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メッセージ主題:『主が勝利をもたらす人生』

ぶどうの木キリスト教会 小阪チャペル

2024.4.14主日礼拝式 

(しばらく夕拝だけとさせていただきます。夕拝のあと、茶菓とともに短く交わりの時をもちます。7時ごろ終了。)

●午後5時開会:ただいまより、2024年4月14日主日礼拝式を始めます。

●祈り

礼拝の心構えの聖句をいっしょに唱えましょう。

ローマ人への手紙12章1b-2節(新改訳聖書2017)

●「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分をかえていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

続いて

●使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、

天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、

永遠の生命を信ず。アーメン。

礼拝は、私たち自身を神様に献げ、神様の御名をほめたたえ、神様の御声を聞く時間であります。

私たちの賛美のいけにえを喜びをもってともに主にささげましょう。

賛美①:輝く日を仰ぐ時

https://www.youtube.com/watch?v=VDiZ2h7A0wg

賛美②:主と共に歩む

https://www.youtube.com/watch?v=fzfSvZkPJ04

賛美③:あなたのために(4月)

https://www.youtube.com/watch?v=80H74JdvpX4

賛美④:さあ主にささげよう

https://www.youtube.com/watch?v=6eZQvnMWyJk

賛美⑤:ありのままを

https://www.youtube.com/watch?v=lqtNno4LN_Y

賛美⑥: 私の望みは主イエスだけにある

https://www.youtube.com/watch?v=evN2r3-S_OI

【YOUTUBE配信開始】

2024年の年間の指針は「シェアリング:分かち合い」です。

年間聖句は、マルコの福音書6章39節~44節とルカの福音書14章15節です。

●マルコの福音書6章39節~44節「五千人の給食の奇跡」(新改訳聖書2017)

するとイエスは、皆を組に分けて青草の上に座らせるように、弟子たちに命じられた。

人々は、百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った。

イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、

パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。

また、二匹の魚も皆に分けられた。

彼らはみな、食べて満腹した。

そして、パン切れを十二のかごいっぱいに集め、魚の残りも集めた。

パンを食べたのは、男が五千人であった。

●ルカの福音書14章15節「神の国の食卓」(新改訳聖書2017)

イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。

「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」

●2024年4月14日 主日礼拝メッセージ

「出エジプト記」とは、個々人の霊的解放の書であり、信仰の歩みを記しています。

そして、私たちは、次のことを、この「出エジプト記」を通して学びます。

(会衆)

罪の奴隷からの解放

聖別された個となるための務め

神の臨在による神との親しい交わり

●聖書拝読:出エジプト記第5章(新改訳聖書2017)

朗読: 若竹

中心聖句: 

「わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエルの子らを彼らのただ中から導き出すとき、エジプトは、わたしが主であることを知る。」(5)

メッセージ主題:『主が勝利をもたらす人生』

改めまして、こんばんは。そして、お帰りなさい。

できるだけ、主の言葉に耳を傾け、聞きながら黙想してみてください。「聞く」ということを大切にしてみましょう。主が皆さんおひとりおひとりにお語り下さることを期待しましょう。

●メッセージ

(中略:ホームページ、およびFB「ぶどうの木キリスト教会」に記載)

「出エジプト記」6章では、神はモーセにたいして、「わたしが主である」と4回も告げ、神が共にいるのだから、勇気をだしなさい、とモーセの背中を後押ししますが、モーセはなかなか一歩が踏み出せないでいました。その理由の一つに、7章では、モーセが80歳、アロンが83歳という高齢ですから、まあ、老人がしり込みするのも分かる気がします。今のシニアの人たちは、気持ちも体力も若いですが、あの当時はどうだったのでしょうか。まあ、神様は、80歳の老人に対して、無茶言いはるなぁと思うわけですが、80歳の老人でも、主がともにおられれば、いくらでも新しいことができるということではないでしょうか。いやぁ、これだけでも今日のメッセージが終わってもいいぐらいじゃないかという気がするのですが、今日、示された箇所はここではございません。7章の初めに、主は、モーセに、主がモーセをファラオにとっての神とする、兄アロンをモーセの預言者とする、とおっしゃいます。これはどういう意味でしょうか。ファラオにはエジプトの神がいました。しかし、そのエジプトの神でなく、モーセがファラオの神となる。つまり、ファラオはモーセにひれ伏す、ファラオがモーセと争ったとしても、人対神でありますから勝ち目がない、ということではないでしょうか。それを、神は自信をなくしているモーセを勇気づけるために、もちろん口先だけの勇気づけではなく、実際にそのようになることを、モーセに告げたのであります。

そして、ファラオの前でモーセとアロンに不思議を行います。1つ目は、アロンの杖が蛇になるというもの。しかし、ファラオも家臣を使って同じ不思議をあらわした。2つ目は、杖でナイル川の水を打つと、水が血にかわるというもの。しかし、ファラオの家臣たちも再び同じ不思議をあらわしました。7章はここまでですが、8章から11章でも同様の不思議が続きます。結局、この7章の時点では、モーセはファラオにとって神とはなり得ませんでした。しかし、主がモーセに告げたことですから、必ずそのことはなされます。そして、ファラオがモーセにひれ伏した時、「エジプトの民は、モーセの神が主であることを知る」のであります。これは完全なる主の勝利を意味しています。

私たちは、主の勝利を忍耐をもって待ち望む時、主はその私たちの願いに応えてくださるのです。

モーセは、40年間、忍耐に忍耐に重ねて、民を導き、約束の地カナンの地、、、の一歩手前まで導きました、残念! しかし、神は約束を忘れなかったわけではありません。モーセの民の二世たちがカナンの地に足を踏み入れます。神の約束は、神の時に必ず成就します。しかし、その神の時は、私たちの期待とは異なることが多く、私たちはそれゆえに、驚きもし、ヤキモキもし、イライラもし、失望もします。それは、私たちへの、神の愛ゆえの試練でもあります。モーセの民の40年間のさまよいも、神を信頼し神に従うための試練であるともいえます。

いえ、私たちは、神を信頼し、神の試練であるとポジティブに考えるべきです。

ヤコブは次のように告げます。

●「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。」(ヤコブ1:12)

『試練に耐える人は幸いです』とは、なんと心強い言葉でしょう。その上、乗り越えられない試練を与えられる神ではありません。

パウロは次のように言います。

●「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道を備えてくださいます。」(1コリント10:13)

試練とともに脱出の道、つまり逃れの道の大元はイエス様であると信じているのですが、イエス様を信頼しより頼むことで、その道はおのずと開けてきます。

ペテロもそのことを裏付けています。

●「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」(1ペテロ5:10)

『苦しみから回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者とされる』信仰の人は、何に対して不動の者とされるのでしょうか。ペテロは、次のように説明します。

●「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現わされるように用意されている救いをいただくのです。そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。」(1ペテロ1:5-7)

このことに確信をもつパウロは、患難さえも喜び、すべてを益としてくださる神に期待しています。

●「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)

それゆえに、私たちは失望せず、目を高く上げて、私たちを創造した方を見上げます。その方は私たちに試練に対して忍耐を維持する力を与えて下さる方だからです。

●「あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造した方。疲れることなく、弱ることなくその英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には勢いを与えられる。若者も疲れて力尽き、若い男たちも、つまづき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。」(イザヤ40:28-31)

もちろん、最終的な望みは、「天の御国」へといざなわれることですが、まずは、この世にあって、イエス・キリストを通して、新しい力を得ることができるのです。このことがなされるということ自体、主の勝利なのです。私たちの天の御国への凱旋もこの地上においての主イエス・キリストと聖霊による、平安と喜びも、主の勝利なのです。そして、私たちは、その主の勝利が私たちの上に臨んだ時、真に、私たちは主に栄光をお返しできるのです。

そして、もしも、私たちが主に栄光をお返しできる時は、敵、悪魔に対して、勝利宣言をしているのと同じであり、いやが応でも、神が敵に対しても主であることを、敵が知らざるを得ないことになるのです。前もって勝利宣言し、主に感謝をささげ、栄光を主にお返しするものでありましょう。

主は、モーセに、「わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエルの子らを彼らのただ中から導き出すとき、エジプトは、わたしが主であることを知る。」と明言しました。主はファラオに対して勝利宣言し、モーセの背中を後押しをし、元気づけたのでした。言い方を代えれば、モーセは、主に栄光をお返しするチャンスを主からいただいたことにもなります。

さて、ここで、今日も天国長屋の八さん熊さんに登場していただきましょう。八さん、熊さん、お二人は、「主が私たちを通じて勝利すること」についてどうおもわれますか。

―――――

八: 「主がわてらを通して勝利する」ってか。何か嬉しくなってくるやんか。

いつもやったら、主がわてらに何かを起こして、わてらが主を知ることになるんや。

それやのに、相手が、わてらを通して、わてらの主を知ることになる。

めちゃんこ嬉しいやなないかいな。それは、伝道でもあるわな。

熊: ほんまやな。主が、主の栄光のためにわてらを用いてくださる。

主の勝利のためにわてらをお使いくださる。ええな、ええな。

八: わてらは、主がおっしゃる通りにすればええんや。主は必ず勝利に導いてくださる。

熊: それは、わかっとる。けんど、もしも主のおっしゃるとおりにでけへんかったら、、、

八: おいおい、なんや、その弱腰。先週、あんだけ、自信にみちて、

「主の御声に聞き従とったらええねん。」って、

モーセはんの煮え切らん態度にあきれてたのに。

熊: まあな。わてには守るもんがあれへん。

せやから、あんな大胆なことを言えたんかもしれん。

八: なんか、熊、えらい殊勝やな。どうしたんや。

熊: あ、いやなぁ。モーセはん、主の命令に対して、口下手やゆうて尻込みしてはったやろ。

わて、あれから考えててん。なんで、モーセはん、あそこまで弱腰なんやろぅって。

八: ほんで、熊は、どう考えたんや。

熊: モーセはん、家族おったやろ。守るもんがあった。

せやさかい、イスラエルの民を導くなんて、そんな責任の重いこと、

安易に決められへん。モーセはんは、ひょっとしたら、石橋をたたいても

不安で渡ることがでけへん人なんかも知れん。それに輪をかけて、守る家族がおる。

せやから、あんなに、躊躇してたんとちゃうんやろか、って考えたんや。

八: なるほどなぁ、家族なぁ。そういえば、ペテロはんやヤコブはんにも家族がおった

やろうけど、あんまり出てこえへんなぁ。

熊: わてら、聖書を読むとき、その登場人物にとって守るべき人がおるのかどうか、

守るべきことがあるかどうか、そこんところも考えへんとあかんなぁ、、、

って今回思わされたんや。

八: せやなぁ。聖書の登場人物には、いろんなしがらみがあって、それにもかからわず、

結局、主に従うことを決断していく。そのしがらみとどう向かい合ってるかが、

わてらの学ぶべきところなんかもしれんなぁ。

熊: ほんまやなぁ。そのしがらみちゅうのん、自分の内にも外にもあるでぇ。弱さもあれば、

へたに強がってることもある、いろんな重荷もせおとる。けんど、それもぜーんぶ、

神様がお見通して、わてらが、素直に神様に従えるように、導いてくれはんねんやろな。

八: そうや、ほんでもって、わてらがわてら自身に勝利できるようにしてくれはんねんや。

わてらは、弱い。ほんまに弱い。弱いからこそ、めちゃんこ強くて頼りがいのある

お方にしがみついておかなあかんねん。

熊: そうや。それがイエス様であり、神様なんやな。パウロはんの「弱い時にこそ強い」

ちゅうことば、ほんまにそやなぁって思うわ。

八: わてら、神様にすがりついとかなあかんねん、どんなことがあってもな。

それが、「わてらを通して、主が勝利すること」「主の栄光が現われること」とちゃう

やろか。な、若さん、そやろ。

―――――

八さん、熊さん、ありがとうございます。そうですよね。本当にイエス様にすがりついておかなあきません。それが、一番の、「逃れの道」でもあるし、結局、一番の近道になるんですね。主は、エジプト王ファラオに、「わたしが主であることを知る」とおっしゃられました。

まあ、ひらたく言えば、「だれを敵にまわしてるのか分かってんのか、ファラオ!」「おまえの敵は、モーセやない、神であるこのわたしだ!」「わたしがモーセに勝利をあたえ、エジプトから贖い出す」と言っているのと同じなのではないでしょうか。わたしたちは、大なり小なり壁にぶち当たります。その壁を打ち砕き、越えていくのは、私たちではありますが、私たちの力によってではありません。わたしたちを、前になり後ろになり、導き支えて下さっている神の力、天の軍勢によってです。私たちは、主に聞き従い、より頼みつつ、歩ませていただくしかないのです。

さて、今日も宣言をいたしましょう。今日の宣言は、主に聞き従い、より頼みつつ、歩ませていただき、主が私たちを通して勝利し、主の栄光があらわされる、そのことを私たちが勝利宣言する意味で、今日の八さんのことばをお借りして、「なにがなんでも主にすがりついていきます。感謝!」です。

では、3回宣言いたしましょう。

「なにがなんでも主にすがりついていきます。感謝!」、「なにがなんでも主にすがりついていきます。感謝!」、「なにがなんでも主にすがりついていきます。感謝!」。アーメン!

黙想をいたします。

黙想の時にお読みするのは、詩篇16篇です。

●黙想: 

黙想の前に、イエス様のお言葉をお聞きください。ヨハネの福音書14章6節。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」

黙想いたします。詩篇16篇。

黙想時の曲

⑦[Vol.25] 魂の安息を与えるCCMピアノ - クリスチャンBGM

https://www.youtube.com/watch?v=WdN8ea63Zb0

●祈り

●主の祈り

天にまします我らの父よ

ねがわくは、御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたえ

御心の天になるごとく

地になさせたまえ

我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく

我らの罪をもゆるしたまえ

我らをこころみにあわせず

悪より救いだしたまえ

国とちからと栄えとは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン。

【YOUTUBE配信終了】

賛美⑧:喜びの声をあげて

https://www.youtube.com/watch?v=26yzkyYKjfA

賛美⑨:主イエスと歩く道

https://www.youtube.com/watch?v=GZNPy2A4VQY

●礼拝の感謝の祈り

(小阪チャペルでは、献げものは教会に入ってきたときに、感謝と悔いた心をもって捧げます。)

●頌栄:新聖歌63番「父御子御霊の」

https://www.youtube.com/watch?v=0gKUQaaKTqM

●祝祷:民数記6:24-26、2コリント13:13、エペソ3:14-21

●新聖歌59「アーメン」(アーメン)Ⅶ 四唱 MIDI鍵盤によるオルガン演奏

https://www.youtube.com/watch?v=SPZdXDlscT0

●閉会

●連絡

次回の主日礼拝は、4月21日 午後5時から小阪チャペルにて。

いずれも小阪チャペルのLINEグループで同時配信します。

聖書: 出エジプト記8章

「ぶどうの木キリスト教会小阪チャペル」ホームページ

https://vinechristchurch.jimdofree.com/