ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル
2024.3.24主日礼拝式
(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、茶菓とともに短く交わりの時をもちます。7時ごろ終了。)
●午後5時開会:ただいまより、2024年3月24日主日礼拝式を始めます。
●祈り
礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。
ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)
●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
続いて
●使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、
永遠の生命を信ず。アーメン。
礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。
私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。
賛美①:主よ御許に近づかん
https://www.youtube.com/watch?v=d-dScSsuHbQ
賛美②:やがて天にて
https://www.youtube.com/watch?v=ocmVwMGCyPc
賛美③:ただ主の十字架に(3月)
https://www.youtube.com/watch?v=D-sk1LkJQJM
賛美④:主の愛が今
https://www.youtube.com/watch?v=eV4pAbUFoGA
賛美⑤:恵みAgain & 御腕に抱いて & 声
https://www.youtube.com/watch?v=pPcBZPvL8kQ
賛美⑥:
https://www.youtube.com/watch?v=pPcBZPvL8kQ
【YOUTUBE配信開始】
2024年の年間の指針は「シェアリング:分かち合い」です。
年間聖句は、マルコの福音書6章39節~44節とルカの福音書14章15節です。
●マルコの福音書6章39節~44節「五千人の給食の奇跡」(新改訳聖書2017)
するとイエスは、皆を組に分けて青草の上に座らせるように、弟子たちに命じられた。
人々は、百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った。
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、
パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。
また、二匹の魚も皆に分けられた。
彼らはみな、食べて満腹した。
そして、パン切れを十二のかごいっぱいに集め、魚の残りも集めた。
パンを食べたのは、男が五千人であった。
●ルカの福音書14章15節「神の国の食卓」(新改訳聖書2017)
イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。
「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」
●2024年3月24日 主日礼拝メッセージ
「出エジプト記」とは、個々人の霊的解放の書であり、信仰の歩みを記しています。
そして、私たちは、次のことを、この「出エジプト記」を通して学びます。
(会衆)
罪の奴隷からの解放
聖別された個となるための務め
神の臨在による神との親しい交わり
●聖書拝読:出エジプト記第4章(新改訳聖書2017)
朗読: 若竹
中心聖句:
「すると、主はモーセを放された。彼女(モーセの妻チッポラ)はそのとき、割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。」(26)
メッセージ主題:『主に赦される人生』
改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。
できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。
●メッセージ
(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)
「出エジプト記」4章は、モーセが神からの使命、イスラエルの民をエジプトから導き出すという使命、に対して、ごねています。つまり、「イスラエルの民が私の言うことを信じなかったら、どうするんですか。だから、私はいやです。」とモーセは神に訴えたかったのではないでしょうか。主はそんなモーセに、権威のしるしを提示します。1つ目は、モーセの杖を蛇にかえたり、戻したりする不思議を。蛇、とくにコブラはエジプトの王冠に飾りとしてついており、王の権威と権力を象徴していました。ですから、蛇に変わったのは単なる不思議ではなく、モーセのイスラエルの民を導く権威と権力をあらわすものでした。また、イスラエルの民にとっては、蛇はサタンの代名詞でありますから、そのサタンをもコントロールできるという神の権威を表しているのでしょう。そして2つ目の不思議は、手に重い皮膚病を起こしたり治したりするものです。つまり、罪があるから病気になると信じられていた時代ですから、病気をコントロールする、罪を赦す神の権威をモーセに与えられたのです。そして、3つ目の不思議は、ナイル川からくんだ水を渇いた地面にまくと、その水が血となるというものでした。ナイル川は生活用水としても使われていて、大切なものでした。いわば、ナイル川の水は命です。血は死を意味していましたから、ナイル川の水、つまり命が死を意味するものとなってしまう。生死をコントロールする権威がモーセに与えられたことを意味しているのではないでしょうか。これら神からの三つの印が与えられたのですが、モーセは「自分は口下手だから」神からの使命に対して、性懲りもなく拒否する姿勢をとります。神はそんなモーセに対して、叱咤するような感じで告げます。●「人に口をつけたのはだれか。だれが口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか。それは、わたし、主ではないか。今、行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える。」モーセの往生際の悪さが目立ちます。神に語るべきことを教えるとまで言わせたモーセですが、最後のあがきとして、「どうかほかの人を遣わしてください」と神からの使命をなおも拒絶します。主は怒り、「あなたの兄アロンが雄弁だから、その兄を連れて行きなさい」と命じます。神はなんと辛抱強く、だだをこねているモーセに対して、怒っていても適切な指示を出されるのでしょうか。私でしたら、「ごちゃごちゃ言わんとはよう行きいなさい。言うべきことはそのつど教えたるさかい!」としびれをきらしていることでしょう。神の忍耐には敬服いたします。まあ、神様ですから。しかし、モーセも神様に対して、よくここまで抵抗しているなと、ある意味感心します。ま、そういう私も、2度ほど神様の召しを、「お金がない、そんな責任もてない」という理由で断ってしまっています。「神様、あの時は、ほんとうにすみませんでした。」
神様の忍耐には感謝いたします。
さて、最終的に神の命令に従ってエジプト入りをするモーセに対して、神は、エジプト王パロにどのように言うべきか、またパロの反応がどうあるかを、説明しています。しかし、モーセが妻と子供を連れて、エジプトに入る前に、神はモーセを殺そうとします。この神の行動が理解に苦しむ所でありますが、それを察したモーセの妻チッポラが、自分の息子、つまりモーセの息子に割礼を施し、その男性部分の包皮をモーセの両足につけました。足のどこにつけたかは定かではありませんが、足が男性の生殖器を象徴している可能性もあり、ゆえにチッポラが神を「血の花婿」と呼んだことは、神との婚姻関係、つまり神に従うことを示唆しているとも考えられます。そして、神は、モーセたちの息子の割礼と、モーセたちの息子に割礼を今までしていなかった彼らの不信仰に対する悔い改めを受け入れたのでした。これは、俗にいう一つの通過儀礼的なものではなかったでしょうか。大きな仕事をする前に完全なる清めを行う。モーセには家族がいます。その家族が心合わせて、主に仕えなければ、イスラエルの民をエジプトから救い出し、カナンの地に導くということはできないと、神は判断されたのではないでしょうか。神がモーセに使命を与え、結果的にモーセがそれに従って行こうとしたときに、神に対する罪、割礼をうけていない息子がいるという不信仰、信仰の乱れ、信仰のゆるみを家族一丸となって、その罪を悔い改める必要があったのです。「神がモーセを殺そうとした」という記述は、神がモーセの不信仰を指摘した、「罪の報酬は死」(ローマ6:23)であることを再認識させたということではないでしょうか。ですから、モーセの息子の割礼とその割礼での皮をモーセの両足につけたということで、家族が悔い改めた証しとなり、「神はモーセを放された」赦したという記述になるのでしょう。
ここで、私は、伝道者の書10章1節を思い出します。
●「死んだハエは、調香師の香油を臭くし、腐らせる。少しの愚かさは、知恵や栄誉よりも重い。」ほんの些細な過ちや気のゆるみが、今までの、それからこれからの苦労を台なしにする。息子に割礼を施さなかったモーセの信仰のたるみが、エジプトの同胞をエジプトから救うという大業に水をさすことになると、神は判断し、「信仰にゆるみのあるモーセを殺そう、神がわざわざ選ばれたモーセを自らの手で殺そう」とする、神はそこまで非情にならざるを得ないのが、この「イスラエルの民をエジプトから救出する」という神の御業なのです。事実、モーセは長い名が40年間という期間、民を導いてきたにもかかわらず、民の要望に応じて、モーセは杖で石を打ち水をほとばせます。しかし、杖で石を打つのは1度でよかったにもかかわらず、2度打った、つまり、神を疑った、その気のゆるみによって、モーセは約束の地、カナンに入れませんでした。出エジプト第一世代の民も同じでした。神の裁きは厳しいと言わざるをえません。一つでも罪があれば、約束の地、私たちでしたら、天の御国には入れないのです。
ここで大切なことは、神は、ある人に使命を与える時、そして、その人がその召しに従おうとする時、本人も気がつかずにいる罪を明らかにし、悔い改めさせ、神に完全服従する者とされるということであります。新約時代の私たちには、モーセの息子の包皮の皮は、イエス・キリストの十字架での贖いを意味します。私たち異邦人には肉体的な割礼は義務化していませんが、心の割礼、つまりイエス・キリストを救い主として信じ受け入れるということが必要条件となります。イエス・キリストは、私たちの過去・現在・未来の罪を一切合切、主と共に十字架にかけ、イエス様の血で清められたのです。そして、三日目によみがえり、その血の贖いを永遠に有効のものとし、信じる私たちを天の御国へといざなうのであります。ですから、私たちはイエス・キリストを救い主として信じるだけで、救われるのです。約束の地へと足を踏み入れることができるのです。
モーセの信仰のゆるみには、息子に割礼を施し、その包皮をモーセの足につけるという、肉体の割礼ではなく、心の割礼が必要だったのです、エジプトの同胞をエジプトから導きだすために。
パウロがローマ人への手紙次のように述べています。2章25節●「もしあなたが律法を行うなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法の違反者であるなら、あなたの割礼は無割礼となったのです。」26節●「ですから、もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、その人の無割礼は割礼とみなされるのではないでしょうか。」28節●「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。」29節●「かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人の称賛は人からではなく、神から来ます。」
心の割礼という言葉は、新約聖書の新しい概念といいますかイメージでしょうか。いえいえ、旧約聖書にも多くでてきます。すこし、そのうちの2、3箇所をご紹介し、しばらく、この言葉に心を留めたいと思います。
●申命記10:16
「あなたがたは心の包皮に割礼を施しなさい。もう、うなじを固くする者であってはならない。」
「うなじを固くする者」とは、強情な人・心の頑なな人・わがままな人のことを言います。
ですから、「心の包皮に割礼をした人」とは、柔和な人のことであります。つまり、ここでは、主を受け入れ聞き従う人のことです。
●申命記30:6
「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、主を愛し、そうしてあなたが生きるようにされる。」
「心に割礼をされる」と、あなたは心を尽くし、いのちを尽くして、神、主を愛し、主を愛することは生きること、主を愛さない人は、死んでいる人、死にゆく人のこととなります。
●エレミヤ書4:4
「ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。そうでないと、あなたがたの悪い行いのゆえに、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう。」
「心の包皮を取り除いていない者」は、主のさばきを受ける。「悪い行い」とは、主を信じ愛さないことであり、その愛のない行動が、悪い行いであるとされます。
ちなみに、新約聖書では、次のようにあります。
●使徒の働き7:51
「うなじを固くする、心と耳に割礼を受けていない人たち。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖たちが逆らったように、あなたがたもそうしているのです。」
「心に割礼を受けている人」は、耳に割礼を受けている人でもあり、主の言葉を聞こうとする人です。また「心に割礼を受けていない人」は、「いつも聖霊に逆らっている人」です。キリストを信じ受け入れた人でも、聖霊に逆らった行動をすることがあります。それは、この世に生ある限り、私たちは肉の罪びとでもあるからです。キリスト者は、いつも聖霊に逆らっている人、つまり、聖霊が心に住んでいない人ではありません。キリスト者は、心と耳に割礼を受けている人です。では、こういう疑問がわいてくる人がいらっしゃるかもしれません。「私は、本当に心と耳に割礼を受けているのだろうか。罪びとで罪を犯し続けているのに。」と。この疑問はすぐに捨ててください。イエス・キリストを信じたとしても、私たちは罪びとには変わりません。罪を犯し続けてしまう私たちの罪を永遠にあがなってくださるのが、十字架にかかり、3日目に死を克服して、永遠の存在となった救い主イエス様なのです。イエス・キリストを信じたからといって、罪を犯さなくなった人はだれもいません。使徒でさえそうです。心の中に住んでくださる聖霊様の働きによって、私たちは罪を犯しにくくなるように導かれるのですが、私たちがこの世に生きている限り、罪を犯さない人にはなれないのです。「あなたは、罪を犯し続けるのに、本当にクリスチャンか、イエス様を信じているのか、それでもクリスチャンか。」という悪魔のささやきには、「はい、これでもクリスチャンです」ときっぱりと答えましょう。
「心の割礼」という表現は、「砕けた心」とか「悔いた心」という表現でもあらわされることがあります。
●詩篇34:18
「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。」
●詩篇51:17
「神へのいけにえは、砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よ、あなたはそれを蔑まれません。」
「神のうけいられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。」(口語訳)
イエス様は、「心の貧しい」という表現を使われています。
●マタイ5:3
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」
また、「自分を低くする者」つまり謙虚な者も「心の割礼」でもあるでしょう。
●ルカ18:14
「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」
イエス・キリストを信じ受け入れ聞き従うことこそが、心の割礼であり、神がお喜びになることであります。イエス様は、三日目に復活し、死を克服して、イエス様の罪のあがないは永遠に有効となりました。ですから、高ぶりを覚える時、罪が自分の中で明らかにされた時、主の前にひざまずき、悔い改め、主が復活されたように、新しい自分として生まれ変わらせていただきましょう。そのためにも、聖霊様は私たちの心の中にとどまりくださるのですから。そして、イエス様の血潮によって、私たちの罪はゆるされ、また、イエス様の復活によって、罪のあがないは永久に有効であって、私たちに永遠のいのちを約束されるのです。モーセが神から解き放されたように、また、そのことを「血の花婿」と呼ばれたように、イエス様の十字架の血潮によって、すべての罪、過去現在未来における罪はゆるされたという確信を持とうではありませんか。
さて、ここで、今日も天国長屋の八さん熊さんに登場していただきます。八さん、熊さん、お二人は、罪赦されたという確信をお持ちでしょうか。
―――――
八: 「罪赦された確信があるか」ちゅうて、誰に聞いてんねんな。
そんなの当たり前やないか、そのためにイエス様は、十字架の死からよみがえり
はったんやから。なあ、熊。
熊: いや、ま、あ、そうやな。
八: 熊、なんか歯切れがわるいな。どうしたんや。
熊: もうすぐ、イースターや。
八: そやなぁ。そんでもって、今日から受難週や。そんで、それが?なんで歯切れわるいん?
熊: せやから、イエス様の痛みや悲しみや憤りも、感じやんとあかん。
せやのにやで、わては、いっつも、イエス様を悲しましとる。
八: 悲しましとる? どういうふうにや。
熊: 口はわざわいの元ちゅうやろ。わてな、ときどき、やってしまうんや。
八: 口の軽いわてやったら、分かるけど。口の重たい、熊がかいな。
熊: 口が重たいから、言葉足らずになるんやな。出た言葉で相手が勘違いしたり、
傷ついたりする。それの繰り返しや。相手に福音が伝わらんかもしれん。それか、
相手につまづきを与えるかもしれん。そんでもって、イエス様を悲しませとる。
八: そうか、たしかに、口は災いのもとやわな。わてもようやってしまう。
けんどな、わてはこう考えてんねん。やってしもたら、しゃあない。
やらんほうがええにこしたこともないのも分かっとる。やってしもたら、
神様にすぐあやまる。すぐあやまることで、神様のほうを向いてるやろ。
ほんなら、悔い改めたことになるんや。な、悔い改めは、神様に向くことや。
ほんでもって、悔い改めたら、赦してもらえる。イエス様がそうしてくださったんや。
悔い改めても、赦してもらわれへんのとちゃうかって思てしまうことは、
イエス様の十字架やよみがえりを無駄にしてる。それは、めちゃんこ失礼というより、イエス様を侮辱しとる。わては、イエス様を信じたら赦してもらえると、
そう信じてんねん。
熊: やってしもたら、他の人にも迷惑かかるやんか。
八: そらそうや。けんど、それはまた別の話や。相手にも謝らんとあかん、
または誤解をとかなあかん。けんど、その前に、神様に接見せなあかん。
熊: せっけん、って顔でも洗うんか。
八: あほ、その石鹸とちゃうわ。神様の御前に出るちゅうこっちゃ。
顔でも洗って出直してこい、ちゅうねん。
熊: やっぱり、石鹸が必要なんや。
八: もう、かなわんなぁ。わてらは、イエス様の恵みによって、悔い改めたら赦されんねん。
熊みたいに「わては罪びとやどうしようもないなぁ」ちゅうてクヨクヨして、
悔い改めるのが遅くなったら、遅くなるほど、「赦された、感謝!」ちゅう気持ちに
なれへんやろ。
神様に方向転換するちゅうことは、気持ちも方向転換するちゅうこっちゃ。
熊: そうか、クヨクヨする前に、悔い改めんなあかんねんな。
悔い改めたら、気持ちも方向転換。方向転換せえへんかったら、どうすんねん。
八: なんで、そんなに心配性なんや。その心配、ぜーんぶ、イエス様に預けたらええねん。
すっきりして、イエス様が出直しなさいって言ってくださるはずや。
熊: わかった。クヨクヨせんと、神様に方向転換して、気持ちも方向転換してもらうわ。
八: せや、誰に対しても、謝るんやったら早いほどええでぇ。
熊: 分かった。ほなら、八、ごめんな。
八: なんや、なんで、わてに謝んねんな。
熊: いや、これから謝らなあかんようなことするかもしれへんから、先に謝っとくわ。
八: なんや、それ。
熊: 先手必勝。
八: けったいなやっちゃな。若さん、もう、この熊どうにかして。
―――――
熊さんだけに、熊った熊った、なんてね。失礼しました。八さん、熊さん、ありがとうございます。クリスチャンなら、イエス様によって赦された確信があるはずなのですが、ときどき、その確信が揺らぐ時があるのかもしれません。その揺らぎは、イエス様の十字架の犠牲と復活が信じられなくなってきていることに起因しているかもしれません。イエス様の復活が信じられなければ、何の意味もありません。イエス様の復活が事実であり、それをいのちをかけて使徒たちは、ユダヤの人たちに、異邦人たちに宣べ伝えていきました。今週はイエス様の受難週、そして次の日曜日は、イエス様の復活を記念するイースターです。マタイの福音書26章~28章、マルコの福音書14章~16章、ルカの福音書22章~24章、またはヨハネの福音書16章~21章を読み、イエス様の十字架でのご受難と復活に思いをはせる時間をお持ちください。
さて、今日も宣言をいたします。今日の宣言は「私のすべての罪は、イエス様によって赦されました。感謝!」です。
では、3回宣言いたしましょう。
「私のすべての罪は、イエス様によって赦されました。感謝!」、「私のすべての罪は、イエス様によって赦されました。感謝!」、「私のすべての罪は、イエス様によって赦されました。感謝!」。アーメン!
黙想をいたします。
黙想の時にお読みするのは、詩篇32篇です。
●黙想:
黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。マタイの福音書9章2節。
「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」
黙想いたします。詩篇32篇。
黙想時の曲
⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM
https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0
●祈り
●主の祈り
天にまします我らの父よ
ねがわくは、御名をあがめさせたまえ
御国を来たらせたえ
御心の天になるごとく
地になさせたまえ
我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり
アーメン。
【YOUTUBE配信終了】
賛美⑧:野に咲く花
https://www.youtube.com/watch?v=_SByFM4cJL0
賛美⑨:口の言葉
https://www.youtube.com/watch?v=WAZR-BU78Z8
●礼拝の感謝の祈り
(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)
●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」
https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM
●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21
●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏
https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0
●閉会
●連絡
次回の主日礼拝は、3月31日 午後5時から小阪チャペルにて。
いずれも小阪チャペルのLINEグループで同時配信します。
聖書: 出エジプト記5章
「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ
https://vinechristchurch.jimdofree.com/