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メッセージ主題:『恵みの証しをする人生』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2024.1.28主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、茶菓とともに短く交わりの時をもちます。7時ごろ終了。)

●午後5時開会:ただいまより、2024年1月28日主日礼拝式を始めます。

●祈り

礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

続いて

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。

私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。

賛美①:イエスはなれを呼びたもう

https://www.youtube.com/watch?v=mdPCDZxBg2w

賛美②:慕い求めます

https://www.youtube.com/watch?v=Xxa8CrNhY1A

賛美③:感謝します(1月)

https://www.youtube.com/watch?v=71X_0s8Lq3g

賛美④:主よ、みてもて

https://www.youtube.com/watch?v=vUuBdy-_Qak

賛美⑤:主の約束(2月)

https://www.youtube.com/watch?v=7IdOakR8lxU

賛美⑥:主の足もとに

https://www.youtube.com/watch?v=HooSrKQM5PQ

【YOUTUBE配信開始】

2024年の年間の指針は「シェアリング:分かち合い」です。

年間聖句は、マルコの福音書6章39節~44節とルカの福音書14章15節です。

●マルコの福音書6章39節~44節「五千人の給食の奇跡」(新改訳聖書2017)

するとイエスは、皆を組に分けて青草の上に座らせるように、弟子たちに命じられた。

人々は、百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った。

イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、

パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。

また、二匹の魚も皆に分けられた。

彼らはみな、食べて満腹した。

そして、パン切れを十二のかごいっぱいに集め、魚の残りも集めた。

パンを食べたのは、男が五千人であった。

●ルカの福音書14章15節「神の国の食卓」(新改訳聖書2017)

イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。

「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」

●2024年1月28日 主日礼拝メッセージ

「使徒の働き」とは

復活のイエス様の働き・聖霊様の働き、信仰の始まりと継承です。

そして、私たちは、次のことを、この「使徒の働き」を通して学びます。

(会衆)

イエス様の復活の確信

神の国の理解

聖霊の満たし

エクレシア(信仰者の集まりと交わり)

●聖書拝読:使徒の働き第24章(新改訳聖書2017)

朗読: 若竹

中心聖句: 

「しかし、パウロが正義と節制と来るべきさばきについて論じたので、フェリクスは恐ろしくなり、『今は帰ってよい。折を見て、また呼ぶことにする』と言った。」(25)

メッセージ主題:『恵みの証しをする人生』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。

●メッセージ

(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)

使徒の働き24章では、大祭司アナニアと数人の長老たちが言語氏テルティロと一緒に、総督フェリクスのところにやってきて、パウロを事実無根の理由をこじつけ告訴しました。それに対してパウロはフェリクス総督の前に弁明します。フェリクスはあらかじめ千人隊長リシアからの手紙を受けとっていて、パウロにはローマ法に照らした罪はないことを知っていたのですが、ユダヤ人たちとのもめ事を起こしたくないという理由で、裁判を延期させました。「千人隊長リシアが下ってきたら、この件の判決を下す」と約束したのでした。しかし、千人隊長は、総督フェリクスが命令しない限り、総督の前に下ることはあり得ませんので、事実上の判決回避をしたのであります。その上で、フェリクスは個人的にパウロが唱えるイエス・キリストの福音のことに興味がありました。そこで、パウロを幽閉し、時折、パウロを呼び出して、パウロの信仰の話に耳を傾けるのでした。しかし、フェリクスはパウロの福音を聞いても、恐れるばかりで、福音を受け入れようとはしませんでした。そうこうするうちに二年が過ぎ、フェリクスは任期を終え、後任のポルキウス・フェストゥスが総督となったのでありますが、彼もまたパウロを監禁したままにしておきました。ここまでが、24章のあらましです。

今日の注目すべき点は、フェリクスが恐れたパウロの福音とはどんなものか、ということです。それとなぜフェリクスはその福音に対して恐れを感じたのかということです。今日の中心聖句25節がそれです。

●「しかし、パウロが正義と節制と来るべきさばきについて論じたので、フェリクスは恐ろしくなり、『今は帰ってよい。折を見て、また呼ぶことにする』と言った。」

パウロが語ったのは、主にある「正義」と「節制」と「来るべきさばき」です。

パウロの言うところの「正義」とはなんでしょうか。パウロは、2コリント5:21で、次のように説いています。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」『私たちが、イエス・キリストを信じ神の義となる』ことが正義であります。

そして、「節制」とは、「欲」つまり「金銭欲」や「名誉欲」などから遠ざかることを意味します。「欲」とは自己中心の最たるものであり、神に対する信仰的姦淫であります。つまり、「罪」であると言えます。

また、「さばき」に関しては、イエス様が次のようにおっしゃっています。ヨハネの福音書9:39「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」「目の見えない者、つまり盲目であれば、罪がなく、目が見えると自負する者に傲慢の罪があり、その罪によって裁かれるということです。そして、その裁きは、ローマ書14:10では、パウロは、「私たちはみな、(つまり信仰者もそうでない人も全員)神のさばきの座に立つことになるのです。」と告げました。イエス・キリストは救い主として来られましたが、イエス・キリストが再び来られる時には、さばき主としていらっしゃいます。その時に、あたふたしても、もう後の祭りです。私たちは、この世での命がなくなる前に、イエス・キリストを受け入れなければ、救われません。

パウロの言うところの「正義」と「節制」と「来るべきさばき」は、実はイエス様がすでにおっしゃっておられたことでありました。

ヨハネの福音書16章7節~11節

「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主(聖霊)はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。

その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。

罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。

義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。

さばきについてとは、この世を支配する者(悪魔)がさばかれたからです。」

イエス様は、この世を支配する者・悪魔がすでに裁かれていると断言しています。イエス様が三日目のうちより、死を克服してよみがえられることを予告してのことです。そして、イエス様は次のように勝利宣言をなさいます。「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)「世に勝つ」とは、『世に、世の既成概念やしがらみや不道徳や誘惑から支配されていない』と言うことです。

これは、イエス様の別れの説教の劇的な結びであります。弟子たちは、不信仰の世にある限り、宣教の生涯で多くの患難に出会う。しかし、信仰によってイエス様に結び合わされている限り、イエス様が罪と死とに決定的な勝利を得られたという確信から生じる心の内からの平安と勇気を、豊かに味わうことができる。イエス様が目前に迫る受難と死が天の父の神様のご計画の成就であることを確信した、勝利の宣言であります。弟子たちも、イエス様を信じ続ける限り、その勝利にあずかることができるというものです。パウロもその事を次のように告白しています。

1コリント15:57●「しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」

この主イエス・キリストによる信じる者の勝利は、とても魅力的なものなのですが、フェリクス総督はそれを魅力とは感じなかったようです。逆に、パウロの「正義」と「節制」と「来るべきさばき」の話がフェリクスを恐怖させたのです。なぜなら、妻ドルシラを彼女の最初の夫から盗んだり、金銭欲や名誉欲に溺れたりするような、道徳的に低い罪深い生活をしていたからであります。まあ、その罪深い生活をしているという認識があるから、「恐れる」のでありますから、フェリクスは、まだ救われる一歩手前まできていたのであります。罪深い生活をしていて、キリストの救いとさばきの話を聞いていても、「恐れ」のない人たちもたくさんいます。その方々よりは、フェリクスはまだマシなのかもしれませんが、フェリクスは結局悔い改めようとはしませんでした。恐らくパウロは「悔い改め」に導こうとしたかもしれませんが、フェリクスは自分が変わることに対して恐怖を覚えたのでしょう。人は自分が変わってしまうのではないか、ということに躊躇します。もちろん、今の自分が嫌で仕方がないのなら、積極的に変わろうとするかもしれませんが、今の自分は、欠点はあるがけっこうイケてるんじゃない、他の人と較べてマシなんじゃないかと思ってしまうと、変わるチャンスを、「悔い改める」チャンスを失ってしまいます。

私はここのところで、イエス様の宣教の最初のお言葉、バプテスマのヨハネと同じ言葉を思い出します。マタイの福音書4章17節●「この時からイエスは宣教を開始し、『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから』と言われた。」「悔い改めなさい」とは、神の方を向き直ることであり、罪を認め、神の義を求めるものであり、神との正しい生活、神をあがめる生活にもどることであります。また、「天の御国が近づいた」とは、ご自身の来臨によって天の御国が近づいたことを宣言されたことばです。御国はイエス様の十字架と復活を通して完全に現わされます。「天の御国が近づいた」とは、聖霊時代の到来を意味し、福音信仰のはじまりを示唆しています。

では、「神との正しい生活」「神をあがめる生活」とは、どのような生活なのでしょうか。

私は、イエス様が悪魔の試みを受けたときの、悪魔の試みを退けるときにつかわれた御言葉がとても有益だと考えます。

●マタイの福音書4章4節

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」

申命記8章3節

(人の力によらぬマナによる日々の養いは、イスラエルの民に、主のみことば(御心)こそ生きる根拠であることを教えた)

●マタイの福音書4章7節

「あなたの神である主を試みてはならない」

申命記6章16節

(主の愛や御力を疑い、自分に納得できる根拠を求める、そのことをしてはいけない)

●マタイの福音書4章10節

「あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい」

申命記6章13節

(主を恐れ、主を良心の主とすること、二心をもって、神に仕えてはならない)

イエス様はあらかじめ、これらのことをこの世に勝利するために私たちに伝授されたのです。主を恐れ、主を疑わず、主に信頼し、み言葉に生きる人生、これこそが勝利の道であります。

フェリクスは、この勝利を得られませんでしたが、パウロの福音を伝えるというミッションは成功しました。福音を伝える者の責任はここまでです。福音の恵みを共有できることは幸いですが、主を信じることは聖霊様のお働きです。1コリント12:3●「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません。」とパウロが告げているとおりです。私たちは、福音の種を蒔くまでが仕事であって、刈り取る、つまり福音の実を結んで、共に福音の恵みにあずかるのは、主からの憐れみによるものであるということです。私たちの役割は、恵みの証しをすることにあります。ですから、相手が信仰をもつかどうかに気をもむ必要はありません。まして、自分の所属する教会のメンバーになってくれるかどうかを気に病む必要はありません。教会を大きくすること、教会のメンバーになってもらうことが目的で、恵みの証しをすることは、異端がやっています。私たちは、純粋に恵みの証しができたことを主に感謝いたしましょう。

さて、ここで、今日も天国長屋の八さん熊さんに登場していただきます。八さん、熊さんは、「恵みの証しをする」ことをどう感じておられますか。

―――――

八: 「恵みの証し」ちゅうのは、イエス様が信じた時の話のことかいなぁ。

熊: そうやろうな。わてらのイエス様からの一番の恵みは、イエス様を信じて、

救われたことやからな。

八: けんど、それだけやったら、ワンパターンやろ。

熊: ワンパターンでも、ええんとちゃうん。いろんな人に話すんやから。

八: いろんな人に話すときはええでぇ、初めての話やさかいな。

けんど、おんなじ人に何べんも話すときは、救われた話だけや、あかんやろ。

若さんのメッセージが、毎週まったく一緒やったら、飽きてくる。

熊: そやなぁ。 まあ、若さんのメッセージは別として、わて、小さい時、おばあちゃんに、

おんなじ昔話してもろたでぇ。何べんもお願いしてたわ。けんどあきひんかったでぇ。

八: ああ、昔話な。わても覚えはある。何べんも何べんも、おんなじ話、寝床で、

お願いしてたなぁ。

熊: そうやろ。せやから、救われた証しは、何べん聞いてもええんとちゃうか。

八: 昔話と、救われた話となんかちょっとちゃうと思うでぇ。昔話は笑いがあるけど、

救われた話は、あんまり笑われへんからなぁ。

熊: ああ、そういわれればそうやな。笑いちゅうたら、落語や漫才は何べん同じのを

聞いてもおもろいけど、救われた話はなぁ、、、、

まあ、2・3回は辛抱して聞いてくれるかも知れんけど。

八: 「またかいなぁ」って言われる、まあ口に出さんでも思われるのがオチかも知れへんなぁ。

熊: それやったら、やっぱり103篇の2節やな。

八: 103篇の2節? それって詩篇やな。

熊: 「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」

八: それが、恵みの証しか?

熊: そやがな。救われた話だけが、恵みの証しやない。

この詩篇は「主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」ちゅうてるやろ。

主が良くしてくださったことはいっぱいあんねん。その話をストックすんねん、

貯めといたらええねん。

八: 貯めといたらええちゅうてもやで、ぜんぶ覚えられへんやろ。ぎょうさんあるんやさかい。

熊: けんど、詩篇は「主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」ちゅうてるで。

八: わてな、記憶力わるいんや、自慢やないけど。毎日毎日、イエス様、わてにええことして

くれてはる、守ったり導いたりしてくれてはんのはありがたいで。感謝や。

せやけど、なかなか覚えてられん。

熊: そやなぁ、毎日毎日のこっちゃから、おいおい貯めてられへんわなぁ。

そやったら、(パチン)貯めるんやのうて、出していきゃええんちゃうか。

八: 出していく?

熊: そや。貯めんと出していって、つまりやな、主の良くしてくださったことをみんなに

話していったらええねん。ほんなら、貯めんでもええやん。かりに忘れてもセーフ。

一日一証し。

若さん、いつも言うてるやないか。「出したら、入って来る」ゆうて。

八: 一日一証し、なぁ? しゃべる相手おるかいなぁ?

熊: だれなとええやないかいな。けんど、わてはあかんでぇ。八とわてで、恵みの証しの

出し合いしてもしゃぁない、まあ、しゃぁないこともないけど、

いろんな人に聞いてもろた方がええやな。とくに、イエス様をまだ信じてはれへん人に。

八: そやなぁ。まあ、とりあえずは、隣のお玉ちゃんやな。

熊: ん?隣のお玉ちゃん? 、、、あほ、猫に証ししてどうすんねん。そんなん、猫に小判や。

八: え、猫も拒むんか、わての証し。フェリクスネコやな。

熊: (ため息)そうぼけてくるか。若さん、もうなんとかしたって。

八が、フェリクスやのうて、屁理屈いいでだした。

―――――

八さん、熊さんありがとうございます。八さんの証しは、猫も拒むんですか。フェリクスが屁理屈ねぇ。座布団いちまい、、、かな? 八さん、やっぱり、証しは人間にしましょうね。一日一証し、ですか。毎日、些細なことでも、主がお働きになってくださっていることに気づきが与えられることは感謝です。そして、それを分かち合う相手が日ごとに与えられるのも、これまた恵みです。日頃から、主のお働きに敏感であり、感謝の心をもって、人にそのことを分かち合えるように、いつも準備ができているべきでしょうね。そう思えば、聖霊様が助けてくださるでしょう。

さて、今回も宣言をいたします。感謝と喜びをもって恵みを分かち合えることを期待しつつ宣言をいたしましょう。「恵みの証しをします。感謝!」です。

では、3回宣言いたしましょう。

「恵みの証しをします。感謝!」、「恵みの証しをします。感謝!」、「恵みの証しをします。感謝!」。アーメン!

黙想をいたします。

黙想の時にお読みするのは、詩篇103篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。ヨハネの福音書15章9節。

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。」

黙想いたします。詩篇103篇。

黙想時の曲

⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

賛美⑧:主の愛がいま

https://www.youtube.com/watch?v=UmvpECC3mao

賛美⑨:君は愛されるため生まれた

https://www.youtube.com/watch?v=iEYOmemxqjE

●礼拝の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の主日礼拝は、2月4日 午後5時から小阪チャペルにて。

いずれも小阪チャペルのLINEグループで同時配信します。

聖書: 使徒の働き25章

「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ

https://vinechristchurch.jimdofree.com/