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メッセージ主題:『勝利する人生』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2024.3.10主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、茶菓とともに短く交わりの時をもちます。7時ごろ終了。)

●午後5時開会:ただいまより、2024年3月10日主日礼拝式を始めます。

●祈り

礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

続いて

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。

私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。

賛美①:主よみもとに近づかん

https://www.youtube.com/watch?v=wzCCUZRoo2Y

賛美②:聖なる主の御名をたたえ

https://www.youtube.com/watch?v=t_Xww7fJMrY

賛美③:ただ主の十字架に(3月)

https://www.youtube.com/watch?v=D-sk1LkJQJM

賛美④:あがめます全能の主

https://www.youtube.com/watch?v=fjOLLOMJMro

賛美⑤:主が来られる日まで

https://www.youtube.com/watch?v=5DcOIijIaKw

賛美⑥:よみがえりの主&いつくしみ深き

https://www.youtube.com/watch?v=lFv5ooYAA2o

【YOUTUBE配信開始】

2024年の年間の指針は「シェアリング:分かち合い」です。

年間聖句は、マルコの福音書6章39節~44節とルカの福音書14章15節です。

●マルコの福音書6章39節~44節「五千人の給食の奇跡」(新改訳聖書2017)

するとイエスは、皆を組に分けて青草の上に座らせるように、弟子たちに命じられた。

人々は、百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った。

イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、

パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。

また、二匹の魚も皆に分けられた。

彼らはみな、食べて満腹した。

そして、パン切れを十二のかごいっぱいに集め、魚の残りも集めた。

パンを食べたのは、男が五千人であった。

●ルカの福音書14章15節「神の国の食卓」(新改訳聖書2017)

イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。

「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」

●2024年3月10日 主日礼拝メッセージ

「出エジプト記」とは、個々人の霊的解放の書であり、信仰の歩みを記しています。

そして、私たちは、次のことを、この「出エジプト記」を通して学びます。

(会衆)

罪の奴隷からの解放

聖別された個となるための務め

神の臨在による神との親しい交わり

●聖書拝読:出エジプト記第1章(新改訳聖書2017)

朗読: 若竹

中心聖句: 

「彼はあたりを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺し、砂の中に埋めた。」(12)

メッセージ主題:『勝利する人生』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。

●メッセージ

(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)

「出エジプト記」2章は、モーセの誕生と成長の不思議、そして神の時を間違ったモーセの逃亡です。

モーセの誕生は、ファラオの命令「生まれた男の子はみな、ナイル川に投げ込まなければならない」が施行されている中でありました。モーセの母親は、モーセの誕生後、三カ月は隠して育てていましたが、隠しきれないと観念し、モーセをパピルスのかごに入れて、ナイル川の岸辺の葦の茂みの中におきました。そこは、ファラオの娘が水浴びをする近くでありました。彼女は、その赤ん坊がヘブル人だと知りつつ、結局は養子として迎え入れます。そのことに対してファラオが反対しなかったことが、私にはとても不思議なのですが、これが神のご計画だったのでしょう。

モーセは大きくなり、同胞のヘブル人がエジプト人に打たれているところに遭遇し、そのエジプト人を誰も見ていないところで殺害してしまいます。そのことが発覚し、ファラオはモーセを殺そうと、逃げるモーセを追っていきますが、逃げ延びて遠くミディアンの地に到着します。ミディアンとは、シナイ山を越えた、エジプトの反対側、今のサウジアラビアの紅海沿岸部です。そのミディアンの地で、祭司レウエルの家族といっしょに暮らすこととなり、その娘のひとりと結婚し、子供をもうけました。このミディアンでの生活は40年間続きます。一方エジプトでは、ヘブル人が苦役に打ちひしがれているのを、神はご覧になり、みこころに留められたという記述で、第2章を締めくくっています。

今日はその中から、12節が導かれています。

「彼はあたりを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺し、砂の中に埋めた。」(12)

モーセは殺意をもって、エジプト人を打ち殺しました。これは、どの文化においても赦されないことです。聖書の十戒においても、第六戒に「なんじ、殺すなかれ」とあります。この聖書の十戒は、モーセに神が直接御手によって記されたものです。私は、モーセがこの神の戒めを聞いたとき、若かりし時の過ちを思い出し、悔い改めたのではないかと想像するのであります。

若かりし時のモーゼは、おそらく血気さかんで、正義感があり、民族意識もともなって、エジプト人を殺害してしまいました。この殺害はあたりに人影がないことを確信して、行われたもので、モーセはばれないと高をくくっていました。しかし、次の日に、へブル人たちの喧嘩の仲裁に入ろうとしたときに、冷や水を浴びせられます。喧嘩をしているへブル人のこの言葉でした。●「だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか。おまえは、あのエジプト人を殺したように、私も殺そうというのか。」だれにも見られていなかったはずのエジプト人殺害がばれていたのです。それも、その地域では皆に知れ渡っていたのです。モーセは罪悪感ではなく、殺人がばれファラオの知るところとなり、それが恐ろしくなり、シナイ山を超えて、ミディアンの地まで逃げ延びます。神を恐れたのではなく、エジプト人とファラオ王の報復を恐れたのです。苦役に苦しみあえいでいる同胞のへブル人に対する憐みとエジプトに対する怒りは理解できますが、殺人を犯すのは誤った正義感です。そんなモーセを神はなぜ選んだのでしょうか。モーセはファラオの娘の息子として、おそらく何不自由なく暮らしていたはずです。神は、そんなとんがった薄っぺらい正義感を持ち、神を恐れず人を恐れる、青臭いモーセを、へブル人の指導者となるために、試練を与えられたとは考えられないでしょうか。人は、痛みを知らなければ、他の人の痛みが分かることは難しい。ちやほやされて育ったお坊ちゃんモーセが、へブル人の指導者となれるわけがありません。神はそのために、モーセに一から出直すチャンスを与えられたのではないでしょうか。

モーセは、ファラオの娘の息子という立場で、もちろん、その立場を利用しようとしたわけではなかったでしょうが、苦しんでいる同胞のへブル人を救おうとしました。が、しかし、それはやはり上から目線でのことではなかったでしょうか。ですから、簡単に後先のことを考えず、エジプト人を殺せたのではないでしょうか。もしも、モーセが奴隷同然の扱いをされているヘブル人であれば、仲間のへブル人がひどい仕打ちをされているところを見たとしても、加害者であるエジプト人を殺したでしょうか。小心者の私なら、その殺害によって、地域のヘブル人全体に報復被害が及ぶことを恐れるでしょう。真のリーダーであれば、まずは虐げられているヘブル人に寄り添うことではないでしょうか。リーダーは指導者として、みんなの信頼を得ることが大切です。

皆さんは、ボスとリーダーの違いがわかりますでしょうか。簡単に言いますと、ボスは、みんなの後ろから命令し激励をとばします。しかし、リーダーはみんなの先頭にたって、みんなを引っ張っていきます。神はモーセをヘブル人のリーダーになれる者として導いていこうとしていたのです。

そのためには、ミディアンの地での40年間を要したのかもしれません。裸一貫となり、羊飼いとして地道に働き、祭司の家族となり、家庭をもつ。リーダーとしてモーセをエジプトに送り返すには、それらのことが必要であったのかもしれません。神様には、神様の時があります。それは、神を恐れ、神に従順になるという時でした。そのためには、祭司レウエルという義父の存在が必要だったのかもしれません。

では、私たちはここから何を学ぶべきでしょうか。モーセが同胞ヘブル人の救いのために、まちがった考えではありましたが、エジプト人を殺しました。私たちは、私たちの救いのため、平安のため、心の中で、にっくきエジプト人を殺そうとしていないでしょうか。そのエジプト人は、私たちにとってはやっかいな大嫌いな人かもしれません。しかし、それは他人でしょうか。「私」にとって、抹殺したいのは、過去にも現在にも未来にも罪だらけの自分自身です。しかし、私は私自身を抹殺できないでいます。パウロの心境と同じです。ローマ人への手紙7章18節~24節。少し長いですがお読みします。●「私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいますが、私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることが分かるのです。私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」

モーセはきっとこのことに、逃亡先のミディアンで気が付いたのではないでしょうか、みじめな自分に。モーセは、みじめな自分を救い出してくださるのは、創造主の神以外にないと悟ったのではないでしょうか。心の中のエジプト人を抹殺することではなく、救い出してくださる方に自分自身をゆだねることであると導かれたのではないでしょうか。その悟りは、次の3章で明らかにされます。

では、私たちはどうでしょう。イエス様の出現後は、パウロの言うとおりです。●「私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ書7:25)私たちを死の身体から救い出してくれるのは、イエス様以外にありません。また、コリント人への第一の手紙15章57節でも、同じようなことをパウロは述べています。●「神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」ハレルヤ!主に感謝いたします。罪による永遠の死から、イエス・キリストは私たちを勝利へと導いてくださいます。

さて、ここで、今日も天国長屋の八さん熊さんに登場していただきます。八さん、熊さん、ご自分の心の中にいるエジプト人ってどういう人でしょうか。

―――――

八: 心の中のエジプト人なぁ、、、自分の嫌なところ、罪まみれのところなぁ、、、

わては、やっぱり、「知ったかぶりする自分」かいなぁ。

熊: あ、それよう分かるわ。「なんやそんなことも知らんのかいな」とバカにされたくない

から、「知ったかぶりする」。まあ、プライドがそうさせんねんやろな。

八: わてな、プライドが高いとは思てへんかってんけど、小さい時から「知ってるか」って

聞かれて、「知らん」とすぐには言えん自分がおった。今はそうでもないねんけどな。

熊: それもよう分かる。なんでやろ。年取ってきたら、他人の目があんまり怖くなくなった、

ちゅうか。イエス様は、「知らん」ことをバカにするお方やない。

そのお方に認めてもらってるちゅうかな。

八: そやねん。イエス様がわてのことようご存知やから、「知ったかぶり」する必要がない

ちゅうか。わてよりわてのことご存知なんやから、「知らんもんは知らん」って

素直に言えるようになってきた。熊はなんかあるか?

熊: 自分の嫌なところなぁ、、、わてな、昔はよう人を裁いてた。バカにしてるというより

裁いてんねん。「自分が正しい」と思てたんやろな。

八: 「昔は」ちゅうことは、今はどうなんや。

熊: 今は、「裁きは主のもの」やと思てる。聖書を読んで行くうちに、自分がどれだけ

罪深い人間かちゅうのが分かってきた。

人のことをとやかく言う資格なんてあれへん人間やと。

八: そやねん。聖書読んでると、自分の罪深さが否が応でも迫って来る。

熊: そや、けんど、そんな罪深いわてのために、イエス様は十字架にかかって、

わての罪を帳消しにして拭い去って下さった、イエス様のいのちと引き換えにな。

八: 罪深いと思えば思うほど、イエス様の十字架のありがたみが分かる。

熊: せやから、わては決めたんた。人を裁かんとこ。できるだけ先入観をすてて、

その人を見よう、接しようとな。もしも裁かれなあかん人やったら、神が裁きはる。

けんど、わては、人は絶対ええところもあるはずやと思えるようになった。

悪いところは見えやすいけど、隠れたええところを見つけようと思てるねん。

わてみたいなもんが、イエス様によって救われたんやから、他の人も救われるはずや、

イエス様はその人のええところをご存知のはずやから。

八: なるほどなぁ。イエス様の十字架のありがたみは徹底してはるからな。

先入観をすてきることは、なかなかでけんことやけど、努力することが大切やわな。

熊: 最近な、人の隠れたええところを見つけるのん、結構楽しなってんねん。

そんで、見つけたら、「神様おおきに」ちゅうて感謝するねんや。

八: それが、完璧にできたらすごいな。

熊: 完璧になんてできるかいな。それができるんやったら苦労せん。あがきながら、

やってるんや。けんど、その人の宝もん見つけたら、なんかうれしゅうなんねん。

八: それって、まるで、畑の中に宝を見つけた農夫みたいなもんやな。

熊: ああ、天の御国の話やな。

八: そや。●「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、

それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを

売り払い、その畑を買います。」(マタイの福音書13:44)

熊: まあ、喜ぶけど、全財産を使うことはせんで。

八: まあ、それだけ、喜ぶちゅうこっちゃな。人の悪いところを見るのは簡単や。

見ようとせんでも目に入って来る。けんど人のええところを見つけるのは、宝さがしや。

人は神様がお造りになられた。せやからどこかに必ずええところはあるんとちゃう

やろうか。

熊: 悪いところがエジプト人やったら、ええところはグッドサマリタンやな。

八: なんや、そのグッドサマリタンって?

熊: ほら、イエス様のたとえ、ルカの福音書の10章にある、「善きサマリヤ人のたとえ」の

「善きサマリヤ人」のことをグッドサマリタンちゅうねん。

八: ああ、そのグッドサマリタンやったら、知っとる。

熊: あ、いま「知ったか」した。

八: こら、そんなことで、人を裁くな。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。最後は自虐的になりましたね。それにしても、八さんも熊さんも仲がいいですね。人の悪いところがエジプト人で、良いところがグッドサマリタンですか。面白いたとえです。ま、それはともかくとして、若かりし頃のモーセは自分勝手な正義感から、エジプト人を殺害してしまいました。神はそのモーセをヘブル人のリーダーとして養うために、ミディアンの地で裸一貫から人生をやり直すように導きました。そして、そのやり直しは勝利への道でもありました。なぜなら、その出直しの人生は、神への全幅の信頼を求めるものだからです。私たちも同じです。自分の嫌なところ、弱いところを抹殺することはできません。それは自殺行為だからです。自分の嫌なところ、弱さを認めることによって、私たちはその弱さをイエス様に委ねることができます。パウロは次のように告白しています。●「主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現われるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときこそ、私は強いからです。」(2コリント12:9-10)弱いときにこそ強い。それは、私たちが主に助けを求めて主に信頼しより頼むことによって、主の力が弱さのうちに完全に現われるからです。モーセはこのことを経験したのではないでしょうか。私たちは、自分の中にある醜さ、弱さを主にあずけて、いえ、あずけきってしまうことが大切です。そして、それが私たちを勝利へと導くのです。勝利とは、永遠のいのちの約束を得るだけではなく、天での喜びと平安が、今、味わうことができるのです。そして、そのことによって、主に信頼しより頼むこと、主にすべてを明け渡すこと、それ自体が勝利であることが証明されるのです。「負けるが勝ち」という言葉がありますが、「弱さを認め、主にあずけきることが勝ち、勝利」であるのです。

では、今日も宣言をいたしましょう。今日の宣言は「弱さを主にあずけ勝利します。感謝!」です。

では、3回宣言いたしましょう。

「弱さを主にあずけ勝利します。感謝!」、「弱さを主にあずけ勝利します。感謝!」、「弱さを主にあずけ勝利します。感謝!」。アーメン!

黙想をいたします。

黙想の時にお読みするのは、詩篇2篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。ヨハネの福音書16章33節。

「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」

黙想いたします。詩篇2篇。

黙想時の曲

⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

賛美⑧:わが心の目を開いてください

https://www.youtube.com/watch?v=qEUZ9ftVCTE

賛美⑨:主のもとに&主イエス神の愛

https://www.youtube.com/watch?v=foLS1J5r8DQ

●礼拝の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の主日礼拝は、3月17日 午後5時から小阪チャペルにて。

いずれも小阪チャペルのLINEグループで同時配信します。

聖書: 出エジプト記3章

「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ

https://vinechristchurch.jimdofree.com/