ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル
2023.11.19主日礼拝式
(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、茶菓とともに短く交わりの時をもちます。7時ごろ終了。)
●午後5時開会:ただいまより、2023年11月19日主日礼拝式を始めます。
●祈り
角笛
礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。
ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)
●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
続いて
●使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、
永遠の生命を信ず。アーメン。
礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。
私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。
賛美①:みくにのここちす
https://www.youtube.com/watch?v=iq3sxc_Cln8
賛美②:主の愛が今
https://www.youtube.com/watch?v=xspdCatpaSs
賛美③:ぶどうの木(11月)
https://www.youtube.com/watch?v=q80lUdrVXdw
賛美④:罪重荷をのぞくは
https://www.youtube.com/watch?v=N7ej-ynfrjo
賛美⑤:主よみもとに近づかん
https://www.youtube.com/watch?v=LkbpK3RkTL4
賛美⑥:御腕に抱いて
https://www.youtube.com/watch?v=vV7m1nPNmZA
【YOUTUBE配信開始】
2023年の年間聖句は「山上の説教」マタイの福音書5章3節~10節の8つの幸いです。
いっしょに唱えましょう。(新改訳聖書2017)
第1の幸い(マタイの福音書5章3節)
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」
(自分ではどうしようもなく、主の力と知恵を求めるしかないと思っている人)
第2の幸い(マタイの福音書5章4節)
「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」
(どうしようもなく罪を犯してしまう、そのことを悲しみ悔いる人)
第3の幸い(マタイの福音書5章5節)
「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」
(自分を無力でどうしようもないものだと、へりくだらざるをえない人)
第4の幸い(マタイの福音書5章6節)
「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」
(自分の中にある罪を憎み、義である主を求める人)
第5の幸い(マタイの福音書5章7節)
「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」
(主を知ることで、憐みをおぼえ、主のように、他の人に憐れみをかける人)
第6の幸い(マタイの福音書5章8節)
「心のきよい者は幸いです。その人たちは神をみるからです。」
(悔い改めを通して、主に聖くしていただけると信じる人)
第7の幸い(マタイの福音書5章9節)
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」
(神との関係を、創造主と創造物の関係に、修復された、主の証し人)
第8の幸い(マタイの福音書5章10節)
「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」
(信仰に堅く立ち、この世と調子を合わさない人)
●2023年11月19日 主日礼拝メッセージ
「使徒の働き」とは
復活のイエス様の働き・聖霊様の働き、信仰の始まりと継承です。
そして、私たちは、次のことを、この「使徒の働き」を通して学びます。
(会衆)
イエス様の復活の確信
神の国の理解
聖霊の満たし
エクレシア(信仰者の集まりと交わり)
●聖書拝読:使徒の働き第15章(新改訳聖書2017)
朗読: 若竹惠子伝道師
中心聖句:
「そうであるなら、なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みるのですか。」(10)
メッセージ主題:『負いきれないくびき』
改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。
できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。
●メッセージ
(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)
使徒の働き15章では、パリサイ派から回心してイエスを信じた人たちやユダヤの律法を重んじる信者の人たちが、「イエス・キリストを信じだとしても、イエスもユダヤ人であり、律法をまもっていたのだから、異邦人信者にも割礼とモーセの律法を守らせるべきである」と主張し、そうでない考えの信仰者と対立し、険悪なムードが流れていました、とくにアンティオキアの教会でそうでした。そのことを案じたパウロとバルナバが、第一回目の伝道旅行の報告もかねて、今後のキリスト教の指針を明確にしようと、当時のイエス・キリスト教の総本山でもありますエルサレムの母教会にでむきます。そこで行われたのが「エルサレム会議」です。この会議のメンバーは、使徒たちと長老たちです。多くの激しい議論がなされた後、皆から尊敬されていたペテロが口を開きました。ペテロは、『ユダヤ人も異邦人も、主イエスの恵みによって救われるのですから、割礼やモーセの律法を異邦人に強いることをしていけない』と主張します。これは、パウロやバルナバを擁護したかたちとなりました。これには、全会衆、つまり他の使徒たちや長老たちも黙ってしまいました。そして、ここぞとばかりに、パウロとバルナバは、異邦人の間で行われたしるしと不思議について、つまり宣教の成果を話します。異邦人信者にも割礼やモーセの律法の順守をと、主張していた人たちも黙らざるを得ませんでしたが、恐らく心の中では、まだ納得していませんでした。それをいち早く察したのが、エルサレム教会の現最高責任役員でもあり、イエスの弟でもあるヤコブでした。ヤコブはこの会議を収め、双方が納得できるように折衷案を提示します。異邦人信者に適応されるべきは、食物規制と近親相姦のみとしたのです。割礼は排除され、異邦人信者も比較的受け入れやすいものだけにしぼり、ユダヤ人信者も異邦人信者も心安らかに交わりが持てるようにしました。このヤコブの提案により、満場一致で会議は収められました。そして、この決定をアンティオキア、シリア、キリキアの諸教会に通達するために、パウロとバルナバ、それにバルサバとよばれるユダ(ヘブライニスト)とシラス(ヘレニスト:シルワノとも呼ばれ、後にテモテとならびパウロの伝道旅行の片腕となる)を加えた人たちが選ばれ、送り出されます。エルサレム教会は、ヘブライ語とギリシャ語を話す代表的教会員を派遣し、バランスをとりました。
その後、パウロとバルナバは、アンティオキアにしばらくとどまっていましたが、これまでに宣教した各地をまわり、様子を見、励ましを与える旅を計画します。これが、第2次伝道旅行となりますが、バルナバはマルコも連れて行こうと提案しますが、第1次伝道旅行の途中で帰ってしまったマルコに対してあまり快く思っていなかったパウロは反対し、口論となり、いわば喧嘩別れのような状態になります。バルナバはマルコを連れてキプロスへ、パウロはシラスを連れて陸路を通ってシリア、キリキアを通過し諸教会へ、そのような別行動をとることになります。しかし、このことによって、主は諸教会へのケアの幅を広げられたのです。16章からは、この使徒の働きの執筆者ルカもパウロに同行し、パウロの伝道旅行の様子が記述されていくことになります。
異邦人である私たちは、このエルサレム会議の決定に恩恵をうけています。この会議の決定がなければ、今のキリスト教も形が変わっているでしょう。特に、当時のエルサレム教会の二大柱、ペテロとヤコブを通して、主の導きに感謝すべきです。ヤコブは、近親相姦を禁じ食物規制を提案しました。近親相姦は、ほとんどの社会でも禁じているもので、当時の異邦人にも抵抗なく受け入れることができたでしょうし、食物規制は、異邦人社会にキリスト教が普及して行く中で有名無実化していきます。ですから、今のクリスチャンには、食物規制はあたりません。主に感謝をして、主の祝福を祈って食べれば、何を食べても、大丈夫なのです。しかし、現在でもユダヤ教のかたがたと接する時には、この時の食物規制は有効でありますから、配慮をしてほしいと思います。それが、当時のエルサレム会議で示された、「配慮」という愛のかたちであります。
さて、今日の中心聖句、エルサレム会議の中でペテロが告げた言葉を見て見ましょう。8節から11節のペテロのスピーチをもう一度読みます。
●「兄弟たち。ご存知のとおり、神は以前にあなたがたの中から私をお選びになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされました。そして、人の心をご存知である神は、私たちに与えられたのと同じように、異邦人にも聖霊を与えて、彼らのために証しをされました。私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。そうであるなら、なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みるのですか。私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。」
わたしはこのペテロのスピーチを読んだ時、まずグサッと来たのは、「人の心をご存知である神」というところです。新改訳第三版では「人の心の中を知っておられる神」、新共同訳では「人の心をお見通しになる神」とあります。私たちの心の中の思いや感情、顔や態度に出さなくても、神様には全部お見通し。また、自分自身でも気がつかない心の奥底にある思いや願いやはたまた心の傷もご存知。何か恐ろしくなるぐらいですが、ここで、ペテロを通して神がおっしゃっておられる「心」とは、「救われたい」という願いではないでしょうか。すべての人間は神がお造りになられました。表面的には、善人とも見える人も、悪人とも見える人も。人間は全員、神の御手によって生まれましたが、悪が心の中に入り込んでしまい、葛藤がはじまります。その葛藤に疲れ切った人は、闇の中へと心を沈めて行ってしまいますが、「救われたい、神のもとに帰りたい」という望みは、心のどこかにくすぶっているのではないでしょうか。そのことを自覚していないかもしれません。また、『まあまあふつう』と思っている人や、『わりかし善人なんじゃない』と自己判断している人は、自分の闇の部分を見ないようにしてしまって、自己防衛をしている人ではないでしょうか。本当は、「救われたい、神のもとに帰りたい」という思いをも蓋をしてしまっているのではないでしょうか。私は、あらゆる人が「救われたい、神のもとに帰りたい」という思いを潜在的に、生まれながらに持っていると思っています。ペテロも同じ思いではなかったでしょうか。選ばれたユダヤ人ですら、その思いがあるように、なおさら異邦人も、、、と考えていたのではとないでしょうか。
そして、それゆえに、10節●「そうであるなら、なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みるのですか。」と主張するのです。ペテロのいう『くびき』とはモーセの律法のことです。ユダヤ人でさえ、律法を完全に守ることは不可能であることを認めているペテロは、異邦人がユダヤ人にならなくてもよいと訴えているのです。なぜなら、異邦人にも、割礼や食物規制をと主張する人々は、次のように考えていたからです。『神から選ばれたのはユダヤ人。ユダヤ人に関係するものは、律法の中にいるので、今までは、律法に従う義務があった。それは、異邦人がイエス・キリストを信仰する時も同じである。まず、異邦人は改宗し、ユダヤ人となり、ユダヤ人になった上で、イエス・キリストを信仰する。なぜなら、イエス・キリストはユダヤ人の救いのために来たのだから。』この理屈はある意味すじが通っています。しかし、ペテロは、イエス・キリストはユダヤ人だけではなく、全世界の人々の救いのために来られたと、主からの啓示を頂いていましたので、2段階の救いではなく、つまり、異邦人からユダヤ人、ユダヤ人から信仰者というステップではなく、ユダヤ人異邦人問わず、直接、イエス・キリストへの信仰が与えられ救われることを説いたのです。
感謝なことに、この会議以来、私たち異邦人には、このユダヤ律法という『くびき』はございません。しかし、私たちはそれぞれ異なった『くびき』をもっているのではないでしょうか。既成概念であったり、「~しないとダメ」と言われるような抑圧、「そんなことをしていては救われない」という恐怖。それらは、私たちの『くびき』となって、私たちを苦しめ、「救い」から遠ざけようとするものです。ユダヤ人に対する律法と同じです。
イエス様はおっしゃいます。
●「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
では、イエス様の『くびき』とは何でしょうか。それは、イエス・キリストの弟子となる訓練と教育です。では、『イエス・キリストの弟子となる』とはどういうことでしょうか。
イエス・キリストの弟子は、イエス様に「従う」というよりも、イエス様のように「なる」ということです。すべての面においてイエス様に似た者とされるということです。
ペテロは、このことについて、ペテロの第二の手紙1章4節~7節で次のように述べています。
●「その栄光と栄誉を通して、尊く大いなる約束が私たちに与えられています。それは、その約束によってあなたがたが、欲望がもたらすこの世の腐敗を免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。だからこそ、あなたがたはあらゆる熱意を傾けて、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」
イエス様に似た者とは、神のご性質にあずかる者、信仰に徳を加える。徳とは、神が備えておられる卓越した性質を表し、その徳には知識、つまり御言葉を加え、そこに自制と忍耐を加え、その上で敬虔、神を敬う態度と生活を加え、兄弟愛に愛、つまりもっと神を愛することに努めなさいとペテロは説きます。しかし、正直言って、このペテロの勧めは、ちょっと分かりにくいですね。簡単に言えば、御言葉を心に蓄えつつ、神を愛し、人を愛し、信仰を生きたものとするということではないでしょうか。
私たちは、イエス・キリストの贖いと恵みにより、律法の呪縛から解き放たれています。しかし、イエス様は次のようにも述べられました。●「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。」(マタイ5:17)つまりは、律法の大元である、モーセの十戒は、イエス・キリストの中に生きずいている、イエス・キリストへの信仰の中にしっかりと組み込まれているということです。そこで、久しぶりにモーセの十戒をおさらいしておきたいと思います。
●十戒
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。
それらに仕えてはならない。
あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。
安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
あなたの父と母を敬え。
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
あなたの隣人の家を欲しがってはならない。
このモーセの十戒が、ユダヤ人たちが負いきれなくなったくびきでしょうか。いいえ、負いきれなくなったくびきは、細分化されすぎた律法、神が造ったものでない、人が作った細則であります。人が作ったものが、人を苦しめ、救いから遠ざけているのです。私たちは神が提示されたもの、御子イエス様のくびきを負うべきであります。イエス様はおっしゃいます。●「まず神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)それは、私たちの信仰と生活における神のご支配、神との正しい関係において生活する、つまりは、常にイエス・キリストを思い、十字架の贖いに感謝し、喜びつつ生活するということにあります。
さて、ここで、天国長屋の八さん熊さんに登場していただきましょう。八さん熊さんは、イエス・キリストのくびきをどのように考えていますか。
―――――
八: 「くびき」ちゅうのはあれやろ。たとえば、二頭の牛が土を耕すのに、
並んで作業するときに、二頭をくっつけるためにする木製のやつやな。
熊: そや。二頭のリズムが合わんとかえって作業がつろうなる。人が作った律法のくびきは、
わてらの気持ちなんて考えとらん。せやから、しんどい。
けんど、イエス様はわてらの気持ちをようお分かりになってはる。
わてらのしんどさやつらさも、喜びも悲しみも分かった上で、
一緒に歩んでくださるんや。
八: わてらをよう分かったイエス様がわてらをリードしてくれはったら、
わてらはどんだけ楽か。
熊: けんど、悲しいことに、わてらは、わてらが作ったくびきを、
わてらは知らん間にかけとる。重たいくさりをわてらが首に掛けとるんや。
八: わてらが作ったくびき、重たいくさりってなんや。
熊: たとえば、社会的な常識やわな。常識には、まあまあええもんもある。
けんど、常識にがんじがらめになってしもたら、生きにくい。生きづらい。
これしたらあかん、あれしたらあかん、ちゅうて、しんどくなってくる。
八: それやったら、教会にもそんなくびき、あるわな。
神様の名をかりて、人間がつくったくびき。
熊: たとえば、礼拝はぜったい守らなあかん。
安息日に、出勤するような仕事やしてはあかん、とか。
転職をすすめられた人もおるらしい。
八: そんなん言うところがあるんか。それやったら、客商売のところは、自営業やないかぎり
無理やな。土日は稼ぎ時やから。たしかに、礼拝は大事や、せやから、
礼拝をささげることができる仕事を選ぶのも大切や。けんど、強制されるもんでは
あれへんわな。神様に、礼拝できる仕事が与えられるように祈るのが肝心や。
または、礼拝できるようなシフトにしてほしいと祈るこっちゃ。
熊: まだほかにも、献金の問題や、奉仕の問題も強制してしもたら、その時点でアウトや。
ペテロはんゆうてはるなぁ。「神を試みるのですか」って。
教会で手枷足枷して、そんなこと神様が喜ばれるんやろか。
わてらが、何事にもすすんで、喜んでするから、神様もお喜びになる。
八: ほんまや。しゃぁなしで、いやいやながらすんねんやったら、
わてらの心をお見通しの神様が悲しまれるわ。まあ、そんなときでも、
神様、悲しまれながら、ご褒美くださるときもあるけんどなぁ。
熊: 若さん昔、アメリカで教会の奉仕いろいろとしているとき、学生でもあったから、
ごっつい大変で、つい、牧師先生に愚痴ってしもた。いつもはやさしい穏やかな
牧師先生なんやけど、そのとき若さんにきっぱりといいはったそうや。
「喜びがなくて、感謝もなくて、愚痴ってばっかりの奉仕やったら、やめなさい」
若さん、そんとき、冷や水浴びせられたようになって、自分自身にくびきをかけて
しまっていることに気づいて、悔い改めはったそうや。
八: そんで、若さん、そのいっぱいしている教会奉仕、やめはったんかいな。
熊: いや、教会奉仕に感謝と喜びを与えて下さいちゅうて祈ったらしいわ。
そして、喜びや感謝がのうなってしまったときは、勇気だして、いったん立ち止まる
ようにしてんねやて。
八: 喜びや感謝が教会奉仕のバロメーターちゅうことやな。
熊: そや、そやねんけど、教会奉仕だけやのうて、すべてのことについて、
喜びと感謝がバロメーターとなったちゅうてたな。
なんでかゆうたら、すべてのことを主のためにささげているという気持ちが
与えられたからなんや。
八: すべてのことを主のためにささげている、かぁ。ええなぁ。大変やけどなぁ。
礼拝だけやない、教会奉仕だけやない、日常生活、仕事もすべて、息していることも、
寝ることも、食べることも、主のためにささげている。その気持ちは大切やわなぁ。
なぁ、若さん。
―――――
八さん、熊さんありがとうございます。すべてを主のためにする。なにかカッコつけているような感じですが、実はそうではなく、とても自由となりました。これがイエス様のくびきなんだと実感しています。パウロもコリント人への第一の手紙10章31節で次のように説いています。●「あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現わすためにしなさい。」神の栄光を現わすためにする、とはほんとうにそうなのですが、私の場合は、そこまで力を入れるのではなく、自然体で神様にすべてを捧げるという感じです。この考えが与えられたとき、私はほんとうに楽になりました。この考えがすぐに与えられたわけではありませんが、アメリカの母教会での、牧師先生のあの一言、つまりは神様の一言ですが、
「喜びがなくて、感謝もなくて、愚痴ってばっかりの奉仕やったら、やめなさい」
その一言が私の目を開けさせてくださいました。おそらく、その牧師先生は、すでに天の御国に凱旋させているかもしれませんが、私の大尊敬する先生でもありました。そのフェリス牧師は、謙遜で、神の御前に常にへりくだった方でした。私もそうでありたいと願っています。
さて、今日も、いつもの通り、宣言をしたいと思います。今日の宣言は、「すべてのことを主のためにします」です。そのことによって、逆に、すべてのくびきが、イエス様のくびきとなります。また、主に御前にへりくだる者ともなります。では、3回宣言しましょう。
「すべてのことを主のためにします!」、「すべてのことを主のためにします!」、「すべてのことを主のためにします!」。アーメン!
黙想をいたします。
黙想の時にお読みするのは、詩篇62篇です。
●黙想:
黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。マルコの福音書9章23節。
「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。あなたがた皆の中で一番小さい者が、一番偉いのです。」
黙想いたします。詩篇62篇。
黙想時の曲
⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM
https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0
●祈り
●主の祈り
天にまします我らの父よ
ねがわくは、御名をあがめさせたまえ
御国を来たらせたえ
御心の天になるごとく
地になさせたまえ
我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり
アーメン。
【YOUTUBE配信終了】
賛美⑧:今もなお注がれる&小羊イエスよ
https://www.youtube.com/watch?v=sF-lpfqlyVA
賛美⑨:あなたがすべて
https://www.youtube.com/watch?v=f4AdnEmMQjQ
●礼拝の感謝の祈り
(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)
●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」
https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM
●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21
●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏
https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0
●閉会
●連絡
次回の11月26日 午後5時から小阪チャペルにて、主日礼拝。
聖書: 使徒の働き16章
「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ
https://vinechristchurch.jimdofree.com/