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メッセージ主題:『祈りの恵み』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2023.10.29主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、茶菓とともに短く交わりの時をもちます。7時ごろ終了。)

●午後5時開会:ただいまより、2023年10月29日主日礼拝式を始めます。

●祈り

角笛

礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

続いて

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。

私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。

賛美①:ガリラヤの風かおる丘で

https://www.youtube.com/watch?v=m8JP7fSwljo

賛美②:主の手にわが手を重ね

https://www.youtube.com/watch?v=LxstUKGySoM

賛美③:誰も見たことのないことが(10月)

https://www.youtube.com/watch?v=Xz1PEfdY4Cw

賛美④:ぶどうの木(11月)

https://www.youtube.com/watch?v=q80lUdrVXdw

賛美⑤:人生の海の嵐に

https://www.youtube.com/watch?v=PvmzVhR-NBQ

賛美⑥:御腕に抱いて

https://www.youtube.com/watch?v=K2KtKu4nZGE

【YOUTUBE配信開始】

2023年の年間聖句は「山上の説教」マタイの福音書5章3節~10節の8つの幸いです。

いっしょに唱えましょう。(新改訳聖書2017)

第1の幸い(マタイの福音書5章3節)

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」

(自分ではどうしようもなく、主の力と知恵を求めるしかないと思っている人)

第2の幸い(マタイの福音書5章4節)

「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」

(どうしようもなく罪を犯してしまう、そのことを悲しみ悔いる人)

第3の幸い(マタイの福音書5章5節)

「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」

(自分を無力でどうしようもないものだと、へりくだらざるをえない人)

第4の幸い(マタイの福音書5章6節)

「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」

(自分の中にある罪を憎み、義である主を求める人)

第5の幸い(マタイの福音書5章7節)

「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」

(主を知ることで、憐みをおぼえ、主のように、他の人に憐れみをかける人)

第6の幸い(マタイの福音書5章8節)

「心のきよい者は幸いです。その人たちは神をみるからです。」

(悔い改めを通して、主に聖くしていただけると信じる人)

第7の幸い(マタイの福音書5章9節)

「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」

(神との関係を、創造主と創造物の関係に、修復された、主の証し人)

第8の幸い(マタイの福音書5章10節)

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」

(信仰に堅く立ち、この世と調子を合わさない人)

●2023年10月29日 主日礼拝メッセージ

「使徒の働き」とは

復活のイエス様の働き・聖霊様の働き、信仰の始まりと継承です。

そして、私たちは、次のことを、この「使徒の働き」を通して学びます。

(会衆)

イエス様の復活の確信

神の国の理解

聖霊の満たし

エクレシア(信仰者の集まりと交わり)

●聖書拝読:使徒の働き第11章(新改訳聖書2017)

朗読: 若竹惠子伝道師

中心聖句:

「こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。」(5)

「だが、ペテロは門をたたき続けていた。彼らが開けると、そこにペテロがいたので非常に驚いた。」(16)

メッセージ主題:『祈りの恵み』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。

●メッセージ

(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)

使徒の働き12章では、衝撃なことから始まります。ヘロデ王は、ユダヤ人たちが、エルサレムのイエスの教会を疎んじていることをいいことに、エルサレムに残っていた使徒たちに手をかけようとし、まず始めにヨハネの兄ヤコブをとらえて斬首刑に処しました。そして、ユダヤ人たちがそのことを喜んでいることに気をよくしたヘロデ王は、今度はペテロを種なしパンの祭り(つまりは過越しの祭り)の時にとらえ、祭りの終わりに、ペテロも処刑しようと牢に入れます。

このところはまるでイエス様と同じであります。恐らく、ヘロデ王は、イエス様の十字架刑と同じように、処刑の時期を合わせて、遠方から祭りのために巡礼にやって来るユダヤ人たちの好感も得たい、自分の威厳も示したいと思っていたのでしょう。これは私の推測の域をでませんが。

しかし、ヘロデが処刑しようとしていた日の前夜、皆が寝静まっているころ、神は御使いを遣わして、ペテロを不思議な力で牢から助け出します。そして、脱走したペテロはイエス様の最後の晩餐に使われたマルコ邸に、弟子たちが集まっているであろうと思い、エルサレムから逃げる前に、その高級住宅街、山の手にあるマルコ邸に急いで立ち寄りました。マルコの家族は恐らくハイソな家系なのでしょう。マルコ邸は、サドカイ派の邸宅が立ち並ぶ場所にありますから、見つかっては大変。ですから、こっそりと、抜き足差し足といったところでしょう、そのようにして音を立てずに行ったのです。マルコ邸では、弟子たちが徹夜祈祷をしている真っ最中。ペテロが牢から抜け出して来たことに、びっくり!そりゃあ、無理もありません。イエス様の代表的弟子トリオ(ペテロとヤコブとヨハネ)の一人、ヨハネの兄ヤコブもあっさりつかまり斬首されてしまったのですから、次はペテロだということで、弟子たちはもうダメだと落胆していたに違いないのですから。この場面もイエス様の復活の場面と似ていますね。この「使徒の働き」の筆者ルカはひょっとしたら、イエス様と物語とペテロの物語をダブらせるようにしたのかもしれません。そして、ペテロは、この神の奇跡を、イエス様の弟ヤコブやほかの弟子たちにも伝えておくようにと残して暗闇の中に姿を消していきます。当時、エルサレム教会の中心人物は、ペテロからイエス様の弟ヤコブにバトンタッチしていたのでしょう。この時期、ペテロは散らされているユダヤ人や異郷で暮らすユダヤ人たちのところに回り、イエス様を宣べ伝え、バプテスマを授けていましたから。

一方、ヘロデ王、ペテロを祭りの終わりに始末する予定にしていたヘロデ王は、ペテロがいなくなったことで、面子が丸つぶれとなりました。その腹いせとして、ペテロに逃げられた守衛4人一組で、24時間体制でペテロを監視していた4組、合計16人は、かわいそうに拷問の上、処刑されてしまいます。

そして、しばらくして、ヘロデは以前から気に入らなかったツロとシドンの人々が貢ぎ物をたずさえて和解を申し出て来たので、気をよくして、キンキラキンの王服を着て、会衆の前で演説をしました。ヘロデは自分がまるで神になったような気になってしまいました。神は、神をも畏れぬヘロデを打ち、胎内に虫を発生させ、内臓を噛ませ、ヘロデは5日間、苦しみもだえながら死を迎えました。

ヘロデが死んだおかげで、エルサレムには一時的に平和が訪れました。そして、執筆者ルカは、13章から、この物語の中心をパウロへと移していきます。バルナバとマルコを連れての第一回目の伝道旅行が始まります。

さて、ここまでが12章のあらましです。今日ここで導かれましたのは、二か所の聖句であります。

●5節「こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。」

●16節「だが、ペテロは門をたたき続けていた。彼らが開けると、そこにペテロがいたので非常に驚いた。」

まず5節ですが、ペテロは牢に閉じ込められていました、つまりキリスト教は迫害をうけていましたが、教会という信者の集まり、エクレシアでは、熱心な祈りがささげられていたとうこと、このようにも解釈できます。私たちは、さまざまな事情で身動きがとれなくなったとしても、究極的に心の中での神様への祈りはまったく自由であるということです。もっと言えば、心の中での祈り、神様との交流には制限がありません、時間的にも空間的にも。目を心に向けてみて下さい。なんか表現おかしいですね。意識を心に向けてみて下さい。なんかまだおかしいですか。まあ、私の意図は分かっていただければOKとさせてください。意識を心に向ける時、口からの言葉・祈りも必要ではありません。神さまと会話するために、神様の聞き取りにくいかぼそい声をも聞くことに集中していきます。すると皆さんの意識は、まったく自由であることに気がつくはずです。私はよく、この黙想をします。「主よ、お語り下さい。」電車に乗っている時でも。

もちろん、二人三人が集まって、心一つになって、熱心に声にだして、祈り合うこともとても大切です。祈りは人数の問題ではありませんし、祈りの時間が長ければ長いほどいいという問題でもありません。口数が多いからいいというものでもありません。神さまは私たちの心を見られます。しかし、私たち的に残念なことに、祈りを積んだからと言って、その祈りは必ず聞かれるとは限りません。神さまは粛々と神様のご計画を遂行されます。1回の短い祈りをお聞きくださることもあれば、長年祈りをささげているのに、それが成就しないこともあります。また、こんな無茶な願い、聞かれないかもしれないなと不信仰な思いをいだきつつ祈る祈りも、時として聞かれることもあります。そして、そんな不信仰な祈りが聞かれて、喜び感謝するよりも先に、驚いてしまうこともあります。そのいい例が16節です。

●16節「だが、ペテロは門をたたき続けていた。彼らが開けると、そこにペテロがいたので非常に驚いた。」

弟子たちは、熱心に徹夜祈祷をしていました。「指導者の一人でもあるペテロを牢から解放し、お救い下さい」と祈っていたのでしょう。しかし、その祈りの片隅に、「祈っても無理かもしれんなぁ。ヤコブはん、首切られはったし。ペテロはんまでつかまって。次はヨハネはんかもなぁ。」という思いがよぎったといいますか、思いが心に沈殿してしまっていたのではないでしょうか。そうでなければ、門をたたき続けていたペテロを見たとき、弟子たちが『非常に驚いた』とは、ルカも書かないでしょう。ここに、「喜んだ」とか「神に感謝した」という言葉はひとつも記されていません。それほど、ペテロの救いを期待していなかったとも言えるでしょう。もちろん、脱走してきたペテロを見て喜び感謝したに違いないのですが、『非常に驚いた』方が勝ったのです。熱心に徹夜祈祷していたわりには、「もう、ペテロはんもわてらも、あかんかも」と失望し、不信仰きわまりない祈りになっていたのかもしれません。

しかし、そんな不信仰きわまりない祈りでさえ、主は聞かれる時もあるのです。私たちの祈りもどこか不信仰な要素が残ってはいませんでしょうか。人間的な常識で、神の力を限定してしまい、それを払拭するかのように、返って熱心に祈ってみたり、「この祈りはすでに聞かれましたから、感謝をささげ、主の御名をあがめます」と先取りの感謝でもって、「神様、先に感謝しましたから、ちゃんと聞いて下さいね」と神様に脅しをかけるといいますか、自分自身の不信仰の弱さや不安さから逃げるといいますか。(ため息) 私もよくあります。そして、「二心で祈っている」自分にあとでがっかりするのです。

しかし、そんな祈りであったとしても、主のもとにはすべての祈りや願いが届けられているのです。神がそれらをどうお答えになるかは、私たちには分かりません。しかし、不信仰であっても、1回しか祈っていなくて、忘れてしまっている祈りであっても、神様に届いていること自体が恵みではないでしょうか。結果がどうあれ、心から祈るときも、二心で祈ってしまっている時も、それでも「祈れる」ことは恵みだと私は感じるのであります。「祈る」相手が、この世の絶対的創造主であり、私たちの救い主であることに、永遠のいのちを与えて下さる主であることに、恵みを感じるのであります。

さて、天国長屋の八さん熊さん、ここで登場していただきますね。八さん熊さんは、祈りをどう思っていますか。さっき、マタイの福音書18章20節のイエス様のお言葉●「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」という御言葉を出しましたが、集まって祈っている時、イエス様がいらっしゃることを感じますか。

―――――

八: わてなぁ、一人でも祈っている時、イエス様がよこにいらっしゃる気がするねん。

これも聖霊様のお働きのおかげやなぁ。

熊: そや、わてらには聖霊様がお宿りくださってはる。

聖霊様をとおして、イエス様に直訴できるちゅうわけやわな。

八: まあ、直訴ちゅうわけやないけんど、命がけで神様にお願いすることもあるわな。

ところで、直訴ちゅうたら、なんか農民がお代官様に命をかけて訴える感じやわな。

そう言うときもあるやろうけど、そやのうて、なんかなぁ、、、(パン)目安箱や。

熊: 目安箱? 目安箱ちゅうたら、江戸時代1721年に八代将軍徳川吉宗が設置したものやな。

庶民の意見を直接聞くちゅうやっちゃ。目安箱に投書する時に、住所と名前は書く

必要があったそうや。けんど、庶民は文字も読めん字も書けん人が多かったらしいから、もっぱら町役ぐらいの人が書いたらしいんやろなぁ。

八: まあ、目安箱はそれまでにもあったらしいけんど、将軍吉宗の目安箱や有名やわな。

それにしても熊、えらい詳しいやないか。

熊: そら、「大岡越前」見てたもん。

八: 「大岡越前」、、、ってテレビの時代劇かい。な~んや。

熊: テレビをバカにしたらあかんでぇ。わての歴史はぜ~んぶ、テレビからや。

とくにNHKの大河ドラマは、わての歴史のおっしょさんや。

八: わかった、わかった。そんなに力まんでもええ。そんでその目安箱やけんど。

将軍様がじきじきに目を通される。わてらの祈りもそうや。なっ。

イエス様がじきじきにお聞きくださる。

もちろん、目安箱の意見がぜんぶ通るわけやない。高所に立った将軍様が考えて

差配されるわけや。それと同じで、永遠をつかさどる神様は、

わてらの祈りを聞かれたうえで、ご計画を進められるわけや。

熊: なるほどなぁ。わてらの祈りが神さまに届いていることが、

いっちゃん大切なことなんやな。

なんせ、神様やでぇ。神さまがわてらみたいな虫けら同然の者の祈りにも

耳を傾けてくださるんやから。感謝やないか。

八: そうか。先取りの感謝は、神様がわてらの祈りをお聞き届けくださったから、

すでに願いはかなったとして感謝をささげることでもあるかもしれんけんど、

実は、そうやのうて、神様にわてらの願いが届けられた、

わてらみたいな半端もんでさえ、神様に祈れる、祈りをささげる、期待できる相手が

いらっしゃる、ちゅうことの感謝でもあるんや。祈りは、神様との会話や。

神様との会話ができること自体が恵みなんや。祈りは恵みなんや。

神様に祈ることができることこそ恵みなんや。

熊: 八、えらい力はいってるなぁ。けんど、そう考えると、願いが叶うことも、

祈りが聞かれることも嬉しいけど、神様に祈れることが恵みやとすれば、

わてらは、祈ることで、すでに恵みをいただいているちゅうことになるわなぁ。

ええな、ええな。祈れることがこんなに嬉しいことやとは、

今まで考えもせえへんかったわ。今まで、そのことに気が付けへんかって、

神様、すんまへんでした。

八: 若さん、祈ること自体の大切さ、祈る相手が神さまで、またイエス様でよかった。

それが恵みやということに気づかせてもろて、おおきにや。

―――――

八さん、熊さんありがとうございます。私が気づかせたのではなく、私は考えるチャンスを差し上げただけです。すべては聖霊様の導きです。祈りは恵み。祈れることこそ恵み。祈る相手が神さまであることも恵み。それこそ、本当に感謝です。

さて、今日も、いつもの通り、宣言をしたいと思います。今日の宣言は、「祈れることに感謝します」です。黙想や静まりの時を含めた祈りは神様との会話であり、気づきをあたえてくださるチャンスでもあり、また、私たちに力と勇気、それに希望を与えてくださる時間でもあります。祈りの時間は、長い短いではありません。どれだけ深く神様と向き合っているかです。祈りに対して、私たちが神様の応えを期待するのは勝手ですが、それは神様の領域であります。私たちは、まず祈れること自体が恵みであることに感謝しましょう。

では、3回宣言します。

「祈れることに感謝します!」、「祈れることに感謝します!」、「祈れることに感謝します!」。アーメン!

黙想をいたします。

黙想の時にお読みするのは、詩篇86篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。マタイの福音書6章6節。

「あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」

黙想いたします。詩篇86篇。

黙想時の曲

⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

賛美⑧:愛の絆

https://www.youtube.com/watch?v=hNOl-KvzZGo

賛美⑨:祈ります求めます

https://www.youtube.com/watch?v=GRFbvWaGn5M

●礼拝の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の11月5日 午後5時から小阪チャペルにて、主日礼拝。

聖書: 使徒の働き13章

「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ

https://vinechristchurch.jimdofree.com/