ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル
2024.2.11主日礼拝式
(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、茶菓とともに短く交わりの時をもちます。7時ごろ終了。)
●午後5時開会:ただいまより、2024年2月11日主日礼拝式を始めます。
●祈り
礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。
ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)
●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
続いて
●使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、
永遠の生命を信ず。アーメン。
礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。
私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。
賛美①:ガリラヤの風薫る丘で
https://www.youtube.com/watch?v=rfd5LgTPDEU
賛美②:主はぶどうの木
https://www.youtube.com/watch?v=xdAClkSkCJo
賛美③:主の約束(2月)
https://www.youtube.com/watch?v=7IdOakR8lxU
賛美④:叫べ全地よ
https://www.youtube.com/watch?v=57Oqhlu1VIQ
賛美⑤:王国は永遠に
https://www.youtube.com/watch?v=_t7dXgtmXZk
賛美⑥:心を一つに
https://www.youtube.com/watch?v=Y-iu2MKeDq8
【YOUTUBE配信開始】
2024年の年間の指針は「シェアリング:分かち合い」です。
年間聖句は、マルコの福音書6章39節~44節とルカの福音書14章15節です。
●マルコの福音書6章39節~44節「五千人の給食の奇跡」(新改訳聖書2017)
するとイエスは、皆を組に分けて青草の上に座らせるように、弟子たちに命じられた。
人々は、百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った。
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、
パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。
また、二匹の魚も皆に分けられた。
彼らはみな、食べて満腹した。
そして、パン切れを十二のかごいっぱいに集め、魚の残りも集めた。
パンを食べたのは、男が五千人であった。
●ルカの福音書14章15節「神の国の食卓」(新改訳聖書2017)
イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。
「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」
●2024年2月11日 主日礼拝メッセージ
「使徒の働き」とは
復活のイエス様の働き・聖霊様の働き、信仰の始まりと継承です。
そして、私たちは、次のことを、この「使徒の働き」を通して学びます。
(会衆)
イエス様の復活の確信
神の国の理解
聖霊の満たし
エクレシア(信仰者の集まりと交わり)
●聖書拝読:使徒の働き第26章(新改訳聖書2017)
朗読: 若竹
中心聖句:
「こういうわけで、アグリッパ王よ、私は天からの幻に背かず、ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に。またユダヤ地方全体に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えてきました。」(19-20)
メッセージ主題:『主の召しに背かない人生』
改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。
できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。
●メッセージ
(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)
使徒の働き26章では、パウロはアグリッパ王の前で自らの潔白を弁明し、そして、キリスト信者を迫害していた自分が、いかに変えられてキリスト者となったかを話します。そして、今は、ユダヤ人や異邦人の救いのために身を粉にして働き、アグリッパ王にも信仰を勧めるのでした。
その中で、今日はパウロの召しに従順であった姿から学びたいと思います。パウロがまだサウロであった時、彼はキリスト者を迫害することが義であると感じ、エルサレムだけではなく国外のキリスト信者たちをも、つかまえては牢に入れ、苦しめていました。そして、ダマスコへ行く途中で、イエス様が現れ、ヘブル語、恐らくアラム語でパウロに、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い」とおっしゃいました。使徒の働き9章4節でも、イエス様の同じ文言が記されてますが、「とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い」という格言のようなセリフは9章には記されていません。この「とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い」とは、解説書によれば、農作業をする牛に対して、鉄の釘がついた棒でむちのかわりとして使用されていたが、その棒を牛が蹴ってしまうと、その牛の足に痛みが走るというもので、パウロの迫害が、自らを痛めつけることとなるとイエス様はおっしゃるのであります。そして、地に倒れていたパウロに、イエス様は次のように自らを明らかにし、パウロに任命します。
「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がって自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たことや、わたしがあなたに示そうとしていることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのところに遣わす。」(26:15~17)
イエス様はパウロに「起き上がって自分の足で立ちなさい」とおっしゃいました。これは、もちろん、地に伏しているパウロに実際に立ち上がることを意味してはいますが、「自分の足で立つ」とわざわざおっしゃっておられるのは、『自らの見たことで信仰に堅く立つ、人から言われたことではなく、自らの堅い信仰』を意味しているのではないでしょうか。そして、パウロを「自分の足で立たせる」ことによって、イエス様は奉仕者、証し者としてパウロを任命するためでありました。また、「自分の足で立つ」ことによって、イエス・キリストへの従順、忠誠をつくすことにもつながります。
この「自分の足で立つ」ことを、パウロはアグリッパ王の面前で、宣教の方針を述べている時に別の表現で使っています。「私は天からの幻に背かず」と言わしめている表現です。ここでの「天からの幻」とは、20節の言葉全体です。すなわち、「ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤ地方全体に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝え」ることです。パウロはこの「天から示されたことに」背かず、つまりは徹底的に従順に従ったのであります。
かずかずの迫害や危険にもかかわらず、パウロはイエス様の召しに従い続けました。パウロはそのことを、パウロの最後の手紙、テモテへの第二の手紙でしるしています。4章7節です。「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」回顧録のような記述です。そして、恐らく主は、そのパウロに、イエス様のタラントのたとえの良い僕に対する主人のセリフのように、「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイ25:21)とおっしゃるのではないでしょうか。パウロは、「あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき王である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれでも授けてくださるのです。」(2テモテ4:8)と告白します。パウロは、忠実な僕のごほうびは、義の栄冠であり、それはパウロに限らず、主に終生忠実な僕は、みな『義の栄冠』のごほうびにあずかれることを説いています。これはパウロの初期の手紙につづかれている宣言とおなじ意識であります。「私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。」(1コリント9:23)パウロは自分一人が義の栄冠をうけようとはこれっぽっちも思っていません。共に福音の恵みにあずかる、ともに義の栄冠をかぶるものとなることを願い、迫害や困難にも屈せず、福音をつたえてきました。
パウロは、迫害者であったときに、主がパウロに、ユダヤ人であれ異邦人であれ、主を信じ主の救いにあずかる者としなさいという命令に、生涯、忠実に主の命を全うしたのでした。その主の命とは、「彼ら(ユダヤ人や異邦人)の目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかる」ことであります。(使徒26:18)
では、相続とはどのような相続でしょうか。それは、神の子としての神の相続人のことです。パウロはローマ人への手紙8章で次のように述べています。14節「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。」16節「御霊(聖霊様)ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。」17節「子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。」
この信仰と神への従順が、パウロを伝道へとかりたて、「福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです」(1コリント9:16)と言わしめるのであります。
では、私たちはどうでしょうか。信仰的に自分の足でちゃんとたっているでしょうか。家族や主にある兄弟姉妹や教会や集会に依存していないでしょうか。クリスチャンという仲間意識の中で、「伝道はだれかがやってくれる」とか、「みんなで礼拝にでたり集会にでたりしているので大丈夫」、というような根拠のない安心の中に自分を置いたりしていないでしょうか。信仰的に自立し、ゆるがず、神の召しに忠実で、または主の召しを熱心に求め、そのうえで、周りの人に福音を伝え、ともに神の相続人という栄誉にあずかろうとしていますでしょうか。そんなに簡単な道ではないのかもしれません。それゆえに、イエス様は、そのことを「狭い門」ともたとえるのかもしれません。マタイの福音書7章13節14節「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く道が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」先日、なんもり三浦綾子読書会で、「泉への招待」というエッセイ集の中の「狭い門より入れ」という章を読みました。狭い門から入るためには、不必要な持ち物(物質的精神的な持ち物)を捨てる必要があるということでした。何が必要で何が不必要化を見きわめる目をもち、「自分の足で立ち、主のみ旨に背かない」ことの容易ではない意識と決意を問われているような気がします。
さて、ここで、今日も天国長屋の八さん熊さんに登場していただきます。八さん、熊さんにとって、「神の召しって何でしょう。また神の相続人って何を相続するのでしょう。」どう思われますか。
―――――
八: 「神の召し」って信仰的に重荷を負っていることかいなぁ。
若さんは、神様から「御言葉を伝える者になりなさい」ちゅう声が聞こえたらしいから、
牧師はんにならはった。
熊: まあ、3回目でやっと観念して、通信制の神学校さがしはったんやけどな。
八: せやけど、言われるだけ、まだましやでぇ。わては、なんもそんな声きいたことあれへん。
まあ、聞こえへんから、気楽におれんねんけどな。
神様の声がきこえへんかっても、重荷はあるかいなぁ。なあ、熊。
熊: 信仰的な重荷かぁ。それやったら、わては三浦綾子の読書会に誘って、いっしょに恵みを
分かち合うことかいなぁ。
八: 熊、文学読むんか。また、がらに似合わんこと。
熊: わてかて、本ぐらい読むわいな。けんど、三浦綾子の「塩狩峠」ぐらいでアップアップや。
長編作は、苦手や。綾子はんのエッセイ集やったら、1ページ2ページ読んだだけで
終わりやから、エッセイ読んで、あとはダベリングや。気楽なもんや。
けんど、そのダベリングがええねん。せやから、他の人も誘えんねん。
わて、自分の恵みの証しするんも嫌いやないけど、他の人の恵みを聞くのも好きなんや。
八: 熊は、三浦綾子のエッセイに人を誘うことに重荷をもってるんやな。
熊: そんな、たいそうなものやないんやで。けんど、好きやから続いてるわな。誘いもする。
八は、どうなんや。
八: わてなぁ。わての重荷は、教会の掃除とトラクト配りやな。教会のおもてを掃除してると、
誰かしら話しかけてくれはる。わてはぁ、こうみえてもシャイやねん。
せやから、自分からは、恵みの証しはなかなかでけんねんけど、
人から話しかけられたら、そのついでちゅうたらなんやけど、話の流れで、
恵みの証しさせてもろてるねん。トラクトの方は、一軒一軒、
「神様の祝福がありますように」ちゅうって配ってる。
「何配ってるの?」って尋ねられたら、もうけもんなんやけど、
まあ、なかなか、あれへんわ。
熊: 「主の召し」はひとりひとりにあるんやけど、それに気づいたり、確信したりするのは
難しいなぁ。軽々しく、自分勝手に、「これが主の召しや」と言うことがないように
せなあかん。「神様がこう言うてはる」ちゅうって、しょっちゅう言う人は、
わてはほんまかいなって、おもてしまうねん。まあ、わてが、神様の声がなかなか
聞こえへんからかもしれんけどな。
八: ちょっと話題かえるけど、「神様の相続人は何を相続するのか」ちゅうって若さん、
わてらに投げかけはったけど、「何を相続する」んやろうか。
熊: そりゃ、あれやろ、パウロはんが言うてはるように、わてらに示される栄光、
天の御国やろうな(ローマ8:18)。
八: 天の御国やから、永遠のいのちでもあるんやけど。それよか、イエス様の教えが
はっきり分かるちゅうことなんとちゃうやろか。ほら、パウロはんが第一コリント
13章12節で、こういうてはるやん。「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを
見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。
今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと
同じように、私も完全に知ることになります。」ちゅうて。
熊: なるほどなぁ、神様のことが全部知れる。宇宙の神秘もわかる、ちゅうこっちゃな。
そりゃ、楽しみや。そんで、次の13章には、「いつまでも残るのは信仰と希望と愛、
これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」とあるやろ。
せやから、この神様の「愛」が分かって、その愛を相続することになるんと
ちゃうやろか。
八: ええな、ええな。めっちゃ、楽しみやわ。
熊: そのためにも、この世にあっては、「自分の足でしっかり立って、主に背かない」
ちゅうことが大切なんやろな。その天の御国での楽しみのために、今、しっかりせんと
あかん。な、若さん、せやろ。
―――――
八さん、熊さん、ありがとうございます。私たちは、聖書を通し、また祈りを通し、創造主である神に絶対的服従、頭を下げ、主の前にへりくだることを学ばなければいけません。私たち個人個人に対する主の召しを理解し、またまだ召しを与えられていないと思われるのなら、それを求め続け、聖書にかたく立ち、主にへりくだりつつ、従う姿勢を、聖霊様の助けを借りて学ばせていただきましょう。
さて、今回も宣言をいたします。個人個人、イエス様と対話し、信仰的に、自分の足で立ち、主の召しに背かない生活をするために宣言いたします。宣言は「主の召しを求め従います。感謝!」です。
では、3回宣言いたしましょう。
「主の召しを求め従います。感謝!」、「主の召しを求め従います。感謝!」、「主の召しを求め従います。感謝!」。アーメン!
黙想をいたします。
黙想の時にお読みするのは、詩篇119篇57節~80節です。
●黙想:
黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。ヨハネの福音書14章21節。
「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現わします。」
黙想いたします。詩篇119篇57節~80節。
黙想時の曲
⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM
https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0
●祈り
●主の祈り
天にまします我らの父よ
ねがわくは、御名をあがめさせたまえ
御国を来たらせたえ
御心の天になるごとく
地になさせたまえ
我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり
アーメン。
【YOUTUBE配信終了】
賛美⑧:どんな時でも
https://www.youtube.com/watch?v=64er54gdx2E&list=RDEMU1717cBE5g7giZYLWKdw_w&index=1
賛美⑨:御腕に抱いて
https://www.youtube.com/watch?v=vV7m1nPNmZA&list=RDEMU1717cBE5g7giZYLWKdw_w&index=11
●礼拝の感謝の祈り
(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)
●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」
https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM
●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21
●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏
https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0
●閉会
●連絡
次回の主日礼拝は、2月18日 午後5時から小阪チャペルにて。
いずれも小阪チャペルのLINEグループで同時配信します。
聖書: 使徒の働き27章
「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ
https://vinechristchurch.jimdofree.com/