ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル
2023.9.17主日礼拝式
(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、軽く食事と交わりの時をもちます。7時半ごろ終了。)
●午後5時開会:ただいまより、2023年9月17日主日礼拝式を始めます。
●祈り
角笛
礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。
ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)
●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
続いて
●使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、
永遠の生命を信ず。アーメン。
礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。
私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。
賛美①:聖なる主の御名をたたえ
https://www.youtube.com/watch?v=t_Xww7fJMrY
賛美②:主を仰ぎ見れば
https://www.youtube.com/watch?v=a7ggxL-bO6s
賛美③:アウェイクジャパン (9月の歌)
https://www.youtube.com/watch?v=jzoUCp84lIs
賛美④:マジェスティ
https://www.youtube.com/watch?v=y2m-dcGEIzk
賛美⑤:静けき祈りの
https://www.youtube.com/watch?v=5ce1ZvBtkqs
賛美⑥:わが心の目を開いてください
https://www.youtube.com/watch?v=vYzyDFmtROk
【YOUTUBE配信開始】
2023年の年間聖句は「山上の説教」マタイの福音書5章3節~10節の8つの幸いです。
いっしょに唱えましょう。(新改訳聖書2017)
第1の幸い(マタイの福音書5章3節)
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」
(自分ではどうしようもなく、主の力と知恵を求めるしかないと思っている人)
第2の幸い(マタイの福音書5章4節)
「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」
(どうしようもなく罪を犯してしまう、そのことを悲しみ悔いる人)
第3の幸い(マタイの福音書5章5節)
「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」
(自分を無力でどうしようもないものだと、へりくだらざるをえない人)
第4の幸い(マタイの福音書5章6節)
「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」
(自分の中にある罪を憎み、義である主を求める人)
第5の幸い(マタイの福音書5章7節)
「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」
(主を知ることで、憐みをおぼえ、主のように、他の人に憐れみをかける人)
第6の幸い(マタイの福音書5章8節)
「心のきよい者は幸いです。その人たちは神をみるからです。」
(悔い改めを通して、主に聖くしていただけると信じる人)
第7の幸い(マタイの福音書5章9節)
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」
(神との関係を、創造主と創造物の関係に、修復された、主の証し人)
第8の幸い(マタイの福音書5章10節)
「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」
(信仰に堅く立ち、この世と調子を合わさない人)
●2023年9月17日 主日礼拝メッセージ
「使徒の働き」とは
復活のイエス様の働き・聖霊様の働き、信仰の始まりと継承です。
そして、私たちは、次のことを、この「使徒の働き」を通して学びます。
(会衆)
イエス様の復活の確信
神の国の理解
聖霊の満たし
エクレシア(信仰者の集まりと交わり)
●聖書拝読:使徒の働き第6章(新改訳聖書2017)
朗読: 若竹惠子伝道師
中心聖句:
「議会で席に着いていた人々はみな、ステパノに目を注いだ。すると彼の顔は御使いの顔のように見えた。」(15)
メッセージ主題:『聖霊に満たされて、光を放つ』
改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。
できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。
●メッセージ
(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)
「使徒の働き」5章初頭には、アナニア夫妻の財産共有に関する虚偽の申告という、個人的な問題が記されていましたが、6章では、財産共有システムにおける日々の配給において、低所得者である「やもめ」つまり未亡人の間で不公平さがでてきていることのシステム上の問題が指摘されています。ギリシヤ語を話すユダヤ人(ヘレニスト)とヘブル語を話すユダヤ人(ヘブライニスト)との間で、ヘレニストのやもめたちが、配給でなおざりにされているという問題が生じました。当時のヘレニストとは、外国で育ち暮らしていたユダヤ人が、死んだときにはエルサレムの墓地に葬ってほしいという願いから、老後をエルサレムで過ごすという帰郷組です。一方、ヘブライニストは、生粋のエルサレムっ子。このヘレニストとヘブライニストが仲が悪かったということではなく、単なるギリシヤ語とヘブル語という言葉のコミュニケーション不足による問題でした。ですから、使徒たちは、配給に関して、ステパノを筆頭とする7名を選び、任命し按手しました。この7名のうち、ほとんどがヘレニストであり、いかにエルサレムのエクレシアでは、帰郷組が多くなってきているかが分かります。
そして、6章の8節からの後半は、ステパノのことが、実は7章全てステパノのこと、彼の演説と殉教のことが取り上げられています。それだけ、ステパノの件は、初代教会における重要な位置をしめていることが分かります。
ステパノは、モーセと神とを汚す言葉を語ったとする嫌疑をかけられ、議会にひっぱっていかれます。「ナザレ人イエスはこの神殿をこわし、モーセが私たちに伝えた慣例、つまり律法を変えてしまう」とステパノが主張したというものでした。このことは、仕組まれたことであり、ステパノはそのようなことを言ってはいないのです。当時、使徒たちには絶大なる威厳があり、民衆も彼らを敬っていることから、使徒たちよりも格下のステパノに攻撃の矢が放たれたのではないでしょうか。
しかし、神はすでにステパノに臨まれておられ、ステパノの顔は「御使いの顔のように見えた」とあります。
ここで少し時間を使って、聖書のなかで、人が御使いの顔のように光り輝いていたという記述を拾ってみましょう。
まず、イエス様です。
イエス様が、ペテロとヨハネとヤコブを連れて、山に登られ、祈っておられるときに、●「その御顔の様子が変わり、その衣は白く光り輝いた」(ルカ9:29)とあります。また、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになり、祈っておられると、●「聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった」(ルカ3:22)とあります。この時もイエス様は輝いておられたのではないかと私は推測します。
また、モーセも光を放っていました。
モーセがシナイ山に登って、40日40夜こもり、主のともにいて、契約のことば、十戒を書き記した二枚の板をもって、山から下りて来たとき、●「モーセは、主と話したために自分の顔の肌が輝きを放っているのを知らなかった。アロンと、イスラエルの子らはみなモーセを見た。なんと、彼の顔の肌は輝きを放っていた。それで彼らは彼に近づくのを恐れた」(出エジプト34:29-30)とあります。
イエス様の時といい、モーセの時といい、神への祈り、神との親しい会話のときに、聖霊に満たされ、神からの霊的な光を放つことがあるのではないでしょうか。光を放っているとは書いてありませんが、私は、ダニエルたちもそれに近い状態があったのではないでしょうか。捕囚の民であったダニエルたちが、当時の王ネブカドネツァルの信じる神々や金の像を拝むことを拒否し、ネブカドネツァル王は激怒して、その場にいたシャデラクたちを普通よりも七倍熱くした炉に投げ込みました。しかし、シャデラクたちは3人であったのに、炉の火の中では、彼らを縛っていた縄がとけ、3人のはずが、4人見えたというのです。そして、彼らは全く無事でありました。4人目の人は、姿は神々の子のようだったとあります。神がシャデラクたちを守られたのでした。私は、その時のシャデラクたちも霊的な光を放っていたのではないかと考えるのです。そして、ネブカドネツァル王は、シャデラクたちの信仰に感嘆します。●「ほむべきかな、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神、神は御使いを送って、このしもべたちを救い出された。王の命令に背いて、自分たちのからだを差し出しても神に信頼し、自分たちの神のほかはどんな神にも仕えず、また拝まないこと者たちを。」(ダニエル3:28)
神に信頼し、他の神にも仕えず拝まないダニエルたちの信仰によって、彼らは霊的光を放つものとされるのでしょう。
「光を放つ者」として、イエス様は、次のようにおっしゃいます。
●「あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることできません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」(マタイ5:14-16)
では、「光を輝かせるための、良い行ない」とは何でしょうか。
イエス様は次のようなヒントを下さっています。
●「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(ヨハネ8:12)
イエス様に従う人が、世の光となれる、世に希望を与える、もちろん、真の希望はイエス様を通して得られるものです。「イエス様に従う」ためには、「イエス様を信頼する」そしてそれを行動にあらわす、つまり「イエス様に仕える」ということになるのではないでしょうか。私たちが、主を喜んで、主に似る者とさせていただく、それが「イエス様に仕える」ということにもなるでしょう。「イエス様だったら、どのようにされるか」と常に考えることが不可欠です。
ステパノは、次の7章で、大祭司を初め、パリサイ人たちの形式的な信仰を面と向かって非難し、彼らの逆鱗に触れます。ステパノはこの時点で、「地の塩」となりました。正しいことは正しい、正しくないことは正しくないと、きっぱりと言うこと。イエス・キリストが真の救い主であること、そして、ダニエルたちのように、自分たちの神のほかはどんな神々にも仕えないという姿勢。では、ステパノは「世の光」となり得たのでしょうか。「世の光」とは、「地の塩」との表裏一体の関係にあり、まさしく、ネブカドネツァル王がダニエルたちの信仰に感心し、「ほむべきかな、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神、神は御使いを送って、このしもべたちを救い出された」と言わせたことでもあります。ステパノの殉教は、一粒の麦であり、イエス様のおっしゃる、●「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます」このとおり、ステパノの死は、多くの実を結ぶことになります。特に、ステパノの死は、その場にいた若きサウロ、のちのパウロに間接的ではありますが影響を与えるのです。
では、私たちはどうでしょうか。イエス様の光を放っているのでしょうか。周りの方々が、私たちを通して、私たちが見ている希望を、同じように見てくれているのでしょうか。
さて、天国長屋の八さん熊さん、お二人は、聖霊に満たされた時、イエス様の光を放っていると思いますか。
―――――
八: 若さん、むちゃ言うたらあかんわ。わてらが聖霊に満たされた時、ちゅうことは、神様に身をゆだねた時、神様のご支配下に身を置いた時、ちゅうこっちゃろ?それ自体、わてには自覚があれへん。熊はどうや?
熊: わてもそうや。「ああ、今聖霊に満たされている自分がいる」なんて、そんなん分からん。
八: そやなぁ。自分では分からんわなぁ。
熊: 実は若さんも分からんらしいでぇ。若さん前、ポツってゆうてはった。
八: なんや、若さんも、分からんのかいな。
熊: 他人が分かることがあるらしい。なんか力がみなぎってるちゅうか。
八: え? エイエイオーみたいな感じかいな。
熊: そやのうて、言葉に力があるちゅうか、説得力があるちゅうか。
あ~分からんわ、わてには。
八: なんや、頼んないなぁ。そこが分からんかったら、イエス様の光を放ってるかどうか
わからんやないかいな。
熊: 八のいう通り、分からんわなぁ。つまりは、結果で判断するんとちゃうやろか。
八: なんや、結果主義かい?
熊: いや、いや、そうやのうて、ほら、ペテロはんたちが、聖霊に満たされて、語ったときに、
大勢の人が信じはったやろ。ほら、使徒の働き2章のところでは3000人の人が、
その日一日で弟子に加えられはったって。
八: ああ、あれはペテロはんの力やない、ペテロはんを通じて、聖霊様が働かれた。
ペテロはんたちは、みんなで集まって祈ってはったんや。
熊: 八、それや、それかも知れん。
八: 何や、何がそれなんや。
熊: 祈りや。わてらが一人でいても真剣に祈っているとき、わてらは一人やないんや。
八: 一人で祈っている時、一人やない? どういうこっちゃ。
熊: わてらの心には、聖霊様がやどってはる。せやから、わてと聖霊様で二人や。
せやから、二人で心合わせて祈っている時、イエス様もいてくださる。
つまり三人や、鬼に金棒やな。
八: ということはあれか。聖霊様と心一つにして祈っている時、イエス様もいてくださる。
ちゅうことは、イエス様の光を放つものともなっているちゅうことなんかい。
熊: イエス様の光をはなつものとなっているかは分からんけど、イエス様の証し人と
なっているちゅうことやろな。ほら、イエス様がおっしゃったやないか。
使徒の働き1章で。●「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。
そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人と
なります」(8)。ちゅうて。
八: それやねんな。わてらには、すでに聖霊様が心の内にいらっしゃる。その聖霊様の力を
おもいっきり受け取るには、祈りしかない、とわては思うんや。
熊: そりゃそうや。けんど、わて思うねんけど、ワイワイ、口に出す祈りとは、ちゃうような
気がするねん。静まって主の声を聞く、ちゅうか。聖霊様と心一つになるちゅうか。
それこそが、めちゃんこ大切なこととちゃうやろか。聖霊様と心一つになったとき、
イエス様のお言葉が成就するんとちゃうやろか。●「助け主、すなわち、父がわたしの
名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが
あなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」(ヨハネ14:26)。
「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、
その方がわたしについて証ししてくださいます」(ヨハネ15:26)。
八: 熊、なんか今日のお前、聖霊様に満たされてんとちゃうか。わて、熊のことばで分かった
ような気がするわ。「イエス様の光を放つ」、とは「イエス様の証し人となる」
ちゅうこっちゃ。そんで、そのためには、聖霊に満たされてなあかんけど、それは、
聖霊様と心一つになる、ちゅうこっちゃ。そんで、そのためには、静まって主の声を
聞こうとする態度が必要なんや。そうする中で、わてらの思いではなく、イエス様の
思いがわてらに迫って来る。静まった祈りが大切なんや。けんど、なんか嬉しいなぁ。
イエス様の光を放てるものとなれるなんて。
熊: わてな、「イエス様の光を放つ」って、お月さんみたいに、太陽の光を反射するような
感じで、イエス様の光を反射するんやと思てた。ところが、今日、そやないことに
気がついた、いや気づかされた。わての心に住んでくださってる聖霊様が、
わてといっしょになって光を放ってくださるんや。イエス様の光を反射するんやない。
わての中から光が放たれてくるんやって。うれしいなぁ。
八: 熊、やっぱり今日の熊は、聖霊に満たされてるでぇ。
熊: さよかぁ? ほんでもやっぱり、本人は分からんもんやなぁ。
さあそろそろ、若さん、バトンタッチしまっさ。
―――――
八さん、熊さんありがとうございます。聖霊様と一体となる静まり。とても大事ですね。イエス様の光を放つとは、イエス様の証し人となって、聖霊様といっしょになって、大胆にイエス様の福音をお伝えする。その静まりによって、聖霊様の支配下に自分自身を置くことが可能になるのでしょうね。
さて、今日も、いつもの通り、宣言をします。今日の宣言は、「光を放つ者になります」です。もちろん、イエス様の光でありますが、その人、その人には、それぞれその人しか表せない光があると思います。もちろんイエス様の証しをするわけですが、光の色はひとそれぞれだと思います。皆さんはどんな光を聖霊によって放たれるのでしょうか。私の光はどんな光でしょう。とても楽しみです。そのためにも、聖霊のご支配の下にいないといけません。静まって聖霊の導きを感じ取りましょう。では、三回宣言いたします。
「光を放つ者になります!」、「光を放つ者になります!」、「光を放つ者になります!」。アーメン!
黙想をいたします。
黙想の時にお読みするのは、詩篇27篇です。
●黙想:
黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。ヨハネの福音書12章36節。
「自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」
黙想いたします。詩篇48篇。
黙想時の曲
⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM
https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0
●祈り
●主の祈り
天にまします我らの父よ
ねがわくは、御名をあがめさせたまえ
御国を来たらせたえ
御心の天になるごとく
地になさせたまえ
我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり
アーメン。
【YOUTUBE配信終了】
賛美⑧:主よささげます
https://www.youtube.com/watch?v=XhJ-lBVCd5g
賛美⑨:イエスは愛で満たす
https://www.youtube.com/watch?v=I_G7hCgLRn0
●礼拝の感謝の祈り
(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)
●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」
https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM
●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21
●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏
https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0
●閉会
●連絡
次回の9月24日 午後5時から小阪チャペルにて、主日礼拝。
聖書: 使徒の働き7章
「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ
https://vinechristchurch.jimdofree.com/