ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル
2023.12.3主日礼拝式
(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、茶菓とともに短く交わりの時をもちます。7時ごろ終了。)
●午後5時開会:ただいまより、2023年12月3日主日礼拝式を始めます。
●祈り
礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。
ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)
●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
続いて
●使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、
永遠の生命を信ず。アーメン。
礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。
私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。
賛美①:さやかに星はきらめき
https://www.youtube.com/watch?v=v8-8VUp0kng
賛美②:主の愛にいかされて
https://www.youtube.com/watch?v=cTmY9bKMppM
賛美③:種(12月)
https://www.youtube.com/watch?v=nEc2dPltgNI
賛美④:主を見上げて
https://www.youtube.com/watch?v=kee3YBLjNkE
賛美⑤:マラナタ・主が来られる日まで
https://www.youtube.com/watch?v=z-tvvE53K_A
賛美⑥:荒野の果てに
https://www.youtube.com/watch?v=tu2DkC5L8_A
【YOUTUBE配信開始】
2023年の年間聖句は「山上の説教」マタイの福音書5章3節~10節の8つの幸いです。
いっしょに唱えましょう。(新改訳聖書2017)
第1の幸い(マタイの福音書5章3節)
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」
(自分ではどうしようもなく、主の力と知恵を求めるしかないと思っている人)
第2の幸い(マタイの福音書5章4節)
「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」
(どうしようもなく罪を犯してしまう、そのことを悲しみ悔いる人)
第3の幸い(マタイの福音書5章5節)
「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」
(自分を無力でどうしようもないものだと、へりくだらざるをえない人)
第4の幸い(マタイの福音書5章6節)
「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」
(自分の中にある罪を憎み、義である主を求める人)
第5の幸い(マタイの福音書5章7節)
「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」
(主を知ることで、憐みをおぼえ、主のように、他の人に憐れみをかける人)
第6の幸い(マタイの福音書5章8節)
「心のきよい者は幸いです。その人たちは神をみるからです。」
(悔い改めを通して、主に聖くしていただけると信じる人)
第7の幸い(マタイの福音書5章9節)
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」
(神との関係を、創造主と創造物の関係に、修復された、主の証し人)
第8の幸い(マタイの福音書5章10節)
「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」
(信仰に堅く立ち、この世と調子を合わさない人)
●2023年12月3日 主日礼拝メッセージ 第一アドベント
「使徒の働き」とは
復活のイエス様の働き・聖霊様の働き、信仰の始まりと継承です。
そして、私たちは、次のことを、この「使徒の働き」を通して学びます。
(会衆)
イエス様の復活の確信
神の国の理解
聖霊の満たし
エクレシア(信仰者の集まりと交わり)
●聖書拝読:使徒の働き第17章(新改訳聖書2017)
朗読: 若竹
中心聖句:
「死者の復活のことを聞くと、ある人たちはあざ笑ったが、ほかの人たちは『そのことについては、もう一度聞くことにしよう』と言った。こうして、パウロは彼らの中から出て行った。」(32-33)
メッセージ主題:『ベレアとアテネ』
改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。
できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。
●メッセージ
(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)
使徒の働き16章で、パウロとシラスは、トラキア地域と都市ピリピで、ムチ打たれ投獄されましたが、地震という奇跡によって、看守に福音が宣べ伝えられ、31節の有名な聖句●「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」という言葉を残して、ピリピを去り、マケドニア地域にはいります。ユダヤ人の会堂のない、アンピポリスやアポロニアを素通りして、大都市テサロニケに向かいます。パウロの宣教のパターンは、まずユダヤ人会堂で、ユダヤ人に福音を、その後異邦人に福音を伝えると言うものでした。ここでもユダヤ人に福音を伝えますが、同時にユダヤ人から迫害も起こり、命からがらベレアという町に入ります。この迫害のパターンがずっと続いていたのです。ベレアも同じでした。ベレアのユダヤ人は、●「素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」とありますように、スムーズな福音宣教のように思えましたが、テサロニケのユダヤ人たちが、ベレアでも騒ぎをおこし、シラスとテモテはベレアに残りますが、身の危険を感じたパウロは、アテネに向かいます。一人でアテネ入りをしたパウロは、町が偶像であふれていることに奮起し、新しいもの好き、議論好きのアテネ人に対して、いろいろと配慮しながら、福音を伝えていきます。しかし、こと「死者の復活」に話がおよんだ時点で、アテネ人たちは、パウロに耳を貸さなくなり、嘲笑され、体よくパウロの伝える福音を拒否されます。パウロはすごすごと、●「彼らの中から出て行った」とありますように、失望し、コリントに向かったのかもしれません。異邦人伝道の壁を感じたのかもしれません。がしかし、その中でも数人の人が信仰に入ったことは神の憐れみでした。ここまでが17章のあらましです。
ベレアのユダヤ人は、とても「いいこちゃん」です。素直で信仰熱心で、その信仰は聖書に紐づけされていました。ユダヤ人も異邦人も主イエスを受けれた方は大勢いたようです。イエス様の種まきのたとえで言うと、良い地、水はけがよく空気の流通もいい土であります。私たちもベレアでありたいと願います。ところが、一方アテネは、種は道や岩地に落ちるか、茨の多い茂った土地に落ちたようなものです。まるで、残念ですが、日本の現状のようなものではないでしょうか。パウロもがっかりし、反省したに違いありません。そのことをパウロは、コリント人への第一の手紙2章1節~5節にあらわされています。
●「兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現われによるものでした。それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。」パウロはアテネでの失敗とも言える結果に、相当落ち込んでいたに違いありません。
しかし、当然、悪いことばかりではありません。主がアテネでも救われる人々を起こされたからです。それに、アテネから追い出されたりしませんでした。アテネでは、キリストゆえの迫害がありませんでした。神の憐れみとしかいいようがありません。
日本もアテネと同じように、神の憐みによって、クリスチャン人口1パーセント未満をずーっとキープしています。パウロはアテネへは二度と足を踏み入れませんでしたが、私たちはずっとこの日本で住み、イエス・キリストを証ししています。また、さまざまな国から宣教に来られています。今は、まだ1パーセント未満ですし、2030年問題という教会が恐ろしく縮小されるとか、牧師の数が減少し兼牧にあえいでいるとか、マイナスのニュースはいっぱいございますが、しかし、神がこの日本を見放すわけがございません。なぜなら、日本の牧師も宣教師も、祈って一生懸命福音を伝えようとしているからです。神が喜ばないはずがありません。しかし、今が神の時ではないのかもしれません。または、伝道の方法にこだわりすぎているのかもしれません。今までに、いろんな方法が試されてきたでしょう。しかし、1パーセント未満は変わりません。今日はすこしパウロのアテネ伝道(つまり日本みたいな異邦人伝道)を検証してみたいと思います。そこから何か分かるかもしれません。22章からです。
22節:宗教心をほめます。
23節:知らずに拝んでいるものを教えましょう。
24節:それはこの世界とその中にあるすべてのものを造られた神です。
24節:その神は、人の造った宮には住んでおられない。
25節:その神は、すべての人にいのちと息と万物を与えておられる。
26節:神は一人の人からあらゆる民を造り出され、それぞれの時代と住まいの境を定められている。(創世記)
27節:それは、神を求めさせるためのもので、また神は求めれば見出すことができる方です。
28節:人は神の中に生き、存在している。
29節:人は神の子孫であり、人の造った物の中には存在しない。
30節:その誤った考えに対して目をそむけ、神にのみ目を向けることを神は望んでおられる。
31節:神は、一人の人をお立てになり、その方が義をもって世界を裁こうとされる。
31節:神は、その方を死者の中からよみがえらせて、神の権威を表された。
アテネの人たちはパウロの話を耳新しいものとして、興味深々で耳を傾けていたのですが、「死者の中からよみがえる」とパウロが語ったとたんに、「そんなことはありえない」とパウロをバカにし、パウロのアテネでの宣教は終わってしまいました。
パウロはアテネ人の宗教心や自尊心を傷つけないように配慮しながら、共通項を見つけ出し、そこから、パウロの神感を導入していきます。ここは、私たちも学ばないといけないところではないでしょうか。相手に迎合する必要はありませんが、相手を非難せず、相手との共通点を見いだすことは、彼らが心を開き、福音を受け入れるきっかけになるかもしれません。
しかし、パウロは失敗しました。何がいけなかったのでしょうか。パウロのアテネ人への伝道メッセージには、イエス・キリストの十字架のことが語られていません。福音の心臓部が語られていないのです。パウロはことのことを反省として、先ほどのコリント人の手紙に書いています。●「私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです」イエス・キリストの十字架の贖いは、とてもシンプルです。ですから、伝道のメッセージをこねくり回して、神の奥義をストレートに語ることをしなければ、なんの神の力もでません。イエス・キリストの十字架の贖いは、シンプルです。シンプルなだけに、語る人が整えられ、神の力の通り良き管とされなければならないのではないでしょうか。メッセージに神の力がそそがれるのではなく、メッセンジャーに力が注がれるのだと思います。
私たちは、目的は正しいとしても、策におぼれてはいけないということでもあるでしょう。私も大いに反省すべきところです。また、メッセンジャ―が主によって整えられることが先決であることも、この17章で学びました。
さて、ここで、天国長屋の八さん熊さんに登場していただきましょう。八さん、熊さん、この17章から何を学びますか。
―――――
八: ひぇ~。若さん、めっちゃアバウトな質問ちゅうか。若
さん、お手上げ状態なんとちゃうか。なぁ、熊。
熊: 「なぁ、熊」ちゅうって、八もわてに丸投げしてきてるやないか。かなわんなぁもう。
そやなぁ。わて、ベレアの人々の熱心さに感心するわ。
ベレアの人には、「救いについて知りたい」ちゅう気持ちが探求心に変わって、
旧約聖書の縦横無尽にみくらべていたんやろな。「救い」について貪欲と思えるほど、
真理を探究してはった。イエス様がほんもんの救い主かどうか、
イエス様が真理かどうか。まだ、この時には旧約聖書しかないから、救い主に関係する
預言が、イエス様と合致するかどうか、調べてはったんやろな。
八: わてらには、新約聖書もあるから、弟子はんたちの証しで、イエス様が救い主やって
分かる。
熊: けんど、わてらの信仰は、ベレアの人より弱いかもしれへんなぁ。わてらの信仰は、
ベレアの人に比べたら、インスタントコーヒーみたいなものや。
八: なんや、インスタントコーヒーの信仰って。
熊: せやかて、粉とお湯いれたらできあがりや。それに比べてベレアの人の信仰は、
もっとじっくり、コーヒー豆を炒って、砕いて、それをお湯で蒸すちゅうかな。
時間をかけて、ゆっくりコーヒーを入れてる感じや。そこには、おいしいコーヒーを
飲みたいちゅう「求め」があって、わてらにしてみれば、そのじゃまくさい
時間のかかる手順を楽しんでるねんな。
インスタントコーヒーのような信仰は、すぐに信じるけど、
また、すぐに冷めてしまうかもしれへん。
八: ゆっくり入れたコーヒーもすぐに冷めてしまうでぇ。信仰も同じなんとちゃうんか。
熊: いや、じっくりと調べつくした信仰は、聖書をひもとく、ちゅう癖がついているように
思うねん。
八: 聖書を読むんやったら、わてらも毎日してるやないか。
熊: けんど、ベレアの人は、聖書に何が書いてあるのか、聖書にイエス様を捜す楽しみを
経験しとる。それが、癖になってるんやな。
八: なるほどなぁ。熊の言わんとしてることが、ぼんやりやけど分かった気がする。
じゃあ、わてら日本人は、アテネの人みたいに、途中まで熱心にきくけど、
何か非常識なことがでてきたり、分からんところがでてくると、そこで
「やんぴ」してしまう。アテネの人も「死人がよみがえる」ちゅうところでつまづいた。
熊: そやねん。自分の知識だけで判断してしもたんやな。けんどベレアの人なら、
「死人がよみがえる」ってどこぞにかいてあったかもと思って聖書を調べ始める。
ベレアとアテネの人の違いはここなんやろなぁ。「ほんとにそうか」と思て、
聖書で調べる、検証する、自分の判断に頼らん、頼るんやったら聖書に頼る、
聖書で調べるちゅう癖がついてないとあかんねんな。
八: ほんまや、わてらもそうや。自分の判断もせなあかん時があるかもしれんけど、
聖書に聞く、イエス様に聞く、イエス様やったらどうするか考える、
けんどそれも答えは聖書にある。そこから外れたらあかん。クリスチャンやのうて、
あの時のアテネに人のようになってしまう。
熊: イエス様ゆうてはったなぁ。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」
八: ヨハネの14章6節やな。
熊: つまりは、『分からんことはイエス様に聞きなはれ、つまりは聖書に答えがあるでぇ』
ちゅうこっちゃなぁ。
八: 若さん、これがわてらがこの17章で学んだことですわ。どうでっか?
―――――
八さん、熊さんありがとうございます。いやぁ、丸投げして、本当に申し訳ありませんでした。でも、八さん、熊さん、聖霊様に導かれていましたね。私たちは、キリスト者でありながらも、答えを聖書に求めることの少ないものかもしれません。特に牧師であるのに、わたしもキリストに答えを求めていない時もあります。大いに反省するところであります。まあ、私の人生、反省ばかり、悔い改めばかりではありますが。「困った時には聖書」いえ「困った時にも聖書」いつでも「御言葉に聞く」ことを忘れてはいけないなぁと思わされました。
さて、今日も、いつもの通り、宣言をしたいと思います。今日の宣言は、「いつでも、聖書に聞きます。」です。もちろん、御言葉を抜き出して、自分の考えに有利な解釈をしてはいけませんが、聖書を調べることを癖づけていきたいものです。では、3回宣言しましょう。
「いつでも、聖書に聞きます!」、「いつでも、聖書に聞きます!」、「いつでも、聖書に聞きます!」。アーメン!
黙想をいたします。
黙想の時にお読みするのは、詩篇77篇です。
●黙想:
黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。ヨハネの福音書5章21節。
「父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」
黙想いたします。詩篇77篇。
黙想時の曲
⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM
https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0
●祈り
●主の祈り
天にまします我らの父よ
ねがわくは、御名をあがめさせたまえ
御国を来たらせたえ
御心の天になるごとく
地になさせたまえ
我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり
アーメン。
【YOUTUBE配信終了】
賛美⑧:人生の海の嵐に
https://www.youtube.com/watch?v=PvmzVhR-NBQ
聖餐式
賛美⑨:我がたましいよ歌え
https://www.youtube.com/watch?v=y1Ogyu-3_T0
●礼拝の感謝の祈り
(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)
●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」
https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM
●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21
●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏
https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0
●閉会
●連絡
次回の12月10日 午後5時から小阪チャペルにて、主日礼拝。
聖書: 使徒の働き18章
「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ
https://vinechristchurch.jimdofree.com/