、「大いに献金をして、救いに預かりなさい」ということを言っているのではありません。他の宗教ではともかく、キリスト教に限って言えば、先にイエス様が十字架におかかり下さって、私たちの救いを完成させてくださいました。ですから、私たちが、ただイエス・キリストを救い主と信じた時点が、救いが得られるのです。「救いにあずかろうとする」良い行ないも修行と献金も無関係です。また、救いに関して、教会生活が長い・短いも全く関係ありません。信じた時に救われるのです。

では、どうして、このことわざを出したかと申しますと、私は「損して主に栄光あれ」と言いたかったのです。先ほど申しましたように、まずイエス様の方から私たちに救いの手を伸べられました。私たちは何もしていませんから、これを「恵み」と言います。先に主の恵みにあずかった私たちは、他の人にもその恵みを分かち合いたいと願います。また、そのようにイエス様も勧めておられます。そこには、世間的にはいろいろ「損」や「苦労や苦難」なこともしながら、主の栄光が現われますようにと祈り願いつつ、イエス様の愛を伝えるのです。まあ、ほとんどのキリスト者はいろいろな「苦労や苦難」を「損」とは思っていませんし、むしろ、イエス様の愛をお伝えするために用いられることを望んでいます。世間的には「損」や「苦労や苦難」と思うことが、主にあって「感謝する」「喜ぶ」対象へと変えられるのです。「損」というマイナスの考え方より、「感謝や喜びが後からついて来る」というプラスの考え方に方向転換すれば、もっと人生生き易く、幸せな気持ちになるのではないでしょうか。

パウロはそのことを次のように述べています。「私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスをしっていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。」(ピリピ3:7-8)

パウロが以前、サウロ時代に自分にとって得であったこととは、律法についてのパリサイ人、それも、自他ともに認めるエリート中のエリートであるということでした。パリサイ派の重鎮ガマリエルの愛弟子でしたから。ガマリエルは、『使徒の働き』この5章に登場し、使徒たちが処刑されるところをとどまらせた人物です。だからと言って、ガマリエルは、使徒たちをかばったわけではありません。自分たちで手をくだすのではなく、イエス・キリストとその弟子たちが、神からの祝福を受けていないこと、そして、自然消滅していく運命にあることに賭けただけです。そのガブリエルの弟子であり、積極的にキリスト者を迫害していたサウロが後に、パウロと名前を変え、イエス様の福音を知ること以外は損であるという考えに至ったのです。イエス・キリストを迫害の対象として、マイナスの気持ちでキリスト者に迫っていたパウロが、方向転換させられて、キリストを真の神と信じ、救われた感謝を原動力にして、プラスの気持ちで、聖霊に押しい出されるようにして、世にキリストを広めたのです。私の献身の決心の言葉が、そのパウロのものでした。●「私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。」(1コリント9:23)パウロは、損得関係なしに、あらゆることをして福音を伝えたのです。私もそのような者でありたいと願っています。

さて、話しを使徒に戻しましょう。使徒たちが処刑されるというのは、再三にわたって、「イエス・キリストの名によって教えてはならない」と忠告していたのに、それを守らなかったからであります。そして、あげくのはてに、使徒たちは、サンヘドリン最高法院の全長老に向かって、大胆に●「人に従うより、神に従うべきです。私たちの父祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスを、よみがえらせました。」(29-30)と責めたのです。使徒たちは、わざと「十字架にかけた」といわずに、「木にかけた」と言いました。それは、申命記21章23節にある「木にかけられた者は神にのろわれた者だからである」という言葉があり、それを引用し、「神にのろわれた者は木にかけられて殺されなければならない」として、イエス・キリストが人類の罪を背負って、贖いの死をとげる「救い主」であり、その救い主は神によってよみがえらされたと主張したのです。サンヘドリンの長老たちは、激怒し、イエス・キリストのときと同じように、死刑にするだけの罪が認められないにもかかわらず、無理やり処刑しようとしたのです。そこで、ガマリエルが登場し、先ほどの理由で、長老たちの気を鎮めたのでした。

使徒たちは、ムチで打たれ、今後「イエスの名によって語ってはならない」と同じ命令を再度命じられ、釈放されます。

釈放された使徒たちは、捕えられ、ムチ打たれたことを、「損」とは思わず、「御名のために辱められるに値する者とされたことを喜」んだ(41)とあります。パウロは、ローマ人の手紙5章3節で、「苦難さえも喜んでいます」と告白しました。キリストの御名のために苦難をうけるに値する者とされたことを喜ぶ。キリストの十字架での思いに近づくことができるので喜ぶ。

もちろん、迫害や苦難や損することは、正直言って、手放しで喜べるものではありません。私は痛いのも嫌いです。進んで、迫害や苦難や損することをしようとは思いません。しかし、それを受け入れざるを得ない時、主の栄光が現われるのであれば、私の痛みは報われるのでしょう。

まことに、「損して主に栄光あれ」と唱えるでしょう。、、、と思いたいです。

さて、天国長屋の八さん熊さん、「損して主に栄光あれ」って、どう思いますか。

―――――

八: 「御名のために辱められるに値する者とされたことを喜」んだって、使徒はんたち、

どんな神経してはんねんやろな。熊は、どう思う?

熊: ある牧師先生がおっしゃってたなぁ、クリスチャンの迫害は、現代の方がもっともっと

あるんやて。迫害を受ければ受けるほど、クリスチャンの数は多くなってるんやて。

八: ということはあれか、迫害された全員、「御名のために辱められるに値する者とされた

ことを喜」んだちゅうことかいな。

熊: いや、まあ、全員やないやろうけんど、ステパノの殉教の時みたいに、「主イエスよ、

私の霊をお受けください。」「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」と

ゆうたんとちゃうやろか。

八: けんど、わてら平和ボケしてるから、そんなこといえるかいな。

そこまでの覚悟はあるかいな、わてらに。

ほら、昔は「踏み絵」ちゅうのが日本でもあったやろ。イエス様の肖像画を踏むか

どうかで生死が決まる。

熊: そやったな。踏んだら、キリシタンやないとして、ご赦免や。

けんど、踏まへんかったら、処刑される。

八: 当時のキリシタンも「御名のために辱められるに値する者とされたことを喜」んだん

やろうか。そういうキリシタンもおったやろうなぇ。けんど、踏み絵をふんで、

そのことで悩みながらも信仰を継承していったキリシタンもおった。

熊: 神様は、裏切り者として悩みながらでも生き残ったキリシタンをも

祝福されたんとちゃうやろか。

八: 生き残ったキリシタンも、どっちかというと「損」したんとちゃうやろか。

あの「踏み絵」で誰も得したキリシタンはいいひんかった、みんな程度の差こそあれ、

キリスト信仰のゆえに「損」したんや。けんど、神様はかれらを祝福され、

信仰の継承という主の栄光が現れたんや。

熊: いまでもそうや。わてらクリスチャンは、世間的にはどちらかといえば、

「損」してるのかもしれん。お金も時間も。しかし、財産は次の世にはもっていけん。

この地上での時間は短いけんど、次の世での時間は永遠や。短い時間の中で

「損」したとしても、永遠にイエス様とお話できるんかと思えば、

それこそ「得」なんとちゃうやろか。若さんのいうところの、「損して得とれ」や。

八: いや、「損して主に栄光あれ!」や。「イエス様の名によって損をするたびに、

イエス様に近づける、イエス様に似るものとされる」嬉しいやないかいな。

「一時の損が永遠の得や。」

熊: そやなぁ。それこそ、「天に宝を積む」ちゅうことになるんやろな。

八: 「天に宝を積む」ちゅうのは、主にあっての祈りや喜びやそれに涙も、種蒔きも、

クリスチャンが、主のために、主の栄光の現われのために、する行ないや言葉は、

ぜんぶ「天に宝を積む」ちゅうことになるんやろな。「損して主に栄光あれ」

ちゅうことは、「天に宝を積む」ちゅうこととつながってるんやろな。

若さん、「損」も「天に宝を積む」ちゅうことと考えたら、「損」が、めっちゃ

大切なことのようにも思えてきたわ。主にあって「謙遜」も、お互いを「尊敬」する

ことも、大切な「そん」や。漢字ちゃうけどな。

―――――

八さん、熊さんありがとうございます。「損」が「天に宝を積む」ちゅうことですか。その考えもアリですね。私たちは、あまりにも世俗的価値観に冒されています。なんでも、お金の価値に変えてしまう傾向にあります。高い方が、上等。上等は安全。物だけならまだしも、人の思いまでお金の価値にかえて、ランク付けをしてしまうこともあるのではないでしょうか。世の中、金、金、金。確かにお金は大切ですが、私はもう正直、その考え方にうんざりです。少なくても、「教会に来て、損した」と思ってもらいたくないなぁと、逆に、「教会に来て、得した」と思ってくだされば、いろんな疲れもふっとびます。もちろん、お金がなかったら、生きて行けないことも事実ですが、「損して、天に宝を積む」「損して主に栄光あれ!」「イエスの名によって損をするたびに感謝する」その心意気を忘れないようにしたいと思います。実際、私の大好きな聖句「いつも喜び、常に祈り、すべてのことに感謝」は、「イエスの名によって損するごとに喜び、損するたびに祈り、損するすべてのことに感謝」することでもあるのです。調子の悪いときこそ、主に栄光をお返しすべく、感謝をささげましょう。八さんではないですが、「損」はしても、「謙遜」や「尊敬」の気持ちは忘れんようにしたいものです。

さて、今日も、いつもの通り、宣言をします。今日の宣言は、先週につづいて、ちょっと長いですが、「イエスの名によって損するたびに感謝します」です。「損を感謝の気持ちにかえる」には聖霊の働きが必要です。聖霊の働きによって、逆転の発想が可能となります。では、三回宣言いたしましょう。

「イエスの名によって損するたびに感謝します!」、「イエスの名によって損するたびに感謝します!」、「イエスの名によって損するたびに感謝します!」。アーメン!

黙想をいたします。

黙想の時にお読みするのは、詩篇48篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。ヨハネの福音書15章13節。

「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」

黙想いたします。詩篇48篇。

黙想時の曲

⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

賛美⑧:一万の理由

https://www.youtube.com/watch?v=0EOUwUrsne4

賛美⑨:威光尊厳栄誉

https://www.youtube.com/watch?v=yp_F5k81yMc

●礼拝の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の9月17日 午後5時から小阪チャペルにて、主日礼拝。

聖書: 使徒の働き6章

「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ

https://vinechristchurch.jimdofree.com/