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メッセージ主題:『神の国を宣べ伝える人生』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2024.2.25主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、茶菓とともに短く交わりの時をもちます。7時ごろ終了。)

●午後5時開会:ただいまより、2024年2月25日主日礼拝式を始めます。

●祈り

礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

続いて

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。

私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。

賛美①:望みも消えゆくまでに

https://www.youtube.com/watch?v=Ws3N3BpUgBA

賛美②:主が私の手を

https://www.youtube.com/watch?v=7rm7of2N3-Y

賛美③:主の約束(2月)

https://www.youtube.com/watch?v=7IdOakR8lxU

賛美④:主の愛に生かされて

https://www.youtube.com/watch?v=CMsi_AxNYn4

賛美⑤:我が魂の羊飼い

https://www.youtube.com/watch?v=zVcYy7VG-aA

賛美⑥:ただ主の十字架に

https://www.youtube.com/watch?v=D-sk1LkJQJM

【YOUTUBE配信開始】

2024年の年間の指針は「シェアリング:分かち合い」です。

年間聖句は、マルコの福音書6章39節~44節とルカの福音書14章15節です。

●マルコの福音書6章39節~44節「五千人の給食の奇跡」(新改訳聖書2017)

するとイエスは、皆を組に分けて青草の上に座らせるように、弟子たちに命じられた。

人々は、百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った。

イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、

パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。

また、二匹の魚も皆に分けられた。

彼らはみな、食べて満腹した。

そして、パン切れを十二のかごいっぱいに集め、魚の残りも集めた。

パンを食べたのは、男が五千人であった。

●ルカの福音書14章15節「神の国の食卓」(新改訳聖書2017)

イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。

「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」

●2024年2月25日 主日礼拝メッセージ

「使徒の働き」とは

復活のイエス様の働き・聖霊様の働き、信仰の始まりと継承です。

そして、私たちは、次のことを、この「使徒の働き」を通して学びます。

(会衆)

イエス様の復活の確信

神の国の理解

聖霊の満たし

エクレシア(信仰者の集まりと交わり)

●聖書拝読:使徒の働き第28章(新改訳聖書2017)

朗読: 若竹

中心聖句: 

「パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねて来る人たちをみな迎えて、少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」(30-31)

メッセージ主題:『神の国を宣べ伝える人生』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待します。

●メッセージ

(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)

使徒の働き28章では、囚人であるパウロたちを乗せた航海中の船が嵐で難破しますが、神の約束のゆえに全員無事にマルタ島に着きました。マルタ島の住民は、かれらを手厚くもてなし、三か月の越冬後に、ローマに向けて再び旅立ちます。そして約半月後にローマに到着し、監視の目がありましたが、一人で生活することを許されました。そして、三日後、ローマ在住のユダヤ人たちに、福音を伝え始めます。彼らは先入観なくパウロの話を聞きますが、ある者はパウロの言うことを受け入れますが、ほとんどの人は信じようとはしませんでした。そこで、パウロは、イザヤ書6章を通して、神の救いは異邦人に向けられたことを明言しました。

記録者ルカは、その後のことを、あっけなくさらりと片づけて、使徒の働きに幕を下ろしました。そして、その幕を下ろした、まとめの言葉が、今日の中心聖句です。

「パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねて来る人たちをみな迎えて、少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」(30-31)

この二年間のローマでの軟禁状態のときに、ルカはルカの福音書と使徒の働きをまとめ上げたとも考えられていますし、またルカの福音書だけは、パウロがカイザリヤに捕らえられていた二年間(使徒24:27)に執筆されたとも考えられます。

またパウロは、第一次伝道旅行の終わりのところで、「ガラテヤ人への手紙」を書き、エルサレム会議の時期に「テサロニケ人への第一の手紙」を、第二次伝道旅行の途中で「テサロニケ人への第二の手紙」を、第三次伝道旅行の時に「コリント人への第一と第二の手紙」「ローマ人への手紙」を書き、この28章でのローマでの軟禁状態の時に、「エペソ人への手紙」「ピリピ人への手紙」「コロサイ人への手紙」「ピレモンへの手紙」を書き送りました。また、ルカの「使徒の働き」の執筆の後、パウロは解放されますが、この時ローマの大火災が起き、皇帝ネロがクリスチャンに放火の濡れ衣を負わせ迫害し、パウロも再び投獄され、そしてついに殉教します。その間に、「テモテへの第一の手紙」「テトスへの手紙」「テモテへの第二の手紙」を書きます。

パウロは「神の国」のことを宣べ伝えんがために、自ら奔走し、また教会に叱咤激励の手紙を書き送りました。では、パウロが宣べ伝えた「神の国」とはどういったものだったのでしょうか。私は、「イエス・キリストの恵み」そのものではなかったかと思うのであります。イエス様はマタイの福音書6章33節で次のようにおっしゃいます。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらの(必要な)ものはすべて、それに加えて与えられます。」

神の義とは神によって義と認められることです。私たちは、生まれながらに私たちの思いと行いにおいて数えられないほどの罪を犯し、そのために神との間に断絶があり、神の裁きを受けるべきものとなっていました。しかし、イエス・キリストが十字架上で自らのいのちを犠牲にして、私たちの罪のあがないを完了されました。キリストを私たち一人一人の救い主と信じて受け入れることによって、罪は赦され、神の義(罪なき者と認められること)が与えられるのです。

また、神の国は、メシアでるイエス・キリストの到来とともに私たちのもとにやってきました。主イエスはその生涯と十字架の死と復活によって、私たちの罪のあがないを実現してくださり、天に昇り、父なる神の右の座に着かれて、私たちの救いのために、聖霊を送ってくださるのです。その聖霊が私たちの心に留まることによって、私たち自身は神の宮となります。神の国を自分のものとするためには、聖霊に導かれて、聖書をよりよく理解し、イエス・キリストへの信仰が増し加えられ、キリストの再臨によって、神の義を与えられた者が、やがて天の御国に迎え入れられるのです。その御国で、私たちの救いは完成し、永遠に神とともに生きるものとされるのです。

そして、天の御国での平安と喜びが、キリストを信じる私たちにも、聖霊を通して、体験できるのであります。つまり、今、私たちは聖霊の宮であり、霊的に神の国にいることが許されているのであります。神の国は、私たちの肉体の死後のことではなく、今、信じる者のただ中にあるのです。

神は、私たちに神への信仰を持って生き生きと生活し、天の御国で与えられる平安と喜びを前もって味わうことを勧めておられるのです。私たちは神とともに生きる存在として創造されました。ですから神を離れては生きていくことができないのです。神は、私たちを神と共に生きるために、私たちの心に神の国を築くことを計画されました。それには私たち自身を神の国、聖霊の宮、神殿とする必要がありました。しかし、私たちは、罪まみれで、聖霊が住むには、不適切でした。罪を帳消しにするには、罪のない者のいのちをいけにえにする以外に手段がありません。動物のいのちは一つの罪を帳消しにはいますが、罪を犯し続ける私たちには、いくら動物のいのちがあっても足りません。ですから、一度のいけにえで、すべての罪をあがなうことのできる強力でかつ永遠に効果的ないけにえを、神はご用意してくださいました。それが、御子イエス・キリストであります。処女マリヤから聖霊によって生まれたみどり子、肉体は人であり、霊的には神であるイエスをいけにえとしてささげ、全人類の罪を贖い、かつ三日目に死を克服してよみがえらせ、その贖いの効果を永遠のものとしました。それゆえに永遠のいのちが与えられる約束をされました。その特権を得るための条件はただひとつ、ただひとつであります。イエス・キリストを信じ救い主として受け入れることです。これ以外に、神の国を私たちの心に築く方法を、神はご用意されておられません。イエス・キリストという門を通らない限り、神の国には入れないのです。

パウロはこのことを、伝え続けたのであります。いえ、パウロだけではありません。ペテロもヤコブも、12使徒も、そして彼らに続く弟子たちも、この単純な真理を宣べ伝え続けたのであります。

では、私たちは、どうでしょう? 彼らに続いて来ているでしょうか。この単純な真理を、イエス・キリストの福音を宣べ伝えようとしているでしょうか。「いやぁ、時が悪い。このご時世、みんな聞く耳をもっていない。」とつぶやいたりあきらめたりしてはいませんでしょうか。いえいえいえ、この「時が悪い」ことは今に始まったことではありません。イエス様がこの地上におられた時から、いえ、それ以前から、ずっと、言わば「時は悪い」のです。ノアの時代には救われたのはノアの家族だけでした。人は「救い」を求めているにもかかわらず、『自分で何とかしよう、何とかできるのではないか。だって、私はそんなに罪深く、悪い人間ではない、どちらかといえば善人の部類なのだから』と思ってしまうのであります。ですから、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」とパウロは言いますが、「時が良い」時は、そんなにないのです。ですから、パウロは続けて「忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」と私たちを励ますのであります。(2テモテ4:2)

御言葉が聞く人の心にとどまるかは、神のお働き、聖霊の働きです。私たちの責任は、福音の種蒔きです。岩の上であろうが、いばらの中であろうが、肥沃な畑であろうが、祈り心をもって種をまくことが肝心です。

私は、十数年前に、山口県にある秋吉台に行ったことがあります。秋吉台は、日本最大級の石灰岩でできたカルスト台地です。石灰岩の上には、植物は育ちません。しかし、長い年月を経て、その石灰岩のくぼみに枯れ葉や鳥の糞や雑多なものが溜り、そこに種が落ちて、芽がでて、根がはることもあるのです。いえ、芽が出たけど根がはれずに枯れ、しかし、そのことが何度も何度も、幾重にも重なって、やがて根がはれるだけの枯草による土ができ、再びそこに種が落ちると根をはることができ、茎が育ち、花が咲くのであります。それは神の憐れみでしかないと私は思わされました。一粒の種がすぐに育つのではなく、何粒もの種が芽が出ては枯れ、幾重にも折り重なって、その種たちの犠牲の上に、育ち花を咲かせる種が落ちるのです。

「時が悪い」のは当たり前。いろんな人が種を蒔くうちに、石灰岩であった人の心の隙間に、枯れた何粒もの種が栄養分となり、ある時、一粒の種が育っていき、その人の心に「神の国」が立ち上げられることもあるのではないでしょうか。私たちは、その人に「神の国」が立ち上げられるのを期待し、忍耐をもって福音の種を蒔こうではありませんか。

さて、ここで、今日も天国長屋の八さん熊さんに登場していただきます。八さん、熊さん、「神の国」ことをどう思われますか。

―――――

八: 「神の国」ってまた、大きなテーマやなぁ。わてな、やっぱり鍵はイエス様やな。

ほれ、イエス様おっしゃったやないか。「わたしは門です。だれでも、わたしを通って

入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。」ちゅうて。

熊: それって、ヨハネの福音書10章9節やわな。神の国の門がイエス様か。

それはよう分かる譬えやわな。神の国がイエス様のおっしゃる「天の御国」と同じや

とすると、マタイの福音書13章にはいっぱいでてきはんでぇ。

八: ああ、あそこな。「からし種」に「パン種」「畑に隠された宝」「良い真珠を探している

商人」「海のいろんな魚を集める投げ網」たとえのオンパレードや。

熊: わてな、あのところで、「からし種」と「パン種」のたとえが、本当に天の御国のたとえ

なんやろか、とおもてたことがあるねん、ほんの前まではな。

八: なにゆうてんねん。あれは天の御国の拡大を意味してるんやがな。

熊: いや、わてもそうおもててんで。けんど、その前には、良い麦の中にある毒麦のたとえが

あるやろ。それとは関係あれへんのかいな。

八: わては、正直関係あれへんとわては思てるでぇ。せやから、イエス様は別のたとえとして

「からし種」のことを示されたんやろうから。

熊: そうか。そうやろなぁ。やっぱり。せやけんどな、横丁のご隠居はんが、「からし種」

のたとえは、天の御国の拡大を意味してるんとはちゃうってゆうてはったんや。

八: ほーぅ。それって、どんなふうなんや。

熊: ご隠居はんがいうには、「からし種」のたとえは、「空の鳥が来て、その枝に巣を作る」

ちゅうところが強調されてるんやて。

八: 鳥の巣作り、、、なぁ。

熊: 「からし種」ちゅうのは、ほんまにこんまい種やねん。せやから、雑草と同じで

いろんなところに芽を出し、根を広げるようや。畑の中にも勝手に生えて来たり

するから、実は、やっかい者らしいでぇ。

八: 「からし種」は、畑の中の雑草のような存在か。

あ、それって、麦畑の中の毒麦の存在と同じやないか?

熊: あ、そう言われればそうやな。ここで「毒麦のたとえ」と「からし種」がつながった。

八: ほんで、そのやっかい者のからし種が、なんで神の国になるねんな。

熊: からし種が大きくなっても、木にはかなわん。野菜よりも少し大きいだけや。

藪のようなもんや。けんど、その藪には、鳥が巣を作ることができる。

鳥は鳥でも小さな鳥やろうな。そんな小さな鳥が安らぐことのできる家となる。

神の国は、小さな鳥、弱い者が安らぐことができる場所なんやて。こう、ご隠居はんは言いはるねん。

八: なるほどなぁ。イエス様は、弱い者、虐げられている者、小さい者の味方や。

こんまい鳥が、安心できる平和な場所、それが「神の国」「天の御国」やと

おっしゃってんやな。なんか、あれやな。からし種が神の国の拡大を意味してるのも

そうやろうけど、小さき者が安心できる安らぎを得られる場所であるというのは、

なんか嬉しいし、なっとくできるわ。感謝、感謝。

熊: けんど、このこんまい鳥、小さき者って、どういう人のことやと思う?

八: まさか、小人とはちゃうしな。幼子ちゅうことも考えられるわな。

イエス様がおっしゃってたからな。

「幼子のようにならなくては、天の御国に入れません」ちゅうって。

熊: それってマタイの福音書18章3節の言葉やな。けんど新改訳2017版では、

「向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。」

ちゅうてるわな。「向きを変えて」つまりは「悔い改めて」ちゅうこっちゃ。

自分を低くし、神様の前にひざまづく人のこっちゃな。

そういう人が心安らかであるための場所が神の国ちゅうこっちゃ。

八: 「向きを変えて」180度向きを変えて、神様を見つめる、いや見つめ続ける。

熊: せやけど、わてらは罪深い。「向きを変えてる」つもりやのに、いつのまにか元に

もどって、罪を犯してしまう。

八: せやから、毎日、毎朝、古い自分は死んで、生まれ変わらんとアカンねんて。

向きを修正しつづけんとアカンねんて。

熊: まあ、わてらの腐った性根はしぶといからな。

八: そのことも神様、じゅうじゅう分かって下さってはる。

神様ほど、辛抱強いお方はいらっしゃれへんからな。

なあ、若さん、こんなもんでよろしいでっか。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。「からし種」のたとえのこと、よくわかりました。自分を低くする者のために神の国がある、神の国は安らぎのところであることに、理解が深まった気がいたします。感謝いたします。また、自分を低くするというところでは、千利休のにじり口を思い出しますが、そのこと自体も自分ではできない。聖霊によって導かれるべきものである気がします。

私たちは、キリストを信じることによって、まさに神の国のただ中に置かれているのだと確信し、チャンスを逃さず、神の国を宣べ伝えましょう。「時が悪い」のは当たり前。いろんな人が石灰岩の上にも種を蒔き、かずかずの枯れた種の上に、ひょっとしたら、いえ神の憐れみによって、花を咲かせる種が芽を出し根をはる、その事を期待して、その人の心に神の国が立ち上げられるのを夢見つつ、福音の種を蒔き続けましょう。

では、宣言をいたしましょう。次の世ではなく、今、この世にあって私たちの心の内に神の国が立ち上がり、天の御国での喜びと平安が、今味わえることを感謝しつつ、今日の宣言をいたします。そのことをふまえ、今日の宣言は、「進行形の神の国を宣べ伝えます。感謝!」です。

では、3回宣言いたしましょう。

「進行形の神の国を宣べ伝えます。感謝!」、「進行形の神の国を宣べ伝えます。感謝!」、「進行形の神の国を宣べ伝えます。感謝!」。アーメン!

黙想をいたします。

黙想の時にお読みするのは、詩篇84篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。マルコの福音書1章15節。

「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

黙想いたします。詩篇84篇。

黙想時の曲

⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

賛美⑧:愛を伝えるために

https://www.youtube.com/watch?v=3pQGNk5q4zI

賛美⑨:傷跡

https://www.youtube.com/watch?v=hJK8hxLG0pU

●礼拝の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

今回で、「使徒の働き」を終えました。来週からは、「出エジプト記」40章を40週かけて学び、主に導いていただきます。

「出エジプト記」とは、個々人の霊的解放の書であり、信仰の歩みを記しています。

そして、私たちは、次のことを、この「出エジプト記」を通して学びます。

(会衆)

罪の奴隷からの解放

聖別された個となるための務め

神の臨在による神との親しい交わり

●連絡

次回の主日礼拝は、3月3日 午後5時から小阪チャペルにて。

いずれも小阪チャペルのLINEグループで同時配信します。

聖書: 出エジプト記1章

「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ

https://vinechristchurch.jimdofree.com/