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メッセージ主題『復活の主にあって変化する人生』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2024.2.4主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、茶菓とともに短く交わりの時をもちます。7時ごろ終了。)

●午後5時開会:ただいまより、2024年2月4日主日礼拝式を始めます。

●祈り

礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

続いて

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。

私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。

賛美①:歌いつつ歩まん

https://www.youtube.com/watch?v=YoEewB_n424

賛美②:イエスはわがいのち

https://www.youtube.com/watch?v=Ukk1nCC3abM

賛美③:主の約束(2月)

https://www.youtube.com/watch?v=7IdOakR8lxU

賛美④:強くあれ、雄々しくあれ

https://www.youtube.com/watch?v=vUuBdy-_Qak

賛美⑤:なんて麗しい名

https://www.youtube.com/watch?v=lkSj5yE_TpM

賛美⑥:たたえよう神の名を

https://www.youtube.com/watch?v=Vuelsgdd_f0

【YOUTUBE配信開始】

2024年の年間の指針は「シェアリング:分かち合い」です。

年間聖句は、マルコの福音書6章39節~44節とルカの福音書14章15節です。

●マルコの福音書6章39節~44節「五千人の給食の奇跡」(新改訳聖書2017)

するとイエスは、皆を組に分けて青草の上に座らせるように、弟子たちに命じられた。

人々は、百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った。

イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、

パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。

また、二匹の魚も皆に分けられた。

彼らはみな、食べて満腹した。

そして、パン切れを十二のかごいっぱいに集め、魚の残りも集めた。

パンを食べたのは、男が五千人であった。

●ルカの福音書14章15節「神の国の食卓」(新改訳聖書2017)

イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。

「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」

●2024年2月4日 主日礼拝メッセージ

「使徒の働き」とは

復活のイエス様の働き・聖霊様の働き、信仰の始まりと継承です。

そして、私たちは、次のことを、この「使徒の働き」を通して学びます。

(会衆)

イエス様の復活の確信

神の国の理解

聖霊の満たし

エクレシア(信仰者の集まりと交わり)

●聖書拝読:使徒の働き第25章(新改訳聖書2017)

朗読: 若竹

中心聖句: 

「ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関すること、また死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのです。」(19)

メッセージ主題:『復活の主にあって変化する人生』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。

●メッセージ

(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)

使徒の働き25章では、祭司長たちが、総督フェストゥスのエルサレムに上って来たのを機に、フェストゥスにパウロのことを告訴しました。カイサリアに監禁されているパウロをエルサレムに呼び寄せていただきたいと懇願したのでした。パウロをエルサレムに上って来る途中で亡き者にしようという魂胆でありました。しかし、フェストゥスは、彼らの魂胆に気がついていて、一緒にカイサリアにきて、そこで訴えなさいと、祭司長たちに申し渡します。そして、カイサリアに帰ったフェストゥスは、パウロの出廷を命じます。パウロにはそこでも罪は認められず、パウロは逆にカエサルに上訴します。そこに、アグリッパ王がフェストゥスに会いにきたので、フェストゥスはアグリッパ王にパウロをカエサルのところに送る書状について相談します。ここまでが25章のあらましで、26章では、パウロがアグリッパ王の前で弁明する様子が記されています。

今日はこのところから、フェストゥスがアグリッパ王にパウロのことについて話した言葉の一部を取り上げてみたいと思います。今日の中心聖句19節です。もう一度お読みします。

「ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関すること、また死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのです。」(19)

フェストゥスたちの事実認識として、「イエス・キリストは死んでしまった」ということですが、パウロはその死んだはずのイエス・キリストは生きている、死から復活していると主張している訳ですが、フェストゥスはイエス・キリストの死からの復活を、パウロのたわごとのように取り扱っています。フェストゥスの前任者はフェリクスは、パウロの話をきいて「恐ろしくなった」(24:25)とありますように、パウロの話にはある意味、説得力がありますが、パウロから直接話を聞いていないフェストゥスにとっては、死者の復活は「ほら話」としてしか考えられないのでしょう。

このことは今の現代においてもそうではないでしょうか。「イエス・キリストが十字架にかかって死んだ」ことは事実、歴史として信じられたとしても、「イエス・キリストが死から復活した」という情報は、ただ聞いたとしても、そのことをにわかには信じられない、フェストゥスと同じリアクションを現代人もするのではないでしょうか。まあ、世間的な常識から考えて、「よみがえり」はあり得ないと考えるのは普通であります。しかし、パウロの話を直接聞いたフェリクスは、イエス・キリストを信じるところまではいかなかったとしても、パウロの話には信ぴょう性があり、信じるに値するものであるので、「恐れた」のであります。このフェストゥスとフェリクスの「死からの復活」に対するリアクションの違いは、何からくるのでしょうか。それは、パウロの証しをじかに聞いたかどうかにあるのではないでしょうか。パウロは、ただただ淡々と「イエス・キリストがよみがえった」という事実を述べただけではありません。パウロの心に復活したイエス・キリストがあらわれ、パウロがいかに変えられたを証したのです。そのことによって、フェリクスに「恐れ」が生じたのです。

ここで、聖霊様が働いて下さるのは、イエス・キリストの死と復活を信じたゆえの証し、どれだけイエス・キリストが個人的に体験できているかという証しをするときではないでしょうか。私たちがイエス様の恵みを証しする時、聖霊様の働きは、大いに発揮されるのではないでしょうか。

私が申し上げたいのは、イエス・キリストとの出会いやイエス・キリストを信じたという、救われた証しだけではありません。イエス・キリストがどのように私たちを変えて下さったか、日々の中で、イエス・キリストによる、聖霊様による、また御言葉を通しての、Before After の変化です。このイエス・キリストによる変化の証しが、人々の心をイエス・キリストへと向けるのではないでしょうか。もちろん、そのような証しを聞いて、イエス・キリストを信じ受け入れてくださることは、主の栄光が現れることでもありますが、このことは聖霊様のお働きによるものです。私たちが努力や、いかに巧みに語ったかではありません。もちろん、聞く人の心を惹きつける語りも大事ですが、それも聖霊様の働きによるものなのです。私たちは、イエス様がどれだけ自分に変化をもたらせてくださっているかを相手にお伝えするだけであります。相手が信じるか信じないかは別として、相手にお伝え出来たこと自体で、私たちは勝利しているのです。福音を伝えるという私たちの役割は、そこで全うしているのです。相手が信じるか信じないかというのが結果であるとするならば、その結果は私たちの責任ではないのです。もちろん、イエス様を信じてほしいから、イエス様を受け入れてほしいから、語るのですが、結果は、その人における神様のご計画しだいなのです。ですから、相手が信じないからと、相手に否定されるからと、勝手に思いこんで、証しをしないのは、あたかも1タラント(約6000万円)を主人からあずかった僕が、地中にその1タラントを埋めて、あずかったタラントを活用しなかった例えと同じなのです。あの1タラントを地中に埋めた僕は、帰って来た主人にどういわれたでしょうか。「悪い、怠け者のしもべだ。、、、この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ」と言われてしまいました。(マタイ25:26&30)恐らくその主人は、その怠け者の僕に対して、悲しい顔をして告げたのではないでしょうか。主人は残念で仕方がなかったのではないでしょうか。私は、その僕のようにはなりたくありません。イエス様を悲しませてしまうようにはなりたくありません。逆にイエス様に、「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」と言われたい。もちろん、私は完璧なしもべではありません。どちらかといえば、不出来な、罪深い者です。しかし、イエス様は私を選ばれ、タラントをあずけてくださったのですから、失敗があったとしても、一生懸命、主に仕えたいと思うのであります。

では、皆さんにお伺いします。イエス・キリストによるBefore Afterの変化。皆さんは主イエス・キリストによってどのように変えられてきているでしょうか。また、その変化を他の方々に証ししているでしょうか。私たちは、ともすれば、劇的な変化を好みがちですが、そんな劇的な変化がほいほいあろうはずもございません。日々の些細なる変化、その変化の積み重ねの中で、信仰のともし火を燃やしているのではないでしょうか。しかし、それが取るに足らない微妙な変化であったとしても、また、そのように見えるものであったとしても、聖霊様はそれを用いて下さいます。私たちがしなければならないことは、聖霊様から勇気をいただいて、復活のイエス様がどれだけ素晴らしいお方であるか、どのように生きて働いて下さっているかを証しすることであります。皆さんも、イエス様が戻ってこられた時に、イエス様から、「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」と褒められたいでしょう。だったら、なおさらのこと、そのBefore Afterの変化の証しを大いにさせて頂こうではありませんか。

さて、ここで、今日も天国長屋の八さん熊さんに登場していただきます。八さん、熊さんは、「生きて働いておられるイエス様をどのように」お伝えすべきかと思われますか。

―――――

八: 「イエス様をどのようにお伝えするか」って、イエス様を信じた時の話をするのも

ええことなんやけど、わてにはイエス様を信じると決心したときに劇的な変化が

なかったから、どっちかというたら、若さんの言うように、日々の生活の中で

聖霊様が働いて下さって、変えられたBefore Afterの方が話しやすいわ。

熊: そのBefore Afterって、八の場合、どんな変化なんや。

八: わての一番の変化は、、、、そやなぁ「ねたみ、そねみ、やっかみ」やな。

熊: 八って、そんなに「ねたみ、そねみ、やっかみ」が多かったっけ?

八: 顔には出せへんかったかもしれんけどな、人の成功がうらやましい時は多かったわ。

熊、ちょっと会話を独占してしもて悪いんやけど、

わてのそのBefore After の証し聞いてくれるか。

熊: ああ、ええでぇ、もちろんや。わてもその恵みにあずかりたい。

八: さよか。ほないくでぇ。

(八のBefore After 証し)

わてには、いろんな弱さがありますけんど、「ねたみ、そねみ、やっかみ」もその弱さの一つでございます。人がわてよりもいい思いをすると、こう、ムクムクと「ねたみ、そねみ、やっかみ」が湧いてくるのでございます。それに、人が褒められると、正直に喜べない、わてとは何も関係ない話やのに、どうしてか、嫉妬してしまうのでござます。そんなのは嫉妬やのうてシカトすればいいのでしょうけれど、しっかり嫉妬してしまう、どうしようもないわての弱みがありました。そんなやっかみは厄介払いしたいのですが、そうは問屋が卸しません。なぜなら、わては劣等感のかたまりやからです。どうして、劣等感のかたまりになってしまったのでしょうか。わては、人ばっかり見て、人と較べていました。わてより劣った人には優越感、そんな人はなかなかおりませんのですけどね、反対に、わてより優れた人には劣等感。人を見て、人と較べた結果でございます。ところが、ある言葉に出会いました。神様からのプレゼントです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43:4)「あ~、わては神様に愛されてるんや。せやから、イエス様をわての救いのためにお送りくださった。そこで、わては、ハタと気が付いたんですわ。人ばっかり見てるから、較べるんやって。けんど、神様はそんなわてでも愛してくださる。高価やと言ってくださる。これからは、人やのうて、神様を見つめてみようと思ったんです。こんな劣等感のかたまりのわてを、ほんでもって嫉妬深くて、ねたみ、そねみにやっかみいっぱいのわてを、愛してくださる。ありがたいやないですか。この神様のお言葉、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」これは、わてにとっては、効果てき面でした。それ以来、なるべく神様の方をみて、神様にもっと愛されるようにしようと、上を見上げて歩んでおります。もちろん、まだまだ、その途上ではございますが、いつか、きっと、嫉妬もしなくなることを願って、毎日毎日変わらせていただいております。はい、おしまい。

熊: えらい立派なBefore After 証しやな。ええ、八がそんなに嫉妬深いとはおもわなんだわ。

ところであれやな、そういう証しやったら、わてにも、ごっそりあるでぇ。

こんどはわての番や、一つ、ええか。

八: はいな。聞かせてもらいまっさ。

熊: 

(熊のBefore After 証し)

クリスチャンの方なら「みこころのままに」と聞くと、ピンとくる方が多いのではないでしょうか。イエス様のゲッセマネでの祈りの代表的なことばでありますな。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。(これは十字架での死を意味しています)。しかし、わたしの思いのままではなく、みこころのままになさって下さい。」(マタイ26:39、口語訳)つまり、「みこころのままに」とは、『自分の勝手な思いや期待や願いではなく、神様のご計画のとおりになさってください』って、神様への服従を表すことばであります。

わては、この言葉が好きなんですわ。けんど、以前、わてはこの言葉をちゃんと理解してへんかった、いや、自分のものにしてへんかったんですなぁ。「みこころのままに」と言いながら、実はこう思ってました。『神様、わてはこう思います、わてはこう願います、わてはこう希望します。せやから、神様、私についてきてください、わてを祝福してください。サポートよろしくお願いします。だって、わては神様に従順やし。礼拝も守ってますし、聖書も読んでますし、祈りもします。それに、教会の御用も嫌がらずに、かえって熱心にしてきていますから。』

けんど、なんですな、神様はなかなか答えてくださいません。すると、今度は愚痴をいうようになります。『神様どうしてでっか。どうして答えてくださらないんでっか。どうしてわてを祝福してくださらへんのでっか。こんなに誠実なのに』と神様に愚痴っとりました。これは、もう傲慢でしかありませんわな、心がかたくなになっているとしか言えまへん。

そんな時に、箴言という聖書の中のことばに出会いました。「常に主を恐れる人はさいわいである。心をかたくなにする者は災いに陥る。」(28:14)心をかたくなにする者、実にわてのことでございました。「みこころのままに」と言いつつ、「MEこころのままに」「わてのこころのままに」とやってしまっていた自分に気づかされました。イエス・キリストFirst第一のはずなのに、ME First だったんでございますな。『あ~、今まで何をしてたんやろう、なさけないな』と思わされました。

神様に「ほんとうにごめんなさい」とお詫びして、それからは、いつもキリストFirst 「あなたのこころのままに」とお願いしておるんですわ。

せやからと言って、わての願いや思いや希望がなくなったわけではありまへんで。けんど、自分の思いが実現せえへんかったとしても、わてにとって、最も良いことを神様はご計画してくださってはると信じ確信させていただいております。「MEこころのままに」ではなくて「YOUあなた様のこころのままに」。主の栄光が、わての大好きな王様の栄光が現わされること、しもべはそれで満足であります。

八: ええな、ええな。人が聖霊様によって変えられていくところを見させてただくのは。こんなBefore After 証しを、させて頂くのも、聞かせていただくのも、どっちも恵みやな。

な、若さん、そう思うやろ。

―――――

八さん、熊さん、Before Afterの証し、ありがとうございます。私たちは、御言葉を通して、聖霊様によって、日々新しくさせて頂いています。「日々、主と共に死に、主と共によみがえる。」このことによって、私たちはキリストに似る者へと変えられていくのであります。罪深い自分が死ななければ、新しく生まれ変わることもできません。「主と共に死に、共に生きる」ことを、パウロは次のように語っています。ガラテヤ人への手紙2章19節~20節。●「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」

また、ローマ人への手紙6:4でも。

●「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。」

ローマ人への手紙6:7-9

●「死んだ者は、罪から解放されているのです。私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。私たちは知っています。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはありません。死はもはやキリストを支配しないのです。」

私たちが、主のBefore After の変化の恵みをお証しするとすれば、私たちは必ず、主と共に死に、共によみがえり、共に歩むことを、日々新しくしていただかないといけません。とりわけ、主の復活を信じ、その恵みにあずかることは最重要課題です。その恵みにあずかってこそ、Before After の証しができるというものです。

さて、今回も宣言をいたします。イエス様の死からの復活が、私たちの心になければ、イエス様と私たちはなんの関係もございません。感謝と喜びをもって、そのイエス様の死からの復活という恵みを分かち合えることを期待しつつ宣言をいたしましょう。「日々、主と復活します。感謝!」です。

では、3回宣言いたしましょう。

「日々、主と復活します。感謝!」、「日々、主と復活します。感謝!」、「日々、主と復活します。感謝!」。アーメン!

黙想をいたします。

黙想の時にお読みするのは、詩篇16篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。ヨハネの福音書20章29節。

「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

黙想いたします。詩篇16篇。

黙想時の曲

⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

賛美⑧:一度死にしわれをも

https://www.youtube.com/watch?v=BCwvltsTgDY

聖餐式

賛美⑨:あなたがすべて

https://www.youtube.com/watch?v=f4AdnEmMQjQ

●礼拝の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の主日礼拝は、2月11日 午後5時から小阪チャペルにて。

いずれも小阪チャペルのLINEグループで同時配信します。

聖書: 使徒の働き26章

「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ

https://vinechristchurch.jimdofree.com/