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メッセージ主題:『ほんとうの穢れ』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2023.10.8主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、軽く食事と交わりの時をもちます。7時半ごろ終了。)

●午後5時開会:ただいまより、2023年10月8日主日礼拝式を始めます。

●祈り

角笛

礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

続いて

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。

私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。

賛美①:十字架のかげに

https://www.youtube.com/watch?v=8dq4uQd8CjU

賛美②:私の願い

https://www.youtube.com/watch?v=_YTsl0A-Y6E

賛美③:誰も見たことのないことが(10月)

https://www.youtube.com/watch?v=Xz1PEfdY4Cw

賛美④:喜びの声を上げて

https://www.youtube.com/watch?v=26yzkyYKjfA

賛美⑤:神の御子にます

https://www.youtube.com/watch?v=OgR5Ts2Mszk

賛美⑥:主は今生きておられる

https://www.youtube.com/watch?v=cq6mJ1WMkC4

【YOUTUBE配信開始】

2023年の年間聖句は「山上の説教」マタイの福音書5章3節~10節の8つの幸いです。

いっしょに唱えましょう。(新改訳聖書2017)

第1の幸い(マタイの福音書5章3節)

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」

(自分ではどうしようもなく、主の力と知恵を求めるしかないと思っている人)

第2の幸い(マタイの福音書5章4節)

「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」

(どうしようもなく罪を犯してしまう、そのことを悲しみ悔いる人)

第3の幸い(マタイの福音書5章5節)

「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」

(自分を無力でどうしようもないものだと、へりくだらざるをえない人)

第4の幸い(マタイの福音書5章6節)

「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」

(自分の中にある罪を憎み、義である主を求める人)

第5の幸い(マタイの福音書5章7節)

「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」

(主を知ることで、憐みをおぼえ、主のように、他の人に憐れみをかける人)

第6の幸い(マタイの福音書5章8節)

「心のきよい者は幸いです。その人たちは神をみるからです。」

(悔い改めを通して、主に聖くしていただけると信じる人)

第7の幸い(マタイの福音書5章9節)

「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」

(神との関係を、創造主と創造物の関係に、修復された、主の証し人)

第8の幸い(マタイの福音書5章10節)

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」

(信仰に堅く立ち、この世と調子を合わさない人)

●2023年10月8日 主日礼拝メッセージ

「使徒の働き」とは

復活のイエス様の働き・聖霊様の働き、信仰の始まりと継承です。

そして、私たちは、次のことを、この「使徒の働き」を通して学びます。

(会衆)

イエス様の復活の確信

神の国の理解

聖霊の満たし

エクレシア(信仰者の集まりと交わり)

●聖書拝読:使徒の働き第9章(新改訳聖書2017)

朗読: 若竹惠子伝道師

中心聖句:

「ペテロはかなりの期間、ヤッファ(ヨッパ)で、シモンという皮なめし職人のところに滞在した。」(43)

メッセージ主題:『ほんとうの穢れ』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。

●メッセージ

(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)

使徒の働き9章から、サウル、のちのパウロに焦点が当てられていきます。クリスチャンへの迫害者サウロのダマスコでの回心、回心後のサウロのダマスコでの大胆な伝道、それに反応してダマスコにてサウロ暗殺計画がもちあがりますが、なんとか逃れ、サウロがその三年後エルサレムに到着し、そこでの使徒たちとの親しい交わりがあり、祭司長側からの暗殺計画が再びもちあがります。それから逃れるため、弟子であるサポーターたちによって、パウロの故郷のタルソ(今のトルコ地中海沿岸都市)に送られます。そして、パウロはタルソで5年~7年過ごすこととなります。この時期、教会は祝福され、31節のように、●「教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地にわたり平安を得た。主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続け、信者の数が増えていった」とあります。

一方、ピリポのサマリアでの伝道を助けていたペテロは、その後も巡回伝道を続け、リダの町(ルダ:サマリヤとユダヤ地方の中間地点で、地中海沿岸部位置していた)や沿岸部のシャロン平野に位置し、リダの近くの町ヤッファ(ヨッパ)でも癒しのしるしを行なっていました。そして、●「みなが主に立ち返り」(35)また●「多くの人々が主を信じた」(42)とあります。ここでもペテロを通して、主がこの地域を祝福されました。

そして、9章の最後、しめくくりとして、●「ペテロはかなりの期間、ヤッファ(ヨッパ)で、シモンという皮なめし職人のところに滞在した」とあります。これは次の10章のつなぎの文章でもありますが、私はこの文章に、イエス・キリストを見ならおうとするペテロの姿勢、既成概念や偏見にとらわれないようにする姿勢が垣間見られ、そしてそれは聖霊の働きがあるような気がするのです。

『皮なめし』という職業は、動物の死体に触れるので、穢れた職業とみなされていたのですが、ペテロがこのような人の家に長い間泊まったということが、いかにペテロがユダヤ人社会での「穢れ」という概念や偏見から自由であったか、または自由になろうとしていたかを物語っているような気がするのです。

それは、イエス様が社会のひずみにあえいでいた人たちと食事を共にしたり、みなの嫌われものであった取税人ザアカイのところに泊まったりするのと同じ行為だと思うのであります。

ユダヤ人社会での律法を基軸とする、「穢れ」は、私たち、異邦人には適応されません。それぞれの文化での「穢れ」のイメージは異なるでしょう。では、クリスチャンである私たちに対して、聖書に基づく「穢れ」とはなにでしょうか。大きく分けて二つあると思います。一つは、道徳的穢れ、もう一つは霊的穢れです。少し簡略して考えてみましょう。

道徳的穢れ

道徳的穢れとは、人が神の目に汚れる原因となりうる罪深い行為や考えであります。

偶像礼拝、不正、偽り、性的不道徳などです。

霊的穢れ

霊的穢れとは、神からの分離にともなう心と霊の、いわば肉の心の野放し状態です。

恨み、嫉妬、憎しみ、やっかみ、などでしょう。

イエス様はおっしゃいました。●「口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです。」(マタイ15:11)つづいて、18節●「口からでるものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。」19節●「悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出てくるからです。」

道徳的穢れも霊的穢れも、どちらも心からくるのです。神を中心としない自己中心的な心、自分を基準にするから、相手の言動に対して、すぐ怒りや嫉妬や妬みがむくむくと湧いて来る。私は、悪に対して正義の怒りは別にして、それ以外のほとんどの怒りや悪感情は、自己中心の心からくると考えています。自己中心という言葉が、受け入れられないのなら、このように言えばいいでしょうか。自分の考えや経験を基準にして相手を判断するから「どうして~しないのか」とか「どうして~するのか」というようなフラストレーションやイライラが起こって来るのではないでしょうか。

ペテロも、皮なめし職人のところに滞在しているとき、そのような試みにあったのではないかと私は推測しています。それも次から次へと。その都度、ペテロは、自分自身の中にある「穢れ」に気づかされ、主イエス様のための器として練られていったにちがいありません。私には、ペテロが好んで「皮なめし職人」のところにやっかいになったとは、思われません。これこそ聖霊の働きによるものだとかんがえられます。私たちは、主によって、好む好まないにかかわらず、自分自身の中にある「穢れ」に気づかされ、聖霊によって、その心を入れ替えていただく必要があるのではないでしょうか。

ペテロは、10章で、皮なめし職人のところに泊まっているときに、神は、律法の食物規定、汚れた食べ物について、ペテロを試みられました。夢の中で、律法的に汚れた動物が出てきて、神が13節●「ペテロよ、立ち上がり、屠って食べなさい」と告げ、ペテロがそれを律法に反するとして拒みました。しかし、神は15節●「神が浄めた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」とペテロを戒められました。律法を優先にするのではなく。神を優先にする。そのとこが、当時のユダヤ人社会においては、至難の業だったに違いありません。

ペテロは、ユダヤ人社会にあって、当然であった「穢れ」の認識を考え直さざるを得なくなったのです。それは私たち日本人にも適応されます。日本人社会においての「穢れ」と、神を基準とした聖書の「ほんとうの穢れ」とにズレがあるのではないでしょうか。では、聖書の「ほんとうの穢れ」とはなんでしょうか。それは、罪とも考えられるのですが、罪であれば、アダムとエバから受け継いでしまっている「神を心の中心としない、自分中心とする的外れな考え方や生き方」であります。この罪自身を「穢れ」と考えるのではなく、その罪から出て来る、先ほど申しました道徳的穢れや霊的穢れなのでしょう。そういう意味では、私たちは穢れまくっていると言っていいでしょう。

さて、天国長屋の八さん熊さん、お二人は、この自分自身の中にある「穢れ」とその認識を、どのように考えますか。

―――――

八: なんか難しい問題だしてきはったでぇ、若さん。「穢れ」やて。

熊: 「穢れ」なぁ。平たくゆうたら、自分の嫌なところ、ちゅうことになるんかぃな?

八: 自分の嫌なところなぁ、、、一つあげるとすると、わては見栄やな、

ちょっと見栄っぱりなところがわてにはある。

なにも見栄はらんでもええのにと思うときもあんねんけど、見栄はってしまう。

熊: ああ、八はそんなところあるなぁ。パチもんのロレックスの時計買うてみたり、

ソニーやなくてサニー製品買うてみたり。ナショナルやのうてパナソニックにして

みたり。

八: あほ、ナショナルもパナソニックも同じ松下やないかい。

熊: あははは、そら、失礼しました。かんにんやでぇ。

八: けんど、わての見栄っ張りは貧乏人のちょっとした楽しみや、目つぶってくれても

ええんとちゃうか。そういう熊かって、人をうらやましがってるやないかいな。

熊: そやなぁ。ほかの人とよう比べてしまう、あっちはスラーっとして背が高いのに、

こっちはずんぐりむっくりや。けんど、腹は、わての方が、太っ腹やでぇ。

八: あほぅ。熊のは、腹がでてるだけや。太っ腹になるようなお金もってへんやないかい。

熊: あははは、それもそうやな。

あれ? あれ⤴? ちょっとまって、八。わてら、そんなにわてらの性格、嫌がって

ないんとちゃうやろか。八は見栄っ張り、わてはうらやましがり。

八: ほんまやぁ。わてら、見栄っ張りにしてもうらやましがりにしても、なんちゅうか、

まあ、ええんとちゃうかって思ってるところあるわなぁ。

熊: あかん、あかんがな、八。けんどこれが、ひょっとしたら「穢れ」なんかもしれんなぁ。

その「穢れ」に気がつかん、それだけ根が深いちゅうことなんかもしれんでぇ。

八: 「穢れ」に慣れてしもたら、何が「穢れ」なんかも分からんようになってしまう。

白いシャツに泥ついたら、すぐ洗わなって思うけど。泥だらけのシャツやったら、

もうちょっと泥つけたれ!みたいな。

熊: ほんまや。わてら、「穢れ」に麻痺してしもてんのかもしれんなぁ。

八: それって、ちょっとやばいんとちゃう?

熊: この次には罪まみれになってしもて、罪が分からんようになる。ああ、おそろし!

八: わてら、もっと「穢れ」に対して敏感にならんとあかんのとちゃうやろか。

熊: そやなぁ。パウロはんみたいになぁ。

八: なんで、そこでパウロはん出てくるんな。

熊: パウロはん、ゆうてはったやないかいな。ローマ書7章で。

八: ローマ書7章?ローマ書7章ゆうたら、難しいところやないかいな。

『心の律法と肉の律法』

熊: そやなぁ。けんどパウロはんも「穢れ」に対して葛藤してはんでぇ。

●「私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、

むしろ自分が憎んでいることを行なっているからです。」(ローマ7:15)

八: ほんまやなぁ、自分の肉の中にある「穢れ」と闘こうてるなぁ。

熊: せやろ。パウロはん、そんな自分が惨めやって。

八: けんど、そんな惨めやと思ている自分を救い出してくださるお方が、イエス様やて

告白してはるなぁ。この世に生きている間は、肉があるさかいに、罪のとりこに

されてる。けんど心では神の律法に仕えてる、ゆうてはるし。

熊: 「穢れ」に対して諦めたら終わりや。けんど、あきらめないお方がいらっしゃる。

それがイエス様や。わてらの穢れに対して、わてらの身代わりとなって、十字架で

ご自分の命をささげられはった。パウロはんは、そのことに感謝し、それゆえに

肉の「穢れ」とたたこうてはるんやなぁ。

八: 熊、わてらも戦わなあかんな。「穢れ」にどっぷりつかって麻痺してしもてたらあかん。

そんなことしてたら、ほんまに、イエス様の救いに感謝してるとは言えんわな。

わてらの弱さに「穢れ」がある、その「穢れ」を取り除いてくださんのは、

イエス様しかおらん。なあ、若さん、そやろ。

―――――

八さん、熊さんありがとうございます。そうですね、私たちは「穢れ」の認識があまいのかもしれませんね。八さんの言うように、「穢れ」の意識があまければあまいほど、イエス様の十字架の救いに対する感謝も少なくなってくるのでしょう。気をつけなければいけません。聖霊の導きによって、「穢れ」を意識すればするほど、イエス様の十字架の贖いに感謝できるのでしょうね。

さて、今日も、いつもの通り、宣言をいたします。今日の宣言は、「心の内からの穢れを意識します!」です。心の内からの穢れは、自分を、イエス・キリストを通して見つめ直すことで、鮮明になってきます。その「穢れ」の正体を明らかにし、聖霊によって、その「穢れ」から遠ざかるようにさせていただきましょう。では、三回宣言いたしましょう。

「心の内からの穢れを意識します!」、「心の内からの穢れを意識します!」、「心の内からの穢れを意識します!」。アーメン!

黙想をいたします。

黙想の時にお読みするのは、詩篇51篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。マタイの福音書12章37節。

「あなたは自分のことばによって義とされ、また自分のことばによって不義に定められるのです。」

黙想いたします。詩篇51篇。

黙想時の曲

⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

賛美⑧:主の教会よ

https://www.youtube.com/watch?v=pK_rOZOUTWI

賛美⑨:もっと満たしてください

https://www.youtube.com/watch?v=jcjhkrImTLo

●礼拝の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の10月15日 午後5時から小阪チャペルにて、主日礼拝。

聖書: 使徒の働き10章

「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ

https://vinechristchurch.jimdofree.com/