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メッセージ主題:『主のもとに戻る人生』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2024.3.31主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、茶菓とともに短く交わりの時をもちます。7時ごろ終了。)

●午後5時開会:ただいまより、2024年3月31日主日礼拝式を始めます。

●祈り

礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

続いて

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。

私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。

賛美①:我に来よとイエス君は

https://www.youtube.com/watch?v=5me0fUNhrgo

賛美②:イースターの朝には

https://www.youtube.com/watch?v=ypJtZi0SjKw

賛美③:ただ主の十字架に(3月)

https://www.youtube.com/watch?v=D-sk1LkJQJM

賛美④:わたしを守る方

https://www.youtube.com/watch?v=e53zW4T5fI8

賛美⑤:あなたのために

https://www.youtube.com/watch?v=80H74JdvpX4

賛美⑥: 愛の絆

https://www.youtube.com/watch?v=hNOl-KvzZGo

【YOUTUBE配信開始】

2024年の年間の指針は「シェアリング:分かち合い」です。

年間聖句は、マルコの福音書6章39節~44節とルカの福音書14章15節です。

●マルコの福音書6章39節~44節「五千人の給食の奇跡」(新改訳聖書2017)

するとイエスは、皆を組に分けて青草の上に座らせるように、弟子たちに命じられた。

人々は、百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った。

イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、

パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。

また、二匹の魚も皆に分けられた。

彼らはみな、食べて満腹した。

そして、パン切れを十二のかごいっぱいに集め、魚の残りも集めた。

パンを食べたのは、男が五千人であった。

●ルカの福音書14章15節「神の国の食卓」(新改訳聖書2017)

イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。

「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」

●2024年3月31日 主日礼拝メッセージ

今日はイースターですが、小阪チャペルでは、今、「出エジプト記」を学んでおります。イエス様の復活を仰ぎ見つつ、「出エジプト記」に心を留めたいと思います。

「出エジプト記」とは、個々人の霊的解放の書であり、信仰の歩みを記しています。

そして、私たちは、次のことを、この「出エジプト記」を通して学びます。

(会衆)

罪の奴隷からの解放

聖別された個となるための務め

神の臨在による神との親しい交わり

●聖書拝読:出エジプト記第5章(新改訳聖書2017)

朗読: 若竹

中心聖句: 

「それでモーセは主のもとに戻り、そして言った。『主よ、なぜ、あなたはこの民をひど目にあわせられるのですか。いったい、なぜあなたは私を遣わされたのですか。私がファラオのところに行って、あなたの御名によって語って以来、彼はこの民を虐げています。それなのに、あなたは、あなたの民を一向に救い出そうとはなさいません。」(22-23)

メッセージ主題:『主のもとに戻る人生』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

そして、イースター、主の復活祭、おめでとうございます。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。

●メッセージ

(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)

「出エジプト記」4章の最後では、●「アロンは、主がモーセに語られたことばをみな語り、民の目の前でしるしを行った。民は信じた。彼らは、主がイスラエルの子らを顧み、その苦しみをご覧になったことを聞き、ひざまずいて礼拝した。」とあります。民はエジプトからの救出に期待し、主に感謝し、主を崇め、主を礼拝しました。しかし、5章の最後の方では、民はモーセとアロンに向かって、「主があなたがたを見て、さばかれますように。あなたがたは、ファラオとその家臣たちの目に私たちを嫌わせ、私たちを殺すため、彼らの手に剣を渡してしまったのです。」とモーセとアロンに恨み節です。なぜ、民は救出リーダーであるモーセとアロンを恨むのでしょうか。それは、モーセとアロンがファラオのところに行き、「イスラエルの神、主はこう仰せられます。『わたしの民を去らせ、荒野でわたしのために祭りを行えるようにせよ。』」と訴えたために、ファラオは、ヘブル人に対して、より重い労役を課し、民をモーセたちの「偽りのことばに目をそらせる」(9)ようにしました。ファラオのたくらみは見事に成功し、民はモーセたちに不信を抱き、文句をいいます。「あんたのせいで、暮らしはよけいにひどくなった。どうしてくれるんや。」とくってかかります。モーセは戸惑い、主のもとに戻り、「どうして、民を一向に救い出そうとはなさいませんか」と主に怒りをぶつけます。

注意すべき点は、この5章では、主とモーセの会話はありません。しかし、6章に入ってから、主はご自身を、「わたしは、主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神である」ことを明らかにしています。これは何を意味にしているのでしょうか。鍵となる言葉は、22節の「主のもとに戻る」ということではないでしょうか。こうは考えられないでしょうか。モーセとアロンは、主の召しに従ったのですが、ファラオと対決するなかで、神の導きをないがしろにした、いや、そうでなくても、自分の力で何とかしようとしたのではないでしょうか。つまり、エジプトという大きな敵を前にして、主から注がれたものとはいえ、自分の知恵と力だけで解決しようとしてしまった。このことは私たちも陥りやすいところではないでしょうか。何かに一生懸命になっていると、神を忘れる、あわよくば神を忘れなくても、神に導いていただくことを祈らない。探し物をしていると、先ずは、「神様どこにあるか教えて下さい」と祈ってから捜したら良いものを、てんぱっていればいるほど、神に尋ねる、神にお願いすることを忘れてしまうのが私たちではないでしょうか。まして、神から不思議な知恵や力を頂いたとなれば、「わたしは大丈夫だ」というような、変な自信が前面にでてきませんでしょうか。それは、一種の傲慢でもあるでしょう。クリスチャンは神から選ばれた者という認識がありますが、それが、時としてプライドになってしまう、いえ、プライドに聞こえてしまうことがあるのではないでしょうか。神は、そんな主を崇めない、主に祈り、主により頼むことをわすれた私たちに、顔をむけてはくださいません。つまり、主からの祝福はないということになりかねません。私たちは、民数記6章にある「アロンの祝福」を心に留める必要があります。22節から27節で、主は次のようにモーセに告げられました。

●「アロンとその子らに告げよ。『あなたがたはイスラエルの子らに言って、彼らをこのように祝福しなさい。主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』アロンとその子らが、わたしの名をイスラエルの子らの上に置くなら、わたしが彼らを祝福する。」

これは、よく礼拝最期の祝祷のときにも用いられるものです。神は神の祝福を妨げるあらゆる災いから守り、神の人に対する好意的な態度で親密な関係を保ち、人に対して個人個人に注意を払われる、という恵みのお言葉ではありますが、その祝福の条件は、27節の「アロンとその子らが、わたしの名をイスラエルの子らの上に置くなら、わたしが彼らを祝福する。」であり、「主の名を民の上に置く」とは「主の名で、民のために祈りをささげる」という意味です。主への賛美を含む、主への祈りが、祝福を受ける必要条件なのです。

しかし、出エジプト記5章においては、モーセとアロンが主を賛美したとか、主に祈ったとか、主に頭を垂れたとか、そのような記述はありません。唯一22節の「モーセは主のもとに戻った」というところだけです。しかも、モーセが主のもとに戻ったのは、主に文句を言うためでした。

しかし、賛美であれ、祈りであれ、また文句を言うためであれ、「主のもとに戻る」ことは、とても大切なことなのではないでしょうか。日本語には、「我に返る」という言葉がありますが、がむしゃらに集中していて、冷静さを欠いている時に、何かの拍子に、ふと「我に返る」のでありますが、それに近い心理状態で、モーセは主に立ち返ったのであります。理由はどうあれ、「主のもとに戻る」ことが、主の祝福を受ける必要条件なのです。

主からの祝福を受けるためには、パウロの言うところの「主をいつも思う」ことが大切ですし、また、「主をいつも思う」という漠然としたことではなく、主の十字架での私たちの罪の贖いと死からの復活に感謝をささげるということであります。パウロはテモテへの第二の手紙2章8節で、次のようにアドバイスします。

●「イエス・キリストのことを心に留めていなさい。私が伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえった方です。」パウロはさらにもっと具体的な真理を告げます。11節~13節。●「私たちが、キリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きるようになる。耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる。キリストを否むなら、キリストもまた、私たちを否まれる。私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」「主をいつも思う」とは、よみがえりのキリストを通して、私たちも主とともによみがえり、主とともに王となる、その約束を思い起こさせていただき、感謝をささげるものであります。キリストが私たちになさってくださったことを覚え、感謝をささげることも大切なのですが、それより、私たちの未来には、天の御国に招待されるというすばらしい恵みがあり、そのことを想い、先取りの感謝をささげることのほうが大切なのです。私たちは、過去のことにとらわれて後ろ向きに生きているのではなく、未来に向かって生かされているのです。

モーセは、神の民であるイスラエルの人々をエジプトから導き出すには、いろいろと困難があることを、神からあらかじめ伝えられているにもかかわらず、民を説得できず、かえって民からの苦情にとまどい、神にフラストレーションをぶつけます。モーセは、主に期待するがゆえに、より一層フラストレーションを感じていて、それをぶつけるという「主のもとにもどる」方法をとりました。

では、私たちはどうでしょうか。私たちは、いつも主の十字架と復活を覚え、主と会話しているでしょうか。どんな会話であれ、そのこと自体が、「主のもとにもどる」行為であります。では、私たちの日常生活において、私たちは毎日「主のもとにもどって」いるでしょうか。また、モーセのように神様に本音をぶつけているでしょうか。

さて、ここで、今日も天国長屋の八さん熊さんに登場していただきましょう。八さん、熊さん、お二人にとって、「主のもとにもどる」という時はどんな時でしょうか。

―――――

八: 「主のもとにもどる」か、わてのイメージは、港やな。船が沖にいって、漁をして帰って

来る。大漁のときもあれば、まったく魚がとれへんときもあるやろ、けんど、港に

帰って来て、疲れを癒やす、ちゅうか、主に憩うためにもどってくる。

熊: せやなぁ、わてらには戻る場所がある。沖は荒れ狂っていても、港は凪や。

主の平安がそこにはある。もどる場所があるちゅうのは感謝やなぁ。

八: もどる場所ちゅうのは、自分の居場所でもあるわな。教会もそうや。

教会堂のことやないでぇ。

熊: わかっとるがな。信徒の集まりの場やろ。そこに自分の居場所を見つけることができる

のは幸せや。けんど、港にずーっとおったら、仕事にならん。港の方がいごこちがええ、

沖の荒波とちごて、凪やさかいな。それと同じで、教会にずっとおってもしゃあない。

漁師が港を出て漁をするのと同じように、わてら信徒も出て行って、福音を伝えなあかん。

八: そりゃそうや。それがイエス様の大宣教命令やからな。ほら、マタイの福音書28章19節

●「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」けんど、ただ単に

福音の種蒔きやない。「弟子とする」ちゅうことは、じっくり育てなあかんちゅう

こっちゃ。まあ、わてらに教育係は無理やけどな。

熊: いや、そんなことはないでぇ。わてらの心の内に住んでくださっている聖霊様が、

そのように導いてくださるかもしれん。

八: いやぁ、そうは言うけど、なかなか大変やでぇ。モーセはんみてみぃ。エジプトから

みんなを引き連れて出て行ったはええけど、イスラエルの民の心を主にむけるのに、

40年間かかって、やっと約束の地カナンについた。

モーセはんもカナワンなぁって思てはったと思うで。

熊: あ、ここで八にしては珍しくダジャレつっこんできたな。

八: わてかて、たまにはダジャレぐらいいうわいな。けんど、モーセはんもそやったけど、

静かなところにいって、主のもとに戻るちゅうのは大切やね。

熊: ほんまなや。イエス様もゲッセマネで一人になって汗が血のように流れるほど、

祈りに専念して、神様のもとに戻りはった。

八: せやなぁ、静まりの時って大事やな。けんど、この5章のモーセはんの「主のもとに

戻った」ちゅうのは、主に愚痴を言いにいったんやわな。

熊: そや。愚痴も不平不満も、節度をわきまえつつ、神様にぶつけたらええんとちゃうやろか。

それも「主のもとに戻る」ちゅうことなんやろうから。わてな、ときどき、

やってしもたと思うとき、イエス様に愚痴ってるねん。まあ、自分の行ないを

愚痴ってるねんけどな。「なんで、わて、こんなにアホなんやろ、何度も何度も同じ過ちしてしもて。」「イエス様、なんとかしてください。このわての性根、たたき直しておくんなさい。」

八: わてもようあるわ。それに、特に「誘惑に負けてしもた時」「怒りの感情を

抑えきれなかったとき」、、、「こんな私に誰がした」ちゅうてイエス様にくってかかる、

まあ、くってかかりはせえへんねんけど、イエス様に訴えてる時もあるなぁ。

熊: そんな時って、みじめやなぁ。モーセはんも、もちろんイスラエルの民から突き上げを

くろたんやから、みじえやったやろ。相当落ち込んでたやろうしな。しかし、神様に

「どうして、あなたは、あなたの民を一向に救い出そうとはなさらないんですか」と

言うてる自分もみじめやと感じたんとちゃうやろか。

八: 神様に愚痴を言えば言うほどみじめになるのかもしれへんなぁ。

熊: そやかて、神様はわてらをお造りになられたお方や。それに御子イエス様はわてらの罪を

ご自身のいのちで帳消しにされたお方や。そんなお方に愚痴ゆうんやで、わてら。

どの口がゆうとんねんって。身の程知らずや。

八: けんど、イエス様は、そんなわてらのことを「友よ」って呼んでくれはる。

熊: 友やから、愚痴ぐらいきいたるよって言ってくださるんかいな。

八: わてらのイエス様はな、心の広いお方や。出来損ないのわてらのことなんで百も承知や。

イエス様の一番弟子のペテロはんが、「どんなことがあってもイエス様について行きま

す」ちゅうて言うといて、その口が乾かんうちに、「イエス様は知らん、わてはあの人

の弟子とちゃう」ちゅうて、イエス様が捕らえられて、大祭司の家の中庭に連れて

行かれた時に、ペテロはん、イエス様を三度も否定しはった。そんなことも、

イエス様は百も承知で、ペテロはんに前もって、●「わたしはあなたのために、

あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、

兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)イエス様は、わてらが弱いことをよう

知ってるねん。愚痴も言えば、嘘もつく。けんど、そんなわてらのために、

●「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持って

いません。」ちゅうって、ご自分が十字架にかかりはった。

熊: そやなぁ。そやったなぁ。わてらに一番大きな愛を示して下さった。

わてらは愛されている。それは確かや。わてらは、高価で尊いらしいから。

八: そやさかい、わてらが主のもとにもどる時は、いつもイエス様はウェルカムしてくださる

んや。それはまるで放蕩息子のおやじさんのように、死んでたと思てた息子が、惨めな

姿であったとしても、帰ってくるのを見るや否や、走りよって息子を抱きしめ、キスを

する。「お帰りお帰り、よう帰ってきた」ちゅうてな。

熊: 悔い改めたら赦される、イエス様がお帰りって抱きしめてくれはるんやな。ということは、

あれか、モーセはんが、「主のもとに戻った」ちゅうことは、悔い改めたちゅうこと

にもなるんか。

八: モーセはんが、何を悔い改めたんや。

熊: ほら、若さんゆうてはったやないか。モーセはん、5章では、自分の力で、まあ、

あれも神様から授かった不思議な力やねんけどな、その力だけで、ファラオを

説得できる、またイスラエルの民の支持を得られると思て、結局失敗して、よけいに

悪い状態になってしまう。せやから、「主のもとに戻った」ちゅうのは、主に

悔い改めたちゅうことでもあるんとちゃうか。

八: まあ、そうかもしれんけど。悔い改めたにしては、モーセはん、神様にブツブツ

ゆうてはるなぁ。

熊: 神様に文句をゆったとしても、神様の方を向いて、文句ゆうてるんやから、悔い改めが、

神様の方を向くちゅう方向転換やねんから、やっぱり、「主のもとに戻る」ちゅうのは、

神様にとっては、「よう帰ってきた」ちゅうて、抱きしめてくれたり、慰めてくれはる

んとちゃうやろか。せやから、ほれ、5章のつづきで6章の初めには、

●「あなたには、わたしがファラオにしょうとしていることが今に分かる。」

ちゅうてくれてんねんやて。な、若さん、そうとちゃいまっか?

―――――

熊さん、私にそこを振ってきましたね。正直よくわかりません。しかし、モーセが主により頼まずに失敗し、失意のどん底に居て、「主のもとに戻って」からは、6章ではまだ、モーセがだだをこねていますが、7章からは主に聞き従っていて、ファラオと対決し、イスラエルの民の信頼も得ていきます。八さんが、「主のもとに戻る」ことのイメージを港に例えていました。まさに、そうではないでしょうか。まあ、人によってそのイメージは変わるかもしれませんが、一つのイメージとして「港」が与えられたのには感謝いたします。

さて、今日も宣言をいたします。今日の宣言は「どんなときでも、主のもとに帰ります。感謝!」です。

では、3回宣言いたしましょう。

「どんなときでも、主のもとに帰ります。感謝!」、「どんなときでも、主のもとに帰ります。感謝!」、「どんなときでも、主のもとに帰ります。感謝!」。アーメン!

黙想をいたします。

黙想の時にお読みするのは、詩篇16篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。ルカの福音書13章5節。

「わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」

黙想いたします。詩篇16篇。

黙想時の曲

⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

賛美⑧:御腕に抱いて

https://www.youtube.com/watch?v=vV7m1nPNmZA

賛美⑨:いのちの光

https://www.youtube.com/watch?v=Uc3CJhPS1Y4

●礼拝の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の主日礼拝は、4月7日 午後5時から小阪チャペルにて。

いずれも小阪チャペルのLINEグループで同時配信します。

聖書: 出エジプト記6章

「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ

https://vinechristchurch.jimdofree.com/